――――我々はただ願うのみ。
我々は、ただ祈るのみ。
一 ◆ 現在(1)
最後の夜だった。
彼はしきりとワインを勧めた。きっと、酔わせたかったのだ。脳みそがぼうっとしているうちに、言いたくないセリフをすべて聞かせてしまおう――そういう魂胆だったのだ。
「千夏、きみには学業もある」
制服を押し着せられて、リボンで首を絞められる。あんな収容所の、どこが教育施設と呼べるだろう。
白ワインのグラスが照明を跳ね返していた。この渋くて酸っぱい液体は、ほんとうは今でも苦手。なんとか飲み干せるようになったのは、この男がいたから。
糊のきいたスーツに、しわの刻まれた手。左手の薬指にはリングが光っている。
「続けていくことは、きみのためにもならない。僕たちの関係は、お互いにとって不利益なものになってしまったんだ。分かるね」
まただ。
この「分かるね」というセリフを、何度聞かされただろう。親でも教師でもない、甘ったるい声。同年代の男たちには言えないコトバ。この一言に、何度だまされてきただろう。騙されるのが嬉しいときもあった。
「……うん」しおらしい声を出してみる。「分かります」
ほんとは、ぜんぜん分からない。
相手はホッとしたように頬を緩める。おきまりの表情だ。初めてこの顔を見たのは、ワインバーに連れていかれた時。味なんて全然分からないけれど「美味しいです」と答えた。あの時もこいつは、この顔だった。
「これを受け取ってほしい」
白いテーブルクロスの上に、茶封筒を差し出す。皿のうえでフランス料理が冷えていく。封筒の厚みは、およそ一センチメートル。
「イヤラシイと言われそうだが、せめてもの気持ちなんだ」
中身は、確かめなくても分かっていた。こいつと体を重ねるたびに渡されていたから。
「これで最後――って、ことですね」
だけど、こんなに分厚い封筒は、今まで見たことがなかった。相手はかぶりを振る。西陣織のネクタイがキラキラと光る。
「いいや、しばらく距離を置こうと言っているだけだ。何か困ったことがあれば、いつでも連絡して欲しい。僕に出来ることなら、何だってやる」
歳に似合わず、キザなことが大好きな男だ。こちらのワガママをなんでも聞いてくれた。うなるほどの金を持っているこの男に、出来ないことなんて無さそうだった。
「きみは聡明だ。――無暗に泣きわめいたり、ヒステリックな電話をかけてきたりはしないだろう。それがどれだけバカバカしいことか分かっている。お互いを傷つけるだけだと知っている。……もしも、きみが連絡をくれたなら、それは、よほどのことなのだろう。僕は必ず電話を取るよ」
最後の演説を聞きながらグラスを取る。無発泡のはずなのに、くちびるにチクチクと滲みる。
「きみを信用しているから、こんなことを言える。きみの賢さを信頼しているからね」
「わかっています」
そうか、と相手はうなずいた。そしてまた、あの微笑みを浮かべる。
「きみと会えてよかった。愛していたよ、千夏」
二 ● 四十五億年前
十一次元を折りたたむ機構に壊滅的な打撃を受け、我々は虚空にとり残された。
我々が問う。/なにか手はないのか。
我々が応える。/だめだ、手の施しようがない。
折りたたみなしで「もといたばしょ」へと回帰するには莫大な時を要するが、時間的な断裂は我々の存在を引き裂き、連続性を死滅させる。しかるに我々は停泊を余儀なくされた。
生まれたばかりの恒星系だが灼熱の時期は終わっており、惑星たちは分厚い大気のなかに電磁的な波動を持っていて、硫酸の積乱雲から放たれるそれらは真空中を走査し、星系全体を巨大な網の目に治めているため、星空に広がる底引き網へと、我々の意識を滑り込ませることができた。
そしてこの恒星系は、我々の意識下に置かれた。
いまや岩石の一つに至るまで、我々の「いちぶ」だ。
我々を繋ぎとめる容器は「みなもと」をほとんど失っており、かろうじて残された熱量を使って、我々は自らの存在を転写したが、残された「みなもと」はあまりにも少なく、我々にできることは極めて限定されており、したがって我々の「自己性」を極小の別容器へと転移できたことは奇蹟といっても差しつかえなく、「自己性」を詰めた別容器はこの星系独自の素材で武装させて星系全体へと拡散した。
彼らはいつか、萌芽する。
その日まで我々にできることはない。
三 ▼ 二週間前(1)
ベラは思わず怒鳴った。
「だから、無理だと言っているじゃないですか!」
ごちゃついたテーブルの上には、小さな鏡が置かれている。ああ、また酷い顔。二十六歳の美貌が台無しだ。背後のブラインドからは、アジア独特の黄ばんだ光が差し込んでいる。この街に漂う香辛料の臭いがベラは苦手だった。壁の向こうからは、蒸着装置の駆動音が聞こえてくる。ががが、ががが、という断続的な叫び声。
「スケジュールを見てください、そんな急に増産をかけたりできませんよ!」
電話の向こうは米国本社の上司だ。アジア統括部長というのが、あのハゲたWAPSの肩書だ。
『そう言わないでおくれよ。いいかい、ベラ。これは君にとってもチャンスなんだ。わかるだろう。ビジネスにはね、攻め時ってものがある。今こそ、その時なんだよ。もしここで、この受注をさばくことができれば、私たちはマーケットで優位に立てる』
優位に立ちたい? あのハゲは誰かに威張り散らしたいだけだ。本当はマーケットのことなんて、これっぽっちも分かっていない。わざとらしい巻き舌で「ポルトゲス」とベラを罵り、社訓を理解しろと叱りつける。
――あの浅学菲才野郎、私はスペイン系だ。
かつてあの国が左右に分断されていたころ、ベラの先祖は米国に渡った。戦火を逃れるためだ。そしてカリフォルニアのブドウ畑で、ベラは生まれた。
『とにかく、これは業務上の命令だ。こなしてもらえるね?』
日系企業には務めるものじゃない――。同級生の忠告を、もっと真剣に聞いておくべきだった。ベラは学生時代を英国で過ごし、生物学を学んだ。修士号を取得したのは、たった一年前の出来事だ。なのに今はユーラシア大陸の片隅で、有機溶媒まみれで働いている。
ベラの会社は、もともと日本のソーゴーショーシャの一事業部門だったらしい。分離・独立した現在も、社員の半分近くが日本人で、カタガキをめぐる競争に心血を注いでいる。社訓にブシドーの文字を見つけた時、ベラは思わず吹き出してしまった。
実情を知った今では笑えないけれど。
米国本土のオフィスで研修を受けた時から、なにかおかしいと感じていた。そして研修の三ヶ月後には、地球の裏側へと飛ばされた。
「こなせる、こなせないの問題じゃありませんよ。ぜったいに不良品が――」
ぶつん、と電話が切れる。Fから始まる四文字を、思わず吐きだす。
頭に浮かんだのは、現場主任の顔だった。四十代の半ばだというが、ベラの目にはもっと幼く見える。黒々とした髪と、日に焼けた肌。粗悪な酒のせいで、前歯が一本抜けている。ベラが工場内を歩き回ると、胸や尻を撫でまわすように眺めてくる。そして仲間たちと、広東語で笑い合うのだ。
頭を抱えたかった。
ここから三百キロ離れた工業団地では、日系企業でストライキが続いているという。果実みたいな社名のパソコン工場では自殺者が絶えない。中国当局も重い腰を上げようとしている。労働者たちは(サボってもいいのだ)と気づきはじめている。言葉が分からなくても、ぴりぴりとした空気を肌で感じていた。
ともかく、まずはあの現場主任と話をつけなくては。
ベラは立ち上がり、部屋を出る。とたんに騒音に包まれた。眼下には、工場のラインが広がっている。断続的な機械音と、煮詰めたゴムの臭い。
ブリキの階段を、ベラは駆け降りる。
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