「なぜ日本の若者はデモをしないのか」という考察をたくさんの人がしている。いわく、学校教育と受験戦争で去勢されてしまっているから、とか。デモを先導しているのが反社会的勢力だから、とか。これらの指摘には一片の真実があるものの、本質を見抜けていない。つーか、みんな難しく考えすぎ。
日本の若者がデモをしない理由は、もっとずっとシンプル:みんなの興味がないからだ。
たとえば若者のテレビ離れの原因は、魅力的な番組がないからだ。小学校の情報教育のせいではないし、テレビ局が反社会的勢力に乗っ取られているからでもない。視聴者の嗜好をつかめる番組が減っているからにすぎない。
デモも同じだ。社会・経済・政治。これらのトピックに興味を引かれる人間は少ない。若者に限らず、圧倒的多数の人が「できれば考えたくないなぁ」と思っている。野球の結果と芸能人のスキャンダルだけを考えて生きていきたいと願っている。毎朝ニュースを読み漁ってブログを書くはてな民のような人々は、世の「ふつう」の基準から大きく外れた奇人変人のたぐいだ。
では、なぜ興味を持たないのだろう。
社会問題にせよ経済にせよ、私たちの生活に直結している。私たちがどんな舞台装置のうえで日常を演じているのか、なぜ無関心でいられるのだろう。次の二つの記事では、そんな現代日本人の「気分」をうまく分析していた。
青年のいなくなった日本と欧米のデモ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111020/223341/?rt=nocnt
いつもながら人間の“気分”に対する小田嶋さんの洞察は鋭い。
そもそもデモを起こすような人間は、社会から「大人」として認められるだけ成熟していながら、かつ、組織に属さず、既存の「社会」の外側にいる人――つまり、青年だ。
ところがこの「青年」という概念はそもそも明治期に欧米から輸入されたものであって、現代の日本では絶滅の危機に瀕している。いつまでも大人になれない「子供」と、企業などの組織に帰依した「おっさん」しかいない。そんな現代日本でデモなんて起こるわけないよね、と小田嶋さんは指摘している。
いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20111020/1319108480
現代の日本を「児童虐待のあった家庭」になぞらえて考察したエントリー。現代の若者が(デモを含め)目立った主張をしないのは「言ってもムダだと思っているから」だ。被虐待児のように大人の顔色をうかがいながら、“大人に怒られないこと”を何よりも優先して行動する。当然、自分の意見を「社会」に向かって主張することなどできず、ただ口をつぐんでしまう。――という要旨なのだけど、私の要約だとなんだか説得力がないな。文章力不足。ぜひ原文を読んでみてください。うなずける点がたくさんあると思う。
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つまり、日本の若者が社会・経済・政治に興味を持たないのは次の二つの理由からだ。
「(1)興味を持つ“青年”的な層がいない」
「(2)興味を持っても無駄だという空気に支配されている」
このような状況下で、はてな民のような奇人変人は強烈な認知不協和を抱えることになる。
認知的不協和とは、「たばこをやめられない人」の例を使って説明されることが多い。「たばこは体に悪い」という情報を知った喫煙者は、「たばこを吸っている自分」に矛盾を感じる。この矛盾が、認知的不協和だ。人はこういう自己矛盾を解消し、認知的不協和を低減させようとする。喫煙者の場合なら「たばこをやめる」のが根本的な解決策なのだが、しかし禁煙には厳しいストレスがともなう。そこで「たばこはアルツハイマーの発症率を下げる」とか「たばこが体に悪い、というのはガセ」だとか、「喫煙(している自分)を肯定してくれる情報」に人は飛びつく。/他にもイソップ物語の『キツネとすっぱいブドウ』の話が典型的な認知的不協和の例だ――とWikipediaに書いてあった。
社会問題でも同じだ。
社会の動勢にビンカンな人ほど、「問題を知りながら何もできない自分」に自己矛盾を感じてしまう。「俺はこれが問題だと知っている」→「だけど言っても無駄でしょう?」「デモなんかじゃ世の中は変わらないでしょう?」問題を深刻に考える人ほど、この認知的不協和は大きくなる。
では、この自己矛盾をどうやって解消すればいいだろう。
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反デモを唱える若者がいる。
デモなんてウヨク・サヨクの趣味だろう、やっても無駄だし、反社会的な行為でしかないだろう、もっと他にやるべきことがあるはずだ――なんて意見をそこらじゅうで目にする。
たとえば社会問題に無関心で、いま自分が楽しければそれでいい、そういう若者が反デモを訴えるのなら理解できる。そういう若者はおそらく、今ここにある社会に満足しているはずで、余計な変化を望んでいないだろうからだ。
が、反デモを訴えるのはそういう若者ではない。むしろ社会問題にビンカンで、今のままではダメだ、なにかを変えなくてはダメだ――と切実に考えている若者だ。
反デモの典型的な論理展開はこうだ:
・まず、デモは世の中になにかを訴えるための最終手段であり、独裁国家ならともかく、平穏な先進国では“犯罪的”だ。たとえ表現の自由で認められているとしても、「人が集まり声を出して歩く」のは正義にもとる。
・したがって、なにかを主張したいのなら、もっと真っ当な手段で訴えるべきだ。
・また、デモの参加者はロクに選挙にも行ったことのない人たちだ。本当に困窮している人はデモに参加する余裕さえないに違いない。
・さらに、日本のデモの問題点は「明確な問題意識・ゴールがない」ことだ。物好きが趣味的にやっているにすぎない。
・だから日本のデモには参加すべきではない。
一見するともっともらしい意見だが、予断と偏見に満ちている。
まず、デモは「何かを訴えるための最終手段」だというが、名も無き凡人たちにとって「唯一の手段」でもある。プラカードを掲げる以外で「たくさんの人に話を聞いてもらう」には、著名人になるか政治家になるしかない。そういう特別な人にしか「表現」を許さないのなら独裁国家と同じだ。
また「真っ当な手段」で訴えるべきというが、これはおそらく選挙などの既存の制度のことを指しているのだろう。しかし、選挙は数年に一度しかない。役所の相談窓口だって所詮はお役所仕事だ。それらを待っていられないほど急を要する問題だったなら?
さらに「デモ参加者はロクに選挙にも行ったことがない」というのは完全な偏見。せめてサンプルを示そう。定性的・定量的な具体例を出すべきだ。「本当に困窮している人」についても同様。
そして「日本のデモには明確な問題意識・ゴールがない」という点。たしかに「デモをする人たち」はテレビ局の報道姿勢に目くじらを立てたり、電力会社に怒ってみたり、都知事に抗議したり、かなり無節操に騒いでいる(ように見える)。が、これらのデモは同じ参加者が実行しているわけではない。たとえばお台場デモにはかなり明確な目的・ゴールがあった(その目的の善し悪しはここでは問わない)。個々の事例に目を向ければ、問題意識もゴールの設定も充分にある。「デモをする人たち」にも、いろいろな人がいるんだよ。「デモをする人たち/しない俺たち」という二元論で考えているうちは、個々の目的が見えてこないよね。
最後に「物好きが趣味的にやっているにすぎない」と断定できるのはなぜだろう。本当に困窮している人は“絶対に”デモに参加しないと言い切れるのはどうしてだろう。想像力が足りていない。
以上のように反デモの主張は「穴だらけのロジック・余談と偏見に満ちた例証」で成り立っている。こんな意見を、新聞をよく読み、将来の日本について友人と議論するような“賢い”若者が主張するのだ。論理のマズさに気づけないはずがないのに、なぜか反デモを訴えるときはスルーしてしまう。
つまり「反デモ」の主張は、認知的不協和を埋め合わせる手段なのだ。
現代日本では、かしこい若者ほど「問題に気付いているけれど何もできない自分」に自己矛盾を感じる。強烈な認知的不協和を抱えることになる。
そんな若者が、デモという「行動を起こした人」を見た。「俺は誰よりも問題意識が高いのに行動ができない」にもかかわらず「俺よりも問題意識の低そうな人たちが行動を起こした」
もしもこの若者が、自らの知見を活かしてデモを応援すれば、認知的不協和は解消される。が、デモを肯定してしまうと「いままで何もしなかった自分」を否定することになる。自己否定は誰だってイヤだ。だから批判の矛先を「すでに行動を起こした人」に向ける――デモの参加者を批判し、反デモを主張する。
まして世界は「分かりやすいヒーローと悪役の時代」を終えて、「名も無き個々の時代」になろうとしている。名も無き凡人たちであっても、ただ集まるだけでチカラを持つ:世界はそれを証明した。「なのに、なんで自分は行動をしなかったのだろう……」賢い若者たちの認知的不協和は膨らむばかりだ。
芸能人の義援金を「偽善だ!」と笑い、被災地へのボランティアを「どうせ異性が目的だろ」と貶める。これらもみんな認知的不協和の産物である。
こういった認知的不協和は、本当に何もしてこなかった若者よりも、すでに何かちょっと行動を起こしていた若者の方が大きいだろう。
たとえば社会奉仕的なNGO・NPOに所属したり、それこそ政治家を目指したり。自分の問題意識を解決するため、すでに行動している人だ。なかでも自分のしていることに自信とプライドのある人は、デモなんて手段で問題を解決されては困る。なぜって、今までの自分の努力が水泡に帰す(ような気がする)から。
しかし、だ。
デモをするのは弱い人間だ。デモ以外に主張の方法を持たない、社会的影響力が皆無な人々だ。
社会奉仕的な組織に属したり、著名人・政治家を目指したり。それは無駄ではないし、すばらしいことだ。そして、誰にでもできることではない。そういう形で社会的影響力を持てるのは、すさまじくパワフルなことなのだ。
能力のある人ほど「誰でも自分と一緒」だと思いがちだ。自分の優秀さに無自覚で、チカラのない人への想像力を欠いてしまう。
どうか自分の特別さに気付いてほしい。認知的不協和に負けず、行動を起こせなかった「過去の自分」を許してあげてほしい。名も無き凡人の群れについて想像力豊かであってほしい。
問題の本質は「日本でのデモがバカげているか否か」ではない。「どうしてみんな社会に興味を持たないのか」だ。せっかく賢く生まれたのなら、興味を持ってもらうための方策を考えることに頭脳を活かしてほしい。
どうか、自己愛のためにその目を曇らせないで。
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