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小説が「人権革命」を起こした

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④サミュエル・リチャードソン『パミラ、あるいは淑徳の報い』(1740年)

死刑が大衆の娯楽だった時代

 ヨーロッパの歴史における大きな謎の1つは、身体刑の消滅です[22]

 前近代の世界では、ヨーロッパに限らず世界のどこでも残虐な刑罰が当たり前に存在しました。罪人の手足の骨を鉄棒で叩いて粉砕し、ぐにゃぐにゃになった腕でカラダを車輪に括り付けて、腹を引き裂いて内臓を露出させ、ゆっくりと時間をかけて殺害する。あるいは、手首や足首を縛った縄を、数頭の馬で別々の方向に引っ張って八つ裂きにする――。そんなB級ホラー映画も裸足で逃げ出すような血みどろの拷問と身体刑が執行されていたのです。日本の歴史を振り返れば「石抱」や「鋸(のこ)挽(び)き」が有名でしょう。

 ヨーロッパでは18世紀半ばまで、こうした身体刑が日常茶飯事でした。退屈しのぎに集まった野次馬たちは、囚人の悲鳴やうめき声に喜び、死刑執行人の一挙手一投足に歓声を上げ、囚人が苦しみの末にこと切れると拍手喝采しました。

 ところが、こうした身体刑はわずか半世紀ほどで姿を消します。

 フランスでは早くも1791年に、公衆の面前で謝罪する「加辱刑」が廃止され、短期間の復活を経て1830年には完全に無くなりました。他の欧米諸国も同様で、遅くとも19世紀の半ばまでには、このような身体刑は行われなくなりました。刑罰の対象は「身体」ではなく「精神」となり、刑務所に収監して一般社会から隔離するという方向に切り替わったのです。

 1975年にフランスの哲学者ミシェル・フーコーが著した『監獄の誕生』は、この謎に挑む書籍です。当時のフランスの人文学者たちの間では難解で読みにくい文体が好まれていたようで、この本も決して明快とはいえない文章で書かれています。が、どうにか私なりに解釈して要約すると、身体刑が消失した理由は支配者たちの支配の方法がより巧みになったからだ、とフーコーは言いたいようです。被支配側に「支配されている」と感じさせないままに支配する、そんな賢い方法を世の権力者たちが身に着けた結果、身体刑は消えていった――。

(この解釈が正しいとして)フーコーの見方も、一面の真実を捉えているのでしょう。

 

 

 

読書習慣が〝心〟を変えた

 一方、フーコーよりも19歳ほど年下のアメリカの歴史学者リン・ハント は、別の見解を示しています。『監獄の誕生』から33年後の2007年に彼女が著した『人権を創造する』によれば、18世紀半ばに起きた「書簡体小説」のブームと、その後の読書習慣、とくに小説を読む習慣の普及が、人々の共感能力を伸ばして「人権」の意識を根付かせた、結果として残虐な身体刑は廃止されるようになった、というのです。

 書簡体小説とは、その名の通り手紙の形式で進む小説で、18世紀のヨーロッパで大流行しました。そのブームの先駆けとなったのが、1740年に出版されたサミュエル・リチャードソンの『パミラ、あるいは淑徳の報い』です。

 主人公のパミラは、ある屋敷で働く貧しい女中です。彼女が両親に宛てた手紙を通じて物語は進みます。彼女は屋敷の若主人B氏から情欲を向けられ、繰り返し誘惑されます。しかし彼女は、けなげにも貞操を守り続け、その美徳に心打たれたB氏からやがて正式に結婚を申し込まれます。そして屋敷の女主人となり、上流階級の仲間入りを果たす――という、現代の私たちから見ればやや〝できすぎ〟のメロドラマです。

 ところが18世紀の読者には、この小説は衝撃を持って迎えられました。

 出版から約2ヶ月後の1741年1月には早くも重版がかかり、3月に第3版が、5月に第4版、9月に第5版が発売されました。瞬く間に多言語に翻訳され、1744年にはフランス語版がローマ・カトリック禁書目録に載るまでになりました[23]。膨大な数の批評、パロディ、海賊版が執筆され、今でいう「パミラグッズ」のようなものが制作・販売されました。ある村では、B氏とパミラがついに結婚したという噂を聞いて、村人たちが教会の鐘を鳴らしたという逸話まで残っています。

『パミラ』の成功を受けて、ヨーロッパでは小説の刊行数が激増しました。

 イギリスでは1770年代には毎年約30点、1780年代には毎年約40点、1790年代には毎年約70点の新作小説が世に出ました。これは18世紀の最初の10年間に比べて6倍の増加でした。フランスでは1701年にはわずか8点だった小説が、1750年には52点、1789年には112点が出版されました[24]

 リチャードソンが1747年から刊行を開始した『クラリッサ』は、再びベストセラーになりました。また、ジャン=ジャック・ルソーも『ジュリ または新エロイーズ』という書簡体小説を1761年に出版しており、こちらも一世を風靡しました。

 

 人権意識が芽生えるためには、共感能力が欠かせません。他人――とくに自分とは違う社会階層に属していたり、奴隷だったりする人間――にも、自分と同じような思考・感情があり、痛みを感じるのだという理解が不可欠です。

 また、他人に人権を認めるためには「道徳上の自律性」が前提になると、ハントは指摘しています[25]。他の人間も自分と同様に、善悪の区別を自らの頭で考えることができるという前提です。この前提がなければ、奴隷は言葉で言い聞かせても理解できないから拷問して分からせるしかないんだ――という発想から抜け出せません。

 そして小説には、こうした共感能力や前提を読者に植え付ける力があるというのです。

 

 もちろんハントも、共感能力が18世紀に「発明」されたとは主張していません。それがヒトの生得的な感情だと認めています。また、物語芸術は人類の歴史と同じくらい古いことも認めています。古代ギリシャの演劇は今でも残っています。

 しかし、神話の語り聞かせや舞台芸術が、登場人物を第三者的な立場から観察するような客観的な物語体験をもたらすのに対して、小説における物語体験はより主観的です。読者は物語の主人公になりきって物語を楽しむことができる――この点で、小説は他の物語芸術と異なります。ハントの言葉を借りれば、小説は「読者に登場人物との心理的同一化をうながす」のです[26]

 進化心理学スティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』の中で、ハントのこの仮説を詳しく検討しています[27]

 人権の意識が芽生えた原因として、小説以外にも、たとえば「文明化のプロセス」が考えられるでしょう。ざっくりいえば文明が発展して人々の交流が増すほど、他人をおもんぱかる必要性も高まり、やがてそれが人権の誕生に繋がったという考え方です。

 ところが、これは時期が合いません。ヨーロッパ諸国の多くでは、自白を引き出すための合法的な拷問が13世紀ごろに導入ないしは再導入されました[28]。この時代は中世盛期にあたり、人々の移動や商業が盛んになった時代です。1425年~1428年のフィレンツェでは、有罪判定のうちの21%が拷問による自白に基づいていました[29]。野蛮な拷問は、文明が発展しつつある時期に導入され、高い文明レベルを誇る都市でも実行されていたのです。

 また、経済的な豊かさが他人への寛容さを生み、人権意識を芽生えさせたという考え方もできそうです。ところが、こちらも時期が合いません。『パミラ』の出版された1740年は、産業革命はまだ始まっておらず、経済的な豊かさはそれ以前の時代と大差ありませんでした。先進国で工業化により1人あたりの所得が本格的に伸び始めるのは19世紀後半からです。残酷なほどの経済格差が解消されて、現在のように一般大衆が余暇を充分に楽しめるほど豊かになるのは、第二次世界大戦が終わる20世紀半ばを待たなければなりません[30]

 一方、ハントの仮説は、時期の一致という点に強みがあります。先述の小説の出版点数はもちろん、識字率もこの時期に上昇しているのです。こうしたデータがよく残っているのはイギリスで、18世紀半ばの時点で男性の識字率は50%を超え、女性でも25%を超えていました[31]。おそらく、他のヨーロッパ諸国も同じような水準だったでしょう。18世紀後半から現代にいたるまで、識字率は一貫して上昇し続けました。

 

 

 

人権意識がもたらしたもの

 この時代の有名な印刷物の1つに、トマス・ペインの『コモン・センス』があります。アメリカ独立戦争初期の1776年1月に執筆された小冊子で、最初の1年で50万部売れました[32]。その後も読み継がれ、現在ではアメリカ人の書いた印刷物の中で一番売れた書籍となっています。

 本書の中盤には「人類は元来、創造された時点では平等だったのであり、その平等性はその後の何らかの状況によってのみ破壊されうる」という一節が登場します。啓蒙思想家たちの、人間は生まれながらに平等な権利(=人権)を持つという発想に基づいているのです。本書の中でペインは、平等に作られているのだから王族がいるのはおかしい、悪魔による計略のようなものだ――という、王権神授説を真っ向から否定する議論を展開しています。だからこそ、北米植民地は王のいない共和国として独立すべきだ、というのです。

 アメリカ独立戦争当時の、植民地側の熱気を感じるような1冊です。

 

 同様の熱気は『アメリカ独立宣言』にも見られます。1776年7月に批准された独立宣言の第二パラグラフには、次のように書かれています。

 

「我々は以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」

 

 ポイントは「我々は以下の事実を自明のことと信じる/We hold these truths to be self-evident」という部分です。

 この宣言の草稿を書いたトマス・ジェファーソンは、なぜ人間に人権があるのかを説明する必要はないと考えていました。草稿を何度も修正した五人委員会や大陸会議のメンバーも、この部分に説明が必要だとは考えませんでした。もしも説明が加えられていたら「その主張の自明性は消え失せていただろう」とハントは述べています。「議論を必要とする主張は自明ではないから」です[33]

 1776年には、人権の存在は自明(self-evident)になっていたのです。

 

 北米植民地の人々は、国王に反旗を翻して勝利を収めました。これはヨーロッパの人々に衝撃を与えました。そんな動揺の中、1781年、ジャック・ネッケルが『国王への会計報告』を公表したことで、フランスに激震が走りました[34]

 ネッケルはスイス生まれの銀行家で、1777年にルイ16世によりフランスの財務長官に任命されました。当初、外国人かつプロテスタントのネッケルに対する風当たりは強く、彼を中傷するビラが大量に出回りました。彼は卑劣な詐欺師であり、バブルや金融危機をもたらすに違いないと書き立てられたのです。こうしたビラには(まったく根拠のない)様々な数字や金額が羅列されていました。政府はビラの印刷を禁じましたが、効果はありませんでした。

 そこでネッケルは大胆な反撃に出ました。

 王室の財政収支を『会計報告』として公表してしまったのです。(※ これは、フランス王室の債権者であるスイスなどの銀行家への目配せもあったようだ。借り入れを続けるために、王室の収支が黒字であることを示したかったらしい)

 そこに並んだ数字に、フランス国民は激怒しました。兵士への給与6520万リーヴル、宮廷費用と王室費が2570万リーヴルに対して、道路・橋梁建設500万リーヴル、パリの警察・照明・清掃に150万リーヴル、貧民救済費90万リーヴルと、あまりにも偏った予算配分だったからです。また、それまでは神聖なヴェールに包まれていた宮廷の生活が、金額という冷徹な数字として暴かれてしまったことも、少なからぬショックを国民に与えました。

 ネッケルの行動は「暴露」だと見做され、宮廷内の保守派から強い反発を招きました。このままでは王の威信が下がると判断し、ルイ16世は同年5月にネッケルを罷免しました。

 ところが、ネッケルの後任の人々も、火の車となった王室の財政状況を立て直すことはできず、失脚していきました。

 1788年、ルイ16世は再びネッケルを財務長官に任命。この時にはすでに、ネッケルは民衆の味方であり自由の象徴だと国民から見做されていました。要するに、国民から人気のある人物をルイ16世は選んだのです。

 当時、フランス国内の政情は緊迫していました。王室の財政は完全に行き詰っており、税制を改革するために約170年ぶりに「全国三部会」(※ 聖職者・貴族・平民という3つの身分の代表が出席する会議。1302年にフィリップ4世が自身の支持を高めるために開催したが、やがて王室への制約となったためルイ13世の時代に停止された)が開催されるかどうかが注目されていました。コーヒーハウスに集まった一般大衆は、人間は生まれながらに平等であるという「自明の事実」と、あまりにも不平等な現実社会とのギャップについて議論を重ねていたのです。(※イギリス同様、コーヒーハウスはフランスでも流行し、パリには1750年時点で600軒が営業していた[35]。)

 ところが保守派の圧力もあり、ルイ16世は1789年7月11日にまたしてもネッケルを罷免してしまいます。

 これを知ったパリの市民は怒りに燃え、7月14日、ついにバスティーユ牢獄を襲撃しました。フランス革命が始まったのです。

 

 リチャードソンの小説から始まった「人道主義革命」は、フランスの『人権宣言』という形で結実しました。以前の記事でも触れましたが、ナポレオンひきいるフランス軍はヨーロッパを蹂躙。周辺諸国絶対王政を維持できなくなり、共和制や立憲君主制に移行せざるえなくなりました。フランスは血と暴力を伴いながら、自由主義と民主主義、ナショナリズムを輸出したのです。

 

 

 

(次回、「科学の独立」編に続く)

(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第9回です)

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※※※参考文献※※※