デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

『種の起源』と科学の独立

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

 

チャールズ・ダーウィン種の起源』(1859年)

科学と宗教が未分化だった時代

 17世紀、ニュートンもハレーも自分たちが(現代的な意味での)「科学」を研究しているという自覚はありませんでした。なぜなら、当時は科学と他の諸分野が分離していなかったからです。たとえば「Scientia est potentia」というラテン語の格言は、「知識は力なり」と和訳されます。ラテン語の「scientia」は英語の「science」の語源ですが、もともとは「知識」全般を意味する単語だったのです。現代的な「科学」の概念が確立したのは19世紀です。

 ニュートンもハレーも、天地創造のときに神が定めた天体の運行規則を解き明かしたのだと考えていました[36]。当時、自然科学の研究と宗教的な信仰心は、深く結びついていたのです。

 科学が宗教から分離する上で無視できない影響を与えた1冊が、1859年に出版されたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』です。

種の起源』の冒頭には、17世紀の哲学者フランシス・ベーコン の『学問の進歩』という書物からの引用が掲げられています[37]。1605年に執筆されたこの書物の中で、ベーコンは「神のことばをしるした書物〔聖書〕」の研究と、「神のみわざをしるした書物〔自然〕」の研究との、「双方において無限の進歩と上達をとげるようにつとめるべき」だと主張しました。私たちの目の前にある自然界は神の創造した作品であり、聖書を研究するのと同様に、自然界を研究することでも神の計画や御心に近づくことができると信じられていたのです。こうした発想に基づき、ヨーロッパの大学では博物学天文学などの現代でいう「自然科学」に該当する分野が研究されるようになりました。

(※ベーコン自身は、自然界の研究は「無神論を論破するには充分だが、信仰を吹き込むには充分でない」と述べており、自然界の研究よりも神の啓示のほうが重要だと考えていたようだ[38]。)

 

 自然界を調べることで神に近づこうとする学問分野を、「自然神学」と呼びます。中でも影響力を持ったのは、1802年に出版されたイギリスの神学者ウィリアム・ペイリーの、その名もずばり『自然神学』という本でした[39]

『自然神学』の冒頭部分は有名です。

 もしも荒れ野を歩いていて、石が落ちているのを見つけたら、その石はずっと以前からそこに転がっていたと考えるでしょう。しかし、もしも時計が落ちているのを見つけたら、同じように考えることはできません。なぜなら時計には、「時間を計る」という目的をもってそれをデザインした製作者がいるはずだからです。そして生物は、まるで時計のように複雑かつ精巧な存在です。つまり生物の存在は、それをデザインし創造した誰か――神――の存在証明だと、ペイリーは考えました。

 ペイリーの主張は直観的に分かりやすく、説得力があります。21世紀の現在でも、創造論者の中にはペイリーと同様の主張をする人が珍しくありません。もしも生物にデザイナーがいないとすれば、それはガレージを竜巻が通り過ぎた後にボーイングの飛行機が組み上がっているようなものではないか、とてもありえそうな話だとは思えない――。

 その「ありえそうもない話」が、じつはありうると示したのが、ダーウィン自然選択説でした。

 

 

 

ダーウィンが進化論者になるまで

 チャールズ・ダーウィンは1809年(※大陸側のヨーロッパではナポレオン戦争が戦われている時代)イングランドシュロップシャーシュルーズベリー郷士(スクワイア)階級の一族に生まれました(※上流階級の一員だが爵位は持たない階級。)。父方の祖父は高名な医師であり、チャールズの父親も医業を継いでいました。一方、母方の祖父はジョサイア・ウェッジウッド1世――高級陶磁器メーカーのウェッジウッド社を創業した人物でした。

 子供時代のダーウィンは、「しごく普通の子どもで、むしろ知能は平均以下だとみられていた」そうです。機嫌が悪いときの父親に、お前は射撃や犬の飼育やネズミ捕りしかできない能なしだと罵られたことすらありました[40]

 ダーウィンは16歳で、当時医学で名を馳せていたエジンバラ大学に入学しました。父親の仕事を継ぐためです。ところが、麻酔のない当時の外科手術の悲惨さに耐えかねて、ほとんど学校に通わなくなりました。その代わり、ダーウィンは「ジョン(※姓は不明)」というエジンバラ在住の黒人男性に報酬を支払って、鳥の剥製作りを教わりました。

 

 このジョンは元奴隷で、チャールズ・ウォータートンという探検家と共に南米を旅した経験がありました。

 ジョンとダーウィンは40時間ほどを共に過ごしたと見られています。おそらく南米のジャングルでの冒険譚や、奴隷時代の厳しい経験を聞かされたことでしょう。ダーウィンは晩年になっても彼のことを忘れず、ジョンのことを「仕事は上手」で「愉快で頭のよい男だった」と回想しています[41]奴隷制の根強いアメリカに比べればマシとはいえ、当時のヨーロッパは現代とは比べものにならないほど人種差別・偏見に満ちていました。しかし10代後半の少年だったダーウィンにとって、肌の色はさほど問題にならなかったようです。

(※ダーウィンが『種の起源』を書いたのは、奴隷制を否定するためだったという説がある。もしもすべての生物が共通の祖先から枝分かれして進化したのなら、白人は世界を支配するために創造され、黒人は奴隷として仕えるために創造されたという発想はできなくなる。)


 医者としてモノにならないと父親に判断されたダーウィンは、その後、1828年にケンブリッジ大学に送られました。牧師になるためです。聖職者であれば一族の名に傷がつかず、定期収入を得ることができました。ダーウィンはまたしても講義にはあまり出席せず、もっぱら昆虫採集に熱中していたようです。

(※当時のイギリスはいわば「甲虫ブーム」で[42]、昆虫採集は現代日本ほどオタクっぽい趣味ではなかったようだ。)

 この学校で、ダーウィンは生涯の師となるジョン・S・ヘンズローという博物学者と出会いました。まだ30代前半だったヘンズロー師は、実習に熱心に参加するダーウィンを可愛がるようになりました。

 卒業試験を突破したダーウィンは、しかしすぐには働きたくないと考えていました。アレクサンダー・フォン・フンボルト(※ドイツの探検家。現代日本ではペンギンの名前で有名。)の『南アメリカ旅行記』を読み、探検旅行に憧れていたからです[43]

 

 そこでダーウィンは、ヘンズロー師の紹介でイギリス海軍の科学調査船ビーグル号に乗り込み、世界一周の旅に出たのです。

 5年間におよぶ航海で、ダーウィンは新進気鋭の博物学者だと見做されるようになりました。旅先からヘンズロー師宛てに送った手紙や化石、標本の数々が、恩師の手で英国科学界の最上位の人々に披露されたからです[44]。牧師になるという父親との約束は、ビーグル号に乗ったことで「自然死してしまった」そうです[45]

 ダーウィンはビーグル号の航海中に進化論を思いついたという俗説があります。が、これは誤りです。ダーウィンはもともと進化論の否定派でした。彼の残した研究ノートと日記によれば、彼が自然選択説を思いついて進化論者になったのは、帰国後の1837年のことでした[46]

 

 

 

ダーウィンの進化論

 進化論――生物の種が姿を変えて新たな種になるという発想――は、ダーウィンよりも古い時代からありました。以前の記事ではラマルクの「用・不用」説を紹介しました。キリンの首が長いのは高いところに向かって首を伸ばし続けたからだ……という仮説です。「獲得形質の遺伝」を前提としているので、現在では誤りだとされています。

 現代人の私たちから見ると、それら古い時代の進化論は神秘主義的・オカルト的です。

 たとえばキリスト教圏では中世以降、「生命体の序列」という概念が信じられていました[47]。(※「存在の大いなる連鎖」とも呼ばれる[48]。)この宇宙の頂点には神が存在し、その下に天使、人間、動物、植物が続き、最下層には土や岩を石などの無生物が存在する……という世界観です。それぞれの階層内部も序列化されており、たとえば人間なら、国王から奴隷に至るまで上限関係があると見做されました。ダーウィン以前の進化論では、生命体には自らを改良して、まるではしごを上るように、この序列のより高度な存在に変化しようとする性質があると考えられていたのです[49]

 また、ダーウィン以前の時代には、生物の進化は「進化/evolution」ではなく「転成/transmutation」と呼ばれていました。これは錬金術用語で、卑金属が黄金などの貴金属に変わる現象のことです。ダーウィンもこの伝統に倣い、『種の起源』では「転成」という単語を使っています。「進化」という単語が『種の起源』に登場するのは第6版です。こちらの原義は「巻物を開くこと」で、「展開」という意味で使われていました。1870年代に社会学ハーバート・スペンサーが生物の進化現象にこの単語を使うようになり、広く定着しました[50]。なお、ダーウィンはスペンサーをあまり快く思っていなかったようで、彼のことを「極度に独りよがりであった」と評しています[51]

 ダーウィンの功績は、進化論を発案したことでも「進化」という言葉を使い始めたことでもありません。

 彼の偉大さは、自然選択説を理論化したことにあります。

 動物の家畜化を考えてみましょう。ヒトの身長や体重、知能に個人差があるように、どんな動物にもそれぞれ個体差があります。きょうだいよりも少しだけ物覚えのいい犬や、歌の上手い小鳥や、乳の出がいい牛がいるわけです。

 そういう人間に都合のいい特徴を持った個体を選んで繁殖させれば、次世代ではその特徴が強化されるはずです。それを何世代も繰り返せば、やがて極めて賢いボーダーコリーや、極端に歌の上手いカナリア、湯水のごとく乳汁を分泌するホルスタインを作ることができます。

 このような人間の手による選抜育種を「人為選択」と呼びます。その究極の例はカイコガでしょう。カイコガの成虫は飛行できません。幼虫は足の力が弱く、桑の木の枝に摑まっていることができず、地面に落ちてしまいます。効率よくシルクを生産するために品種改良を施された結果、彼らはもはやヒトの手を借りなければ生存・繁殖できなくなってしまったのです。

 同様の選抜育種が、自然界でも、そして神のようなデザイナーの介在がなくても起こりうるとダーウィンは気づきました。

 ダーウィンの「自然選択」説では、はしごを上るような直線状の進化ではなく、共通の祖先からの「枝分かれ進化」が想定されています。ヒトも昆虫も微生物も、過去のどこかの時点で枝分かれした遠い親戚であり、横並びの関係です。「生命体の序列」という概念は、ダーウィンの進化論には存在しません。(誤解が多いようですが)進化しているからといって、優れているとは限らないのです。

 たとえば哺乳類の多くは体内でビタミンCを合成できますが、ヒトにはそれができません。ヒトはビタミンCが欠乏すると壊血病になってしまいます。これは私たちヒトがかつてビタミンCの豊富な果実や草葉を簡単に摂取できる環境で暮らしており、その環境に適応した――進化した――結果なのです。

「転成」にせよ「進化」にせよ、進歩や発展をイメージさせるような前向きなニュアンスのある単語です。しかし実際には、生物はただ目の前の環境に適応していくだけです。生命の進化は、たとえば水が低い場所に流れたり、風が吹いたりするのと同様の自然現象にすぎません。そこには方向性や目的は存在しません。

 

 私見を述べれば、ダーウィンは自然の「自己組織化」のメカニズムの1つを発見したと言えるでしょう。たとえば雪の結晶は、まるで誰かがデザインしたかのような美しい六角形になります。私たちの暮らす宇宙では、銀河系は「大規模構造」と呼ばれる美しい泡状の構造に分布しています。しかしそれらは誰かがデザインしたわけではなく、物理学・化学のメカニズムのみで、規則的かつ複雑な構造になっているだけです。

 かつてペイリーは、生物は荒れ野に落ちた時計のようなものであり、神の存在証明だと考えました。しかしダーウィンは、神の介在がなくても時計のように精巧な生物が生まれうることを示しました。生物の進化は、ガレージを竜巻が通り過ぎるような一瞬の出来事ではありません。何千世代、何万世代という時間をかけたゆっくりとした変化の結果なのです。

 出版から160年以上が過ぎ、『種の起源』の内容には現在では修正すべき点が山ほどあります。ダーウィンは遺伝子の本体がDNAであることはもちろん、遺伝子の存在すら知りませんでした。それでも「自然選択」という発想の根幹部分は、時の試練に耐えて、(少なくとも科学者の間では)地動説並みに正しい仮説だと見做されています。

 

 

 

種の起源』はこうして書かれた

 話を19世紀に戻しましょう。

 ダーウィンは1837年に進化論者に転向しました。が、すぐにはそれを公表しませんでした。なぜなら当時のイギリス社会では、進化論(転成論)は反社会的な危険思想だったからです(※現代日本でいえば、反ワクチンや親プーチン論のようなものだろうか。)ダーウィンのような身分の人間が口にすれば、社会的地位を失う可能性がありました。

 したがって、自分が進化論者(転成論者)であることを知人・友人に打ち明けるのは、ダーウィンにとってまるで「殺人の告白」のようなものでした[52]。また、生まれたばかりの自然選択説は証拠が充分に揃っておらず説得力に欠けていました。ここでもダーウィンは、周囲の人々に恵まれました。自説を補強・洗練するための助言や協力を多数得られたのです。

 現代の私の目から見ると、中でも友人の植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカーからの手痛い指摘は重要だったと感じます。「たくさんの種の詳細な記載もやっていない人間に、種の問題をうんぬんする」権利はないと言われてしまったのです[53]。のちに生涯の親友となる人物からの批判に激励されて、ダーウィンは8年間もかけてフジツボの系統分類の研究を行いました[54]。現代でも、フジツボ研究はダーウィンの仕事が基礎になっています。

 一方、彼の私生活は過酷を極めていました。原因不明の病気(※ ビーグル号航海中に感染したシャーガス病だったという説がある[55]。)により、寝たり起きたりを繰り返すようになったのです。8年かかったフジツボの研究ですが「約2年間が病気によって失われた」とダーウィンは自伝に記しています[56]

 さらに1851年には、10歳になったばかりの長女アニーを病気で失いました。進化理論の完成が近づくたびにダーウィンの信仰心は薄れていきましたが、これが最後の一撃になりました[57]。ダーウィン英国国教会の教えを信じなくなり、やがて不可知論者になりました[58]。

(※ごくかいつまんだ説明だが、無神論が神の存在を否定するのに対して、不可知論は「語りえぬものは語らない」という立場のこと。神の存在を証明も否定もできないのであれば、それについて語ることもやめようという立場。)

 

 なぜダーウィン自然選択説を思いつき、『種の起源』を書くことができたのか――。後世の研究者により微に入り細を穿つような調査がなされています。ここでは、とくに重要な3つの書籍を紹介しましょう。

 

 1冊目はチャールズ・ライエルの『地質学原理』です。全3巻の大著で、1830~1833年にかけて出版されました。ダーウィンもビーグル号の航海中に本書を熟読しました。本書の特筆すべき点は、自然の「斉一(せいいつ)性」という概念を普及させたことです。

 ヨーロッパでは長らく、「地球の年齢」が議論の的になっていました。ニュートンケプラーの活躍した17世紀まで時計の針を戻せば、地球は紀元前4000年頃に神の手で創造されたと信じられていたのです。旧約聖書の『創世記』の登場人物たちの年齢と家系図から推計すると、その数字がはじき出されます[59]

 しかしライエルの時代になると、もはや『創世記』の言葉を一言一句正しいと考えるのは難しくなっていました。地質学の研究が進み、地層や岩石、化石に関する知識が蓄積されていたからです。『創世記』に描かれた天地創造の1週間は比喩的なものであり、1日ごとに長い隔たりがあったという説や、「1日」は24時間という意味ではなくもっと長い時間だったという説が、19世紀初頭には生まれていたのです[60]

 それでも聖書の内容がまったくのデタラメだとは考えられておらず、「ノアの洪水」のような天変地異が、過去には実際に起きたと信じられていました。化石に残る絶滅種たちは天変地異により滅んだ者たちだ、というわけです[61]

 ノアの洪水は神の怒りであり、人智を超えた力によってもたらされた現象です。地層や岩石、化石の形成には、そういう神秘的な力がかかわったと考えられていたのです。

 この天変地異説に対して、過去の地球でも現在と同様の現象しか起きていない(したがって神秘的な力は関わっていない)と見做す考え方を「斉一説」といいます。現在の地球では、谷が川の水の流れで浸食されたり、あるいは河口に砂が堆積したり、地質学的な現象は非常にゆっくりと進みます。過去の地球も同様だったはずだとライエルは考えたのです。

 ダーウィン自然選択説も同様です。神秘的な力に頼らなくても、現在の地球で観察できる自然法則だけで、新種が生まれうることを説明する理論でした。

 

 一方、当のライエルは進化論に否定的でした。既存の種から「新種」が現れるところを、現在の地球で観察できないからです(※現代ではウィルスなどの病原体の新種が現れるところを頻繁に観察できる。が、当時は病原体の正体すら分かっていなかった。)。ライエルは化石から、古い種が絶滅し、新たな種が生まれたことを知っていました。しかし『地質学原理』の中では、その仕組みは不明としました[62][63]。地層の形成については斉一性を信じたライエルですが、種の誕生にも同じ考え方を当てはめることは難しかったようです。

 

 

 2冊目は、1844年の『創造の自然史の痕跡』です。著者はエジンバラのジャーナリストかつ出版業者のロバート・チェインバースという人物です。彼は進化論(転成論)にかんする当時最新の科学知識を取材し、それを1冊の本にまとめたのです。匿名で出版された本書はベストセラーになり、19世紀のイギリスでは『種の起源』よりも広く読まれました[64]

 そして大激論を巻き起こしたのです。

『痕跡』が世に出たのは、産業革命によってイギリスの社会が急速に変化している時代でした。今後の記事で紹介しますが、1840年代は「鉄道狂時代」とも呼ばれ、イギリス全土を路線網が猛烈な勢いで覆いつくし始めていました。生まれた村を死ぬまで出ない人が珍しくなかった時代から、誰もが人生で一度くらいはロンドンを見物できるような時代になったのです。

 こうした時代背景を受けて、『痕跡』では、万物には変化の法則があるという考え方が紹介されています。社会が変化したように、夜空の天体はガス状の星雲から惑星や恒星へと変化し、生物も昆虫から魚類、爬虫類、哺乳類へと変化した――。あらゆるものには単純なものから複雑なものへ、下等なものから高等なものへと変化する法則があるというのです[65]

 じつのところ、『痕跡』の内容がダーウィンの理論に与えた影響はほぼないと言っていいでしょう。この書籍はダーウィン以前の進化論にチェンバースの独自解釈を加えたもので、自然選択説の影も形もないからです。

 一方で、本書がベストセラーになったことで、イギリスでは進化論について議論することがはるかに気軽な行為になりました。かつては「殺人の告白」のようなものだった進化論を、ダーウィンのような身分の人間でも世に問いやすくなったのです。

 

 3冊目は、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』です。初版は1798年に出版されました。ダーウィンはこの本を、進化論者に転向した翌年の1838年10月に「偶然、ただ楽しみのために」読みました。『痕跡』とは対照的に、こちらはダーウィンの理論に強い影響を与えました。「私はついに自分の研究の頼りとなる理論をえた」とダーウィンは述べています[66]

人口論』は、貧困が無くならない理由を解説した悲観的な本です。マルサスはその理由を、人口は幾何級数的に増加するが食糧は算術級数的にしか増加しないからだと論じています。

 人間の数は「掛け算」で、いわゆるネズミ算で増えます。一方、食糧生産を増やすには土地を開墾する必要があり、こちらは「足し算」でしか増えません。結果、人口は常に食糧生産の限界を上回るようになり、食糧を入手できない人々――貧困層が生じるというのです。これを是正するには結婚を遅らせるなどの方法で子供の出生数を減らすしかなく、さもなくば疫病や戦争などで人口が減るまで貧困は解決しないとマルサスは論じました。

 人口増加と食糧増産のギャップにより貧困が生じるという現象は、現在では「マルサスの罠」と呼ばれ、歴史上の様々な地域に当てはまることが分かっています。たとえば身近な例では、江戸時代の日本です。江戸中期以降の日本列島では、開墾できる土地は開墾しつくされ、1720~1870年の150年間における人口増加率はわずか0・2%にすぎませんでした[67]。忌まわしい「間引き」によって人口を調整せざるをえない状況になっていたのです。

 19世紀半ば以降、産業革命により食糧を始めあらゆるものの生産性が高まり、先進国で暮らす私たちはマルサスの罠を脱しました。そんな未来が来ることを、マルサスは知る由もありませんでした。

 家畜の選抜育種のような現象が自然界でも起こりうるなら、それが新種の誕生に繋がるはずだとダーウィンは考えました。『人口論』が予言するのは「育種選抜のような現象」そのものです。彼は本書を一読して、「このような条件下では有利な変異は保存され、不利な変異はほろぼされる傾向をもつであろうということ」に、すぐに思い当たりました[68]

 

 

ウォレスからの手紙

 こうして準備は整いました。

 1856年、ダーウィンはついに自身の理論を解説する大著の執筆に取り掛かりました。タイトルは『自然選択』です[69]。しかし、本書は未完のままで終わりました。なぜなら、その要約版である『種の起源』を出版したからです。では、なぜ要約版を出すことになったかといえば、のっぴきならない緊急事態が生じたからでした。

 1858年2月、東南アジアで活動していた剥製制作師・博物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレスが1本の論文をしたため、ダーウィンに送りました。そこにはダーウィン自然選択説に(細部は違いますが)そっくりな理論が書かれていたのです[70]

 ウォレスは労働者階級出身の社会主義者で、ダーウィンとはまったく違う社会的階層に属する人でした。その数年前から2人には交流がありました。ダーウィンはウォレスの制作した家禽の剥製を、はるばる東南アジアから買い付けていたのです。どうやらウォレスは、すでに博物学者として名の知れていたダーウィンの熱烈なファンだったようです。そこで自身の渾身のアイディアを一読してもらいたいと考えたのです。

 ダーウィンはうろたえました。

 このままでは、自分の考えていた理論が他者の名前で世に出てしまうからです。かといって、他人の成果を握りつぶし、自分の手柄にするほどの度胸もありませんでした。そこで彼は、先述のライエルとフッカーに相談しました。彼らはすでにダーウィンの口から自然選択説を聞いていました。

 6月30日、ライエルとフッカーはリンネ学会でこの論文を、ダーウィンとウォレスの共同論文の一部として発表しました[71]。ここではウォレスの論文だけでなく、ダーウィンが以前に書いたエッセイも発表されました。内容があまりにも突飛だったからでしょうか。この日の学会では、とくに議論が紛糾することはありませんでした。

 

 ウォレスの論文に対する、ダーウィン、ライエル、フッカーの処置は、現代でも物議を醸します。ウォレスの手柄をダーウィンが横取りしたように見えるからです。しかし当のウォレス自身は、むしろ喜んでいたようです。翌年1月に届いた手紙では、もしもフッカーたちが自分の論文だけを発表していたら、苦しみと後悔の念にさいなまれただろうとまで述べています[72]。自分の論文によって、憧れの博物学者に発破をかけることができた――。ダーウィンのファンであるウォレスにとっては嬉しいことだったようです[73]

 リンネ学会での発表はダーウィンにとって不充分なものであり、一方で大著『自然選択』の完成にはまだ時間がかかる見込みでした。そこで、要約版を1冊の本にまとめることにしたのです。

 1859年11月22日、ついに『種の起源』が出版されました[75][76]

 

 

種の起源』がもたらしたもの

 発売日の時点で、『種の起源』には印刷部数を20%も上回る注文が入りました。出版社は即座に重版を決め、翌年1月には組み版を大きく修正した第2版が販売されました。その後も『種の起源』は底堅く売れ続けて、1861年に第3版、1866年に第4版、1869年に第5版、1872年に最後の第6版がそれぞれ世に出ました。

 時代は前後しますが、イギリス科学振興協会が設立されたのは1831年です(※ 若き日のダーウィンがビーグル号で冒険していたころ。)。「科学/Science」が現代のような意味で使われるようになったのは、この協会の活動によるものです。この協会の活動はかなり人々の耳目を引いたようで、当時ジャーナリストとして活動していたチャールズ・ディケンズも、この協会をテーマにしたパロディを二度も執筆しました[76]

 19世紀を通じて、科学と宗教の分離は加速していきました。

種の起源』出版から10年後、1869年に科学雑誌『ネイチャー』が創刊。この頃には、すでにイギリスの科学界では生物の進化は常識になっていました[77]。創刊当初の『ネイチャー』は中世的なリベラル・アーツやルネサンス的な万能人を志向していたようで、美術評論なども載せていました。しかし、掲載される論文の専門性はどんどん高まっていき、創刊の四半世紀後には科学専門誌となりました[78]

 生命の神秘は、おそらく宗教にとって最後の砦なのでしょう。

 私の大学時代の専攻は生物学でした。研究室に泊まり込んで顕微鏡を覗き込み、ホヤの受精卵の胚発生を24時間かけて観察したときには、そのあまりにも精巧なメカニズムに胸を打たれました。あるいは森を散策して、草木の香りを嗅ぎながら小鳥たちの求愛の歌を聴いているとき。知床沖で野生のシャチの群れを観察したとき。デパートの壁面の石材にアンモナイトの化石を見つけたとき。都会の路地裏を駆け回るネズミたちを見かけたとき――。ただそれだけで、私は生命の神秘を感じて、深い感動を覚えます。生物学のレンズを通して見れば、スプーン1杯の泥ですら神秘的な謎の塊です。

 生命活動を観察して、そこに何か超自然的な力が働いていると想像してしまうことは、ごく自然な感情だと私は思います。

 一方、現代の生物学は、超自然的な力――魂とか心霊とか、目に見えない〝生命エネルギー〟とか――は存在しないという前提に立っています。生物とは自然が生み出した「からくり人形」のようなもので、物理学的・化学的な力だけで機能していると考えるのです。これは生物を一種の機械にすぎないと見做す考え方であり、「機械論」と呼びます。

 機械論に対して、生命には何か超自然的な力がかかわっているはずだという考え方を「生気論」と呼びます。宗教観の薄れた現代日本でも、生物には魂があると考える人のほうが多いでしょう。生物は機械にすぎないと言われると(なぜか)怒り出す人もいるはずです。

 しかし生物学の世界では、誰も生気論を信じなくなってすでに1世紀以上が経過しています。19世紀末に発表されたハンス・ドリーシュのウニの胚発生の研究が、歴史上、最後の生気論でした。

 こうして科学と宗教は、完全に袂(たもと)を分かったのです。

 

 

 

まとめ/世界を変え損ねた(?)6冊目

種の起源』と同時代の著名な書籍の1つに、カール・マルクスの『資本論』があります。1867年(※『起源』の8年後。)に第1巻が刊行されました。マルクスは生前に本書を完成させられず、死後、盟友エンゲルスの手によって1885年に第2巻が、1894年に第3巻が出ました。最終第4巻が出版されたのは1910年でした[79]

 マルクスが『共産党宣言』を書いたのは『種の起源』よりもずっと前なので、ダーウィンの進化論がマルクスの思想に影響を与えたとは考えられません。とはいえ、マルクスは『種の起源』の内容に深い感銘を受けたようです。1873年6月にダーウィンに献本した『資本論』第2版には、「心からの崇拝者カール・マルクス」というサインが入っていました。

 もっともダーウィンの側は、簡単な感謝の手紙こそ送ったものの、本書の内容にはさほど興味をひかれなかったようです。当時の書籍は裁断がなされておらず、いわゆる「袋とじ」になったページを読者がペーパーナイフで切り開きながら読むスタイルでした。ダーウィンの書斎に残された『資本論』は、全822ページのうち冒頭105ページしか切り開かれていませんでした[80]

 マルクスには大きく2つの顔があります。革命運動家としての顔と、経済学者としての顔です。前者の顔は、ある人々からは神格化されて崇められる一方、別の人々から悪魔の如く憎悪を向けられてきました。後者の顔を評価するにあたっても、そういうイデオロギーを無視して論じることが難しい人物です。

 じつのところ、マルクスプロレタリアートによる革命の後にどのような社会がありうるのか、具体的な話はほとんど書いていません。彼は現実世界の社会主義の建設者ではなく、それはレーニンを始めとする後継者の仕事でした[81]。『資本論』は(革命後のことではなく)革命に至るまでの過程――すなわち、資本主義社会はいかにして崩壊するのかを理論化した本でした。

 マルクスの理論を理解するためには、彼の目の前に横たわっていた当時のヨーロッパ社会を知っておく必要があります。たとえばマンチェスターのある工場では、1862年の1週間の平均労働時間が84時間でした[82]。毎日14~16時間ほど働いた計算です。1875年ごろのマンチェスターでは、有産階級の平均寿命38年に対して、労働者階級は17年であり、リヴァプールでは前者は35年、後者は15年でした[83](※平均寿命は乳幼児死亡率が高まると大幅に短くなる。全員が揃って40歳未満で死んでいたわけではない。)

 労働運動が合法化されたり、政府が資本家と労働者の仲介役として働いたりするところなど、想像もできない時代だったのです。

 

 現代の水準で見ると、マルクスの経済学には大きな欠陥がいくつもあります。とくに労働価値説は、現代の主流経済学では完全に間違いだと見做されています(と私は理解しています)。にもかかわらず、資本主義が崩壊に向かう過程を描いたマルクスの予言は、不気味なほど的中しました。

 たとえば賃金が高騰した場合を考えてみましょう。これに対処するため、資本家は生産効率の高い機械設備に投資するはずです。しかし、マルクスの理論では価値は人間の労働から生まれると見做されているため、これは価値を生む生産設備(=人間)を、価値を生まない設備(=資本)へと置き換えたことになります。

 資本家は利潤を確保するために、ますます労働者1人あたりからの搾取を増やさざるをえず、また、機械設備に投資せざるをえなくなっていくでしょう。生産効率の高い工場との競争に敗れて、小規模な工房を営む職人たちは自分の事業を畳み、誰かに雇われた賃金労働者――無産階級――にならざるをえないでしょう。

(※余談だが、現在のAI脅威論ではマルクスの理論によく似た議論が繰り返されている。AIが人間の仕事を奪い続ければ、やがて世界の資本所得比率がほぼ100%に達するのではないかとニック・ボストロムは述べている[84]。ボストロムについては別の機会に書く。)

 こうして機械への置き換えと無産階級の増加が進んだ先に、資本主義は行き詰まるとマルクスは予言しました[85]

 そして事実、ロシアを始め、少なくない国で資本主義は崩壊し、共産主義革命が起きたのです。

 

 マルクスの目撃した経済体制――近現代型の資本主義は、産業革命の落とし仔でした。

 では、なぜ18世紀後半のイギリスで産業革命が起きたのでしょうか?

 どうして私たちはマルサスの罠を脱出することができたのでしょうか?

 

 

(次回、「産業革命」編に続く)

(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第10回です)

★お知らせ★
 この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

 

 

※※※参考文献※※※

[36] ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』(日経ビジネス人文庫、2015年)(2015年)上巻P.216

[37] チャールズ・ダーウィン種の起源』(1859年/岩波文庫、1990年)上巻P.10

[38] 松永俊男『ダーウィンの時代 ―科学と宗教―』(名古屋大学出版会、1996年)P.28

[39] リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』(早川書房、2004年)P.22-

[40] チャールズ・ダーウィンダーウィン自伝』(1887年編/ちくま学芸文庫、2000年)P.24

[41] ダーウィン(1887年編)P.52

[42] A.デズモンド、J.ムーア『ダーウィン 世界を変えたナチュラリストの一生』(工作舎、1999年)上P.87

[43] デズモンド、ムーア(1999年)上P.132

[44] デズモンド、ムーア(1999年)上P.206

[45] ダーウィン(1887年編)P.64

[46] 松永俊男『チャールズ・ダーウィンの生涯』(朝日新聞出版、2009年)P.141-142

[47] モーズリー、リンチ(2011年)P.105

[48] リチャード・ドーキンス『進化の存在証明』(早川書房、2009年)P.242-243

[49] 松永(2009年)P.150-151

[50] 松永俊男『ダーウィン前夜の進化論争』(名古屋大学出版会、2005年)P.5-6

[51] ダーウィン(1887年編)P.132-133

[52] デズモンド、ムーア(1999年)上P.414

[53] デズモンド、ムーア(1999年)上P.450

[54] 松永(2009年)P.188-189

[55] 松永(2009年)P.168-169

[56] ダーウィン(1887年編)P.147

[57] デズモンド、ムーア(1999年)上P.513

[58] ダーウィン(1887年編)P.111

[59] モーズリー、リンチ(2011年)P.116

[60] 松永(1996年)P.78、P.99

[61] モーズリー、リンチ(2011年)P.115

[62] 松永(1996年)P.103-104、

[63] 松永(2009年)P.120

[64] 松永(2005年)P.88

[65] モーズリー、リンチ(2011年)P.125

[66] ダーウィン(1887年編)P.149

[67] マッシモ・リヴィ-バッチ『⼈⼝の世界史』(東洋経済新報社、2014年)P.80-81

[68] ダーウィン(1887年編)P.149

[69] 松永(2009年)p204-205

[70] 松永(2009年)P.210-212

[71] デズモンド、ムーア(1999年)下P.679-680

[72] デズモンド、ムーア(1999年)下P.682

[73] ピーター・レイビー『博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯』(新思索社、2007年)P.212-213

[74] 松永(2009年)P.220

[75] デズモンド、ムーア(1999年)P.690

[76] 松永(1996年)P.214

[77] 松永(1996年)P.354

[78] 松永(1996年)P.361

[79] ロバート・L・ハイルブローナー『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(ちくま学芸文庫、2001年)P.250

[80] 松永(2009年)P.304

[81] ハイルブローナー(2001年)P.249、P.263

[82] ハイルブローナー(2001年)P.256

[83] ウルリケ・ヘルマン『資本の世界史 資本主義はなぜ危機に陥ってばかりいるのか』(太田出版、2015年)P.53

[84] ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス』(日本経済新聞社、2017年)p343

[85] ハイルブローナー(2001年)P.256-261