デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

なぜ産業革命はイギリスから始まったのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

 

鉄道はすべてを変えた

 1836年10月、チャールズ・ダーウィンが5年におよぶ世界一周の旅から帰宅したとき、屋敷で彼を出迎える人はいませんでした。時刻はすでに深夜で、家族も使用人も寝静まっていたのです[1]。この時のダーウィンの移動手段は主に馬でした。時刻表通りに運行する鉄道とは違い、馬車は所要時間がまちまちです。そのため正確な帰宅日時が分からなかったのです。

 それからわずか6年後の1842年、ロンドン近郊のダウン村に屋敷を買ったとき、ダーウィンは物件選びの条件の1つに、駅から近いことを挙げていました[2]。結婚と短期間のロンドン生活を経て、鉄道が必要不可欠になっていたようです。

 ここからも、鉄道がどれほど急速に人々の生活を変えたのかがうかがえます。

 たとえば時刻は、かつて町や村ごとに違いました。イギリスの場合、地域によってはロンドンと最大で30分間の時差がありました[3]。それでは列車の運行に不都合だったため、鉄道の登場後には速やかにグリニッジ天文台の時刻に統一されました。

 かつて、生まれた村を死ぬまで出ない人は珍しくありませんでした。ところが鉄道は移動のコストを大幅に下げ、旅行を民主化(大衆化)しました。イギリスの場合、1835年に駅馬車を利用した人はのべ1000万人でしたが、1845年に鉄道を利用した人は3000万人、1870年には3億3000万人にまで激増しました[4]。以前にも書いた通り、どんな田舎の人でも人生で一度くらいはロンドン見物に出掛けられる時代になったのです。

 速さの点でも、鉄道には前例がありませんでした。

 長距離移動の場合、馬車の速さは人間の徒歩と大差ありません[5]。馬が全力疾走できる距離には限界があるため、速さを追求するなら馬の乗り換えが必須だからです(※したがって、徒歩と比べたときの馬車の優位性は速さではなく積載量にある。)。しかし蒸気機関車には、そのような制限はありません。

 たとえば日本の鉄道の歴史は、1872年9月に新橋~横浜間が開通したところから始まります。正式開業に先立ち、同年5月に品川~横浜間の約24キロメートルが仮開通し、所要時間は約35分でした[6]。もしもこの距離を徒歩で行けば、健脚の人でも6時間、休憩を含めれば7~8時間はかかる1日がかりの旅になるはずです。しかし鉄道以後の世界では、この距離を日帰りできるように――運行本数によっては、その日の正午までに帰ってこられるようになったのです。

 人々の生活は一変しました。

 かつて農村では、仕事は季節ごとに進めるものでした。旅は日ごと、週ごと、ときには月ごとに進めるものでした。ところが鉄道以後の世界では、人々は時刻表通りに出勤し、積み荷を工場から(鉄道で)出荷し、さらに始業から就業まで、時間割に従って働くようになりました。分刻みの「鉄道時間」で生活するようになったのです。

 歴史研究家ウィリアム・バーンスタインは「私たちは現代こそが劇的な技術革新の時代だと考えがちだが、これはうぬぼれた幻想にすぎない」と述べています[7]

 

 

※画像出典:グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』図1.1
(引用元/MONEY PLUS

 

 鉄道は「産業革命」を象徴する発明です。

 18世紀後半にイギリスから始まった産業革命は、この世界を永遠に変えました。前章で紹介した「マルサスの罠」を私たちは脱出し、『人口論』の暗い予言を打ち破ったのです。現代の先進国では、貧国と飢餓は結びつきません。富裕層のほうが健康のための支出を増やし、なおかつ運動のための余暇を確保できるので、貧困層のほうが肥満と生活習慣病のリスクが高くなってしまうのです。

 産業革命後の世界の特徴は、私たち人類が「科学は儲かる」と気づいた点にあります。

 かつて科学は有閑階級の趣味にすぎませんでした。あるいは熱心な神学者による宗教研究でした。しかし、科学技術の研究を――すなわち、知識資本への投資を――すると、それは経済成長に結びつきます[8]。18世紀末以降、ようやく人類はこのことを理解しました。人々がこぞって技術開発を行うようになった結果、発明が発明を呼び、知識が雪だるま式に増えていくようになったのです。

 なぜ産業革命はイギリスから始まったのでしょうか?

 そして、なぜそれは18世紀後半だったのでしょうか?

 

 結論から書きましょう。

 歴史的な経緯から、イギリスでは賃金水準が上がり続け、燃料の価格が(相対的に)下がり続けていました。そして「労働を機械に置き換えること」で利益を出せる水準に達したのが、18世紀後半だったのです。当時のイギリスでは紡績機や蒸気機関などの機械を導入することで人件費を節約して儲けを出せました。それを阻止する権力者や社会制度も(他国に比べて)弱いものでした。結果として「発明が発明を呼ぶ状況」にいち早く到達したのです。

 この記事では、そこに至る過程を見ていきましょう。

 

 

技術革新への抵抗

 1589年、イギリスのノッティンガム州カルバートンの司祭ウィリアム・リーは、画期的な「靴下編み機」の発明に成功しました。リーはロンドンへ赴き、エリザベス1世と謁見。この装置で商売をする特許を願い出ました。ところが女王の対応はけんもほろろでした。靴下職人の仕事を奪うという理由で、装置の商用を許さなかったのです。リーはめげず、エリザベスの後を継いだジェームズ1世にも特許を申請しました。しかしジェームズ1世もまた、同じ理由でそれを断りました[9]

 産業革命以前の世界では、これはありふれた光景でした。

 技術革新が経済成長に繫がると理解されるまで、それは既存の経済体制を害し、権力の基盤を揺るがす危険なものだと見做されがちだったのです。以前の記事で紹介した通り、グーテンベルク活版印刷機を「黒魔術」だと見做されないよう注意が必要でした。オスマン帝国のスルタンたちは活版印刷を規制しました。

 これは権力者に限りません。

 既得権益者からも、技術革新は歓迎されませんでした。

 18世紀のフランスでは、ギルドが規制当局と結託していました。微に入り細を穿つ規制を作り上げて、商工業を縛っていたのです。[10]。たとえば羊の毛を剃ることが許されるのは5月と6月だけでした。黒い羊を殺すことは禁じられていました。羊毛を梳(す)く器具の、歯の本数や素材の種類も規定されていました。布を織るのに使う糸の本数にも規制があり、ある布は1376本、別の布は2368本を使うことが定められていました。布のサイズに自由はなく、布の染色だけでも317条の規定がありました。

 骨製ボタンを作っていたボタン製造ギルドは、布製の新製品が発明されたと知るやいなや、大蔵大臣に手を回してそれを禁止させました。規定外のボタンを開発した仕立屋に罰金刑を科し、規定外の服を着ている人間を取り締まるために、個人の住宅を家宅捜索する権限までをも検査官に与えさせたのです。

 

 もちろん産業革命以前にも、目覚ましい技術革新が無かったわけではありません。紙や活版印刷、望遠鏡は以前にも紹介した通りです。ヨーロッパに限っていえば、この他にも風車、糸車、機械式時計、眼鏡が13世紀ごろに実用化されました。14世紀には、火薬を使った兵器もヨーロッパにもたらされました[11]産業革命以前の世界も、完全に停滞していたわけではありません。

 それでも、官民のどちらも「破壊的イノベーション」を嫌っており、技術の発展は遅々としたものでした。産業革命後の現代のように、科学技術の知識が雪だるま式に増えていくという状況からはほど遠かったのです。

 私たち人類がこの状況から脱出するためには、いくつかの条件が揃う必要がありました。

 その条件が揃うまでの物語を、ここでは1347年9月から始めましょう。

 

 

 

ペスト、毛織物産業、ロンドン

 1347年9月のある日、何隻かのガレー船シチリア島メッシーナに到着しました。それはジェノヴァの貿易船で、黒海沿岸から積み荷とともに招かれざる客を運んできました。ネズミと、その毛皮に巣食ったノミ、そして何より、ノミの体内に宿ったペスト菌です[12]

 黒死病の異名を持つペストは、その後の4~6年でヨーロッパ全土を蹂躙しました。

 1348年にフィレンツェでペスト禍に見舞われたボッカッチョ は、その惨状を『デカメロン』の冒頭で生々しく描写しています。腺ペストの特徴的な症状として、脇の下や股の付け根に鶏卵~リンゴ大の腫れ物ができますが、これが出た人は3日程度で「まちがいなく」死んだと彼は述べています[13]。当時はノミが媒介者だという知識もなく、患者の使った衣類に触れただけでも(そこに潜むノミを介して)感染する危険性があることがパニックをもたらしました。誰もが家に閉じこもり、患者の看病も避けるようになりました。結果、自宅で孤独死する人が続出し、「腐敗した死体の悪臭でやっと死んだということが隣人にも」分かったそうです[14]。墓の数は足りず、「教会の墓地に大きな溝を掘り」「そこへ何百人という遺骸を並べて寝かせ」「上までぎっしり詰まると、そこにわずかの土をかけて表面を覆」って葬ったというのです[15]

 そして、これは第1波に過ぎませんでした。

 この後もおよそ1世紀に渡り、平均11~13年おきにペストはヨーロッパを襲いました。当時のヨーロッパ人口はおよそ8000万人と推計されていますが、1340年から1400年の間に人口のおよそ3分の1が失われ、さらに15世紀半ばに底をつくまで減り続けました[16]

 しかし皮肉にも、ペストの惨禍はイギリスに2つの恩恵をもたらしました。

「政治的な恩恵」と「経済的な恩恵」です。

 

 まずは「政治的な恩恵」から見ていきましょう。

 オックスフォード郊外のエインシャムには、次のような契約書が残されています[17]

 

 1349年の腺ペストによる大量死の際、荘園にはかろうじて2人の小作人が残った。彼らは、その荘園の当時の僧院長にして封建君主だったアプトンのブラザー・ニコラスが、自分たちと新たな協定を結ばなければ、荘園を去るつもりだと表明した。

 

 この「新たな協定」には、貢納金および無給労働の削減が盛り込まれていました。ペストによる人口減少で人手不足が生じた結果、小作人が封建君主に対して交渉力を持つようになったのです。封建制度の元では、君主は単なる地主ではありません。農民から見れば警察と裁判官を兼ねる存在であり、君主の許しがなければ(本来なら)土地を離れることもできません。このように奴隷に近い扱いだった当時の農民のことを「農奴」とも呼びます。

 ペスト大流行はこの封建制度の土台を揺るがしたのです。

 ブラザー・ニコラスは新たな協定を受け入れざるをえませんでした。

 イングランドでは農民の地位向上と封建制度の弱体化が進み、やがて自らの土地を所有する農民が現れました。彼らを「独立自営農民(ヨーマン)」と呼びます。

 

 続いて「経済的な恩恵」ですが、「マルサスの罠」を遠ざけたことが挙げられます。耕作可能な土地に対する人口が大幅に減ったため、生き残った人々の食糧事情が改善したのです。先述の人手不足により、所得も増えました。一時的なものではありますが、人々の生活水準はペスト禍以前よりも改善しました[18]

 イングランドの羊たちも、この恩恵を受けました。

 人口減少により使われなくなった耕作地が牧草地に転用された結果、中世までの短い低品質の羊毛ではなく、長い高品質の羊毛が得られるようになったのです。この羊毛を用いた「梳(そ)毛(もう)毛織物(けおりもの)」が、イギリスの新たな輸出製品となりました[19]。中世まで、ヨーロッパの毛織物市場を席巻していたのはイタリアとフランドル地方でした。イングランド産の新たな毛織物はこの市場を奪ったのです[20]

 毛織物貿易の玄関口となったのが、ロンドンです。

 1500年には約5万人だったロンドンの人口は、1700年までの2世紀間で10倍に増えました[21]。1660年代にロンドンから輸出および再輸出された商品の74%が毛織物であり、18世紀初頭までに労働者の4分の1が海運業や港湾サービス業、その他の関連事業に従事するようになりました[22]。ロンドンは貿易によって成長した都市なのです。

 これら「政治的な恩恵」と「経済的な恩恵」は、その後、絡まり合いながらイギリスの運命を変えていきます。

 

 

 

ヨーマンと農業革命

 封建制度の元では、農民には品種改良や増産のインセンティブがほぼありません。どんなに仕事を頑張って利益を増やしても、すべて領主に収奪されてしまうからです。これは古今東西を問いません。

 たとえば江戸時代の日本では、各藩は年貢米を米市場で換金しなければ現金収入を得られませんでした。米価の基準を作っていた中心的な市場は、大阪・堂島の米市場です。熊本藩の荒尾郷・樺村では、村人およそ700人のうち180人を動員して、2俵分の米を1粒ずつ選別させていたという記録が残っています。この2俵は、堂島で米仲買に見本として見せるための米でした[23]。少しでも高く米を売りたいという大名たちの執念がうかがえます。これは熊本藩に限った話ではなく、堂島の米価に翻弄されたのはどの藩も同じでした。

 ところが明治になり、廃藩置県と地租改正によって大名による締め付けが無くなると、日本全国で米の品質低下が起きました。砂を混ぜたり水をかけたりして重量を誤魔化したり、良米と銘打ちながら粗悪米を混ぜるなどの不正が横行したのです。このことは、米の品質の高さによる追加的な利得(※経済学用語で「品質プレミアム」と呼ぶ。)を得ていたのは大名たちで、それは農民には還元されていなかったことを示唆しています[24]

 

 一方、イギリスのヨーマンたちは違う経済的インセンティブを持っていました。彼らは生産物の品質改良や増産によって得た利益を、自分の懐に収めることができたのです。結果、近世のイギリスでは「農業革命」と呼ばれる農業の生産性向上が起きました。たとえば単位面積あたりの小麦の収穫量は、1300年から1700年で2倍に増えました[25]

 18世紀に入ると、クローバーやイガマメ、ターニップ(西洋かぶ)のような新たな作物がイギリスに導入されました。これらは人間の食用だけでなく、家畜の飼料としても用いられました。

 ヨーロッパで主食となる麦は連作障害を起こしやすく、数年おきに休耕地を作らなければなりません(※同じ土地で同じ作物を育て続けると、土地が痩せ、さらに寄生虫や病原菌が蔓延しやすくなり、収穫量が落ちてしまう。これを連作障害という。)。一方、クローバーやイガマメのようなマメ科の植物には、痩せた土地でも育ち、地力を回復させる能力があります。マメ科の植物の根に共生している「根粒菌」と呼ばれる微生物が、大気中の窒素から肥料となる窒素化合物を合成できるからです。

 つまり、麦の休耕地にクローバーを植えて放牧地にすれば、土地を肥沃な状態に戻しながら家畜を太らせることができるわけです。このような効率的な農法の導入と、地道な品種改良の結果、1300年~1800年の500年間で、乳牛1頭あたりの搾乳量は3・8倍、羊1頭あたりの羊毛は2・3倍、羊肉の重量は2・7倍に増えました[26]

 農業生産性の高さは、その国・地域の都市化率から推測できます。

 都市化率とは、総人口に占める都市人口の比率のことです。農業の生産性が低く、農民たちが自分の家族を食べさせるので精一杯であれば、都市化は進みません。都市に集まった人々に充分な食糧を供給できないからです。反面、農業の生産性が高まるほど、多数の都市人口を養うことが可能になり、人口に占める農業従事者の比率は下がります。

 1500年のイングランドの都市人口は7%、農業人口は74%でした(※ 合計して100%にならないのは、農村で暮らす手工業者などの非農業従事者がいるため)。これが1800年には、都市人口は29%に増え、農業人口は35%まで減りました[27]。1人の農民が3人のイングランド人を養えるようになったのです。

 

 

 

消費の多様化と勤勉革命、そして高賃金経済へ

 イングランドの農業革命は、毛織物産業の勃興および貿易都市ロンドンの成長と無関係ではありません。というのも、お金を稼ぎたいというインセンティブは、お金で買いたくなる商品がなければ生じないからです。

 ヨーロッパの「大航海時代」の歴史は、15世紀初頭から始まります。当時、インドなどのアジアから輸入されていた香辛料――中でも8割を占めた胡椒[28]――は、中東の商人たちの手を幾重にも介したため、ヨーロッパでは非常に高価でした。アジアと直接貿易のルートを開くことができれば、胡椒を格安で仕入れて大儲けできるはずでした。そこで、ポルトガルエンリケ航海王子は繰り返し船団を送り、アフリカ大陸の南端を迂回する航路を探索させました。これに対してスペインの援助を得たクリストファー・コロンブス は、西回りの航路でアジアを目指し、1492年に新大陸に到達しました。1494年には、ポルトガルとスペインはトルデシャリス条約を締結[29]。これは航海で発見した「新世界」のうち、大西洋の(おおよそ)真ん中を通る子午線を境に、西側をスペイン領、東側をポルトガル領とする条約でした。さらに1498年にはヴァスコ・ダ・ガマ がついにインドに到達。この時代の世界の海はスペインとポルトガルのものでした。

 ところが1588年、スペインはアルマダの海戦でイングランドに敗れます。

 これはイングランドにとって海洋国家への第一歩でした[30]。1600年には東インド会社(EIC)が設立されました。さらに17世紀を通じて三度の英蘭戦争をイギリスは戦い、オランダが一歩先んじていた東アジアとの貿易で地歩を固めました。こうしてイングランドは、覇権国家大英帝国へと発展していったのです。


 通商圏の拡大に伴い、イギリスには――とくにロンドンには、世界中の商品が集まりました。

 胡椒はもちろん、コーヒー、茶、絹、磁器などが輸入されました。新大陸からは、それまで旧世界には存在しなかった作物が持ち込まれました。たとえばジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ、サツマイモ、タバコ、トマト、カカオ、ヒマワリ、カボチャなどです。さらに長年ヨーロッパ人を苦しめてきたマラリアの特効薬キニーネも新大陸で発見されました。これは現代でいえば、がんやエイズの特効薬が見つかったようなものでした[31]

 中世までは、パンと肉とビールこそが豊かさの象徴でした。しかし近世に入ると様相が変わり、ロンドンの住民は多様な商品を消費できるようになったのです。前章で紹介したコーヒーハウスの大流行は、その好例でしょう。なお、イギリスに紅茶文化を根付かせたのは、1662年にチャールズ2世のもとにポルトガルから嫁いできたキャサリン・オブ・ブラガンザです。お茶好きだった彼女は、イギリス王室に喫茶習慣を持ち込みました[32]。東洋のお洒落な飲み物として、お茶はイギリスで大人気になります。男性的な飲み物だったコーヒーに対して、紅茶は女性的な飲み物として受け入れられたのです。1717年にトーマス・トワイニングがロンドンで紅茶専門店を開店したとき、店のメインターゲットは最初から女性客でした[33]

 そして農村の人々も、ロンドンと同じように多様な消費生活を楽しみたいと望みました。だからこそ彼らは農業の効率化に取り組んだのです。さらに労働時間も伸びました。要するに、以前の時代よりも真面目に働くようになった――。この変化を「勤勉革命」とも呼びます[34][35]

 

 今も昔も、都市では田舎よりも賃金が高くなります。近世のロンドンも同様でした。このロンドンの高賃金に牽引される形で、イギリス全土で賃金が上昇したのです[36]。1737年にイングランドを旅したフランスのル・ブラン神父は、当地では農家の下男ですらお茶を飲んでから1日の仕事に取り掛かることに驚嘆しました。彼が故郷に送った手紙によれば、当時のイングランドでは農民でさえ冬にはフロックコートを着込み、妻や娘は真のレディに見えるほどエレガントな服装を身に着けていたというのです[37]。

 こうして、産業革命の始まる18世紀後半までに、イギリスは世界で一番賃金の高い地域になりました。

 

 

 

石炭が格安の燃料になっていく

「アイオロスの球」から分かる通り、人類は蒸気から運動エネルギーを得られることを古代ローマの時代にはすでに知っていました。産業革命初期の発明品を生み出すのに、アルキメデスの時代よりも多くの知識は必要なかったとさえ言われています[38]。それでも18世紀まで蒸気機関が普及しなかったのは、薪よりも人間のほうが安上がりだったからです。

 18世紀後半のイギリスが世界で一番燃料費の安い地域になった背景にも、ロンドンの成長が深く関わっています。

 イギリスでは古くから、石炭は身近な燃料の1つでした。記録が残っている近世初頭の時点で、ロンドンにおける石炭にの価格は薪はほぼ同じであり[39]、それ以外の地域では薪の半分程度でした[40]。当時の石炭は、石灰の煆(か)焼(しょう)や金属の鍛造、海水の煮沸による製塩など、専ら工業用途で用いられており[41]、家庭の暖房・炊事には使われていませんでした。

 というのも、中世までのイギリスの一般家屋では、石炭を利用できなかったからです[42]

 中世のイギリスの典型的な家屋は、中央に広間または大部屋のある間取りでした。その部屋の真ん中に暖房用と炊事用を兼ねる低い炉が設置され、そこで薪を燃やしました。煙突はなく、煙は天井の穴から排気されました。天井近くに溜まった煙で、ベーコンを燻(いぶ)すことすらできました。

 この家屋で石炭を利用すると2つの問題が生じます。まず、石炭を燃焼したときに生じる硫黄臭が家じゅうに充満してしまうこと。そして、火がすぐに消えてしまうことです。石炭を安定的かつ効率的に燃やすためには、開放的な炉ではなく、(暖炉やストーブのように)狭い場所に熱を閉じ込めなければなりません。

 家庭用の燃料として石炭を利用するためには、専用に設計された家屋が必要だったのです。

 そのような新しい設計の家屋は、ロンドンの成長によって誕生しました。

 都市が大きくなるほど、周囲の森が伐採されます。薪の生産地から都市の中心部までの輸送距離が伸びます(※産業革命以前の世界では、荷車1台ぶんの薪を売って利益が出るのは、陸路の場合わずか15キロメートル圏内だった[43]。)。生産地が遠ざかることによる輸送コストの増大は、薪の末端価格に転嫁されます。そのため、ロンドンでは都市圏の拡大とともに、薪の価格が高騰したのです[44]。建設業者からみれば、「石炭を利用できる設計」をセールスポイントにできるようになったわけです。悪臭が広まらず、かつ効率的に熱を利用できる建築の研究が進みました[45]

 前章で触れた1666年のロンドン大火も、新しい建築設計の発達・普及を後押ししました。この大規模な火災をきっかけに、それまでの木造建築に代わって、耐火性の高い石造や煉瓦造の家屋が建設されるようになったのです。石炭に適した暖炉と煙突を備えた家屋がロンドンで生まれると、それはイギリスじゅうに広まりました。中世の家屋から近代的な家屋への建て替えは1570年から18世紀前半まで続き、イギリスの「大再建」と呼ばれています[46]

 

 興味深いのは、近世を通じてイギリスでの石炭の価格がほぼ一定だったことです。「大再建」によって家庭用石炭の需要は伸びていたはずです。にもかかわらず価格が高騰しなかったのは、それを補うほどの供給があったから――石炭業者が、積極的に炭鉱を開発したからです。

 1560年に約23万トンだったイギリスの石炭生産量は、1700年には約299万トン、1800年には1505万トンに達しました。およそ66倍の増加です。当時、イギリス以外で大規模な石炭産業が存在していた世界で唯一の場所はベルギー南部でしたが、それでも1800年ごろの生産量は年間約200万トン、イギリス全体の13%にすぎませんでした[47]

 こうして産業革命が始まる18世紀半ばまでに、イギリスは世界で一番燃料費の安い地域になりました。それはロンドンのような都市部よりも、ニューキャッスルのような炭鉱近くの町で顕著でした。産業革命がロンドンやエジンバラのような大都市ではなく、比較的郊外の都市から始まった理由もここにあります。

 

 まとめましょう。

 14世紀半ばにヨーロッパを襲ったペストの大流行は、一方で、イギリスには「政治的な恩恵」と「経済的な恩恵」の2つの恩恵を与えました。政治的な面では、人口減少によって農奴小作人の交渉能力が高まった結果、封建制度が弱体化し、やがて独立自営農民(ヨーマン)という社会的地位の人々の誕生に繫がりました。また、経済的な面では、人間の食糧を作っていた農地が牧草地に転用された結果、羊毛の品質が向上し、毛織物がイギリスの主要な輸出製品となりました。これが貿易都市ロンドンの成長に繫がりました。

 貿易都市ロンドンの成長は、イギリス人に多様な消費生活をもたらし、農民たちに生産性向上のインセンティブを与えました。結果、イギリス人は「農業革命」と賃金の高騰を経験しました。また、ロンドンの成長は薪の価格高騰を招き、それが石炭を利用できる家屋への「大再建」と、炭鉱業の発展を促しました。こうして、産業革命の前提となる「高い賃金」と「安い燃料費」という条件が揃い、イギリスは歴史上初めて「労働を機械に置き換えること」で利益を出せる地域になったのです。

 

 

 

かくして産業革命は始まった

 1733年、ジョン・ケイ が「飛び杼(ひ)」を発明しました。杼とは、布を織る際に横糸を通す器具です。ケイはこれを改良し、製織(せいしょく)の生産効率を大幅に向上させたのです。従来は2人で操作していた機織り機を、1人で、より高速に動かすことが可能になりました。また、従来よりも幅広の布を織れるようになりました[48]

 飛び杼は今でいう破壊的イノベーションであり、失職を懸念した機織り職人からの反発を招きました。コルチェスターの職人たちが、飛び杼を正式に禁止するよう国王ジョージ2世に陳情を行ったほどです(が、これは失敗に終わりました)。

 しかし飛び杼は、すぐには発明の連鎖と爆発的な経済成長には結びつきませんでした。製織が効率化されても、原料となる糸の生産――紡績(ぼうせき)――が従来のままでは、それがボトルネックになってしまうからです。当時、糸は「手紡ぎ車」で1本ずつ紡がれていました。飛び杼は機織りのコストを下げて生産性を高めただけでなく、糸の需要を増やしたのです。

 1764年、ランカシャーの僻地ラムズクロー村で、ジェームズ・ハーグリーヴス は「ジェニー紡績機」を発明しました。これは一度に8本の糸を紡げる手動式の機械でした。噂を聞きつけた近隣の住民はハーグリーヴスの家に押し掛け、完成したばかりのジェニー紡績機を叩き壊しました。仕事を奪われることを恐れたからです。彼はめげずにリヴァプール郊外のピールに工場を構えますが、またしても暴徒の襲撃を受けました[49]

 こうした抵抗に遭いながらもジェニー紡績機は普及し、1788年には2万台がイギリス国内で稼働していました[50]。改良が重ねられ、一度に紡げる糸の本数も増えていきました。

 ジェニー紡績機は1人の女性でも操作できる装置なので、一見すると資本集約的な生産手段には思えません。しかし当時の遺産目録を調べると、従来の手紡ぎ車が大抵は1シリング以下であるのに対し、24本を同時に紡げるジェニー紡績機は70シリングでした[51]。つまりジェニー紡績機を導入することは、人件費に対する資本の比率を70倍以上に増やすことを(あるいは資本に対する人件費の比率を70分の1以下にすることを)意味したのです。当時のイギリス人にとって、ジェニー紡績機を購入することは人件費の節約に繫がる設備投資でした。

 具体的には、当時のイギリスで耐用年数10年のジェニー紡績機を購入した場合、収益率は38%に達したと推計されています(※機械装置の導入でどれほど利益を出せるかは、生産量の増加率や労働者の稼働率など様々な要因に左右される。当時の家内紡績工(=女性)は家事や農作業の合間に糸を紡いでいたため、大抵のジェニー紡績機はフル稼働の40%ほどしか使用されていなかったようだ。それでもこれほどの利益が見込めた。)。高賃金だったからこそ、人件費の節約によって大きな利益が見込めたのです。同時代のフランスの人件費の水準で計算すると、収益率は2・5%まで落ちます。インドではマイナス5・2%となり[52]、機械など使わないほうがマシという結果になってしまいます。

 1769年、リチャード・アークライト が「水力紡績機」の特許を得ました。これは水車を動力として動くだけでなく、圧延ローラーによって丈夫で上質な糸を紡ぐことができる機械でした。

 アークライトの功績は、単に紡績機を改良しただけでなく、近代的な「工場」そのものを発明した点にあります[53]。彼は1767年にノッティンガムで(水車ではなく)馬を動力とした小さな工場を建てましたが、これは1772年まで稼働しませんでした。解決すべき技術的課題が山積みだったからです。効率よく原料や仕掛品を動かすための機械装置の配置や、工場労働者をどう管理すべきかなど、アークライトは手探りで決めていかなければなりませんでした。ここで得た反省をもとに、彼は1776年、ダービシャーのクロムフォードで第2工場 を操業しました。この第2工場こそが、その後、世界中に広まる綿紡績工場の原型でした[54]。アークライトの発明には、熟練工を要しないという長所があります。彼は非熟練の女性たちを訓練して機械を操作させました。また、労働者を臨時雇用ではなく完全雇用しました[55]

 1779年、サミュエル・クロンプトン が「ミュール紡績機」を完成させました。これはジェニー紡績機と水力紡績機の長所を組み合わせた機械でした(※ クロンプトン自身は、アークライトの発明については何も知らないと主張していた。)。ミュール紡績機の特筆すべき点は、生産された糸の品質が飛躍的に向上したことです。この発明により、イギリスはモスリン(薄手の高級布)でもインドと競争できるようになったのです[56]

 1785年、その後の歴史を決定づけるアイディアが実現しました。エドモンド・カートライト が、紡績機を蒸気機関に繫いだのです。生まれたばかりの「力織機」はさほど性能のいいものではなく、また紡績工からの強い反発を受けました。1790年にマンチェスターのノットミルで30台の力織機が導入された際には、その工場は不審火で焼けました[57]。とはいえ、蒸気を紡績機の動力源にするというアイディアの有用性は誰の目にも明らかでした。1820年代にはリチャード・ロバーツによって、蒸気機関で動く「自動ミュール紡績機」が実用化されました[58]

 以上のように、初期の産業革命を牽引したのは繊維産業であり、その原動力はイギリスの高賃金でした。人件費の高さが「労働を機械に置き換える」というインセンティブを生み、それが発明の連鎖と経済成長を引き起こしたのです。

 

 

 

石炭が世界を動かす

 イギリスにおける蒸気機関の利用は、飛び杼よりもさらに歴史を遡ります。

 1712年、ダドリーの炭鉱で、トマス・ニューコメン の発明した蒸気機関が実用化されました[59]。それまでは人間や馬などを動力源に行っていた炭鉱の排水作業を、機械で代替したのです。

 ニューコメンの発明は、17世紀の「科学革命」の延長線上にあります。

 ガリレオ・ガリレイは、吸引ポンプで水を吸い上げても、約8・5メートル以上は吸い上げられないことに気づきました。水柱の上に「真空」が現れることを発見したのです。ガリレオの秘書であるエヴァンジェリスタトリチェリ は、水の代わりに水銀を用いて、世界初の大気圧計を発明しました。それから半世紀ほど後の1690年、フランス人のドニ・パパン が、蒸気を用いて大気圧から動力を取り出す方法を考察した論文を発表しました。また1698年にはイギリス・デヴォンの技師トマス・セイヴァリ が火力による排水ポンプの特許を出願しました[60][61]。ニューコメンは、パパンとセイヴァリのアイディアを土台として実用的な蒸気機関を発明したのです。

 ニューコメンの蒸気機関は「低圧」のものでした。

 まず(ボイラーとは別に設けられた)シリンダーに蒸気を吹き込み、そこに水をかけて冷却すると、蒸気が水に戻るのでシリンダー内は真空に近い状態になります。すると、周囲の大気圧によってピストンが押し下げられるという仕組みです。ここでシリンダーの弁を開けば、大気が吸い込まれて真空状態が解消され、ピストンは元の位置に戻ります。

 とはいえ、これは燃費が劣悪でした。

 ピストンが1回往復するごとに、シリンダーに蒸気を吹き込んで熱し、水をかけて冷却する必要があったからです。この加熱・冷却により、熱エネルギーの大半が無駄になっていました。最初期には、1馬力1時間あたり約20・4キログラムもの燃料を必要としたのです[62]。売り物にならないくず炭を格安で入手できる炭鉱の近くでなければ、とても採算が取れませんでした。そして当時、そんな炭鉱の町が存在するのは世界でイギリスだけでした。

 1769年、ジェームズ・ワット が改良型蒸気機関の特許を取得しました。ワットのアイディアは、シリンダーを直接冷やすのではなく、シリンダーとは別の凝縮器へと蒸気を引き込んで、そこで蒸気を水に戻すことで真空状態を得るというものでした。彼にはこのアイディアを実現する資金がなかったため、実用化は1776年にずれ込みました。ワットにより蒸気機関の燃費は劇的に改善しました。燃料を50%~75%も削減できたのです[63][64]

※ニューコメンの蒸気機関も改良により燃費が改善していたため、いつの時代のものと比べるかによって数字に幅がある。ニューコメンの蒸気機関が1馬力1時間あたりに消費する燃料は、1760年までに約20・4キログラムから約13・6キログラムまで減っていた。さらにワットと同時代のジョン・スミートンにより、1772年までに約8キログラムまで減った。一方、ワットの蒸気機関は完成直後の1778年の時点で、1馬力1時間あたり約4キログラムの石炭しか消費しなかった。

 ワットの改良により、蒸気機関は幅広い産業で利用しやすいものになりました。水力や風力は立地条件が限られ、また、稼働状況は天候に左右されます。ワットの蒸気機関は、歴史上、人類が初めて手に入れた筋肉以外の汎用動力だったのです。18世紀末の時点で蒸気機関が最も普及していたのはバーミンガムで、製鉄所、醸造所、製粉所、その他の様々な工場で利用されていました[65]

 ニューコメンの蒸気機関にせよ、ワットの蒸気機関にせよ、蒸気の役割はシリンダー内を真空に近づけることです。ピストンを動かす力は、大気圧でした。もしも高圧の蒸気をシリンダーに吹き込んで、その蒸気圧でピストンを動かすことができれば、よりわずかな燃料でより高い出力を得られるはずでした。機関そのものも小型化できるはずでした。ところが、これには危険が伴いました。高圧の蒸気でも爆発しない頑丈なシリンダーが必要であり、かつ、皮膚が溶けるほど高温の蒸気の流れを完璧に制御する必要があったのです。

 この「高圧」の蒸気機関を実用化したのが、リチャード・トレシヴィック です[66]。世紀の変わり目ごろに高圧蒸気機関を発明した彼は、早くも1801年のクリスマスに、それを車両に取り付けて動かしました。この「パフィング・デヴィル号」こそ、世界初の蒸気動力の乗り物でした。さらに彼は1804年、ウェールズに16キロメートルの線路を敷設し、ペナダレン溶鉱炉と近くの運河を鉄道で結びました。時速8キロメートルで、10トンの鉄と70人の人間を輸送することに成功したのです。1808年にはロンドンで、1人5シリングの料金で「蒸気馬車」に客を乗せて楽しませるところまで行きました[67]

 ここから鉄道の歴史が始まるのですが――。

 その前に、近代のイギリスにおける「運河ブーム」に触れておきましょう。

 

 鉄道が普及するまで、最も安価かつ高速の貨物輸送手段は船でした。

 中世の時点で、徒歩の行商人が1日に25~40キロメートルしか移動できないのに対して、ライン川ポー川の船舶は1日に100~150キロメートルを移動できたとみられています。海上の帆船なら、ときには1日200キロメートルを移動することも可能でした[68]。水上輸送は、徒歩や馬車とは比較にならないほど効率的だったのです。だからこそヴェネチアアムステルダム、大阪、そしてもちろんロンドンなど、歴史的に商業の中心だった都市の多くで運河網が整備されたのです。

 産業革命により、イギリスでは物流が活発になりました。それはとりもなおさず、運河の需要拡大を意味していました。運河を掘って通行料を徴収するビジネスが儲かるようになったのです。

 1758年から1803年の間に、イギリスでは165本の運河法案が議会に提出されました[69](※当時のイギリスでは自由に株式会社を設立できず、企業が株式を発行して資金調達するには議会の承認と国王の特許状が必要だった[70]。)。単純計算で、毎年3本以上の運河開削が計画されていたことになります。この運河ブームは19世紀半ばまで続きました。

 鉄道は、こうした時代背景の中で産声を上げたのです。

 

 

 

鉄道の時代

 1801年~1821年の間に、イギリスでは14社の鉄道会社が特許を取得しました[71]。これら最初期の鉄道会社は、運河と同様、レールを敷設して通行料をとるビジネスモデルでした。

 イギリスでは16世紀末ごろから、貨物用に馬車軌道が利用されていました[72]。貨車を木製や鉄製のレールの上で馬に牽引させると、摩擦が大幅に減るので、より少数の馬でより重たい貨物を運べるのです。しかしナポレオン戦争により馬不足および馬の飼料高騰が深刻化した結果、馬の代わりに蒸気機関で貨車を動かすというアイディアが真剣に検討されるようになりました[73][74]

 この時代には多数の技師が様々な蒸気機関車を試作しました。中でもジョージ・スティーヴンソン は「鉄道の父」と称されています。貧しい炭鉱の町に生まれ、読み書きすらできなかった彼は、しかし1814年、33歳のときに「ブリュハー号」という蒸気機関車の走行に成功しました[75]

 1821年、ストックトンダーリントン鉄道が特許を取得。この会社は、自社で蒸気機関車を所有することを決意し、1825年に世界初の鉄道運営会社として開業しました[76]。このときに導入されたのが、スティーヴンソンの「ロコモーション号」です。9月27日の初走行ではスティーヴンソン自身が運転士を務め、11両以上の石炭の貨車と、乗客を満載した20両の無蓋貨車を牽引しました[77]蒸気機関車は、馬よりもはるかにパワフルだったのです。

 さらに、産業都市マンチェスター港湾都市リヴァプールを結ぶ大規模な鉄道計画が持ち上がりました。この路線で使われる機関車を決めるため、ランカシャーのレインヒルでレースが開催されました。スティーヴンソンは傑作「ロケット号」で、このレースに勝利。ロケット号は時速50キロメートルで走行可能で、重たい貨物を牽引した状態でも、100キロメートルの距離を平均時速22キロメートルで走破する性能を持っていました[78]

 1830年9月15日に開通したリヴァプールマンチェスター鉄道は、あらゆる点で画期的でした。最初から蒸気機関車の導入が前提だっただけでなく、かつてない規模の長距離のレールを敷設し、人口密集地を繫いで旅客輸送を行ったからです。なお、同区間を結んでいた運河会社は、この鉄道の開業に猛反発しました。しかし彼らの反対を押し切った結果、運河なら片道36時間かかる所要時間は5時間に短縮され、運賃は3分の1になりました[79]

 1836年には、ロンドンで初の鉄道が開通し、労働者の多い工業地区であるバーモンジーと、デプトフォード、グリニッジを結びました。さらに1837年にはロンドン&バーミンガム鉄道が開通しました[80]

 ダーウィンがロンドンで新婚生活を楽しんでいた1840年ごろには、イギリス国内だけでも3000キロメートル以上の鉄道網が整備されていました[81]。先述の通り、1840年代は「鉄道狂時代」とも呼ばれ、イギリスやアメリカで鉄道網が燎原(りょうげん)の火のごとく広がり、それは19世紀半ばには西ヨーロッパにも波及していきました。『種の起源』の出版から3年と数ヶ月後の1863年には、世界初の地下鉄がロンドンのファリンドン‐パディントン間で開通しました[82]

 こうして鉄道は、日常生活になくてはならない存在になったのです。

 

 

(次回、「革命のその後」編に続く)

(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第11回です)

★お知らせ★
 この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

 

 

※※※参考文献※※※

[1] A.デズモンド、J.ムーア『ダーウィン 世界を変えたナチュラリストの一生』(工作舎、1999年)上P.262
[2] デズモンド、ムーア(1999年)上 P.385
[3] ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(河出書房新社、2016年)下巻P.186
[4] ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』(日経ビジネス人文庫、2015年)上巻P.307-308
[5] ノルベルト・オーラー『中世の旅』(法政大学出版局、1989年)P.139-146
[6] 鉄道コム「新橋~横浜間、開業時の鉄道の足跡をたどる」(https://www.tetsudo.com/special/report/20180909/)、東京都公文図書館「資料解説~鉄道開業と人々の暮らし」(https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0703kaidoku12_2.htm
[7] バーンスタイン(2015年)上巻P.19
[8] グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』(日経BP社、2009年)下巻P.24-28
[9] ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』(ハヤカワ文庫、2016年)上巻P.301-302
[10] バーンスタイン(2015年)下巻P.85-86
[11] クラーク(2009年)上巻P.222-223
[12] マッシモ・リヴィ-バッチ『⼈⼝の世界史』(東洋経済新報社、2014年)P.48-54
[13] ボッカッチョ『デカメロン』(平川祐弘訳、河出文庫、2012年)上巻P.18-19
[14] ボッカッチョ(2012年)上巻P.26
[15] ボッカッチョ(2012年)上巻P.27
[16] リヴィ-バッチ(2014年)P.48
[17] アセモグル、ロビンソン(2016年)上巻P.176
[18] クラーク(2009年)上巻P.171
[19] R.C.アレン『世界史のなかの産業革命 資源・人的資本・グローバル経済』(名古屋大学出版会、2017年)P.21
[20] アレン(2017年)P.123-124
[21] アレン(2017年)P.20-21
[22] アレン(2017年)P.124
[23] 高槻泰郎『大阪堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書、2018年)P.165
[24] 高槻(2018年)P.167-168
[25] アレン(2017年)P.68-69
[26] アレン(2017年)P.68
[27] アレン(2017年)P.19
[28] マージョリー・シェファー『胡椒 暴虐の世界史』(白水社、2015年)P.37
[29] シェファー(2015年)P.63
[30] 小林幸雄イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)P.110-126
[31] ティモシー・ワインガード『蚊が歴史をつくった 世界史で暗躍する人類最大の敵』(青土社、2023年)P.199-200
[32] トム・スタンデージ『世界を変えた6つの飲物 ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語るもうひとつの世界史』(インターシフト、2007年)P.206
[33] スタンデージ(2007年)P.210
[34] アレン(2017年)P.14-45、P.148
[35] クラーク(2009年)上巻P.114
[36] アレン(2017年)P.47-49
[37] ウルリケ・ヘルマン『資本の世界史 資本主義はなぜ危機に陥ってばかりいるのか』(太田出版、2015年)P.40
[38] ヘルマン(2015年)P.36
[39] アレン(2017年)P.98
[40] アレン(2017年)P.108
[41] アレン(2017年)P.92
[42] アレン(2017年)P.103-104
[43] ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房、2019年)P.50-51
[44] アレン(2017年)P.98-100
[45] アレン(2017年)P.105-106
[46] アレン(2017年)P.109、P119
[47] アレン(2017年)P.93
[48] サイモン・フォーティー産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新』(原書房、2019年)P.19
[49] アレン(2017年)P.217
[50] アレン(2017年)P.219
[51] アレン(2017年)P.218
[52] アレン(2017年)P.221
[53] アレン(2017年)P.222
[54] アレン(2017年)P.228-229
[55] フォーティー(2019年)P.36-37
[56] アレン(2017年)P.235-236
[57] フォーティー(2019年)P.55
[58] アレン(2017年)P.236-237
[59] アレン(2017年)P.177-178
[60] アレン(2017年)P.179-180、
[61] フォーティー(2019年)P.14-15
[62] アレン(2017年)P.186
[63] アレン(2017年)P.188-189、
[64] マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ『科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱』(東京書籍、2011年)P.162-163
[65] モーズリー、リンチ(2011年)P.163
[66] モーズリー、リンチ(2011年)P.167
[67] バーンスタイン(2015年)上巻P.304
[68] オーラー(1989年)P.142
[69] 板谷敏彦『金融の世界史 バブルと戦争と株式市場』(新潮選書、2013年)P.143
[70] 中野常男、清水泰洋『近代会計史入門』(同文館出版、2014年)P.177
[71] 板谷(2013年)P.146
[72] フォーティー(2019年)P.25
[73] バーンスタイン(2015年)上巻P.305、
[74] フォーティー(2019年)P.96
[75] バーンスタイン(2015年)上巻P.304-305
[76] 板谷(2013年)P.146-147
[77] フォーティー(2019年)P.113
[78] バーンスタイン(2015年)上巻P.306-307
[79] 板谷(2013年)P.147
[80] アレックス・ワーナー、トニー・ウィリアムズ『写真で見る ヴィクトリア朝ロンドンの都市と生活』(原書房、2013年)P.185
[81] バーンスタイン(2015年)上巻P.307
[82] ワーナー、ウィリアムズ(2013年)P.187