デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

150年前のラノベ作家・ディケンズ/『二都物語』感想

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr



長く愛される物語には、理由がある。現生人類が誕生してから20万年、しかし文明が起こってからは数千年しか経っていない。100年前、200年前など、つい昨日のことにすぎない。こんなわずかな期間でヒトの脳が変質するとは考えにくい。ヒトがよろこぶ物語には共通の構造があり、長く愛される物語はその構造を継承しているのだ。


二都物語 (上巻) (新潮文庫)

二都物語 (上巻) (新潮文庫)


チャールズ・ディケンズ二都物語』は、そんな物語の一つだ。初版は1859年刊、じつに150年以上前の小説だ。にもかかわらず、まったく古さを感じない。むしろ「新しさ」に驚かされる。現代のエンタメ小説にも共通する要素が、これでもかと詰め込まれているからだ。





たとえば文章は、きわめて映像的な描写が重ねられている。
二都物語』は18世紀後半、真夜中の峠道を駅馬車が進むシーンから始まる。ロンドンからドーバーに向かう馬車だ。当時のイギリスは極めて治安が悪く、人里離れた山中で賊に襲われることなど日常茶飯事だった。ときには乗客に賊が紛れ込んで、仲間を手引きすることもあった。だから客たちはお互いに目を合わさず、言葉も交わさずに馬車に揺られていた。
と、その時、遠くから早馬の足音が聞こえてくる。
いったい何者だろう。御者は馬車を止めて、ラッパ銃をかまえる。車内に緊張が走る――。
まるで映画のようなシーンから長大な物語は始まる。このときの乗客の1人がミスター・ロリーという老紳士で、物語の主要人物だ。彼は、早馬の乗り手から「ドーバーでマドモワゼルを待て」という伝言を預かる。どんな意味の伝言なのだろう?と興味を引かれながら、読者は続きを読み進めることになる。
この冒頭部分だけでなく、全編を通じて映像的な文章が積み重ねられている。18世紀後半のロンドンの町並み、革命前夜のパリのスラム街、貴族たちと一般市民との生活の対比……。それらが生々しい情景として読者の目の前に浮かび上がる。映画が爆発的に発展したのは20世紀に入ってからだ。1850年代にこれほど視覚的な表現が使われていたことに驚嘆する。



また、登場人物は「キャラ立ち」が重視されている。
世の中には、青白い顔をした童貞青年の懊悩を書き連ねることが「人物を描く」ことだと考えている人がいるらしい。たしかにブンガクの世界では、そうなのかもしれない。しかしエンターテインメントにおいては違う。キャラクターの1人ひとりの性格が際立っていて、ウィットとユーモアに満ちた会話の応酬をすること。キャラクターが立っていること。そういう人物の描き方が求められる。
そしてディケンズの「キャラクターの立て方」は一級品だ。
恥ずかしながら私は横文字の名前が苦手だ。登場人物の一覧を片手にしなければ翻訳作品を読めないタイプの人間である。しかし、『二都物語』では違った。キャラクターの性格がハッキリしているため、セリフを読むだけで誰の発言なのか判断できる。口調や発言の内容から、登場人物の区別がつく。キャラクターが立っているのだ。
全体的な雰囲気は、一昔前の少女マンガっぽい。美しく純情な少女ルーシー・マネットが、様々なタイプのイケメンや紳士たちから愛されて、ちやほやされまくる。18世紀ロンドンのブルジョアの生活に、うっとりすること間違いなし。この空気感を楽しめるかどうかで、『二都物語』の評価はがらりと変わるだろう。



さらに「伏線→回収」の流れが多用されて、「サスペンス/ミステリー/サプライズ」が効果的に使用されている。これらは現代の映画脚本やエンタメ小説にも通じる技法だ。
「伏線→回収」については、あまり説明しなくてもいいだろう。
物語のなかであらかじめ登場させた情報を、後からもう一度思い出させる方法だ。これにより読者を驚かせたり、物語に説得力を与えたりできる。たとえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、「両親のなれそめは高校時代の父が母の家の前で車にひかれたことだった」と序盤に語られる。これが伏線になり、三十年前にタイムスリップした主人公マーティが(父の代わりに)自動車にひかれたことで、「高校時代の母が将来の息子に惚れてしまう」という物語に説得力を与えている。
「サスペンス/ミステリー/サプライズ」は映画脚本の構成要素だ。たしかヒッチコックが提唱していた。ような気がする。
たとえば「読者が知っていることを登場人物が知らない」と、そのお話はサスペンスになる。殺人鬼が潜んでいる山小屋に登場人物が近づいていけば、読者は心の中で叫ぶはすだ:「その山小屋に入ったらダメだ!」 読者の情報量>登場人物の情報量 となるとき、物語にはサスペンスが生じる。『二都物語』の場合なら、「フランス革命が起きる」「1789年7月14日にバスティーユ監獄が襲撃される」といった情報を読者は知っている。しかし、登場人物たちは誰一人として知らない。この情報の差が物語全体に適度なサスペンスを与えている。
反対に、読者の知らないことを登場人物が知っている場合、そのお話はミステリーになる。ホームズにせよ金田一にせよ、世の中の名探偵たちは解決篇まで推理の過程を明かさない。彼らの気づいている情報が読者に提示されないからこそ、興味が刺激されて続きを読みたくなる。読者の情報量<登場人物の情報量 となるとき、物語にミステリーが生じる。『二都物語』の場合にも、読者をあきさせない工夫としてミステリーがふんだんに使用されている。
サプライズとは、言葉どおり「驚き」のことだ。すでに登場している情報に新たな一面が加えられた場合、読者は驚く。たとえば遠い宇宙の果ての猿の惑星が、じつは地球だったという一面が明らかになると観客は驚く。主人公のサポート役だったはずのヤスが、じつは犯人だったという一面が明かされるとプレイヤーは驚く。ミステリー小説の謎解きシーンはサプライズの連続だ。「新たな一面」の説得力が強ければ強いほど、驚きは大きくなり、快感になる。『二都物語』はサプライズの要素も充分だ。とくに終盤では何度も「どっひゃぁ〜」と驚かされた。



19世紀の文壇は芸術至上的で、ディケンズは通俗作家として批判されていたらしい。たしかにプロット展開には偶然に頼った強引な部分があるし、キャラクター造形はリアリティよりも「面白さ」を優先している。さらに分冊販売(小説を何巻かに分けて発売し、読者の反応を見てストーリーを変えていく売り方)をしていたため、ストーリーがご都合主義的になりがちだった。このあたりは現代日本のライトノベルにそっくりだ。文壇のエリートたちではなく、大衆からの圧倒的支持を得た作家:それがチャールズ・ディケンズだった。
ディケンズの作品を読めば、時代を超えて愛される物語の基本が学べるかもしれない。







オリバー・ツイスト〈上〉 (新潮文庫)

オリバー・ツイスト〈上〉 (新潮文庫)

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

デイヴィッド・コパフィールド〈1〉 (岩波文庫)

デイヴィッド・コパフィールド〈1〉 (岩波文庫)

大いなる遺産 (上巻) (新潮文庫)

大いなる遺産 (上巻) (新潮文庫)

定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈上〉