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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

インターネットの夢と現実

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インターネット時代

 ネットスケープが株式上場し、『Windows 95』が発売されてから、約30年が経ちました。この30年間は、まだ歴史を語れる状況ではないと思います。時代が最近すぎて、何が重要なできごとなのか取捨選択できないからです。

 たとえば1999年に登場した『iモード[41]』は、その後の『EZweb』や『J-SKY』とともに、ゼロ年代の日本人にとって重要なインフラでした。しかし、それが世界の歴史の中でどのような位置づけになるのか、まだ分かりません。かつてのフランスの『ミニテル』と同様、ちょっとした挿話程度になってしまうかもしれません。

 もしも読者のみなさんの記憶に鮮やかな事件を網羅しようとすれば、1年ごとに最低でも10ページほど必要になり、本がもう1冊書けてしまうでしょう。

 

 とはいえ、主要なウェブサービスやアプリがいつから始まったのか、駆け足で振り返っておいてもいいでしょう。メモ書き程度になってしまうことを、どうかご容赦ください。

 インターネット上でどのような商売が儲かるのか、真っ先に「正解」にたどり着いた人物はジェフ・ベゾスをおいて他にいません。現実の店舗に比べて、オンラインショップには無限と呼べるほど広い棚を用意できます。どんなニッチな商品でも店頭に並べておけるのです。1995年7月、『Amazon』がオンライン書店としてサービスを開始しました(なお、日本版「Amazon.co.jp」が開設されたのは2000年でした[42])。また同年、『eBay』の前身となるオークションサイトもサービスを開始しました。

(※2024年の現在では、オンライン店舗の棚も有限だという認識になったと私は感じる。現実の店舗に比べれば極端に広いものの、それでも無限ではない。たとえばトップページの限られたサムネイルの枠を奪い合うことになる。)

Netflix』は1997年設立です。忘れがちですが、当初は〝レンタルビデオ版のAmazon〟とでも呼ぶべきビジネスを展開していました。どんなニッチな作品のDVDでも揃っていることが強みだったのです。Netflixが現在のような映像作品のストリーミング・サービスを開始したのは、2007年からです[43]

Google』の歴史も1997年に始まりました。この年の9月、スタンフォード大学ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンが「google.stanford.edu」を開設したのです。2人は翌1998年にGoogle社を設立[44]。後世に与えた影響の広さと大きさを考えれば、インターネットの歴史上、WWWの開発に次ぐ大事件だと言えるかもしれません。

 1998年には『PayPal』と『Yahoo!オークション』がサービスを開始。後者は翌年、日本に上陸しました。

 1999年には『2ちゃんねる』が開設。これは、素性を隠して自由に発言できる場所を用意したら人間はどのように行動するのかを試す、社会実験装置だったと私は感じます。バズ(当時は「祭り」と呼ばれました)や炎上、誹謗中傷・脅迫、リークなど、20年後のSNSで起きる現象の多くは2ちゃんねるでも起きていました。のちの『4chan』や『Reddit』の誕生にも影響を与えました。(※4chanは2003年、Redditは2005年開設。)

 2001年1月、ジミー・ウェールズが『Wikipedia』を開設しました[45]。ここに来てようやく、ブッシュの「メメックス」の構想が実現したといえるでしょう。

 2004年、『Skype』がサービス開始。大学生だった私は「ついに未来が実現した」と感じました。同級生の中には、外国語をネイティヴスピーカーから直接教わる人もいました。職種にもよりますが、Skypeさえあれば世界中どこでも職場にできます。自分が大学を卒業する頃には在宅勤務が当たり前になり、満員電車は過去の遺物になるだろうと当時の私は夢想しました。(※その予想が実現するのは16年後のコロナ禍を待たなければならなかった。多少はマシになったものの、東京の殺人的な満員電車はいまだに解消されていない。)

 2005年には『YouTube』が登場。これは、高速回線がいかに短期間で普及したのかを示しています。わずか数年で、jpeg画像を読み込むだけでも何秒も待たなければいけない時代から、インターネットで映像を楽しめる時代に変わってしまったのです。

 

 日本のインターネット・ユーザーにとって、2008年は特別な年です。

 まず「iPhone3G」が発売されて、スマートフォンの時代が幕を開けました(※初代iPhoneは前年2007年発売だが、日本では購入できなかった。)。といはえNTTドコモのモバイル社会研究所によれば、スマートフォンの普及率は2010年で4・4%でした。2015年に50%を超え、2021年にようやく90%を超えました[46]スマートフォンが行き渡るのに10年以上かかったことになります。

 2008年は、『Facebook』と『Twitter』の日本語版が相次いで公開された年でもあります。前者は2004年にサービス開始。当初は学生だけを対象とするSNSでしたが、2006年に一般公開されました。日本では2010年の映画『ソーシャル・ネットワーク』をきっかけに知名度が急上昇したと私は記憶しています。また、後者は2006年にはサービスを開始していました。

 さらに2008年には『Google Chromeブラウザ』がリリースされました。軽くて扱いやすいこのブラウザ・ソフトが、長らく支配的な立場だった『インターネット・エクスプローラー』の牙城を崩していくことになります。

 2010年に『Instagram』、2011年に『LINE』、2013年に『メルカリ』がそれぞれリリースされました。この辺りのアプリがリリースされてから10年以上経過していることに、時の流れの速さを感じます。

 現在人気のSNSで比較的最近リリースされたものでは、2016年の『TikTok』があげられます。これは、デバイスの性能と世間の流行が切り離せないことを示す好例でしょう。スマートフォンの静止画カメラが充分に高性能になったときにInstagramが生まれ、動画カメラと編集機能が充分に高性能になったときにTikTokが生まれたわけです(※何をもって「充分」と呼ぶかは難しいが。)

 2020年、コロナ禍により在宅勤務が一般化し、オンライン会議アプリ『Zoom』がにわかに注目を集めました。歴史は意外と古く2012年リリースです。また、その競合であるマイクロソフトの『Teams』やGoogleの『Meet』を利用する機会も、私の場合は増えました。どちらも2017年リリースです(※Google Meetの前身は2013年リリースのGoogle Hangouts。)。さらに、外出自粛下の娯楽として友人とオンラインゲームで遊ぶ機会が増えましたが、通話には私は『Discord』を使っています。こちらは2015年リリースです。

 

 

 

そして「現在」へ

 以前の記事で私は、コンピューターを「人類にできることを効率よくできるようにした発明」だと書きました。しかし、これは少し修正が必要でしょう。

 たとえばENIACは24時間の天気予報を計算するのに、ほぼ24時間かかりました[47]

「ある1日のための予報は、その1日よりもある程度短い時間で行われない限り、実際には世の中で何の役にも立たない」と、ENIACの開発者ゴールドスタインは述べています。逆に言えば、充分に正確で高速になった計算機は「それ以前には全く不可能であったことを可能にする」と。

 これはちょうど、投石や弓矢などの遠距離攻撃の手段が進歩し続けた結果、ミサイルが生まれ、やがて人類を月面に送ったり、GPS用の人工衛星を飛ばしたりできるようになったことに似ているでしょう。

 コンピューターが可能にしたのは、天気予報どころではありませんでした。

 インターネットという、文字や活版印刷に匹敵する技術革新をもたらしたのです。

 

 1600万年前から始まった本連載もようやく「現在」までたどり着きました。

 この原稿を書いている2024年がどういう時代なのか、まとめておきましょう。ここでは「技術」と「文化」という2つの側面から私見を述べます。技術の面では、現在は「次のデバイスを待っている時代」と言えるでしょう。また、文化の面では、残念ながら「魔女狩りの時代」になっていると感じます。

 技術の側面から見れば、最近数回の記事における計算機の歴史を振り返るだけでも、デバイスの変化がそのままパラダイムシフトに繫がっていたことが分かります。

(※パラダイムとは、ある時代に支配的なものの見方、考え方のこと。その急激な変化をパラダイムシフトと呼ぶ。以前の記事で紹介した天動説から地動説への変化は、典型的なパラダイムシフトの1つである)

 たとえば「コンピューター」という単語は、もともとは人間の「計算手」を意味していました。しかしタービュレイティング・マシンや電子計算機が生まれると、仕事のありようは大きく変わりました。すべての計算を人間が行う時代から、その大半を計算機に任せて、人間は結果を確認するだけの時代へとシフトしたのです。

 同様のことは、すべてのメッセージが飛脚や郵便馬車によって運ばれていた時代から、電報で送付できるようになった時代にも起きました。さらに電報から、電話や無線へ。広場での演説やホールでの演奏から、ラジオの放送へ。デバイスの進歩は、情報伝達の方法を変えただけではありません。情報伝達に対する私たちの考え方・価値観そのものを変えました。

 あるいは、メインフレーム・コンピューターの時代からパソコンの時代へ。

 CUIの時代から、GUIの時代へ。

 固定電話の時代から、携帯電話の時代へ。

 パソコンの時代から、スマートフォンの時代へ。

 デバイスが進歩するたびに、商業や教育、文化が変わり、私たちの世界観そのものが変化を迫られました。同じことは、時代を過去にさかのぼっても当てはまります。新たなデバイスが普及するたびに、人類の歴史も変わりました。そもそも歯を「石器」に、消化酵素の一部を「火」に置き換えたところから、人類の歴史は始まったのです。

 

 2022年5月、ニューヨークで最後の公衆電話が撤去されました[48]

 これは1つの時代の終焉を意味すると同時に、現在がどういう時代なのかを象徴するニュースでしょう。誰もがスマートフォンを身に着け、24時間ずっと高速回線に接続している――。『ニューロマンサー』のようなサイバーパンク小説で描かれた世界が、ついに現実になったのです。

 では、スマートフォンの次にはどんなデバイスが現れるのでしょうか?

 それを待っているのが、2024年の現在だと私は思います。

 iPhone 3Gの登場から16年、そろそろ「次」が出てきてもおかしくありません。

 たとえばそれは、アップルの「Vision Pro」のようなARゴーグルかもしれません。たしかに今のVision Proは、大きく重く、不便そうに思えます。爆発的に普及するところなど、今は想像しづらいでしょう。しかし、まったく同じことを2007年に初代iPhoneを見たときにも感じた人は多いはずです。あるいは肩掛け鞄サイズの最初期の携帯電話を見たときに、大半の人は絶対に普及しないと感じたはずです。Vision Proがテレビアニメ『電脳コイル』で描かれたような薄くて軽いメガネになるまでに、もはや秒読み段階に入っていると私は考えています(もちろん薄く軽くなったからといって、普及するかどうかは別問題なのですが)。

 

 

 

インターネットが与えた希望

 続いて「文化」の側面に目を向けましょう。

 2024年という現在は、残念ながら「魔女狩りの時代」になってしまったと私は感じています。

 かつてコンピューター・ネットワークは、人々をより自由で平等にすると考えられていました。活版印刷が教会による知識の独占を破壊したように、情報技術は知識の民主化をもたらし、人々の交流と団結、協働を活性化し、より豊かな社会を実現できるはず――。そんなユートピアを想像する人が珍しくありませんでした。たとえばディーン・R・クーンツが1987年に発表した小説『ウォッチャーズ』には、登場人物の1人がコンピューター・テクノロジーについて次のように評するシーンがあります。

 

 この恐ろしく流動的なハイテク社会に暮らす市民たちを、独裁政府がどうやって支配できると思う? ハイテクが浸透するのをふせぐただ1つの道は、国境を封鎖し、完全にひと昔前の暮らしにもどることだ。しかしどこの国でもそんなまねをするのは自殺行為でしかない。国家レベルの競争力をもちつづけられないからね。(中略)ソヴィエトはコンピューターの利用を国防産業だけに限定しているが、どのみちこれは長続きしない。いずれ経済全体をコンピューター化し、国民にコンピューターのつかいかたをおしえざるをえなくなる――そうして市民がシステムを操作し、権力の裏をかく手段をあたえられたとき、政府が締め付けを強化するようなことがどうしてできる?

(ディーン・R・クーンツ『ウォッチャーズ』
〔文春文庫、1993年)下巻P.146〕

 

 この小説が書かれたのはワールド・ワイド・ウェブの登場以前、『Windows 2.0』がリリースされた頃です。コンピューター・テクノロジーに対して、牧歌的とすらいえるポジティブな見解が述べられています(ついでに言えば「ソヴィエト」が存在していることにも時代を感じます)。

 実際、インターネットには政治を変える力がありました。

 それを実証した第一人者はバラク・オバマ元大統領でしょう。彼はマイスペースFacebookなどのSNSを活用した選挙活動を展開して2008年の大統領選挙で当選しました。

 2010年には「アラブの春」と呼ばれる一連の政治騒乱が起きました。発端は、チュニジアで1人の青年が焼身自殺したことです。これをきっかけに、北アフリカや中東を中心に、世界中に抗議行動が広がったのです。チュニジア、エジプト、リビア、イエメンでは、独裁政権が倒されるところまでいきました(※リビア、イエメンではそのまま内戦に発展した。)。これらの国々でもすでに携帯電話は充分行き渡っており、人々はTwitterFacebookで集会やデモの情報を共有していました。

 これに触発されて、2011年にはアメリカで「ウォールストリートを占拠せよ」運動が起きました。この運動がどれほどの政治的影響を持っていたのかは議論の余地があります。が、多数の人間をあっという間に動員できるというインターネットの力に人々は(とくに権力者や政治家は)驚かされたのです。

 この時代のできごとで私の印象に残っているのは、NATOタリバンTwitter上でケンカしていたことです[49]。双方の広報担当者がリプライを送り合って、お互いを非難していたのです。2011年11月18日にはCNNでも取り上げられました。当時の私は、これをポジティブなニュースだと捉えました。ほんの数年前まで言葉を交わすことなど想像すらしていなかった者同士が、口ゲンカをできるようになった――。対話と相互理解の第一歩であるように、当時の私の目には映りました。

 2011年は、Google翻訳が大半のスマートフォンで利用可能になった時代でもあります。私たちは「バベルの塔」を再び建設できるようになったのです。

 およそ四半世紀前に予言されたコンピューター・テクノロジーによるユートピアが、まさに実現しようとしているかに思えました。

 

 じつのところ、クーンツは私よりも冷静でした。

 先ほどのシーンの続きで、未来の世界は「楽園じゃない」と登場人物に言わせているのです。

 昔よりも住みやすく、豊かで、安全で、幸福になるとは思う。でも楽園にはならない。いつになっても、人間の心の問題と、そして人間の頭に巣食う病気とはついてまわるだろう。そして新しい世界はわれわれに幸福と同様、新しい危険ももたらさずにはおかない。

 とはいえ、抽象的でフワッとしたセリフです。これが1987年の限界でした。インターネットに災いをもたらす「人間の心の問題」とは、どんなものなのか? 「新しい危険」とは具体的にどのような危険なのか? この時点では(クーンツの並外れた想像力をもってしても)まだよく分からなかったのです。

 

 

 

人間の心の問題

 私がテクノロジーの未来に希望を抱いていた頃、インターネットのルールが変わり、新しいゲームが始まっていました。2009年にFacebookが「いいね」ボタンを実装。さらに同年、Twitterは「リツイート」ボタンを実装し、2010年初頭には日本語版でも利用可能になりました。同様の機能は、あらゆるSNSに瞬く間に広がっていきました。「バイラル」や「バズ」が起きることをSNSの運営会社は歓迎し、システムとして後押ししたのです。

 社会心理学者ジョナサン・ハイトは、このような現在のSNSのシステムを「最も過剰に倫理を振りかざし、また思慮深さから最も遠い一面を我々から引き出すよう、ほぼ完璧に設計されている」と評しています[50] 。要するにリツイート機能は、エコーチェンバー現象を促して、人々に「派閥争い」をするように仕向け、社会を対立・分断に導くというのです。

 どういうことでしょうか?

 SNS上では、過激な意見の持ち主が「同志」を簡単に見つけられます。たとえば1万人に1人の「変わった意見の持ち主」がいるとしましょう。その人は「ズンドコベロンチョが好きだ」と考えていたとしましょう。

(※ズンドコベロンチョという文字列に意味はない。「ほにゃらら」や英語の「bla bla bla」のようなものである。出典は1991年放映の『世にも奇妙な物語』収録の短編テレビドラマで、インターネット・スラングになった。)

 SNSのない世界では、その人が仲間を見つけるのは簡単ではありません。周囲の人々の「ズンドコベロンチョは忌まわしい」「ズンドコベロンチョを好きになるなんて非倫理的だ」という意見を目にして、再考するチャンスもたくさんあるはずです。たとえ「ズンドコベロンチョが好き」という意見を捨てなかったとしても、周囲との軋轢を避けるために、バランスの取れた言動をしたでしょう。周囲の人にもズンドコベロンチョを好きになってもらうためにはどうすればいいか、真剣に考えたはずです。

 ところがSNSのある世界では違います。

 たとえ1万人に1人の変わった意見でも、日本のTwitter(現X)の月間アクティブユーザー数はざっくり5000万人もいるのです。あっという間に5000人の同志を見つけて、お互いに「いいね」や「リツイート(現リポスト)」を送り合うことが可能になります。

 すると、違う意見の人々からの理解を得ることよりも、身内から拍手喝采されることを優先するようになってしまうのです。

ズンドコベロンチョの良いところを紹介したいから話を聞いてくれ」ではなく、

ズンドコベロンチョが嫌いだなんて頭がおかしい」

「まともな人ならズンドコベロンチョを好きなはずだ」

「正しいのは私たちだ」と叫ぶようになってしまうのです。

 

 そして「バズる」という現象そのものが、この状況を加速します。

 たとえば、あなたが「ズンドコベロンチョが好きだ」と書いて炎上したとしましょう。引用リツイート(現リポスト)で「ズンドコベロンチョなど好きになってはいけない」と批判されたとしましょう。

 その投稿のインプレッションが100万だとして、99万9900人は批判者に賛同するはずです。なぜなら、ズンドコベロンチョが好きな人は1万人に1人しかいないからです。しかし、どれだけ炎上してもインプレッションが伸びた=人の目に触れたことには意味があります。(批判者ではなく)あなたに賛同する同志が、100人は見ているはずだからです。

 かくして、SNS上で派閥やクラスタが形成されていくのです。

 

 

 2016年5月21日、テキサス州ヒューストンのイスラム教ダアワセンターに2つのデモ隊が集まりました[51] 。片方は「ハート・オブ・テキサス」という排外主義的なFacebookグループ、もう片方は「ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカ」という移民の権利などに興味を持つFacebookグループです。彼らは武器を携行し、プラカードを掲げ、警官隊の頭ごしに怒鳴り合い、やがて疲れて帰宅しました。ここまではアメリカの日常風景でした。

 問題は、この2つのFacebookグループが、どちらもロシア・サンクトペテルブルクの情報工作組織インターネット・リサーチ・エージェンシー社の手で開設されたものだったということです。

 同社は2013年から、ジャーナリズムや広報の経験がある人材を千人単位でトレーニングして、インターネットの世論工作に動員してきました。彼らの手で作られた500以上のFacebookグループのうち、大成功した事例が「ハート・オブ・テキサス」と「ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカ」だったのです。前者のメンバーは25万人、後者のそれは30万人を数えました。

 2016年にはイギリスの欧州連合離脱(Brexit)を左右する国民投票が行われました。結果は僅差で、離脱が決まりました。ここでも投票の直前に、ロシアから離脱を促す投稿やフェイクニュースが投稿されていたことが疑われています。

 

 こうした逸話を聞いたときに、ロシアを悪者にするのは簡単です。

 情報工作に踊らされる人々を、バカだと笑うのも簡単です。

 しかし、私が問題にしたいのはそんなことではありません。

 私が議論したいのは「なぜ人類はこんなにも単純にSNSに操られてしまうのか」です。

 外国の情報工作組織など関与していなくても、SNS上では日夜「炎上」が起きています。3日おきぐらいに「今日の怒るべき対象」が選ばれて、私たちは寄ってたかって叩きのめしています。ダアワセンターの前に集まったデモ隊の人々は、決して特別な人々ではないし、底抜けのバカでもありません。彼らは私であり、あなたなのです。

 炎上に巻き込まれて自殺に追い込まれた人も、すでに1人や2人ではありません。

 痛ましいニュースの数々を、読者のあなたも思い出せるはずです。ちょっとしたイタズラや失言が原因で、学校や職場を追われて人生をめちゃくちゃにされてしまった人々もいます。

 SNSで怒りをぶちまけているとき、私たちは理性的な判断力を失います。「自分は正義の側に立っている」と信じたときが一番危険です。「悪」と「嫌い」の区別がつかなくなり、雀を撃つのに大砲を使うべきではないという比例原則のことも忘れてしまいます。犯した罪に見合わない無制限の罰を与えたくなってしまうのです。暴力は正義感の不足ではなく、むしろその過剰によってもたらされるのです。

 炎上は人間を殺しうるものだということを、私たちはそろそろ学ぶべきでしょう。怒りに駆られて罵倒を並べたくなっても、投稿ボタンを押す前にひと息ついて考えるべきでしょう。

「自分は今、人を殺そうとしているのかもしれない」と。

 自分を〝正義の味方〟だと思い込むのはやめましょう。

(※私は罵倒をやめようと書いているのであって、批判するなと書いているわけではない。罵倒と批判の違いは重要である。)

 

 2021年1月6日、アメリカのホワイトハウスは、トランプ元大統領の支持者を中心とする暴徒によって襲撃を受けました。襲撃参加者のうち4名と警察官1名が死亡し、多数の負傷者が出ました。

 ドナルド・トランプは、バラク・オバマのさらに上をいくSNSの達人だったと私は考えています。何をもって「SNSが上手い」と見做すのかは難しいのですが――。少なくとも「SNSでどんな話題がウケるのか」「SNSのユーザーに行動を促すには何を言えばいいのか」について、トランプは抜群のセンスを持っていました。

 どうやらインターネットは人々のパニックを増幅して、過激な言動へと走らせる装置になってしまったようです。

 歴史研究家でジャーナリストのニーアル・ファーガソンは、2017年に発表した『スクエア・アンド・タワー』の中で次のように述べています。

 

 世界中の人をインターネットに接続させれば、サイバースペースでは誰もが平等となるネット市民のユートピアを創り出せるという考えは、常に幻想だった。マルティン・ルターの「万人祭司」のビジョンが幻想だったのとちょうど同じように。現実には、グローバルなネットワークは、あらゆる種類の熱狂やパニックの伝達メカニズムとなっており、それは印刷と識字能力が組み合わさったことで、千年王国説を信じる宗派や魔女狩りが一時期大流行したのと同じだ。(中略)政治的暴力のレベルが高まることも、アメリカや、ことによるとヨーロッパの一部でも想像できそうだ。

ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー ネットワークが創り変えた世界』〔東洋経済新報社、2019年〕下巻P.347-348)

 

 まるで、4年後にホワイトハウス襲撃事件が起きることを知っていたかのような書きぶりです。

 活版印刷の発明と識字能力の向上は、知識の民主化を進めただけではありません。パニックの伝達も高速化・過激化させました。それらが近世の魔女狩りの要因の1つとなったと、ファーガソンは指摘しています。炎上が頻発する2024年のSNSの光景は、たしかにその時代に似ているのかもしれません。

 現在のインターネットは、魔女狩りの時代になってしまいました。

 これこそクーンツの予言した「人間の心の問題」であり、「新しい危険」の1つでしょう。

 

 それでも歴史を振り返れば、未来に希望を抱くこともできます。

 なぜなら、魔女狩りの時代のあとに18世紀の「人権革命」が起きたことを、私たちは知っているからです。識字率の向上と書簡体小説のブームをきっかけに、私たちは他人の痛みへの想像力を養いました。魔女狩りはもちろん、残虐な拷問や身体刑すら過去のものにできました。神や宇宙人といった上位存在に命じられたわけではなく、私たち人類は自分自身の手で、自分自身の行動を変えることに成功したのです。

 インターネットの「魔女狩りの時代」もいつか終わるはずです。

 私たち1人ひとりが少しずつ賢くなるだけで、終わらせることができるはずです。

 たとえば「この怒りは自分自身の怒りではない、SNSのアルゴリズム怒らされているにすぎない」と自覚するだけでも、あなたの行動は大きく変わるでしょう。

 現在のSNSは、アルゴリズムによってユーザーの怒りを増幅します。あなたがズンドコベロンチョを好きだとしましょう。あなたのタイムラインに「ズンドコベロンチョは最悪だ」という投稿が流れてきたとしましょう。あなたはイラッとして、反論を書き込んでしまうかもしれません。すると、SNSのアルゴリズムは「ズンドコベロンチョの話題を表示すれば、このユーザーは反応する」と学習します。そしてあなたのタイムラインには、反ズンドコベロンチョ派の投稿がますます流れやすくなり、あなたの怒りはますます膨らんでいくわけです。

 SNSの運営者は、ユーザー同士の対話とリアクションを促すようなアルゴリズムを作っていると主張するでしょう。が、その一番簡単な方法の1つは、ユーザーの怒りを煽ることなのです。

 ここでもやはり、投稿ボタンを押す前に考えるべきでしょう。

「これは本当に自分の怒りなのか? アルゴリズムに踊らされているだけではないのか?」と。

 

 おそらく、魔女狩りはヒトの本能に根差した行動です。

 誰かを悪者にして、みんなで吊るし上げたい。私刑に処したい。そういう暗い願望が、私たちの脳にはプログラムされているはずです。なぜなら国家が誕生する以前の世界では、罪人を裁くには私刑に頼るしかなかったからです。義憤に駆られたとき、私たちは簡単に手続き的正義を手放してしまいます。

 それでも、魔女狩りの時代を終わらせることは不可能ではないと私は信じています。ゴールドスタインたちムーア・スクールの人々が電子計算機で「それ以前には全く不可能であったことを可能に」したように、人類の歴史は、不可能を可能にすることの連続でした。その歴史に最新の1ページを書き加えるだけです。

 この世に不変の運命などありません。

 歴史は変えられるのです。

 

 

(次回、「AIの歴史と現在」編に続く)

(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第16回です)

★お知らせ★
 この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

 


※※※参考文献※※※

[41] NTTドコモ歴史展示スクエア(http://history-s.nttdocomo.co.jp/list_imode.html
[42] アマゾンジャパンHP「アマゾンジャパンの変革」(https://amazon-press.jp/Top-Navi/About-Amazon/Milestones.html
[43] クリス・アンダーソンロングテール 「売れない商品」を宝の山に変える新戦略』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2014年)P.9
[44] Campbell-Kellyほか(2021年)P.341
[45] アンダーソン(2014年)P.102
[46] モバイル社会研究所スマートフォン比率96・3%に:2010年は約4% ここ10年で急速に「普及」(https://www.moba-ken.jp/project/mobile/20230410.html
[47] ハーマン・E・ゴールドスタイン『計算機の歴史 パスカルからノイマンまで』(共立出版、2016年復刊版/初版1979年)P.164-165
[48] AFP通信「米NY最後の公衆電話を撤去『スーパーマン』も使用」(https://www.afpbb.com/articles/-/3406547
[49] CNN, Twitter is new battleground for NATO and Taliban in Afghanistan(https://edition.cnn.com/2011/11/18/world/asia/afghanistan-twitter-war/index.html
[50] COURRIER JAPAN「ジョナサン・ハイトが解き明かす『アメリカ社会がこの10年で桁外れにバカになった理由』」(https://courrier.jp/news/archives/290872/
(原典)WHY THE PAST 10 YEARS OF AMERICAN LIFE HAVE BEEN UNIQUELY STUPID
https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2022/05/social-media-democracy-trust-babel/629369/
[51] ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を支配する』(東洋経済新報社、2022年)P.98-101