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ウソは銃よりも強いのだ!/映画『アルゴ』感想

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そうだよ、私はこういう映画を観たかったんだよ!




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映画『アルゴ』は一言でいえば「人質を助けるためにニセモノのSF映画をでっちあげる」というお話。

1979年11月、革命直後のイランで米国大使館が襲撃された。革命政府の支援を受けたイスラム法学校の学生たちが、職員ら52名を人質に大使館を占拠した。駐イラン米国大使館人質事件だ。
ところが、大使館職員のうち6名が襲撃直後に脱出、テヘランにあるカナダ大使の私邸に逃げ込んでいた。もしも革命軍が彼らのことを知れば、アメリカの不誠実さの象徴として公開処刑されてしまうだろう。そこで米国政府は6名の救出を試みる。
主人公のCIA工作員トニー・メンデスは、6名を映画のロケハンスタッフに身分偽装させて脱出させる作戦を立てる。そのためにハリウッドに飛び、ニセモノの映画企画をでっちあげるのだが……。


「まるで映画のような実話」を映画にしちゃった作品。ニセモノの映画を作るシーンのコミカルさとは対照的に、クライマックスシーンでは手に汗握りっぱなしだった。



アメリカ目線の作品だが、最近のハリウッドの傾向を反映して「アメリカ万歳!」という雰囲気はあまり無い。なぜイランで反米意識が高まってしまったのか映画の冒頭で解説されているし、占拠中に米国国内で起きたヘイトクライムの様子も描かれている。(※1)
主人公トニー・メンデスは間違いなくヒーローだ。が、スーパーマンではないしアベンジャーズでもない。疲れた表情で淡々と仕事をこなす職業人として描かれている。

"Is it your real name?"
"No"

……というシーンが切ない。CIA職員といえども公務員であり、お役人さんだ。だからこそ彼らが職や立場を逸脱して本音を爆発させたとき、観客は心を揺さぶられる。
たぶんこの作品は、“組織”や“国家”という大きな力に、小さな個人が立ち向かっていく物語なのだ。
1980年は、まだ“国家”が強大な力を持っていた時代だ。 (※ソ連崩壊が1991年)主人公にとって、イランもアメリカも面倒くさい仕事を押しつけてくるやっかいな存在でしかない。どちらに正義があるか? なんて問わず、粛々と仕事を進めるだけ。おい、待て。この映画もしかしたらアメリカ人より日本のサラリーマンのほうが感動できるんじゃねーか?
ある意味では、この作品は“地に足のついた『ダークナイト』”なのかも。ブルース・ウェインがいなくなってから世界は悪いニュースばかりだ。

"Do you really believe your little story is going to make a difference when there is a gun to our heads?"
"I think my story is the only thing between you and a gun to your head."

ウソをつくのは悪いことかも知れないけれど、ウソの力を信じてみたくなる。
そんな作品だった。





(※参考)


アルゴ/クソ映画に、命をかけて。 ‐映画感想 * FRAGILE
http://fragile.mdma.boo.jp/?eid=1065581









     ◆以下、ネタバレ含む◆









以前、榎本憲男さん(@chimumu)がこんなツイートをつぶやいていた。

【サスペンスとはなにか】ヒッチコックがいうサスペンスのキモは「観客に知らせておく」ことだ。サプライズは知らされないで不意討ちされること。ミステリーは最後に知らされて「なるほど」となること。サスペンスは知っているためにハラハラすることである。観客の情報量>登場人物の情報量 となる。

@chimumu

そして『アルゴ』については、次のような感想をつぶやいていらっしゃる。

『アルゴ』観てきた。俺にはこの映画は面白かった。それで、「映画芸術」の荒井晴彦寺脇研対談もいま読んだ。寺脇研の批判はアメリカの醜い自画自賛だということにあり、一方、荒井晴彦は人間の描き方が薄い、サスペンスが弱いの2点。両者ともに反米の立場だが批判の論拠が若干異なる。

@chimumu

【アルゴ】結末がわかっているし、ハラハラドキドキしないぞと荒井晴彦が批判しているのだが、結末がわかっていても俺は相当にハラハラドキドキしたという事実がある。大抵のひとは俺と同じように反応すると思う。

@chimumu

「ハラハラどきどきさせること」に脚本家は全力を注いだはずだ。史実にもとづいたお話は、どうしても結末が分かってしまう。それでも観客を飽きさせないために、脚本家はハラハラドキドキさせるための――つまりサスペンスを生じさせるためのテクニックを山ほど注ぎ込んだ。脚本はクリス・テリオって人か。覚えておこう。
で、その狙いはみごとに成功している。最初に書いたとおり私は手に汗を握って、緊張感でなんども息が止まりそうになった。主人公は一発も銃を撃たないし、人はムダに死なない。それでも、こんなにメリハリのあるサスペンスを作れるのだ。革命軍の急進派が飛行機を追いかけるシーンでは(そこまでするか?)ってツッコミを入れたくなったほど。離陸してイランの領空から出るまで緊張感が途切れない。1秒でも長く楽しませようとするサービス精神旺盛な演出だ。

【観客の情報量】 > 【登場人物の情報量】

この不等式が成り立つとき、物語にはサスペンスが生まれる。また逆の場合にはミステリーが生じる。電位差が電流を生じさせるように、“情報量の差”がエネルギーとなって、物語を前へ前へと押し流すのだ。
このことを踏まえて『アルゴ』を思い返すと、脚本の巧みさに驚かされる。クライマックスを盛り上げるために、いくつもの伏線が張り巡らされている。ミステリー好きにとっては、伏線というとサプライズを生じさせるものだと思い込みがちだ。が、実際にはサスペンスを生じさせる等、様々な使い道がある。伏線を張ることで、観客と登場人物との情報量の差を押し広げることができる。そして、伏線を畳み掛けるように回収していくときに、サスペンスとカタルシスが生じるのだ。

【観客の情報量】 = 【登場人物の情報量】

物語の結末では、以上の等式が成り立つ。
電位差が解消されると電流が止まるように、情報量の差が無くなると物語は止まる。逆にいえば、あえて情報量の差を残すことで物語に余韻を与えることもできるだろう。






その他、この映画で気になった点:
◆30年経つと「過去」になるんだなぁ……。
→映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では1985年を“現代”として描いていたのに対し、この映画では1980年当時の社会風俗を“過去”のものとして、つまり時代劇として描いている。BTTFでは1955年が“過去”だったように、30年以上前の出来事は“時代劇”になってしまうのだろう。
→電話機の受話器が丸っこくて、くるくるコードが可愛い。1979年にはすでにダイヤル式じゃなくてプッシュフォン (※死語!)だったのか。
→ちなみに我が家では1978年に購入した電話機を95年まで使っていた。数年おきにケータイを買い替える現代では考えられないよね。
→この丸っこい受話器でお互いを指さしながら仕事をこなすCIAのみなさんがカッコいい。デカすぎるメガネも、謎の口ひげもカッコいい。あれ? 70年代末〜80年代初頭ってめちゃくちゃオシャンティーじゃね?
→ま、美化された80年代なのだろう。でも、物質的な豊かさが頂点に達した(達しようとしている)時代だったのは確かだ。この映画の後、80年代の後半に入ると世界は情報化の時代に突入していく。
テヘランのケンタッキー・フライド・チキン
→主人公がイラン入りした直後、KFCで食事をするイランの人々が映し出される。
→食肉加工に厳しい戒律のあるイスラム圏では、鶏肉に人気があるらしい。日本人が魚を食べるように、中東の人々はチキンをよく食べる、らしい。この話が本当だとしたら、KFCがイランで人気でもおかしくない。
→そういえば反日暴動のときも、北京のユニクロはふつうに営業していた。国際関係が最悪なときでも、その国で暮らす一般人にとっては関係ないんだよな。
→こういうのを見るたびに、橙乃ままれ先生のWEB小説『まおゆう』の一節を思い出す:

魔王「信じている」
青年商人「わたしの……我ら人間の、何を信じると言うのです?」
魔王「損得勘定は我らの共通の言葉であることを。それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」

→要するに世の中カネがすべてってことか? うちのケイリさんなら、「おカネだけが世界平和を実現できるのよっ!」とか言いそう。
→映画を観終わってからどうしてもケンタが食べたくなって、チキン4ピース+ポテトを完食。これがサブリミナル効果か……(違
→おかげで今、めっちゃ胃がもたれている。





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(※1)ちなみに監督・主演のベン・アフレックは次のように述べている。

僕は教訓を伝えるために映画を作ったわけではないし、政治信条を伝えるための映画でもない。だから、どちらの立場もとっていない。映画を見終わった後、できれば観客同士で話しあって、自分なりの考えを導き出してもらいたいと思っている。

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