デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

映画『ビッグ・フィッシュ』の主人公は、じつは私たち観客だった!

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【ネタバレ注意!】
読みたいと思いながら、なかなか読めずにいる本のことを「積ん読(つんどく)」というらしい。映画でもそれは当てはまる。「すごい傑作だ!お前も観ろ!」と言われていながら、なかなか見られない映画がある。今年のゴールデンウィークは、そういった積み映画を消化することに費やした。ツタヤに貢献しまくりだZE!





この映画、間違いなく初めて見るはずなのに、ものすごい既視感があった。ティム=バートンの映画は非常に個性的(悪く言えばどれもよく似ている)ので、既視感もへったくれも無い。映像の面では、「ああ、やっぱりこの監督さんの映画だな。妙に落ち着いているけれど」という印象だった。「ティム=バートンらしい絵」を見せる映画ならば、他にもっと適切な作品がある。そもそも『ビッグ・フィッシュ』は、絵を見せる映画ではない。私が既視感を覚えたのは、映像に対してではない。ストーリーに対してだ。



【あらすじ】
死期の迫った父親が、自らの人生をファンタジーテイストたっぷりに語る。息子は父のホラ話が嫌いで、数年来、絶縁状態だった。久しぶりに帰省した実家で父親の話を聞くうちに、ホラ話の中に組み込まれた真実に気づく。


【感想】
入院先の病院で、おとぎ話の語り手が父親から息子へと継承される。このクライマックスシーンの盛り上がり方がハンパじゃない。それまでの伏線を一気に回収して、爽やかな感動をもたらす。



【既視感の正体】
この映画のラストで、息子は父親のおとぎ話を「受け入れる」。この部分が、私たちの姿を描いているように思える。「父と息子」の構図を「ティム=バートンと観客」という構図に当てはめてみると分かりやすい。
映画は「リアルさ」を追い求めてきた。それこそトーキーの時代から、いかにして観客を騙すかに尽力してきた。撮影技術の進歩、CGの発達によって、もはや映像化できないものは無くなったと言っても過言ではないだろう。ひたすらリアルな映像を、作れるようになった。
ティム=バートンの作風は、この流れに逆行するものだと私は感じている。卓越した映像技術を用いて、あえて非現実的なものを映しだす。それが彼の作品だ。
非現実的なモチーフのなかに真実を映しだそうとする姿勢は、おとぎ話で人生を語る父親の姿と重なる。
ティム=バートンの映像を初めて見た人は、大抵、その異様さに圧倒される。嫌悪感を覚える人も少なくないだろう。けれど2作、3作と彼の作品を見ていくうちに、それに慣れてくる。現実離れした雰囲気を楽しめるようになる。こういう「観客側の変化」は、おとぎ話を受け入れた「息子の変化」と重なる。


このような私自身の変化が、主人公の変化と重なって見えたため、既視感につながった。
私たちの親が青春を過ごしたのは、30年〜40年ほど前だ。それだけ時間が離れると、当時の話は、もはや私たちにはフィクションのように聞こえる。三億円事件だとか、浅間山荘だとか、70年安保だとか、御巣鷹山の事件、地下鉄サリン事件etc......911も同じだ。たった十年前の出来事でさえ、もはや物語となってしまう。
私たちの親は、物語の中を生きてきた。それを理解することが、自分たちの親を理解するということだ。この映画には、そういった普遍的なテーマも含まれている。この普遍性が多くの観客に感動を与えるのだろう。