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All You Need Is Killでハリウッドにありがとう

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All You Need Is Kill』を見てきた。日本のライトノベルが原作の映画だ。ハリウッドにありがとうしないといけない作品だと思った。
原作を最大限にリスペクトしながら、間口の広い娯楽大作に仕上げていた。小説の映像化では「原作とどちらがいいか?」と議論になりがちだ。が、本作では甲乙つけがたい。もしも原作の舞台が日本ではなくヨーロッパだったら? もしも主人公が新兵ではなく転落した将校だったら?そんな「もしも」を描いた別バージョンとして楽しめる。換骨奪胎した劣化版などではなく、「これは間違いなく『All You Need Is Kill』だ」と断言できるすばらしい作品だった。












※以下、ネタバレだらけ。
※未見の人は「戻る」ボタンを今すぐクリック!








1.大人も子供も楽しめる
ライトノベルの映像化は、ややマニアックな層を対象にしたものになりがちだ。深夜アニメや単館上映の映画が多く、ファンには嬉しいが間口は狭い。
ところが『All You Need Is Kill』は違う。
世界中の劇場で上映され、将来的には週末のゴールデンタイムにテレビで放映されるような、そんな映画として作られている。プレティーンの男の子が、父親と一緒に見に来る映画かもしれない。ローティーンのカップルが初めてのデートで見る映画かもしれない。とにかく間口が広いのだ。
だから『スターシップトゥルーパーズ』のようなゴア表現はないし、気まずくなるようなセックスシーンもない。原作では四肢断裂など残虐なシーンも珍しくないのだが、映画版では血しぶきの上がるシーンはほとんどなかった。
また主人公ケイジの設定変更も面白い。原作では「新兵」だったが、映画版では「転落した将校」になっている。トム・クルーズをキャスティングするという必要から生じた設定変更かも知れないが、主人公の年齢が上がったことで人間的な「柔らかさ」が出ていた。
想像してほしい。もしも10代の男があんな過酷な経験をしたら、血も涙もない大人になってしまいそうだ。原作のケイジは新兵で、人間的に未熟な状態から残酷な運命に立ち向かっていく。だから妥協の余地のない人物へと成長していき、原作はあの結末にせざるをえなかったのだろう。
一方、映画のケイジは年を重ねており、充分な人間的経験をしている。だから過酷な経験をくぐり抜けても「人間らしさ」を失わず、柔軟さを残したままでいられる。その結果、原作のようなビターエンドを回避できたのかもしれない。ハッピーエンドはご都合主義にしないための説得力が重要だ。ケイジの年齢は、説得力を増すための一要素だった。
さらに舞台がヨーロッパで、ギタイの侵略はドイツから始まる。言うまでもなく、これは第二次世界大戦ナチスを連想させる。ケイジが何度も死ぬ砂浜は、いわばノルマンディーなのだ。歴史的な味付けをすることで、プレティーンの息子と一緒に見に来たお父さんにも「深読みする楽しさ」を提供している。
映画版『All You Need Is Kill』は世界中の様々な人が見る作品として、間口を広げる努力を重ねている。
ハリウッド大作はこうでなくては。




2.原作からの改悪(?)部分
では何も文句は無かったのか?
はっきり言って、私にはほとんど文句のつけどころが見つからなかった。エンディングテロップが終わって劇場が明るくなった瞬間、ため息とともに「あ〜面白かった!」と言葉が漏れたほどだ。だからこれから書くことは、自分のなかの「原作厨」な部分を掘り起こして、無理やりひねり出したものだ。
まず、リタの無双があまり見られないこと。これはちょっと残念だった。
原作ではリタの突出した強さが魅力の一つだった。死と紙一重の戦場で、リタが登場した瞬間の安心感と言ったら! 鬼神のごとく戦ってギタイを倒すリタと、なす術もなく殺される主人公の対比が原作では強調されていた。
一方、映画版では、むしろリタの死ぬシーンが強調されている。これは「大切な人が死ぬところを300回も見た」というリタのセリフを印象づけるための工夫だ。同じ日を繰り返す悲しさを表現することには成功したが、反面、リタがあまり強そうに見えないという副作用を生んでしまった。もしもディレクターズカット完全版があるなら、リタの無双シーンを見せてほしい。
また、中盤でのケイジの心の動きもよく分からない。
1人でギタイに立ち向かうことにしたケイジは、なぜ心を変えてリタとの共闘を選ぶのだろう。同じ日を繰り返して強くなったケイジは、ついに砂浜を抜け出すことに成功する。内陸の納屋までたどり着けるようになる。しかし、どうしてもそこでリタを死なせてしまうことを学ぶ。ケイジはリタとの共闘を諦め、1人でオメガを倒しに向かう。強力な決意がなければできないことだ。
ところがオメガの罠に気づいたケイジは、あっさりこの決意を覆してしまう。リタとともに博士のもとに行って、本当のオメガの位置を探す方法を教わる──という展開だ。
この部分のケイジの心変わりが、一度見ただけではよく分からなかった。私が見落としているだけかも知れないので、2周目には注意して見ようと思う。
なお、一緒に見に行った友人は「俺のシャスタ・レイルを出せよぉぉ……眼鏡っ娘を出せよぉぉぉ……」とギタイのような顔で嘆いていた。




3.原作を発展させた部分
もちろん原作から失われたものばかりではない。加えられたものもたくさんあるし、そのほとんどすべてが映画を面白くする方向に機能していた。先ほどの「間口を広げる」という話ともつながるが、原作を発展させた部分についても書いておこう。
たとえば主人公の性格が前向きなこと。
映画版のケイジはパワードスーツを着たことがない。が、碇シンジのように「こんなの動かせるわけないよ!」とは泣かない。「安全装置の外し方を教えてくれ!」と叫ぶのだ。戦う気まんまんである。ギタイから逃げるのではなく、立ち向かおうとしている。
また脱走を企てるタイミングも遅い。
手元に書籍がないので確かめられないのだが、原作ではたしか3周目ぐらいのループで基地から脱走していたはずだ。しかし映画版のケイジは前向きな性格をしているので、何度も戦おうとして、何度も殺されて、ようやく「逃げよう!」と考える。
脱走後のシーンは原作の寂寞とした雰囲気も捨てがたいが、映画版のほうが私の好みだった。
原作では、脱走したケイジはひと気のない海岸でギタイと遭遇する。逃げ場のなさや孤独感を際ただせるシーンになっていた。一方、映画版では、テムズ川を泡立てながらギタイの群れがロンドンに押し寄せてくる。ああ地球がヤバイ、人類が滅亡しちゃう!とスケールの大きな絶望感を味わえる。
また、監視の目を盗んで重要な施設に潜入するシーンがある。まるでメタルギアソリッドのやり込みプレイのように、見張り兵士の行動を覚えればどんな場所にも忍び込めるのだ。原作やマンガ版でも、いちばん面白さを感じるシーンだった。『All You Need Is Kill』を特徴づけるシーンと言ってもいいだろう。
もちろん映画版にも、このシーンは健在だ。
しかも原作よりも潜入の難易度が上がっている。原作では基地内の整備施設に、ケイジ一人で忍び込んでいた。一方、映画版では政府の重要施設に、リタと二人で忍び込むのだ。リタと一緒に行動させることで「やりこみ」のすごさが増していた。
極めつけは、クライマックス直前でケイジが「力」を失うことだ。
小説ならば主人公の内面を描けるので、「死に続ける毎日なんて絶対にイヤだ!」と読者は感じられる。必死にループから脱出しようとするケイジに素直に感情移入できる。
しかし映画ではそうはいかない。死んでも必ずループできるなら、強大な敵に立ち向かう緊張感が生まれない。むしろ永遠に遊べる時間を手に入れたんだから、好き勝手にやったらどうなの?と思ってしまう。そう、『恋はデジャ・ブ』のように──。
だからこそ、クライマックスに入る前にケイジは「力」を失わなければならないのだ。まさに背水の陣、一発勝負でオメガとの最終決戦に挑むことになる。ああ、これぞハリウッド映画だよ!万歳!
考えすぎかもしれないが、「ケイジの『力』を失わせる」という展開には、ハッピーエンドの説得力を増す効果があるのではないだろうか。
もしもケイジが力を失わず、最後までタイムループの能力を活かして敵を倒したとしよう。すると、敵を倒したのはケイジのおかげなのか、ギタイの能力のおかげなのか、分からなくなってしまう。他人のふんどしで相撲を取るようなものだ。人類はギタイを倒したけど、それって人類の底力じゃなくてギタイのおかげじゃないの……?
心にモヤッとしたものが残るので、これはハッピーエンドには適さない。
ハリウッド的なハッピーエンドを目指すなら、ギタイの力を借りるのではなく、最後は人類の実力だけで勝負しなければならないのだ。
クライマックス直前でケイジは「力」を失った。だからケイジがオメガを倒したのは、ギタイのおかげではない。人類の力、人類の可能性によって、ケイジはオメガを倒したのだ。「力」を失わせるという思い切った改変により、人類讃歌っぽいテーマを持たせることにも成功した。



     ◆



「タイムループもの」の歴史は古い。
たとえば『黄粱の夢』はタイムループものの一種と見なせるが、古代中国・唐の時代の物語だ。また若返って人生をやり直すというテーマは、ゲーテの『ファウスト』ですでに見られる。
映画なら1946年に『素晴らしき哉、人生!』という傑作が製作されている。この映画のクライマックスには「もしも主人公が生まれなかったら?」という「もしもの世界」が描かれており、タイムループものの面白さを先取りしている。『素晴らしき哉、人生!』は後年の娯楽映画に多大な影響をあたえ、たとえば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズにはオマージュとしか思えないシーンが含まれている。
映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は1984年、ケン・グリムウッドの小説『リプレイ』は1987年、先述の『恋はデジャ・ブ』は1993年の作品だ。タイムループというテーマは最近の日本のマンガ・アニメ・ゲームでは好んで用いられており、『ひぐらしのなく頃に』や『Steins; Gate』など枚挙にいとまがない。「タイムループもの」だと明かすこと自体がネタバレになる場合も多いので、ちょっと紹介に困る。
では『All You Need Is Kill』の独創性はどこにあるのだろう。
この作品は「タイムループもの」であるだけでなく、「アクションゲームっぽさ」も特徴の一つだ。すでに書いたとおり、メタルギア・ソリッドのやり込みプレイ動画を見ているような面白さがある。原作者があとがきでテレビゲームについて触れており、「負けるたびにリセットしてやり直す」という経験が影響しているのは間違いない。
ところが、コンピューターゲームのような小説にも膨大な数の先行作品がある。
たとえばアーサー・C・クラークの『都市と星』は1956年の小説だが、すでにヴァーチャルリアリティの世界に没入してアドベンチャーゲームを遊ぶというシーンが書かれている。日本のSF小説なら、岡嶋二人クラインの壷』が外せない。1989年の作品だ。2002年には『.hack』プロジェクトがスタートしている。『ソードアート・オンライン』のWEB連載が始まったのも2002年だった。2004年の『All You Need Is Kill』よりもやや先行していた。
All You Need Is Kill』は「タイムループもの」と「アクションゲームっぽさ」を絶妙の配合で混ぜ合わせている。この配合のバランス感覚こそが、本作のいちばん独創的な部分だろう。作品のコアになっているアイディアと言ってもいい。
映画版『All You Need Is Kill』は、原作の物語に膨大な変更を加えている。しかし、コアのアイディアには手を付けていない。むしろよりたくさんの観客を喜ばせる方向に役立てていた。換骨奪胎の逆だ。骨と内臓を残したまま、肉と皮を貼り替えているのだ。だからこそ、どんなに見た目が変わっても「これは間違いなく『All You Need Is Kill』だ」と断言できるのだ。
映像化としては大成功の部類だろう。
ハリウッドにありがとうと言いたい。





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