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誰かの失敗を、人は「悪」と呼ぶ/映画『ダークナイト・ライジング』感想

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 クリストファー・ノーラン監督はハリウッド映画の“お約束”をあまり守らない。脚本も映像もとにかく情報量が多く、一昔前なら“観客に対して不親切”と評されただろう。しかし情報量の多さが観客たちを映像世界へと巻き込んでいき、さらに上映時間は2時間30分ぐらいあるのが普通。(※『ダークナイト・ライジング』は何とたっぷり2時間45分)見終わった後には、長編小説を一晩で読み明かした時のような心地よい酩酊感が残る。

The Dark Knight Rises: The Official Novelization (Movie Tie-In Edition)

The Dark Knight Rises: The Official Novelization (Movie Tie-In Edition)

 前作『ダークナイト』では、「正義」が「狂気」と紙一重であることを描いた。今作『ダークナイト・ライジング』では「悪」の正体を暴き出し、これからを生きる私たちの闇と希望を描いている。新しい時代の価値観・思想を反映した素晴らしい映画だった。
 例によってネタバレだらけの感想を書きます。未見の方は「戻る」ボタンをクリック!








    ↓ネタバレまで「5」↓








    ↓ネタバレまで「4」↓







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    ↓ネタバレまで「2」↓







    ↓ネタバレまで「1」↓







1.リアルとリアリティ
ダークナイト・ライジング』には脚本上の瑕疵がいくつも指摘されている。代表的なものをあげれば、たとえばインドの地下監獄から脱出したあと、どのようにゴッサム・シティまで戻ったのか分からない。無一文でカラダ一つ、簡単に戻れるとは思わないのだが……という批判が寄せられている。「カネ持ちだから隠し財産や極秘協力者がいたんだよ」という擁護的な意見も目にした。この他にも各登場人物の治癒能力が高すぎるとか、敵役の動機と行動がブレているとか、一言でいえば「現実味がない」という批判がとても多い。
(※こうした批判の一部には同意できる。たとえば「タイムリミットが迫っているのにチューしてんじゃねーよリア充爆発しろ!」という意見には大いにうなずく。ハリウッドの“お約束”だね)
 現実的ではないから、大人の観るに耐える映画ではない――?
 ちょっと待て、そもそも「現実的」って何だよ。
 これ映画じゃん!
 フィクションじゃん!
 現実味もなにも、そもそも最初から最後まで作り話じゃん!
 軽々しくこういう批判をする人は、「リアル」と「リアリティ」について真剣に考えたことがないのだろう。たとえばヴィクトリア朝時代のイギリスのメイドたちをマンガに描くとして、登場人物たちのセリフは何語で書かれるだろう。日本のマンガなら当然、日本語になるはずだ。吹替え映画に対して「こいつらが日本語を喋るわけないだろ!」とキレる人はいない。

エマ (1) (Beam comix)

エマ (1) (Beam comix)

 リアリズムを追求すると、フィクションを作る意味がなくなる。現実は小説よりも奇なり。リアリズムを求める限り、フィクションはドキュメンタリーに太刀打ちできない。フィクションは「嘘」を通じて、現実世界の真実を抽出するものだ。リアルである必要はないのだ。
 しかし、最低限の「リアリティ」は必要になる。
 たとえばヴィクトリア朝時代のイギリスのメイドたちが(たとえば生ゴミのにおいを嗅いで)「まるで納豆みたい」と言ったらどうだろう。その時代のイギリス人が納豆を知っているの? という疑問が読者の心に芽生えて、一気に醒めてしまう。物語世界が崩壊してしまう。読者たちは「日本語を話す」という現実離れした状況を受け入れているにもかかわらず、「納豆を知っている」ことを見過ごしてくれない。なぜなら「リアリティ」がないからだ。
 フィクションは「リアル」である必要はない。が、「リアリティ」は必要だ。
 そして「リアリティ」の尺度は人によって違う。これが話をややこしする。たとえばある人にとっては(※たとえば日本語のように)見逃せる「嘘」であっても、他の人にとっては「納豆」のように鼻についてしまう。そういう場合が少なくない。よくあるのは軍事オタクのツッコミだろう。映画を盛り上げるという演出上の都合から「乱射シーン」を撮ったとしよう。ほとんどの観客は、監督の思惑どおり大喜びをする。しかし一部の軍事事情に詳しい人々からは「訓練された特殊部隊があんなムダ撃ちをするはずがない」というツッコミが入る。「乱射シーン」は多くの観客にとっては「日本語的な嘘」だが、知識のある人にとっては「納豆的な嘘」になってしまう。
 同じことが『ダークナイト・ライジング』にも言える。
 この作品には様々な脚本上の瑕疵がある。現実にはあり得ないことが次々に起こる。(※そもそもあんな形の乗り物が安定した飛行をできるとは思えない)しかし、それらの「嘘」に騙されてこそ、映画ではないか。うまく騙されることができなかった人を責めるつもりはない。だが、ちょっと損していると思う。大人になるって哀しいことだ。イエスが湖上を歩いたこと、モーセが海を切り開いたこと……それらが「現実的ではない」という理由から批判されることはない。なぜなら、大事なのはそれらの物語が「意味するもの」であって、「現実的であるかどうか」は二の次だからだ。現実的に考えてヤマタノオロチなんているわけないが、それでスサノオの物語の価値が落ちるわけではない。


2.英雄の物語
 古くはギルガメッシュ叙事詩の時代から、英雄の物語には共通のプロットがある。すなわち「旅立ち → 成就 → 帰還」だ。英雄は何らかの必要に駆られて、住み慣れた場所を追われる。そして天に昇り、あるいは地の底を旅して、尋常ならざる存在と触れ、その力を手に入れる。そして「力」を手に、ふるさとへと帰還する。これが世界中の神話・説話でくり返し語られてきた「物語の基本形」だ。「行きて帰りし」と呼ばれることもある。日本の童話ならば「桃太郎」がこの基本プロットを踏襲しているし、スターウォーズドラゴンボールもワンピースも、みんな同じ構造を持っている。
 この観点から見ると、『ダークナイト・ライジング』はブルース・ウェインの「行きて帰りし」の物語だと気づかされる。むしろ全編にわたって、神話的な要素がちりばめられている。前作『ダークナイト』が現実に立脚したクライム・ムービー風に作られていたのに対して、今作では神話的な象徴化・戯画化が行われている。
(※反面、大胆な戯画化のせいで「現実的でない」という批判を招いた)

 まず物語の開始時点で、主人公は隠遁生活を送っている。外に出る理由がないため引きこもっているが、現状に満足しているわけではない。ブルース・ウェインはたくさんの欠損を抱えている。片足を引きずるという欠損、恋人を見殺しにしたという欠損、そしてなにより戦う場所がなくなったという欠損……。それぞれ肉体の欠損、心の欠損、存在意義の欠損だ。そんな彼を、美しい妖精(=キャットウーマンが古城の外へと導く。じつに寓話的な物語の始まりだ。
 一方、街には敵が迫っている。ベイン――強靱な肉体と冷徹な知性を備えた“最強の敵”だ。原作ファンにはおなじみのキャラだし、映画の冒頭のアクションシーンで、その大胆さ・老獪さに観客は心奪われている。極めつけは銀行強盗のシーンだ。用意周到なベインに警察は終始翻弄される。助けてくれバットマン! 街にはあんたが必要だ!
 で、バットマンは飛び出していく。8年前と同じように、義憤に駆られて。
 しかし結果として警察の捜査を攪乱することになり、ベインを取り逃がしてしまう。長い隠遁生活を終えて、たしかにバットマンは復活した。けれど彼は8年前に戻っただけなのだ。前作でジョーカーから「狂気だ」と笑われた存在に立ち返っただけで、何一つ成長していない。ブルース・ウェインは英雄としてはあまりにも未熟だ。
 その未熟さゆえ、彼はベインに敗北を喫する。
 この時点でのブルース・ウェインは「狂気」の騎士でしかない。恋人を見殺しにしたことに対する贖罪であったり、あるいは「ヒーローを必要としない時代が近づいている」ことに対する諦念かもしれない。彼は「死に急ぐ」ために無謀な戦いを挑んでいる。それを見抜いているベインは一枚も二枚も上手だ。生きることは、死ぬよりもはるかに苦しいことだと理解している。だからこそバットマンをすぐには殺さず、「ゴッサム・シティが灰になるのを見届けろ、そのあと死ぬことを許してやる」と言って地下監獄に閉じ込める。衛星中継テレビつきの監房だ。
 ベインに敗北したことで、ブルース・ウェインは住み慣れた街から旅立つ――もとい、追い出される。
 この地下監獄は、じつに神話的だ。地の底、怪物の胃の中、奈落の底……。主人公が暗く深い場所で過酷な試練をくぐり抜けるというモチーフは、世界中の神話・物語に見られる。ダンテは地獄を旅し、ヨナはクジラに飲み込まれた。しかし彼らは、深淵で新たな力を手にするのだ。ダンテは煉獄山の山頂で永遠の淑女ベアトリーチェと出会い、天界へと導かれた。クジラの胃の中で悔い改めたヨナは、吐き出されたあとニネヴェの街に神託を伝え、街の人々を救った。こうしたモチーフは、死と再生を象徴しているとも言われている。
ダークナイト・ライジング』に登場する地下監獄は、『神曲』における煉獄や、『ヨナ書』におけるクジラと同等のモノだと見なせるだろう。ブルース・ウェインはダンテやヨナと同じように、試練をくぐり抜けて“新たな力”を手に入れ、もとの世界へと復活を果たすのだ。ここでいう“もとの世界”とは:住み慣れたゴッサム・シティのことだ。物語上、重要なのは「街を追放され → 奈落をくぐり抜け → もとの街に復活する」というプロットであり、インドからアメリカまでの道程はあまり重要ではない。
 では、ブルース・ウェインは奈落の底で何を手に入れたのだろう。
 どんな新しい力を身につけて、彼は復活を果たしたのだろう。
 ブルース・ウェインは隣室の囚人から「お前は死を恐れない、それがお前の弱さだ」と指摘される。それが最後の一押しになって、彼は奈落から脱出する。
 ここが昔ながらの英雄譚と大きく違うところだ。
 普通の英雄譚なら、主人公は地の底で神秘的な力を手に入れて、ときには人間離れした存在として復活する。ところがブルース・ウェインの場合は真逆の変化を遂げる。「人間離れした狂気の存在」から、「死を恐れる普通の人間」へと成長する。そう、彼にとっての「成長」とは、どこにでもいる一人の男になることなのだ。執事のアルフレッドから何度も指摘されていたように。
(※アルフレッドは本作における“メンター”の役回りだ。オビ・ワンがルーク・スカイウォーカーの前から姿を消したように、アルフレッドは“辞職”という形でブルース・ウェインの前から立ち去る。「成長」のいちばん重要な部分はブルース・ウェイン本人が自力で成就しなければならない。監獄で助言をくれる囚人たちは、さながらヨーダだろうか)
 たしかにバットマンは、ずば抜けた能力と装備を持っている。ゴッサム・シティへ戻ったブルース・ウェインは、それらを活かして大活躍する。……のだが、街を救うのは自分一人の力では不可能だと認めてしまう。乱闘シーンでは群衆の一人となってベインと殴り合う。彼はもはや、無敵のスーパーヒーローでも狂気の騎士でもない。暴動の現場に紛れ込んだ一人の男でしかない。
 以上がブルース・ウェインの英雄譚として観た場合の『ダークナイト・ライジング』だ。しかし、これだけの物語ならば2時間45分も要らない。この作品の主人公はブルース・ウェイン一人ではない。主要な人物それぞれの物語が描かれるため、これほどの超大作になった。ゴードン、キャットウーマン、そして新米警官ジョン・ブレイク……。全員が主人公の群像劇なのだ。(※「ジョーカーとバットマンとの一騎打ち」という側面が目立った前作『ダークナイト』とは、ここが違う)


3.みんなが主人公
 なぜノーラン監督は『ダークナイト・ライジング』を群像劇風に仕上げたのだろう。そして、なぜブルース・ウェインを「一人の男」にしたのだろう。もちろんシリーズを完結させるという目的はあったはずだ。バットマンを“死なせる”のなら、「ブルース・ウェインがただの男になる」というプロットは最高のものだ。しかしそれ以上に、現代的な正義のあり方を考えた結果ではないだろうか。ノーラン監督の考える――あるいは「いま」という時代の――正義をつき詰めた結果、「たくさんの人々の物語」になったのではないか。
 正直に言おう。この映画、ベインが悪役に見えないのだ。
 もちろんやっているコトは極悪非道だし、決して擁護できるものではない。しかし、前作のジョーカーに比べて悪役としてのパンチに欠けると感じた人は多いはずだ。それもそのはず、彼は「悪の体現者」ではない。
 ジョーカーは理由も脈略もない悪を演じることで、バットマンの理由も脈略もない正義が同じ狂気の両端であることを示した。ジョーカーこそが悪の体現者だった。一方、ベインは自分の目的のために計画を練り、周到に実行し――ベイン自身の正義にしたがって行動している。ベインはゴッサム・シティの住人にとっては「悪」かもしれないが、ベインの側からすれば彼の行動は「正義」だ。教条としているものが違うだけで、バットマンもベインも正義を追求していることに違いはない。
 ベインは核爆弾を使い、街の住人すべてを人質に取る。橋や道路を爆破して、ゴッサム・シティを外部から隔絶してしまう。そして街の人々に訴える:いまこそ街を自分たちの手に取り戻すのだ、と。カネ持ちや警察による支配から、この街を解放せよ――。「住民の誰か一人が核爆弾の起爆スイッチを持っている」と言って、人々を相互監視するように仕向ける。
 なぜ、彼はこんなことをするのか:彼自身の正義にしたがっているからだ。
 この映画の周到なところは、観客に「自分はベインの側についてしまうかも知れない」と思わせるところだ。
 たとえば核爆弾によって街の支配権を確立したベインは、まず最初にブラックゲイト刑務所を襲撃する。この刑務所にはゴッサム・シティの極悪人たちが集められており、“デント法”という特別な法律で(※本来ならできるはずの)仮釈放さえも許していない。
 ところが、この“デント法”という法律自体がじつはデタラメなのだ。
 前作『ダークナイト』で、優秀な検事ハービー・デントは“トゥーフェイス”という悪人になって死んだ。警察はその事実を隠して、デントを殉死した英雄として祭り上げ、その威光によって“デント法”を成立させた。
 デタラメな法律で身柄を拘束されている人々のいる刑務所――まるでフランス革命バスティーユ監獄ではないか。そういう場所を、ベインは「街の解放」の開始地点に選ぶ。銃を持った囚人たちがぞろぞろと出てきて、自警団を組織する。
 そして次のシーンでは略奪に走る人々の様子が描かれるのだが、そこではもう一般民衆と囚人との区別ができなくなっている。



 Occupy wall streetを思い出してほしい。アメリカにおける貧困層・リベラル層の不満は、おそらく日本の私たちが想像しているよりも大きい。(もしも自分の街がベインに占拠されたら……)と想像したときに、(自分もベイン側についてしまうのではないか)と考える観客は少なくないはずだ。立場が変われば「正義」は変わる。人によっては、ベインの行動はバットマン以上に英雄的に見えるだろう。
 この作品における「悪」とは何だろう。
 民衆を扇動するベインは明らかに悪だ。しかし、彼自身が脅威なわけではない。彼の言葉に騙され、間違った判断をしてしまう一般民衆こそが最大の脅威だ。この作品で描かれる「悪」の正体は、人々の“誤った行動”である。誰かの失敗を私たちは「悪」と呼ぶ。
 しかしノーラン監督は「失敗するなんてけしからん」とは言わない。
 誰だって失敗する。失敗と一緒に――つまり「悪」と一緒に生きていくしかないのだと、ノーラン監督は訴える。
 たとえばゴードンは嘘をついて“デント法”を守り続けていた。彼の失敗であり、彼の罪だ。新米警官ジョン・ブレイクは捜査中に襲われて、うっかり相手を撃ち殺してしまう。相手の死亡を確認したあと、拳銃をまるで汚物のように投げ捨てる。彼の失敗だ。そしてキャットウーマンは根は優しい性格をしているのに、思慮の浅さから悪者に手を貸してしまう。彼女の失敗だ。この作品に登場する人々は、主人公側も敵側も「失敗する人」だらけなのだ。キャットウーマンは「失敗した過去」を――犯罪歴を消したいと渇望している。そんな彼ら・彼女らが、ブルース・ウェイン不在の街を取り返そうと奮闘する。
 ここにきて、観客は「正義」が分からなくなる。
 前作以上に正義と悪との境界があいまいであることに気づかされる。すべてのキャラクターが「悪(=失敗)」と「正義」を併せ持っているのだ。狂気の“両端”どころではない。正気の私たち一人ひとりのなかに、悪と正義は共存している――そう気づいて、愕然とする。
 さあ、大変だ。伝統的なハリウッド映画なら、勧善懲悪、悪者をぶちのめせば万事解決だった。しかし困ったことに、ぶちのめすべき「悪」が主人公たちにも、そして観客自身にもあると解ってしまった。私たちはこれから、なにを「正義」として生きていけばいいのだろう。

 ところで私は、2011年に「指導者の時代」は終わったと考えている。
 ビジネスの世界ではスティーブ・ジョブスが死んだ。指導者は「正義」の側に限らない。ムバラクが失脚し、オサマ・ビンラディンが、カダフィが、金正日が死んだ。
 かつて社会を変えるには強い指導者が必要だった。キング牧師、マハトマ・ガンディー……。指導者がいなければ人々はまとまらず、社会を変革することはできなかった。しかし2011年、エジプト革命にもジャスミン革命にも、目立った「指導者」はいなかった。人々はインターネットを使い、“匿名の個人”の力だけで世の中を変えてしまった。
 2011年に「指導者の時代」は終わり、「名も無き個人の時代」が始まった。
 たとえばナポレオンは指導者だったが、人類のために偉業をなしとげるのが英雄だとしたら、彼は英雄とは呼べない。彼は無謀な侵略を繰り返し、ヨーロッパを荒廃させた。彼のしたことはフランスのため、フランスの栄光のためでしかなかった。つまりナポレオンは“フランス”の英雄なのだ。世界が一つになろうとしている現在、ある特定の地域や国民のための英雄はもはや必要ない。
 指導者が「英雄」とは限らない。では「英雄」とは何だろう。
 英雄の条件はたった一つ:なにかのために自分を犠牲にすることだ。その「なにか」とは、たとえば民衆を救うこと、または誰かの命を救うこと、あるいは、ある思想を支えることだ。もちろん違う立場から見れば、「英雄」が自らを捧げた思想が許しがたいという場合もありうる。ある人物が「英雄」であるかどうかは、視点をどこに置くかという問題だ。祖国を守るために死んだナチスドイツの兵士は、ドイツ兵を殺すために戦地に送られたアメリカ兵と同じように英雄的だ。
 つまりベインは「英雄」なのだ。荒れ果てた監獄で、自らの身を賭して子供を守った。その行為を英雄的と呼ばずしてなんと呼べばいいだろう。
 そしてタリアは自らの思想のために生涯を使い果たした哀れな女であり、キャットウーマンは仲間のためにスラムで暮らし続けている。街を取り返そうと奮闘したゴードンは、そして子供たちを批難させようとしたジョンは、間違いなく「英雄」だ。

ジョン・ブレイク「あの囚人たちは8年間もブラックゲイト刑務所に収監されていたんですか? 仮釈放を“デント法”で拒絶されて――デント法はウソにもとづいているにもかかわらず!」
ジム・ゴードンゴッサム・シティにはヒーローが必要だった……」
ジョン・ブレイク「今ほどヒーローが必要なときはありませんよ! あなたは、あなたが守っているものすべてを裏切ったんだ……」

 ブラックゲイト刑務所を襲撃するベインたちを見ながら、ジョンとゴードンは上記のような会話をする。このシーンは、現代の「正義観」の変化を象徴しているだろう。ゴードンは古い正義を象徴するキャラクターであり、社会秩序のためなら嘘をつくことも辞さない。が、その嘘から罪悪感にさいなまれている。一方、ジョンは新しい正義の象徴だ。10年前、世界は(もしかしたら)嘘(かもしれない情報)によって戦争に突入していった。しかし現在、世界の状況は完全に変わった。こういう「正義の継承」みたいなモチーフが劇中に何度も登場して、そのたびに鳥肌が立った。ジョン・ブレイクの本名が明かされたときは拍手喝采したくなった。
 そして、これはいちばん重要なポイントだと思うのだが、彼らはどちらも作中で「英雄」として描かれている。ジョンもゴードンも、街の治安を取り戻そうと奔走する。この映画の「英雄」はバットマン一人ではない。
 英雄(hero)は、どこにでもいる。
 これこそ現代の正義観だ。私たちは「英雄」にもなれるし、同時に「悪」でもある。核融合炉が核爆弾に転用できる反面、うまく利用すれば世界中の電力をまかなえる夢のクリーンエネルギーであるように、私たち人間は清濁あわせもった存在なのだ。だからこそ失敗を乗り越えて、ときに許し合いながら、一人ひとりがヒーローになろうとする。これこそ現代の正義のあり方だ。
 ベインは英雄だ。が、タリアを愛するという最大の「失敗」を犯した。そしてタリアは“影の同盟”の思想に身を捧げたことが「失敗」だった。彼らは他人の正義に染められた存在であり、ベインにいたってはただの操り人形でしかなかった。そう判明した以上、もはやバットマンの敵ではない。ブルース・ウェインは奈落の底で「一人の男」へと成長を遂げている。でくの坊など相手ではない。だからこそベインは、あんなにあっさりと倒されてしまう。

 誰もがヒーローになれる。
 たとえば小さな男の子の肩にコートを掛けて、「世界はまだ終わりじゃない」と勇気づけてやれる――そういう簡単なことができる人でいいんだ。

 このセリフには、この作品のテーマがギュッと凝縮されている。ブルース・ウェインは、『アルマゲドン』のブルース・ウィリスのようなヒーローではない。決死の覚悟で飛び立ったものの、ちゃっかり自動運転に切り替えて脱出してしまう。そういう男なのだ。
 そうでなくては、と思う。
 自分の命を簡単に捨てるのが「ヒーロー」だとしたら、ヒーローになれるのは一部の自殺願望者だけだ。これからの時代は、そうではない。死ぬのが怖くて一人では何もできない:そういうごく普通の人間たちがヒーローになっていく。

"Don't you want to know who he is? "
"I know exactly who he is; he's The Batman. "

私たちは、きっとヒーローになれる。







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千の顔をもつ英雄〈上〉

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※一回見ただけの勢いで書いています。勘違い、間違い等ありましたらご指摘ください。
※セリフは英語からの意訳です。こちらも間違いがあればご教授ください。
※なお、この記事はあくまでも感想です。批評でも評論でもありません。