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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

コンピューターの誕生

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どこで「現代」を線引きするか

 前回までで、歴史紹介を終えてもいいと考えていました。

 18世紀後半から始まった産業革命により、人類文明は「発明が発明を呼ぶ」という状態になりました。この発明の連鎖は、現在でも終わっていません。数万年〜数百万年というスケールで見れば、トレヴィシックやスティーヴンソンが蒸気機関車を走らせていた時代と、現代とは、同じ時代区分に含めることができると私は考えています。

 ダーウィンの著作を読むと、その思考が現代的であることに驚かされます。あるいは、世紀の変わり目ごろに書かれた『シャーロック・ホームズ』シリーズを読むと、登場人物たちの価値観は現代とほぼ変わりません。事件の真相を神の怒りや悪魔の呪いだとは考えず、科学的な証拠を集めて合理的に犯人を突き止める。女性や子供の虐待も許さない。コナン・ドイルは、そういうキャラクターとしてホームズを描きました。旧約聖書古事記のような神話が書かれた時代は、19世紀にははるか遠い過去になっていたのです。

 とはいえ、ダーウィンもドイルも、タクシーやUberではなく辻馬車を利用していました。WeChatやLINEではなく、電報で連絡を取っていました。不特定多数の相手との情報交換には、FacebookInstagramではなく新聞の広告欄を使っていました。

 過去1~2世紀で、私たちの生活が様変わりしたことに異論の余地はありません。

 産業革命以降の発見・発明のうち、人類の歴史を変えたものをあげれば枚挙にいとまがありません。抗生物質内燃機関、航空機、原子力――。しかし、この連載で取り上げるべきは情報通信技術でしょう。言うまでもなく、生成AIの技術は情報技術――計算機科学――の産物です。また、学習に大量のデータセットが必要だという点で、インターネットの存在もその誕生には大きな影響を与えました。

 たとえば現在、Googleでは推定で1日あたり56億回の検索が行われています[1]ダーウィンやドイルの時代には、これほどの質問に答えられる存在はありませんでした。

 たとえば現在、コンビニに行けば新鮮なサラダが並んでいます。ただ並んでいるだけでなく、店舗周辺の需要を充分に満たし、かつ、廃棄による損失を最小限にできる個数だけ販売されているのです。POSシステムがなければ、こんなことは不可能です。

 たとえば現在、新幹線の切符売り場に行けば、自動発券機で指定席券を購入できます。わずか5分後に出発する車両の座席表をタッチパネルに呼び出して、座りたい席を予約できます。決済には当然、ICチップの埋め込まれたクレジットカードを使えます。

 たとえば現在、1週間の天気予報をほぼ無料で利用できます。選挙の開票速報は、ごくわずかな開票率で当選確実が出ます。外国の友人と『APEX Legends』で遊びながら、深夜に何時間も通話することが日常の光景になりました。

 これらのことを可能にしたのは、情報通信技術の革新です。

 前章で登場した蒸気機関は、ヒトの筋肉を代替する機械でした。本章では、ヒトの脳を代替する機械――計算機――の歴史を見ていきましょう。

 

 

 

早すぎた天才チャールズ・バベッジ

 計算を機械にやらせようという試みは、かなり古い時代からあったようです。紀元前1世紀ごろのギリシャでは、アンティキティラ島の機械が制作されました[2]。これは歯車の回転によって、天体の運動をシミュレーションする装置だったと考えられています。

 近世~近代の機械式計算機のうち、最初期に発明されたものとしてヴィルヘルム・シッカート の計算機があげられます。シッカートは、ドイツ・テュービンゲンヘブライ語教授でした。この計算機は、彼がヨハネス・ケプラーに宛てた手紙の中に登場します。手紙によれば、彼は1623年にそれを完成させたそうです。残念ながら完成から間もなく焼失し、現存しません[3]

 1652年には、ブレーズ・パスカル が加算器を発明しました[4]。以前の記事にも登場した「人間は考える葦である」という名言で有名な数学者・哲学者です。幾何学流体力学で業績を残した彼は、計算の自動化にも興味を持っていたようです。

 さらにビッグネームが続きます。1673年、ゴットフリート・ライプニッツ が計算機を発明したのです。ライプニッツは「機械を使えば他のだれにでも安心してまかせられるような計算作業のために、奴隷のように時間を空費するのはむだだ」と考えていました[5]

 これら初期の計算機は、いずれも(当然ながら)電気を用いず、歯車などの機械の動きによって計算を行う機械式計算機でした。その金字塔ともいえる装置が、チャールズ・バベッジの2つの機械――階差機関解析機関です。

 

 バベッジは1791年、ロンドンの裕福な銀行家の息子として生まれました。若くして数学的な才能を認められ、25歳でイギリス王立協会の会員に選ばれました。彼は1822年、自身の階差機関の開発資金を援助するよう、英国政府に書簡を送りました[7]

 階差機関の解説に入る前に、「数表」について紹介しておきましょう。

 たとえば大砲の弾を命中させるためには、かなり複雑な計算が必要です。弾は放物線を描いて飛びます。弾の初速はもちろん、重量や空気抵抗、風向き、コリオリ力など、様々な要素が弾道に影響します。それらを計算しなければ、正確な着弾点が分からないのです。ポケット電卓すらない時代、兵士たちがこうした計算を戦場で行うのは非現実的でした。そのため、あらかじめ計算結果を「数表」にまとめておき、冊子として持ち歩いていたのです。

 弾道計算だけではありません。18世紀後半には業種にあわせた様々な数表が登場していました。対数表と三角法の表はその代表です。さらに水夫のための航海表、天文学者のための星表、アクチュアリーのための生命保険表、建築家のための土木表――。枚挙にいとまがありません。

 1766年からは、イギリス政府は『航海年鑑』の出版を開始しました。これらはフリーランスの計算係――多くは退職した事務員や牧師――の手によって計算されていました[8]。このような計算作業を請け負う職業の人々のことを「計算手/computer」と呼びます。現在の「コンピューター」の直接の語源です(※現在ではレトロニム化して「human computer」と呼ぶこともある。)

 問題は、計算結果が不正確だったことです。

 ある日、チャールズ・バベッジは同年輩の天文学者ジョン・ハーシェル と共に、天文学の表の点検を行っていました。数表の検算は、地味で退屈な作業です。たまりかねて、バベッジは「こうした計算が蒸気機関で行えたらどんなにいいだろう」と漏らしました。すると、ハーシェルは答えました。「それは大いに可能性がある」。この一件が、階差機関の着想に繫がったというのです[9]

 バベッジが階差機関を着想した由来には諸説ありますが、数表の正確性を高めて、制作作業を効率化したいという動機から始まったことは間違いないようです。それはまた、計算手の人件費を節約できるという点で、イギリス政府とも利害が一致していました。バベッジは資金援助を得て、計算機の開発に乗り出しました。

 

 

 

階差機関にできること

 バベッジの階差機関が何をする装置なのか、もう少し詳しく見ていきましょう[10]。ここでは例として、次の表を使います。

 

 

 この表は、N^2+N+41の各Nに対する階差表です。

 N=0のとき、計算結果は41です。N=1のとき、計算結果は43です。そして、43から41を引いた結果(=2)が、D1の列に記入されています。

 さらに表を下に見ていきましょう。N=2のとき、計算結果は47です。D1の列には、47−43=4が記入されます。そして、N=2のときのD1=4から、N=1のときのD1=2を引いたものが、D2の列に記入されています。

 この表を見ると、Nの値をどれだけ大きくしても、D2の数値は「2」で一定であることが分かります。

 では、N=6のときの(イ)(ロ)(ハ)は、それぞれいくつになるでしょうか?

(ハ)の値は、当然ながら「2」です。

(ロ)の値は、N=5のときのD1の値=10に、(ハ)の値=2を足したものです。つまり「12」になります。

(イ)の値は、N=5のときの計算結果=71に、(ロ)の値=12を足したものです。したがって、71+12=83になります。

 つまりこの表を使えば、N2+N+41の計算結果を、足し算のみで求めることができるのです。

 

 このような「a+bx+cx^2+・・・+dx^m」の形で表せる式を、多項式と呼びます(mは正の整数とします)。先ほどの表で扱ったのはm=2の多項式です。バベッジの階差機関は、m=6までの多項式を計算できるように設計されていました。

 重要なのはここからです。

 バベッジと同時代の数学者カール・T・W・ワイエルシュトラス は、現在では「ワイエルシュトラスの近似定理」と呼ばれる定理を証明しました。これは、閉区間で滑らかな(連続な)任意の関数は、多項式によって誤差がどれだけでも小さくなるように近似することができるという定理です。要するに、数学や物理学で扱う大抵の関数を、多項式によって(必要な精度で)近似的に表すことができることを、ワイエルシュトラスは証明したのです。

 多項式の計算結果は、先述のような階差表を用いれば、足し算だけで算出できます。つまり階差機関とは、様々な関数の近似値を自動的に計算できる機械だったのです。

 階差機関は、たった1つのプログラムしか実行できないので、現代的な意味での「汎用計算機」とは呼べません。階差表を用いて多項式を解くだけです。しかし、バベッジの狙いは明らかです。あらゆる数式を計算できる機械を作りたいと、彼は望んでいたのです。

 

 

 

解析機関とエイダ

 1833年までに、バベッジは階差機関の試作機を完成させました。しかし、その頃には、すでに万能の計算機――解析機関――のアイディアが彼の脳内では渦巻いていたようです。1834年、バベッジは階差機関の実用機を完成させるための資金援助を、当時の首相ウェリントン公爵に求めました。ところが首相に宛てた手紙の中で、バベッジは階差機関の完成を諦めて、代わりに解析機関の制作を許可してほしいとほのめかしたのです[11]

 狙いとは裏腹に、この手紙によってバベッジは政府からの信用を損ないました。バベッジは(当初の目的を超えて)万能の計算機を作ることに価値を見出していました。一方の政府は、作表にしか興味がなかったのです。悪い言い方をすれば、政府の目には、バベッジは自らの興味関心のためにカネを無心しているように見えたはずです。

 とはいえ、バベッジがすぐに失脚したわけではありません。むしろ当時の彼は、名声のピークでした。数学を始め、工学や経済学など幅広い分野に通じた人物として知られていたのです。当時のバベッジは、しばしば自らの邸宅に客を招いて夜会を開き、応接間に飾った階差機関の試作機を披露して、万能の計算機について宣伝していました[12]

 バベッジの夜会には、当時のロンドンで最高の知識人たちが招かれました。1837年3月7日には独身時代のダーウィンも兄とともに参加しました[13]。ビーグル号の航海から帰国したばかりで、若き博物学者として一躍有名になっていたころです。

 注目すべきは、バベッジの自然科学に対する思想でしょう。彼の著した『ブリッジウォーター叢書第9巻』では、神はプログラマーとして描写されていました。

(※『ブリッジウォーター叢書』とは、故ブリッジウォーター伯爵が、不信心だった人生への贖罪として資金提供した全8巻の論文集。聖職者や信心深い医者などが論文の著者となり、カンタベリー大司教が監修を行った。宗教的に保守的な内容だった。バベッジの『第9巻』は、それを皮肉ったパロディである。)

 当時すでに化石のデータから、過去の地球では様々な生物の種が誕生・絶滅を繰り返していたことが分かっていました。神はその都度、直接手を下して新たな種を創造したのではないとバベッジは考えました。歴史上の正しいタイミングで、正しい動植物が生まれるような法則を、天地創造の時点でプログラムしたというのです。

 バベッジの思想が、ダーウィンの進化論に影響を与えたとは思えません。しかしダーウィンに、自分の進化論を受け入れてくれそうな人たちがいると感じさせて、その背中を押すくらいの影響はあったはずです。ダーウィンが進化論のアイディアをノートにまとめて研究に本腰を入れるのは、バベッジ邸の夜会から約4ヶ月後のことでした[14]

 

 夜会の参加者のうち、注目すべき人物がもう1人います。

 エイダ・バイロンです。

 彼女はダーウィンよりも一足早く、1833年にバベッジと顔を合わせました。バベッジは41歳、エイダは若干18歳のときです。じつのところ来客のうち、バベッジの解説を理解できる者はさほど多くありませんでした。エイダは例外であり、当時の女性としては珍しく、高度な数学の素養を身に着けていたのです。オーガスタス・ド・モルガンから数学の手ほどきを受けたことさえありました。彼女はのちに、バベッジの解析機関の解説者として重要な役割を果たします。

 話を解析機関に戻しましょう。

 たった1つのプログラムしか実行できない階差機関とは違い、解析機関は汎用計算機を目指して設計されていました。「現代のコンピューターの持つ重要な機能をほとんどすべて具体化させた」と評されています[15]。とくに重要なのは、算術計算を行う部品と、数値保存を行う部品とを分離したことです(階差機関では、両者は一体化していました)。解析機関では、現代のコンピューターでいえばCPUにあたる部品は「ミル/mill」、メモリにあたる部品は「ストア/store」と名付けられました。

 バベッジはこれらの用語を、織物産業から借りてきたようです。当時の織機では、糸はストアからミルに運ばれ、ミルで布へと織り上げられ、それがストアに戻される――という構造になっていました。バベッジのアイディアにとくに影響を与えたのは、ジャカード織機です。これはパンチカードに穿孔(せんこう)した穴で指定しておけば、千差万別の柄を織れるという汎用装置でした。ここから、パンチカードで数値や数式を指定しておけばどんな計算でも行える機械を、バベッジは構想したのです。

 残念ながら政府は解析機関に興味を抱かず、バベッジは資金援助を絶たれました。彼の不運は、時代が早すぎたことです。汎用計算機の需要はほぼ存在せず、また、彼の構想を実現できるほど工作精度の高い部品を入手することも、当時の科学技術では困難でした。バベッジは私財を投じて研究を続け、解析機関の設計・試作を続けました。しかしついに、階差機関も解析機関も、完成品を作り上げることは叶わなかったのです。

 1842年、バベッジは自らの研究成果を『解析機関の素描』という論文にまとめ、フランス語で出版しました。そして、その英訳をエイダ――すでにラブレース伯爵と結婚していた――に依頼したのです。エイダは本文の4倍にも及ぶ注釈を加筆し、バベッジの名声を不朽のものにしました。

 この功績から、エイダは「史上最初のコンピューター・プログラマー」とも呼ばれます。現在ではこれは過大評価だとされていますが、それでもバベッジの共同研究者であり、最良の紹介者であるという業績の偉大さは変わらないでしょう。彼女にちなんで「Ada」と名付けられたプログラム言語が存在します。また、NVIDIA社のGPUのアーキテクチャは数学史上の偉人にちなんで名付けられるのが慣例ですが、2022年に発売されたRTX 40xx番台の製品は「Ada Lovelace世代」と呼ばれています。

 

 

 

IBMの誕生

 バベッジの夢である汎用計算機が実現するまでに、それから1世紀ほどかかりました。

 しかし電気を用いた集計・作表装置は、ずっと早く実用化されました。1890年のアメリ国勢調査で用いられたタービュレイティング・マシンです[16]

 アメリカで第1回国勢調査が行われたのは1790年です。当時の人口は約390万人。しかし人口増加とともに集計作業は膨れ上がり、約1世紀後の1880年の国勢調査では手作業によるデータ処理はほぼ限界を迎えました。報告書は2万1000ページ以上に及び、1495人の事務員の手で、約7年もかかったのです。

 そこで政府は、次回1890年の国勢調査を自動化・効率化できる装置を募集しました。そこで名乗りを上げたのが、ハーマン・ホレリスでした。

 ホレリスはコロンビア大学を卒業後、国勢調査局で働きました。彼は集計装置のアイディアを、手回しオルガンから得たようです。楽譜の代わりに穴の開いた紙を通すと、穿孔された箇所でのみ空気が通り抜けて、自動的に音楽を演奏できる装置です。同様に、パンチカードの穿孔によって数値を記録して、穴の開いた箇所でのみ電気が通るような装置を作れば、自動的にデータを集計できるとホレリスは考えました。

 1889年に行われたコンペティションでは、ホレリスの他に2人の発明家が手を挙げました。前回の国勢調査データの一部である約1万通を処理するテストを行い、見事、ホレリスのタービュレイティング・マシンが勝利を収めたのです。

 1890年6月1日、ついに国勢調査が始まりました。全国から調査票が集まり、7月1日にデータ処理を開始。わずか6週間後の8月16日には、約6262万人という総人口を発表できました。ホレリスの機械1台で、以前の集計係20人分の仕事ができたとされています。最終的に2万6408ページに達した調査報告書の作成に、2年半しか要しませんでした。約500万ドルの経費削減に繫がったとみられています。

 

 1896年、ホレリスはタービュレイティング・マシン・カンパニーを設立。この装置の商用利用に乗り出しました。これがIBM社の歴史の始まりです[17]。当初は顧客が見つからず苦労したようです。しかしパンチカードの穿孔機を始め、様々な「自動装置」を販売するようになった結果、1908年に30社だった顧客は、1911年には100社を超えました。政府の国勢調査を請け負う企業から、事務機器メーカーへと転身を遂げたのです。

 1911年、ホレリスは会社を売却。巨万の富を得てセミリタイア生活に入りました。一方、会社名はC-T-R社(コンピューティング-タービュレイティング-レコーディング社)に改名されました。このとき総支配人として就任したのが、のちにIBMを巨人へと成長させる伝説的経営者トーマス・J・ワトソン・シニアです。

 ニューヨーク州キャンベルで農夫の息子として生まれたワトソンは、18歳から働き始め、簿記係や、ピアノやオルガンの訪問販売に従事しました[18]。1895年、彼はNCR社(ナショナル・キャッシュ・レジスター社)に入社しました。

 NRCは、現在でも金融機関のATMなどを製造している大手企業です。当時は社名の通り、小売店用のキャッシュレジスターを作っていました。NCRの創業者ジョン・H・パターソンは商才に長けた辣腕経営者で、強力なセールスチームを組織することで業績を伸ばしました。魅力的な歩合制と、厳格な販売ノルマという、アメとムチでセールスマンたちを焚きつけたのです。主な顧客である個人商店の経営者たちが街を歩いていて、ふとキャッシュレジスターが欲しくなってNCRの店舗を立ち寄る――などということがありえないと、パターソンは理解していました。キャッシュレジスターは「購入されたのではなく、販売された」のです[19]

 このNCRで、トーマス・J・ワトソンは頭角を現しました。わずか29歳で、ニューヨーク州ロチェスター全体の販売代理人へと昇進。さらに1908年にはセールスマネージャーになりました。近い将来、ワトソンがNCRの総支配人になるのは確実と見做されていました。しかし気まぐれなパターソンは、彼を解雇してしまったのです。

 無職となったワトソンは、しかし引く手あまたでした。雇われマネージャー以上の地位を望んだ彼は、C-T-Rを再就職先に選びました。当時のC-T-Rは、NCRに比べればごく小さな企業でした。ところがワトソンはNCR流のセールス手法を導入。「T-H-Ⅰ-N-K(考えろ)」というスローガンを掲げてセールスチームを鼓舞し、商売を拡大していったのです。

 1914年(※ 第一次世界大戦が始まった年)に、ワトソンは社長に就任。さらに1924年には、社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシーンズ)に改めました。

 この時代のIBMの収益を支えたのは、補充用のパンチカードです。IBMの装置に使われるパンチカードには特殊な紙が使われており、他社が簡単に模倣できるものではなかったのです。1930年代までに、IBMは年間30億枚のカードを販売しており、それは収益の10%、利益の30~40%を占めていました[20]。ワトソン率いるIBMは、装置を(販売ではなく)リースすることで定収入を確保し、パンチカードで利益を上げるという「レンタルと補充」のビジネスモデルを構築したのです。

 

 

 

バベッジの夢が現実になる

 1937年、IBMに汎用計算機を作りたいという提案が舞い込みました。

 その提案者は、ハワード・ハサウェイ・エイケンハーバード大学真空管を研究する大学院生でした。エイケンは博士論文を書き進めるために、非線形微分方程式を解かねばならず、そのような退屈な計算作業を自動でやってくれる装置が欲しいと考えたのです。

 エイケンが汎用計算機の制作を周囲の教員に相談したのは1936年。しかし、すぐには計画は動き始めませんでした。それでも、彼が汎用計算機を作ろうとしているという噂はハーバード物理学研究所内で広まっていきました。

 ある日、1人の技官がエイケンに近づいてきて言いました。

「そういう機械はすでにここにある」と[24]

 研究所の屋根裏部屋に、バベッジの計算機関の断片が保管されていたのです。

 これは1886年にバベッジの息子ヘンリーによって大学に寄贈されたものでした。半世紀間、エイケンと出会うのを待っていたのです。エイケンはさっそく大学の図書館に向かい、バベッジの自伝『ある哲学者の人生の断章』(※1864年出版)を読みました。彼は「バベッジが過去から直接自分に話しかけてきたように感じ」ました。設計や技術の観点では、エイケンバベッジからほぼ影響を受けていません。しかし、天命が下ったという感覚は揺るぎないものでした。

 エイケンはIBMの主任技師ジェームズ・ブライスを紹介され、自身の構想を伝えました。ブライスの説得を受けて、ワトソンは1万5000ドルもの資金援助をエイケンに約束しました。エイケンは提案書をまとめて1937年12月にIBMに提出。こうして、彼の計画は実行に移されたのです。

 エイケンの発案およびIBMの協力によって完成したのが、自動逐次制御計算機――通称「ハーバード・マークⅠ」です。

 これは重量5トンにおよぶ巨大な機械でした。第二次世界大戦中の1943年1月に試運転が始まり、本格的な数表計算に利用され始めたのは1944年5月。そして同年8月に、正式にハーバード大学に贈呈されました。

 ハーバード・マークⅠは電気で動作するものの、電子計算機ではありません。電気機械式計算機に分類されます。というのも、電磁石でスイッチを開閉する「リレー」という機械部品によって情報を扱うからです。

 情報を電子によって扱う真空管トランジスタに比べると、リレーは可動部品の物理的な動きが必要になるため、計算の速さは数ケタ遅くなります。ハーバード・マークⅠの場合、27個の数字を保存することができ、加減算は1秒に3回、乗算には1秒、除算または平方根の演算には約5秒かかりました[22]。これは当時の水準でも、決して速いとはいえませんでした。ハーバード・マークⅠの重要性は、それが世界初の完全自動計算機だった点にあります。

(※当時すでに事務会計用途の機械式計算機は広く普及していた。たとえば1887年に生産が開始されたコンプトメーターは、戦間期には並外れてよく売れて、数百万台が生産された[23]。日本では1923年に発売されたタイガー計算機が一世を風靡し、手回し式の計算機の代名詞となった[24]。これらはハーバード・マークⅠのようなプログラム可能な汎用計算機ではなかったが、人間よりも高速で加減算ができた。)

 ハーバード・マークⅠに関わった重要人物の1人に、グレース・マレー・ホッパーがいます[25]。当時の彼女はヴァッサー大学の数学教授で、大学を休職して海軍士官学校に通っていました。海軍は彼女をハーバードの計算研究所に派遣し、マークⅠのプログラミングを手伝うよう命じたのです。マークⅠのプログラムは1行24個までの穴を穿孔した紙テープを読み込ませることで行われていました。

 このときの経験により、ホッパーは計算機の歴史に大きな足跡を残すのですが――。

 それは少し先の話です。

 

 ハーバード・マークⅠの物語には、苦いオチがついています。

 完成式典でのエイケンの態度があまりにも傲慢で、IBMとの信頼関係を破壊するほどだったのです。エイケンはマークⅠを完成させた手柄を自分一人のものだと宣伝し、IBMの技術者たちの貢献を認めませんでした。これに対してワトソンは、真っ青になって怒りに打ち震えたと伝えられています。

 

 

 

ムーア・スクールの伝説

 第二次世界大戦中、ペンシルヴァニア大学の電気工学教室〝ムーア・スクール〟で開発された電子計算機ENIAC(エニアック)は、計算機の歴史を永遠に変えました。ENIACは極めて広範な問題を解くことができる電子デジタルコンピューターであり、本機から派生して設計・開発されたEDVAC(エドヴァック)およびEDSAC(エドサック)は、現代の「プログラム内蔵方式」と呼ばれるコンピューターの礎となりました。

 物語のプロローグは、1937年のアイオワ州立大学から始まります[26]。数学と物理学の教授ジョン・ヴィンセント・アタナソフは、大学院生のクリフォード・ベリーと共同で、初歩的な電子計算装置を作成したのです。1939年には試作機が稼働し、その後の2年間で2人は装置を完成させました。これが、アタナソフ・ベリー・コンピューター(ABC)です。

 1940年12月、アタナソフは米国科学振興協会で、同年輩の科学者の講演を聞きました。その科学者の名はジョン・W・モークリー。当時は気象予報のための原始的な計算機を研究していました。

 志を同じくする2人は意気投合し、半年後の1941年6月、アタナソフは自らの研究室にモークリーを招いてABCを紹介しました。1週間の滞在中に、モークリーはABCについて学べるかぎりの知識を吸収したとみられています。モークリー自身はのちに、ABCからは「何のアイディアも得ていない」と法廷で証言(※モークリーはのちに特許を巡る訴訟に巻き込まれた。)していますが、このときに電子計算機の実物を目撃したことは疑う余地がありません。

 同じく1941年の夏、モークリーはペンシルヴァニア大学〝ムーア・スクール〟で行われた10週間の特別講義を受けました。これは、戦時中に不足していた電気工学の専門家を養成するための集中コースでした。優秀な成績を収めたモークリーは、そのまま講師としてペンシルヴァニア大学に残ることを打診され、それに応じました[27]

 そして1942年、モークリーは電子計算機の開発を打診するメモを同僚たちに回覧するのですが――。

 

 まずは当時のムーア・スクールで作成されていた「射撃表」「爆撃表」について紹介しましょう。

 先述の通り、当時の戦場の砲手たちは、弾道の計算結果をまとめた表を冊子として持ち歩いていました。しかし20世紀に入ると兵器の性能向上にともない、旧来の表は役に立たなくなっていきました。たとえば第一次世界大戦の初期、ドイツ海軍は極めて強大な大砲を製作しましたが、いざその大砲を撃ってみると、その最大射程は旧来の方法で計算した距離のほぼ2倍もあったのです[28]。弾道の大半が、空気の密度が地上の半分ほどしかない上空を通っていたからです。大気の密度を一定だと仮定したそれまでの計算式では、もはや歯が立ちませんでした。

 戦時体制となった大学で、ムーア・スクールには正確な表を作成するというミッションが課せられていたのです。

 典型的な射撃表には、約3000の弾道についてのデータが記載されていました[29]。弾道1つあたり7つの変数を持つ常微分方程式積分する必要があり、これにはアナログ式の微分解析器で10~20分間を要しました。また卓上サイズの機械式計算機で人間の計算手が計算した場合にも、弾道1つあたり1~2日間を要しました。100人のチームが不眠不休で作業しても、表を1つ完成させるのに約1ヶ月かかったのです。

 この作表作業を指揮した重要人物の1人が、ハーマン・H・ゴールドスタインです。ミシガン大学で数学を教えていた彼は、1942年7月に兵役につき、ムーア・スクールの作業を応援するよう命じられたのです。8月7日に着任した彼が真っ先に取り組んだのは、理系の女子を計算手として訓練することでした[30]。当時、男性の多くが兵役についたこと、および総力戦となったことで、労働力として女性の活用が進んでいたのです。ムーア・スクールでは約100人の「計算ガール」が働いていました。彼女たちの指導教官の中には、モークリーの妻マリーの姿もありました。

 ゴールドスタインは、電子計算機を作るというモークリーの提案の重要性に真っ先に気づいた1人でもあります。作るべき表の数はあまりにも多く、その計算にはあまりにも時間がかかったからです。作表作業の遅れは、戦地で自国兵士が命を落とすことを意味していました。1943年4月2日、ゴールドスタインはモークリーの提案書の正式版を提出しました[31]。こうして電子計算機ENIACの開発が始まったのです。

 

 1944年8月15日で終わる週にゴールドスタインがまとめたメモ[32]を見ると、彼の危機感が分かります。毎日約6件の新しい表の作成要求が届くにもかかわらず、「計算能力の不足のために、まだ作業がはじまっていない表の数は、進行中の表の数よりもはるかに多く」なっていました。開発開始から約18ヶ月、まだENIACは完成には遠い状態でした。高速の電子計算機は、必要に駆られて開発されたのです。

 ハーバード・マークⅠにも用いられたリレーの場合、回路の開閉には1~10ミリ秒を要しました。一方、真空管トランジスタは遥かに高速です。ENIACの場合、1回の回路の開閉にほぼ5マイクロ秒しか要しませんでした。文字通り、桁違いの速さです。だからこそ最初期の電子計算機であるENIACは、当時最も洗練された電気機械式計算機よりも数百倍〜1000倍も速かったのです[33]

 一方、当時の真空管は、信頼性が著しく低いという問題を抱えていました。ENIACには、約1万7000本の真空管が用いられました。ゴールドスタインは次のように述べています。

 1万7000本の中のたった1本の真空管が間違った動作をしただけでも、10マイクロ秒ごとに1回の割合で誤りが起こる。これは、誤りを起こす可能性のある機会が1秒間に17億回、1日では約1・7×10の14乗回もあることを意味している。いいかえれば、ここで考えられている機械が12時間誤りなく動くようにするためには、その運転中の誤作動の確率は10の14乗分の1程度のものにしなければならない。人間は、かつてこれだけ高い正確さまたは信頼度で運転することができる機器をつくったことはなかった。

ハーマン・E・ゴールドスタイン『計算機の歴史』
共立出版、2016年復刊版)P.173

 この工学的な難題に挑んだのが、若きエンジニアであるジョン・プレスパー・エッカートでした。ENIAC開発が本格始動する前年の1942年、モークリーの回覧したメモを目にしたうちの1人です。彼は計数回路の文献を調べることに没頭し、瞬く間にその道の専門家となりました[34]

 エッカートはENIACを構成するあらゆる部品に厳格な規準を設定し、不良品を取り除きました。真空管はもちろん、それをはめ込むソケット、抵抗、コンデンサ、配線盤など、「エッカートが設定した規準は最高のもの」でした。彼は「非凡な発明の才と抜群の知性とを」備えていたとゴールドスタインは評しています[35]

 

 1944年の夏のある日、ゴールドスタインがアバディーンの駅のプラットフォームでフィラデルフィア行きの列車を待っていると、偶然にもジョン・フォン・ノイマンが通りがかりました。

 ノイマンは歴史上でも傑出した天才数学者の1人です。6歳にして父親と古典ギリシャ語で冗談を言い合い、大学在学中の1920年代には、すでに偉大な数学者の1人として注目されていました。第二次世界大戦中にはプリンストン大学の高等研究所に招聘され、ロスアラモス国立研究所マンハッタン計画にも携わっていました。

 当時、ゴールドスタインとノイマンの間に面識はありませんでした。しかしノイマンは世界的に有名で、ゴールドスタインも顔を知っていたのです。彼は大胆にもノイマンに話しかけて自己紹介しました。ゴールドスタインによれば、ノイマンはユーモアのセンスのある、人当たりのいい人物だったようです。しかし毎秒333回の乗算ができる電子計算機を開発していると告げると、くつろいだ雰囲気は一変し、「数学の学位審査のための口頭試問を思わせるようなものに、がらりと変わってしまった」そうです[36]

 ノイマンENIACに興味を示したので、ゴールドスタインは彼が8月にムーア・スクールを訪問できるように手配しました[37]。このときエッカートは生意気にも、ノイマンが本当に天才であるかどうかは、彼の最初の質問で分かると宣言しました。それが機械の論理構造に関するものであれば、ノイマンを天才だと認めるというのです。

 

もちろん、フォン・ノイマンの最初の質問は、この論理構造に関するものであった。

(同書P.209)

 

 結局、ENIACの完成は終戦には間に合わず、1945年11月にずれ込みました。とはいえ性能は申し分なく、「飛んでいる弾丸の軌道を、その弾丸が飛ぶよりも速く計算できる」と称されました[38]。ゴールドスタインはムーア・スクールで働いていた「計算ガール」のうち、とくに優秀な6人をENIACプログラマーとして抜擢しました[39]。

 

 

 

プログラム内蔵方式と開発者たちの亀裂

 ENIACの完成が近づくにつれ、ムーア・スクールの人々はその改善点にも気づきました。しばしば会議を開き、改良版であるEDVACについて議論を始めたのです。この会議には、ほぼ毎回、モークリーやエッカート、フォン・ノイマン、ゴールドスタインなどの主要なメンバーが参加しました。

 ENIACでは、数字を十進数 で扱っていました。22本の真空管からなる10個のフリップ・フロップ回路のユニットで、数字の1桁を扱っていたのです。二進数を用いれば、同じ数のフリップ・フロップ回路で10桁の数字を扱えます。これは十進数で3桁分に相当します[40]。さらに、二進数なら回路の設計もシンプルになります。たとえば掛け算の場合、1桁あたり「0×0=0、0×1=0、1×0=0、1×1=1」という4通りの演算ができれば充分です。一方、十進数では(小学生の〝九九〟で学んだように)100通りの演算ができなければなりません[41]

 ENIACは、プログラミングに時間がかかることも問題でした。計算の内容によっては、部品の配線から組み替える必要があったのです。ハーバード・マークⅠで約80時間かかる編微分方程式を解くのに、ENIACでは30分間しか要しませんでした。しかし、このうち約28分間はパンチカードの作成のためだけに使われ、正味の計算時間はわずか2分間でした[42]。さらに、高速な演算回路に対してカードを読み取る装置の動作が遅く、ボトルネックになっていました。

 ここでは、いわば「コロンブスの卵」的な発想が必要でした。

 当時の計算機では、数値データもプログラムの命令も、まずは紙テープやパンチカードといった同じような媒体に記録し、それを機械に読み込ませていました。であれば、数値データもプログラムの命令も、機械の内部にある記憶装置(※当時は水銀遅延線という部品が使われていた。)に、同じように保存しておけるはず――。

 現代の「プログラム内蔵方式のコンピューター」というアイディアが萌芽したのです。

 

 1945年6月30日、『EDVACに関する報告書・第1稿』と題された101ページの報告書が書かれました。ここには、プログラム内蔵方式のコンピューターの概念がほぼ完璧な形で記載されていました。問題は、これがフォン・ノイマンの手で、彼の単独の名前で書かれていたことです。共同研究者に対する謝辞も述べられていませんでした。

 ゴールドスタインによれば、この文書はあくまでも草稿であり、フォン・ノイマンは「グループ全体の考えを明確にし、調整するために使う中間報告のつもりで」これを書き、「公表する意図はなかった」ようです[43]。しかし噂を聞きつけた当時の科学技術者たちの間でコピーが出回ってしまったのです。

 この報告書が後世に与えた影響は大きく、(現代の主流である)プログラム内蔵方式のコンピューターが「フォン・ノイマン型コンピューター」と呼ばれる所以(ゆえん)となりました。

 私見ですが、ENIACおよびEDVACの開発史から言えば「ムーア・スクール型」と呼ぶほうが適切であるように思えます。もちろん、理論の面でフォン・ノイマンがコンピューターの発展に与えた貢献は計り知れません。しかし、世界初の汎用電子コンピューターENIACを実現した技術者たち――とくにジョン・プレスパー・エッカートの功績は、どれだけ言葉を尽くして称賛しても足りないでしょう。

 

 いずれにせよ、ムーア・スクールの人々の間には、少しずつ亀裂が生じていきました。フォン・ノイマンやゴールドスタインなどの「論理屋」と、エッカートやモークリーなどの「技術屋」とが、対立するようになったのです。この人間関係の混乱は、ついに修復されることはありませんでした。そしてEDVACの完成が遅れることにも繫がったのです。

 

 ところで『第1稿』を読んだ人間の1人に、ケンブリッジ大学の数理物理学者モーリス・ウィルクスがいました[44]。1946年5月に『第1稿』を入手した彼は、すぐさまその重要性を理解しました。同年8月に渡米し、ムーア・スクールで開催されていたレクチャーに参加。帰国後の10月から本格的にプログラム内蔵方式コンピューターの開発を開始しました。ウィルクスは自らのそれをEDSACと名付けました。

 当時の技術水準では、プログラム内蔵方式は紙上の設計の域を出るものではなく、とくに記憶装置の発明が必須でした。1947年2月、ウィルクスのチームは、改良した水銀遅延線で長時間のデータ保存に成功しました。

 1949年5月6日、EDSACが完成。

 コンピューターの時代が幕を開けたのです。

 

 

(次回、「パソコンの誕生」編に続く)

(この記事はシリーズ『AIは敵か?』の第13回です)

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※※※参考文献※※※

[1] Ahrefsブログ「Google検索アルゴリズムの仕組み」(https://ahrefs.jp/blog/seo/googlesearch-algorithm/
[2] 国立天文台HP「貴重資料展示室」(https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/060/
[3] ハーマン・E・ゴールドスタイン『計算機の歴史 パスカルからノイマンまで』(共立出版、2016年復刊版/初版1979年)P.6
[4] ゴールドスタイン(1979年)P.7
[5] ゴールドスタイン(1979年)P.7
[6] ゴールドスタイン(1979年)P.8
[7] Martin Campbell-Kelly、William Aspray、Nathan Ensmenger、Jeffrey R. Yost『コンピューティング史 人間は情報をいかに取り扱ってきたか』(共立出版、2021年)P.4、P.7
[8] Campbell-Kellyほか(2021年)P.3-4
[9] ゴールドスタイン(1979年)P.13
[10] ゴールドスタイン(1979年)P.20-21
[11] Campbell-Kellyほか(2021年)P.8-9
[12] Campbell-Kellyほか(2021年)P.47
[13] A.デズモンド、J.ムーア『ダーウィン 世界を変えたナチュラリストの一生』(工作舎、1999年)上巻P.284-286
[14] デズモンド、ムーア(1999年)上巻P.306
[15] Campbell-Kellyほか(2021年)P.48
[16] Campbell-Kellyほか(2021年)P.15-20
[17] Campbell-Kellyほか(2021年)P.40-41
[18] Campbell-Kellyほか(2021年)P.37-38
[19] Campbell-Kellyほか(2021年)P.36
[20] Campbell-Kellyほか(2021年)P.44
[21] Campbell-Kellyほか(2021年)P.64-65
[22] ゴールドスタイン(1979年)P.130
[23] Campbell-Kellyほか(2021年)P.32
[24] 国立科学博物館HP(https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/computer/tiger10.html
[25] ポール・E・セルージ『モダン・コンピューティングの歴史』(未來社、2008年)P.107
[26] Campbell-Kellyほか(2021年)P.79-80
[27] Campbell-Kellyほか(2021年)P.77
[28] ゴールドスタイン(1979年)P.83
[29] Campbell-Kellyほか(2021年)p79
[30] ゴールドスタイン(1979年)P.149-151
[31] Campbell-Kellyほか(2021年)P.82
[32] ゴールドスタイン(1979年)P.188
[33] ゴールドスタイン(1979年)P.161-162
[34] ゴールドスタイン(1979年)P.168
[35] ゴールドスタイン(1979年)P.173-174
[36] ゴールドスタイン(1979年)P.208
[37] Campbell-Kellyほか(2021年)P.86
[38] Campbell-Kellyほか(2021年)P.92-93
[39] ゴールドスタイン(1979年)P.231
[40] Campbell-Kellyほか(2021年)P.89、P.105
[41] ゴールドスタイン(1979年)P.237
[42] ゴールドスタイン(1979年)P.227
[43] ゴールドスタイン(1979年)P.225
[44] Campbell-Kellyほか(2021年)P.96-99