デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「言語」はどこから来たのか?

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⽂字の不思議

 私は⼈の顔を覚えるのが苦⼿です。⼦供の頃からクラスメイトの名前と顔が⼀致するまでに時間がかかりました。⼤⼈になった今でも変わりません。初対⾯の編集者とたっぷり2時間の打ち合わせをして、帰りの電⾞の中ではすでにどんな顔だったか思い出せなくなっている……なんてことが珍しくない。そして2回⽬の打ち合わせのときに「そういえばこんな顔だったかなあ?」と思い出すわけです。

 私のこの⽋点は、私が作家であることと関係があるかもしれません。

 というのも、脳の読み書き能⼒と顔認識の能⼒にはトレードオフの関係があるらしいからです[1]。もちろん私は三島由紀夫のような美⽂家・名⽂家ではありません。それでも商業媒体で記事を書く程度の読み書き能力を持っています。この能⼒をつかさどる領域は脳の側頭葉の⼀部にあり、この部位が発達すると、その近傍にある顔認識にかかわる領域・紡錘状回が割を⾷うらしいのです。

 このことは、2つの事実を⽰しています。

 第一に、ヒトの脳は柔軟性・汎⽤性が極めて⾼いということです。私たちの脳は、進化の過程では別の⽤途で使われていた部位を、たとえば読み書き能⼒のような後天的な能⼒のための新たな神経回路として転⽤できます。

 第二に、⽂字の使⽤は決して「⾃然」ではないということです。⼈類の歴史の長さは前章で書きました。⼀⽅、私たちが⽂字を使い始めてから、まだ1万年も経っていません。⼀般庶⺠が読み書き能⼒を⾝に着けたのは産業⾰命以降であり、最近100〜200年ほどのことです。脳内に「読み書き専⽤の部位」が特別に進化するほどの時間は経っておらず、だからこそ、読み書き能⼒を発達させると顔認識の能⼒が犠牲になる(かもしれない)のです。

 現代⽇本⼈は⽣まれたときから⽂字に囲まれているため、⽂字の使⽤が⼈類にとってごく⾃然なことだと錯覚しがちです。しかし、⽂字は⼈⼯的なテクノロジーなのです

 この話のオチは、私の知人には人の顔を覚えるのが得意な同業者もたくさんいるということ。単純に私の頭が悪いのかもしれない。

 

 私たちは⼀体どのようにして、⽂字の使⽤というイノベーションにたどり着いたのでしょうか? 逆に⾔えば、なぜこれほどまでに便利な⽂字を、⼈類は(地質学的にいえば)つい昨⽇まで発明できなかったのでしょうか?

 この疑問に答えるためには、2つの歴史物語を紐解く必要があります。

 1つは、私たちはいつ⾔語を⾝に着けたのか。

 そしてもう1つは、私たちはなぜ農耕定住⽣活の開始したのか。

 

 

歌うサルと⾔語の誕⽣

 ホモ・サピエンスネアンデルタール⼈の運命を分けたのは⾔語の有無だったという、人口に膾炙(かいしゃ)した仮説があります。

 まず事実を確認しましょう。

 咽頭(いんとう)や⼝(こう)腔(くう)の解剖学的な構造を⽐較すると、ネアンデルタール⼈はサピエンスよりも単純な⾳声しか発声できなかった可能性が⽰唆されています[2]。また、前章で紹介した通り、約10万年〜4万年前の期間にサピエンスは認知能⼒を⼤きく変え、創意⼯夫に満ちた発明や芸術活動、死者の埋葬などを⾏うようになりました。

 ここから、次のような仮説が提唱されています。

 約7万年前の〝トバ・カタストロフ〟による気候変動に⾒舞われた⼈類は、強烈な選択圧に晒されました。そして、突然変異により「⾔語」を⾝に着けた集団だけが⽣き延びることができたというのです。

 鳴き声によるコミュニケーションを取る動物は枚挙にいとまがありません。したがって、ここでの「⾔語」とは現代⼈と同等の複雑さや再帰性を持つ「⾼度な⾔語」と呼んだ⽅がいいでしょう。これを⾝に付けたことで私たちは⽂化を効率よく伝えることが可能になり、道具の発明を効率よく⾏えるようになり、また深淵な精神性を⾝につけたのだ――。ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)でも、このような⾒⽅が紹介されていました[3]。

 この「突然変異仮説」はノーム・チョムスキーの「普遍⽂法」仮説とも相性がいいと⾔えるでしょう。チョムスキーの功績は、言語学に生物学的な視点を導入したことです。地球上に存在する数千の言語の背景には共通の構造――普遍⽂法――が存在し、それは私たちの脳に⽣得的な神経回路として組み込まれていると彼は考えました。

 要するに、トバ⽕⼭の噴⽕に伴う絶望的な状況の中で、突然変異により脳内に「普遍⽂法」を持つ⾚ん坊が奇跡的にも⽣まれた、そして私たちホモ・サピエンスは⼤きく⾶躍を遂げた――。と、考えれば辻褄があうわけです。

 

 しかし、私はこの仮説に懐疑的です。理由は3つあります。

 第⼀に、複雑な⾳声を発声可能であることは、複雑な⾔語の存在を意味しません。

 たとえばモールス信号はトン・ツー・空白というわずか3つの記号で構成されていますが、世界⼤戦の遂⾏という複雑な⽬的に広く用いられました。⽣物の遺伝情報は極端に複雑ですが、その媒体であるDNAにはアデニン・グアニン・シトシン・チミンというわずか4種類の塩基の組み合わせで記録されています。⾔ってしまえば、情報は「伝わりさえすればいい」わけで、情報媒体の複雑さとは関係がないのです。

 遺伝⼦とDNAとの関係は、いわば⾳楽とカセットテープとの関係である。DNAは情報の記録媒体であり、そこに記録されている情報のことを遺伝⼦と呼ぶ。また、ある1種の⽣物の個体1つを作るのに必要な遺伝⼦のセットのことを「ゲノム」と呼ぶ。⾳楽に喩えるなら、ゲノムとは「アルバム」のようなものだと⾔える。

 たとえばピダハン語は最も⾳素の少ない⾔語の1つで、⺟⾳はわずか3つ、⼦⾳は7〜8つしかありません[4]。現在のホモ・サピエンスの使う⾔語だからといって、複雑な⾳声で構成されているとは限らないのです。

 あるいは、英語には(⽅⾔にもよりますが)13〜15個の⺟⾳があります[5]。⼀⽅、⽇本語の⺟⾳はおおむね5個です。しかし英語と⽇本語とで、伝達可能な情報に⼤きな差があるとは思えません。

 東南アジアのキュウカンチョウや、世界中のインコ・オウムの仲間、さらにオーストラリアのコトドリなど、⿃類には私たち⼈類よりも複雑な⾳声を発声できる種がたくさんいます。しかし、彼らは⼈類並みに⾼度な⾔語を使うわけではありません。私たちサピエンスが複雑な⾳声を発話できることには(たとえば求愛⾏動で有利になるなどの)何かしらの繁殖上の利点があったのでしょう。しかしこれを理由に、ネアンデルタール⼈には⾔語がなく、サピエンスには⾔語があったと考えるのは、あまりにも短絡的だと私には思えます。

 

 第⼆に、⽂化の伝達に⾔語は必要ありません。

 ⼤抵の哺乳類には「閉経」がなく、寿命の直前まで妊娠可能です。ヒトに閉経があるのは、ある年齢を超えると⾃分⾃⾝が⾚ん坊を産むよりも、孫の世話を⼿伝うほうが効率的に遺伝⼦を残せるようになるからだと考えられています。これを「おばあちゃん仮説」と呼びます[6]。どうやら私たち⼈類にとって、「おばあちゃんの知恵」は⽣存に⽋かせない重要なものだったらしいのです。

 ヒトに閉経があるのは、近代化により寿命が伸びたからではない。前近代の世界で平均寿命が短かったのは主に乳幼児死亡率が⾼かったからであり、最⻑寿命はそれほど伸びていない。狩猟採集⽣活などを送る伝統社会でも、20歳時の平均余命は40年ほど[7]。旧約聖書にも「私たちの齢は70年、健やかであっても80年」という⽂⾔が登場する〔詩篇 90:10〕。

 ヒトと同様に閉経の存在する哺乳類には、アフリカゾウやシャチがいます。彼らにとっても「おばあちゃんの知恵」が重要であるらしいことが分かっています。

 たとえば1993年、タンザニアの国⽴公園を半世紀に⼀度の過酷な旱魃が襲い、幼いゾウの20%が命を落としました。この地域には約200頭のアフリカゾウが棲息しており、年⻑のメスをボスにした21の家族が⼤きく3つの群れに分かれて暮らしていました。このとき、⾼齢のメスに率いられている家族ほど⼦ゾウの死亡率が低かったことが報告されています[8]。

 同レベルの旱魃(かんばつ)がこの地域を襲ったのは、前回は1960年でした。その後の1970年代に密猟が横⾏したことで、以前の旱魃の記憶があるゾウのほとんどが殺害されてしまいました。ところが3つの群れのうち2つには、それぞれ1頭ずつ当時の記憶を持つ⾼齢のメスがいました。この2つの群れは⽔場を求めて国⽴公園の外に脱出。結果、公園内にとどまった群れよりも、さらに⼦ゾウの死亡率が低かったというのです。彼⼥たちは⼲魃を⽣き延びる知恵を覚えていたからこそ、孫世代を死なせずに済んだのでしょう。

 アフリカゾウと同様に、シャチも年⻑のメスを中⼼とした⺟系の家族集団で⽣活します。群れのボスである⾼齢のメスが死亡すると、翌年の⼦供たちの死亡率が(30歳を超える成獣であっても)跳ね上がることが報告されています。具体的にはメスの⼦供で5・4倍、オスの⼦供ではじつに13・9倍にも死亡率が上昇します[9]。シャチの「おばあちゃん」がどのような知恵を授けているのかは不明ですが、彼⼥たちが⾮遺伝的な情報――つまり、⽂化――を⼦供に伝達していることは間違いないでしょう。

 じつのところ、シャチはかなり⽂化的な動物です。

 ⾃然ドキュメンタリー番組などで、シャチが浜辺に勢いよく乗り上げてオタリアの⼦供を襲うシーンを⾒たことがある読者は多いでしょう。じつは、あの狩猟法を⾏うのはアルゼンチン・バルデス半島のプンタノルテで暮らす2頭の兄弟だけです[10]。本能的に組み込まれた狩猟法ではなく、彼らが発明して、(さらに重要なことに)2頭で共有したものなのです。

 哺乳類の狩猟のような複雑な行動には、通常、数え切れないほど多数の遺伝子がかかわる。この兄弟が突然変異により「浜に乗り上げてオタリアを狩るという行動の遺伝子」を得たとは考えがたい。

 アラスカのプリンス・ウィリアム湾には(遺伝的にだけでなく)⽂化的に異なる3つのシャチの集団が同居しています。湾内にとどまってサーモンなどの⿂⾷をする「レジデント」、沿岸を泳ぎ回って、もっぱら海⽣哺乳類を襲う「トランジェント」、さらに外洋でサメを捕⾷する「オフショア」です[11]。このように狭い範囲内にまったく違う経済基盤の集団が棲息していることは、狩猟採集⺠族のアイヌ⺠族と農耕⺠族の和⼈とが津軽海峡を挟んで暮らしていたことを思い起こさせる――と書いたら、シャチを擬⼈化しすぎでしょうか?

 ともあれ、ここで強調したいのは、⽂化はヒトの専売特許ではないということです。宮崎県の幸島には、有名な「芋を洗うサル」がいます。この島では1953年に1匹の⼦ザルが「芋を海⽔に浸してから⾷べる」という⾏動を取るようになりました。そして周囲のサルたちもそれを真似るようになり、群れ全体に同じ⾏動が広まったのです。

 ⽂化が⽣じるためには、⾔語は必要ありません。

 脳が、本能にない⾏動ができるほどの柔軟性と、他の個体を真似できるだけの認知能⼒を持っていれば充分なのです。

 

 

 第三に、コミュニケーションには受け取る相⼿が必要だということです。

 突然変異説の⼀番苦しいところは、ここでしょう。周りの⼤⼈たちが「ウホウホ」としか鳴けない世界に、いきなりウィットに富んだジョークを⾶ばせる天才児が⽣まれても何の意味もありません。

 進化論の基本に⽴ち返りましょう。⽣物はしばしば突然変異により新たな形質を⾝に着けます。その形質が⽣存・繁殖に有利であれば、その形質は次世代に受け継がれ、やがて集団内に広まっていきます。しかし(⾔語に限らず)コミュニケーションの⼿段は、発信者だけでは意味がありません。受信者がいるからこそ価値があります。ある⽇突然「⾔語」を話せる⼦供が誕⽣しても、聞き⼿がいなければ⽣存・繁殖の有利には繫がらないのです。

 つまり言語そのものに「ネットワーク外部性」があると言える。電話回線のようなネットワークの価値は、回線それ自体だけでなく加入者の数によって決まる。これをネットワーク外部性という。

 突然変異説は「出アフリカ」の時期とも一致しません。

 前章のおさらいをしましょう。ホモ・サピエンスの歴史は30万年〜20万年前のアフリカに暮らしていた1万4000⼈ほどの集団から始まり、10万年〜8万年前にわずか3000⼈ほどが「出アフリカ」を果たして世界中に広まりました。もしも約7万〜約4万年前の期間(※トバ・カタストロフから芸術活動が花開くまでの期間)に突然変異が起きて⾔語を⾝に着けたとすれば、それは「出アフリカ」の後だったことになります。

 その一方で、⽇本⼈でもアフリカのスワヒリ語を問題なく学べます。アメリカで⽣まれた中国⼈の⼦供は、問題なく英語を⺟国語として習得できます。これは、私たちホモ・サピエンスの⾔語能⼒に遺伝的な差異がほとんど存在しないことを意味しています。

 つまり突然変異説が正しいとしたら、世界のまったく違う場所で、なぜか同じ時期に、なぜか同じ遺伝⼦の、なぜか同じ個所で、どういうわけか同じ突然変異が起きた……という奇跡が必要になってしまうのです。

 たしかに⽣物にはしばしば「収斂進化」が起きますが、これほどまでに完全な⼀致が起きることはありえません。

 かつては「FOXP2」と名付けられた遺伝⼦が、ヒトの⾔語遺伝⼦だと⾒做されたこともありました[12]。イギリスに暮らす重度の⾔語障害を持つ家系で、この遺伝⼦が破壊されていることが分かったからです。じつのところFOXP2遺伝⼦はさほど珍しいものではなく、⼤抵の脊椎動物が持っています。ところが遺伝⼦の配列を調べて他の動物と⽐較すると、ホモ・サピエンスのFOXP2遺伝⼦には特別な突然変異が⽣じていることが判明しました。したがって、この突然変異こそが⾔語能⼒を――ひいては普遍⽂法を――もたらしたのだと考えられたのです。

 しかし化⽯⾻からDNAを抽出する技術が発展すると、ネアンデルタール⼈のFOXP2遺伝⼦にもホモ・サピエンスと同様の突然変異が⽣じていると分かりました。もしもFOXP2遺伝⼦が「⾔語遺伝⼦」だとしたら、ネアンデルタール⼈も⾔語を話せたことになり、彼らと私たちとを分けたのは⾔語の有無だったという仮説は成り⽴たなくなってしまいます。

 結論だけ言えば、FOXP2遺伝⼦は⾔語遺伝⼦ではありません。

 この遺伝⼦が、⾔語の使⽤に必要な脳内の神経回路の形成にかかわっていることは間違いなさそうです。しかし「FOXP2遺伝⼦に突然変異が⽣じたから普遍⽂法を⾝に着けた」などという単純なものではなかったのです。

 加えて、チョムスキーの「普遍⽂法」仮説も、現在では⼤幅な⾒直しを迫られています。端的に⾔えば、すべての⾔語に共通する普遍的な⽂法の構造など存在しなかったからです[13]。現存する約7000の⾔語を研究して明らかになったことは、⾔語は1つの普遍的な⽂法の無数のバリエーションなどではなく、無秩序とも呼べるほど多種多様だということでした。

 私たちの⾔語能⼒が、脳の⽣得的なアーキテクチャに制約を受けることは間違いありません。たとえばアヒルのヒナが⽣まれて初めて⽬にした動くものを⺟親だと⾒做して追いかけるように、私たちは⽣まれて初めて⽿にした⾔語を「⺟語」として習得します。また⼀定の年齢を過ぎると⾔語の習得が困難になる――いわゆる「臨界期」が存在します。これらのことは、私たちの⾔語能⼒が(たとえばビデオゲームのルールを覚えるような)後天的なものではなく、先天的な脳の機能に⽴脚していることを思わせます。⾔語学に⽣物学を持ち込んだチョムスキーの功績は、少しも減じることはないでしょう。

 反⾯、⽂法のルールまでもが脳内にあらかじめインストールされているという⾒⽅は、どうやら怪しそうです。たとえるなら、パソコンのGPUのようなものかもしれません。GPUは、3DCGなどのグラフィックを処理することを専⾨に設計されたパーツです。しかしソフトウェア次第で、暗号通貨のマイニングや、AIの学習・実⾏にも転⽤することができます。同様に、ヒトの脳内にも⾔語処理を専⾨にしている部位が、まず間違いなく存在します。しかし、その部位でどのような⾔語(ソフトウェア)を動かすのかまでは、おそらく⽣得的には決まっていないのです。

 

 

 

毛繕いから言語へ

 

 突然変異による普遍⽂法の獲得ではないとしたら、⼀体どのようにして私たちは⾔語を⾝につけたのでしょうか?

 ヒントの1つは、⼈類にとっての「お喋り」が他の霊⻑類にとって「⽑繕い」のようなものだという点かもしれません。

 霊⻑類にとって⽑繕いは、社会的な絆を深めて、お互いの地位・⽴場を確認するという重要な⾏動です。キイロヒヒの場合、⽑繕いをする仲間の数で「友達の数」を調べることができます。そして友達の多い――つまり⽑繕いをしあう相⼿の多い――メスは、そうでないメスよりも⼦供の死亡率が低いことが報告されています[14]。友達の多い個体は、たとえばエサの中でも栄養価の⾼いものを優先的に得られるとか、(同種のオスを含む)外敵から⾚ん坊を守りやすくなるなど、⽣存・繁殖の上で有利になるのでしょう。私たちホモ・サピエンスも美容院や床屋で髪をシャンプーされると⼼地よさを覚えます。これは、かつて⽑繕いが決定的に重要だった時代の名残りかもしれません。

 とはいえ、ホモ・サピエンスは⽇常的には⽑繕いをしません。代わりに私たちは、友⼈と他愛もない会話を楽しみます。軽い冗談を叩き合い、誰かのウワサ話に花を咲かせることで、友好的な関係であることを確認します。このような軽い「お喋り」は、他の霊⻑類における「⽑繕い」を代替するものだと進化⼼理学者たちは指摘しています[15]。

 この仮説の優れている点はたくさんあるのですが、たとえば「なぜヒトはユーモアを持つのか」という疑問にも明快な答えを与えてくれます。

 ユーモアのセンスがある⼈物とは、要するに「⽑繕いが上⼿い個体」です。誰もがその⼈とお喋りをしたいと望むようになる――⾔い換えれば⽑繕いをする相⼿が増えるわけで、社会的なプレステージが⾼まるのです。

 

 

 ここから先は私の想像です。

 直⽴⼆⾜歩⾏を始めたアウストラロピテクスは「歩きながらでは⽑繕いがしにくい」という問題に直⾯したはずです。前章で書いた通り、彼らはただ2本⾜で歩くようになっただけでなく、⽣活の範囲も広がったはずです。社会的な絆を深めるための⽑繕いに時間を割くほど、資源を探したり縄張りをパトロールするための移動時間が削られてしまう、という⼆者択⼀を迫られたはずです。

 しかし、もしも⾳声で「⽑繕い」を代替できるとしたらどうでしょうか? ⼩⿃たちがさえずりによってお互いを「敵ではない」とアピールするように、あるいはシャチたちが独特の歌で仲間を識別するように、声によって「私たちは友達だ」と確認できるとしたら? ⾳声であれば、移動中でも簡単に交わすことができます。

 実際、テナガザルの中には複雑な歌をうたう種がおり、彼らは敵を威嚇しているときとそうでないときで歌声を変えます[16]。敵対⼼の有無を声⾊によって⽰すことは、アウストラロピテクス以前の⼤型霊⻑類の時代から可能だったはずです。1⽇のうちの移動時間が増えるにつれて、社会的な絆を確かめる⽅法として「歌」の⽐重が増していき、反⾯、「⽑繕い」の重要度が減じていったのではないでしょうか。

 もちろん、⼩⿃のさえずりやシャチの歌、テナガザルの歌を「⾔語」だと⾒做す⾔語学者はいないでしょう。これらはただの「鳴き声」であり、複雑で再帰性のある「⾼度な⾔語」ではありません。しかし、「鳴き声」と「⾼度な⾔語」との中間的な段階が300万年ほど続いたのではないかと私は想像しているのです。

 私たちの祖先も、最初はテナガザルのような歌しか歌えなかったはずです。しかし現代⼈の⼦供が⺟国語を習得していくのと同様に、まずは指差しで誰かの視線を追うことができるようになり、やがて指差されているものを特定の⾳声のパターン――すなわち「名詞」――で呼べるようになり、さらに名詞で呼ばれたものをどうしたいのかという「動詞」が⽣まれて……。という具合に、ゆっくりと進化を重ねてきたのではないでしょうか。突然変異説に対して、こちらは漸進進化説とでも呼びましょう。

 余談だが、指差しはヒトに特有の行動で、他人が指差した先を目で追える動物はヒト以外にほぼいない。数少ない例外の1つはイヌで、飼い主の指差しによる命令を理解できる。1万年を超えるヒトとの共同生活で、イヌたちはこの能力を身に着けたようだ[17]。

 休⽇の新宿御苑に⾏くと、様々な年齢層のグループが徒党を組んで歩いています。2⼈で寄り添って散歩するカップルもよく⾒かけます。彼らはみんな楽しそうに「お喋り」をしています。300万年前の私たちの祖先も、同じように歩きながら絆を確かめ合っていたのではないか――。私にはそう思えてなりません。

 おそらく「⾔語」は、⼩⿃のさえずりのような敵意がないことを確認し合う歌や、求愛の歌から始まりました。そして、世代を重ねるごとに複雑さを増していき、やがて「出アフリカ」の前までに「⾼度な⾔語」として完成したのでしょう。これが私の仮説です。少なくとも、ある⽇突然に天才児が⽣まれたという仮説よりは説得⼒があると思うのですが、いかがでしょうか?

 

 いずれにせよホモ・サピエンスの⾏動が現代化する約4万年前には、私たちは「⾔語」を持っていたはずです。しかし、それを記号として何かに刻んで記録する――すなわち「⽂字」を発明するまでには、さらにもう1つの⼤きなイノベーションが必要でした。

 それは、農耕定住⽣活の開始です。

 

 

 

(次回、「文字」編へ続く。)

(本記事は、シリーズ『AIは敵か?』の第4回です)

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 この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

 

 

 

※※※参考文献※※※

[1] ジョセフ・ヘンリック『⽂化がヒトを進化させた ⼈類の繁栄と〈⽂化-遺伝⼦⾰命〉』(⽩揚社、2019年)P.388

[2] ダニエル・E・リーバーマン『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房、2015年)上巻P. 218-223

[3] ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(河出書房新社、2016年)上巻P.36

[4] ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン 「⾔語本能」を超える⽂化と世界観』(みすず書房、2012年)P.250

[5] モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター『⾔語はこうして⽣まれる 「即興する脳」とジェスチャーゲーム』(新潮社、2022年)P.260

[6] デヴィッド・M. バス『⼥と男のだましあい ヒトの性⾏動の進化』(草思社、2000年)P.314-315

[7] グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』(日経BP社、2009年)上巻P.158

[8] ジョセフ・ヘンリック『⽂化がヒトを進化させた』(⽩揚社、2019年)P.207-208

[9] ⽔⼝博也『シャチ⽣態ビジュアル百科(第1版) 世界の海洋に知られざるオルカの素顔を追う』(誠文堂新光社、2015年)P.40

[10] ⽔⼝(2015年)P.122-125

[11] ⽔⼝(2015年)P.62-68

[12] クリスチャンセン、チェイター(2022年)P.187-193の議論を参照

[13] クリスチャンセン、チェイター(2022年)P.138-139

[14] D.C.ギアリー『心の起源 脳・認知・一般知能の進化』(培風館、2007年)P.31

[15] ロビン・ダンバー『友達の数は何⼈? ダンバー数とつながりの進化⼼理学』(インターシフト、2011年)P. 67-70

[16] 岡ノ⾕⼀夫『「つながり」の進化⽣物学』(朝⽇出版社、2013年)P.145-147

[17] ブライアン・ヘア、ヴァネッサ・ウッズ『ヒトは〈家畜化〉して進化した』(白揚社、2022年)p33-51の議論を参照