デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ヒトは「肉体的に弱い動物」ではない

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⽕があればできること

 

「 無⼈島に何か⼀つだけ道具を持っていけるとしたら、何を持っていくか?」という質問に、私は冗談めかして「マンガ『寄⽣獣』全巻」と答えています。

 しかし、真剣に考えるのなら「⽕打⽯もしくは⼤きな⾍眼鏡」になるでしょう。どちらも(たとえば「錐揉(きりも)み式」などに⽐べて)熟練を要さない着⽕器具です。ライターやマッチのような燃料切れもありません。⼩学⽣の頃に、⾍眼鏡で太陽光を集めて⽕を起こすというイタズラをしてこっぴどく叱られたのは、私だけではないでしょう。

 ⽕は、太古のテクノロジーです。

 ヒトは⾷料がなくても、⽔さえあれば数週間は⽣きられます。が、煮沸消毒していない⽣⽔を飲むことは⼤変危険です。未加熱の⾷品を⾷べる実験では、栄養学上は充分なカロリーを摂取していたにもかかわらず、わずか12⽇間で被験者の体重が平均4.4キログラムも減少したという報告があります[1] 。タンパク質もデンプン質も、⽣のままでは消化効率が悪いからです。「飲・⾷」のどちらでも、⼈類にとって⽕は必須です。
体温維持にも⽕は⽋かせません。暑さなら服を脱いで⽇陰に⼊り、⽔浴びをすればしのぐことができるでしょう。ところが寒さはそうはいきません。⾵⾬を防げるシェルターを作るだけでも、かなり知識と経験が必要です。たとえそういう家屋を作ることができても、暖房なしで室温を維持するのは⾄難のわざです。

 さらに、もしもその無⼈島にヒョウやオオカミ、クマのような⾁⾷獣が棲息していたら? 暗闇の中で地⾯に横たわって眠るのは、想像を絶するほど危険です。しかし、⼤抵の動物は炎を恐れます。燃えさしを投げつければ、追い払うこともできるでしょう。もちろん中には炎を恐れない個体もいるでしょうが、焚⽕の近くで眠るだけで安全性を⼤幅に⾼められます。

 ⽕は道具の制作にも役⽴ちます。たとえば⽊の棒を鎗(やり)ややすに加⼯する場合、⽯のナイフで削るのは重労働です。しかし、炎であらかじめ棒の⼀端を焦がしておけば、⽐較的簡単に鋭く尖らせることができます。植物の繊維を編んで紐を作ることができたとして、ナイフがなくても炎があれば簡単に切断できます。松脂などを接着剤として使⽤する場合にも、⽕で加熱できれば便利です。丸⽊⾈を作る際にも、くり抜く部分をあらかじめ炎で焼いて炭化させておくという⼯法があります。

 飲⾷・防寒・安全確保・道具加⼯――。⽕があるだけで、私たち⼈類の⽣存能⼒は格段に⾼まるのです。

 じつのところ、⽕は最新のテクノロジーでもあります。

 この原稿を書いているパソコンの電⼒は、⼤半は⽕⼒発電所で発電されています。原稿を書きながら私が飲んでいるコーヒーの⾖は、ガソリンを燃やして動く船や⾃動⾞によってここまで運ばれました。⾝の回りの⼯業製品のうち、原材料の精錬から加⼯まで、⽕の熱エネルギーを使わずに作れるものはほとんどありません。スペースX社の最新鋭の宇宙船ですらロケット燃料を燃やして⾶びます。

 私たちは「⽕」という太古のテクノロジーから卒業できたわけではなく、その延⻑線上を⽣きているのです。

 ⼈類にとって、これほど⼤切な「⽕」――。

 私たちは、⼀体いつから⽕を利⽤してきたのでしょうか?

 

 

私たちはどこから来たのか

 

 チャールズ・ダーウィンが1859年に『種の起源』を刊⾏すると、⻄欧社会は衝撃に包まれました。じつのところ進化論――⽣物の種は別の種から⽣まれたという発想――そのものは、ダーウィン以前から存在しました。たとえばジャン=バティスト・ラマルクの「⽤・不⽤説」が有名でしょう。簡単に言えば、キリンの⾸が⻑くなったのは⾼いところのエサを⾷べるために⾸を伸ばし続けたからだ……という理論です。また、万物にはより⾼次の存在に進化したいと願う欲求のようなものがあるという、現代の⽔準で⾒ればオカルティックな理論もありました。

 ⽐べると、ダーウィンの進化論――⾃然選択説――には神秘的な要素がありません。⼈間に⾝⻑の⾼い⼈と低い⼈がいるように、キリンの祖先には⾸の⻑さに個体差があったはずです。より⾸の⻑い個体のほうが、より⾼い場所のエサを⾷べることができ、敵の接近にも気づきやすかったので、より⽣き残りやすく、よりたくさんの⼦孫を残した。それが何百世代、何千世代も繰り返された結果、キリンの⾸は⻑くなったのだ――と、⾃然選択説では説明されます。

 ダーウィンの進化論はオカルトや宗教的な要素を廃した、史上初めての科学的な進化理論だったのです。

 厳密には「ダーウィンとウォレスの進化論」と書くべきだろう。アルフレッド・ラッセル・ウォレスはダーウィンと同時代に類似の仮説に辿り着いた。自然選択説は当初、ダーウィンとウォレスの共同論文という形で発表された。


種の起源』の中で、ダーウィンは⼈類の起源についてほぼ⾔及していません(それは後年の『⼈間の由来』で詳しく論じています)。にもかかわらず、⾃然選択説の⽰唆するところは読者の⽬には明らかでした。

 ヒトはサルから進化した――。

 ⼈類は神の姿に似せて創造されたと信じていた当時の⼤半の読者にとって、それはにわかには受け⼊れがたい発想でした。だからこそパニックとも呼べるほどの激しい反応を引き起こしたのです。

 最近の30年ほどで、⼈類進化のストーリーはかなり細かい部分まで解明されつつあります。しかし世間には、その知識があまり浸透していないようです。「直⽴⼆⾜歩⾏と⼤きな脳のどちらが先に進化したのか?」「サルとヒトの間には進化の〝失われた環(ミッシング・リンク)〟があるのではないか?」といった、19世紀と同様の疑問をしばしば⽬にします。

 ここでは⼈類の進化史を、かいつまんでご紹介しましょう。

 ⼊⾨編として、ここで登場する化⽯⼈類は3種類だけです。

 第⼀にアウストラロピテクス。彼らは⼟踏まずのある扁平な⾜を持ち、直⽴⼆⾜歩⾏をしていた猿⼈です。しかし上半⾝はチンパンジーと同様、⽊登りに適した強靭な腕を失わずにいました。また脳の容量もチンパンジーと⼤差ありませんでした(多少は増えていましたが)。⼀体なぜ彼らは地上を歩き回るようになったのでしょうか?

 第⼆にホモ・エレクストス。かつてはピテカントロプスと呼ばれていた原⼈です。私たち⼈類は、かぎ⽖も⽛もない⾮⼒な動物だと考えられがちです。しかし⼀つだけ、どんな哺乳類にも負けない⾝体能⼒があります。それは⻑距離⾛の能力です。ホモ・エレクトスの時代には⻑距離⾛に適応した⾝体的特徴が出揃っており、くびれた腰や⻑い⼿⾜など、現代⼈と変わらない体つきになっていました。⼀体何のために私たちはこんな体を⼿に⼊れたのでしょうか?

 第三に、ホモ・ネアンデルターレンシスネアンデルタール⼈の名前で親しまれている旧⼈です。彼らの脳容量は平均1450mlに達し、私たちホモ・サピエンスの平均1350mlを上回っていました。にもかかわらず、彼らの道具は私たちほど創意⼯夫を凝らしたものではなく、また、装飾や葬儀などの⽂化的習慣もあまり発達していませんでした。⼀体どこに彼らと私たちの違いがあったのでしょうか?

 

 

大型霊長類たちの森

 約1600万年前、地球はサルの惑星でした。

 温暖な気候により、アフリカやヨーロッパからユーラシア⼤陸の東端まで巨⼤な森林に覆われていたのです。私たち⼤型霊⻑類はこの森林の中で誕⽣し、⼤いに繁栄したようです。

 その後、地球の寒冷化と乾燥に伴い、⼤陸の中央から森林が失われていきました。その結果、⼤型霊⻑類たちは残った森林に「取り残される」ことになりました。

 現生の大型霊長類は(ヒトを除けば)、アフリカの森林地帯に⽣息するゴリラやチンパンジーの仲間と、東南アジアのスマトラ島およびボルネオ島に⽣息するオランウータンが生き残っています。彼らの祖先はインド洋を泳いで渡ったわけではなく、かつては⼀つの巨⼤森林に暮らしていた祖先が、別々の「⾶び地」に分断されたことで、それぞれの地域で独⾃の進化を遂げることになったのです。

 サルの楽園だった巨⼤森林の中で、私たちの祖先はある重要な特徴を⾝につけました。それは「膝をまっすぐに伸ばせること」です。元々は樹冠で、より遠くの枝へと移動することに便利だったと考えられています。ただ腕を伸ばすだけでなく、膝も伸ばせれば、より遠くの枝へと⼿が届くわけです。

 この「膝をまっすぐに伸ばす」という特徴を⾝につけたからこそ、私たちは直⽴⼆⾜歩⾏が可能になりました。ヒト以外では、オランウータンもこの特徴を残しています。YouTubeで検索すると、動物園のオランウータンが(まるでヒトのように)膝をまっすぐに伸ばして⼆⾜歩⾏している動画を⾒つけることができます。

 ⼀⽅、よりヒトに近縁のゴリラやチンパンジーでは、この特徴は失われてしまいました。彼らはナックルウォーク――前肢をじゃんけんの「グー」の形にして、四つ⾜で歩く歩⾏法――に適応した結果、膝を伸ばすという特徴を失ったのです。こちらもやはり、YouTubeを検索すると動物園で飼育されている個体の動画がたくさん⾒つかります。それらを⾒ると、膝をまっすぐに伸ばせないため、⼆⾜歩⾏をしようとしても前屈みの不⾃然な姿勢になってしまうことが分かります。

 

 

 私たちが共通祖先から分かれた時期については、未だに議論が続いています。少なくともゴリラの仲間は、ヒトとチンパンジーよりも⼀⾜先に分岐したようです。また、チンパンジーとヒトが分岐した時期は、遺伝学的な研究ではおよそ500万年前だと計算されています。が、正確な年代は今でも結論が出ていません[2]

 一方、2001年にアフリカのチャドで発⾒されたサヘラントロプス・チャデンシスのもので、少なくとも600万年前、ことによると720万年前のものだと推測されています[3]。この他にもケニアでは「ミレニアム・マン」というニックネームで呼ばれる610万〜572万年前の化⽯が出⼟しました[4]。また、エチオピアでは「カダバ」の名で呼ばれる化⽯が出⼟しました。こちらは577万〜554万年前のものだと⾒られています[5]。いずれも直⽴⼆⾜歩⾏していた可能性があります。

 ポイントは、遺伝学的な研究から判明したヒトとチンパンジーとの分岐した時期よりも、これらの化⽯のほうが古いということです。

 もちろん、こうした年代測定はどれほど正確でも数⼗万年の誤差があるものです。したがって、これらの化⽯⼈類が私たちの直接の祖先だと⾒做すことが定説になっているようです。

 反⾯、もしも遺伝学的研究と化⽯の年代測定のどちらも正しいとしたら、彼らは、私たちとは直接の⾎の繫がりはないことになります。現代でこそホモ・サピエンスしか⽣き残っていませんが、もしかしたら700万〜500万年前のアフリカでは「直⽴⼆⾜歩⾏する⼤型類⼈猿」は、さほど珍しい存在ではなかったのかもしれません。

 

 

直立二足歩行の利点

 

 チンパンジーは縄張り意識の強い動物です。群れから群れへと移動できるのは若いメスだけで、もしも孤⽴したオスが不運にも他の群れのチンパンジーたちに出会ってしまった場合、暴⼒的な襲撃を受けて、最悪の場合には殺害されてしまいます。

最近ではNetflixのドキュメンタリー番組『チンパンジーの帝国』で、この様子が詳しく描かれていた。ややチンパンジーを擬人化しすぎているようにも感じたが。

 私たちとチンパンジーの共通祖先も、同じくらい縄張り意識の強い動物だったかもしれません。だとすれば、私たちの祖先は競争に負けて森の中⼼部にいられなくなった「弱い集団」だった可能性が⾼い。なぜなら直⽴⼆⾜歩⾏は、森の外縁部の⽊々がまばらで草原と接しているような環境――ゴリラやチンパンジーが好まない環境――に適応した特徴だからです。

 森林の中⼼部では、地上の⽔平⽅向の移動だけでなく、樹冠と地上との上下⽅向の移動――三次元的な移動能⼒が重要になります。⼀⽅、⽊々がまばらになると、上下移動の重要性は下がります。枝から枝へと⾶び移ることが難しくなり、地上を歩く時間が⻑くなります。

 また森林外縁部では、エサを探して移動しなければならない範囲も広がります。密林の中⼼部では、果物や若葉、昆⾍、⼩動物などのエサとなりうるものが三次元的に分布しています。⼀⽅、樹⽊が減るほど、利⽤可能な資源は地⾯近くに――⼆次元的に配置されることになります。同じ量の資源を獲得するためには、より広い範囲を移動する必要があるはずです。

 直⽴⼆⾜歩⾏は、このような環境に適応した移動⽅法です。

 まずエネルギー消費の⾯で、どうやら私たちの直⽴⼆⾜歩⾏はゴリラやチンパンジーのナックルウォークよりも効率が良いらしいのです[6]。全身の筋肉を使うナックルウォークに対して、手足を振り子のように使うことで余計なカロリーの消費を抑えることができるようです。

 また、資源探索の面でも直立二足歩行には⾒逃せない利点があります。単純すぎてバカバカしく感じる話ですが、両⼿が⾃由になることで、よりたくさんのエサや荷物を運べるようになります。

 ⽇本では2020年よりレジ袋が有料化されましたが、両⼿と両脇を使えばかなりの量の荷物を袋なしでも運べるのだ……と実感した読者は多いはずです。たとえばラッコは、⾃分のお気に⼊りの⽯を脇の下に挟んで持ち歩きます。チンパンジーと同程度の知性を持っていた初期⼈類もごく原始的な道具は使っていたはずで、愛用の⽯やこん棒を脇に挟んで歩き回っていたかもしれません。

 さらに、直立二足歩行では視点が高くなることも利点です。この時代のアフリカは、霊⻑類にとって⾮常に危険な場所でした。現在のライオンやオオカミ、ハイエナの祖先たちや、サーベルタイガーなどの⾁⾷獣がうじゃうじゃと棲息していたのです。⼤型の猛禽類に襲われたアウストラロピテクスの子供の化石も出土しています[7]。視点が高くなれば、そうした危険な外敵にもいち早く気づくことができたでしょう。

 加えて、直⽴⼆⾜歩⾏なら⽇光の投射⾯積を⼩さくできるという利点もあります。

 哺乳類は体温を維持する能⼒を⾝に着けたことで、寒さに強く、恐⻯を絶滅させたK-Pg境界の気候変動を⽣き延びました。

K-Pg協会とは、地質年代区分のうち約6500万年前の中生代新生代の境目を指す。巨大隕石の衝突による気候変動などにより(鳥類を除く)恐竜が絶滅した。K-T境界とも呼ばれる。

 ところが私たち哺乳類の恒温性には思わぬ⽋点がありました。体がオーバーヒートしやすく、最悪の場合には⾃分⾃⾝の体温で死に⾄る――熱中症の危険性があるのです。

 これはサバンナや森の外縁部のような、⽊陰の少ない環境では深刻な問題です。ただでさえ⽇中の気温が⾼いだけでなく、四つ⾜歩⾏では背中全体を太陽に熱されてしまうからです。そのためライオンを始めとした⾁⾷獣たちは、気温の低い明け⽅や⼣⽅、夜間に狩りを⾏います。熱中症を避けるために⽇中は⽊陰で休んでいます。

 一方、直立二足歩行なら、四つ⾜歩⾏に⽐べて⽇光の当たる⾯積が小さく、太陽熱による体温上昇を最⼩限にできます。⾁⾷獣たちが暑さでへばっている⽇中にも活動しやすくなるのです。外敵に襲われるリスクを減らしながら、エサを求めて歩き回ることが可能になります。

 以上のように、森の外縁部では直⽴⼆⾜歩⾏の得意な個体のほうがより⽣き残りやすくなり、より多くの⼦孫を残したのです。「⼤きな脳と直⽴⼆⾜歩⾏のどちらが先か?」という疑問の答えは、現在では明確に出ています。直⽴⼆⾜歩⾏が先であり、それは⽊々の少ない開けた環境への適応でした。

 

 

アウストラロピテクス

 直⽴⼆⾜歩⾏をする霊長類の中で、この時代にもっとも成功した動物がアウストラロピテクスです。およそ400万年前〜100万万年前のアフリカに暮らしていた猿⼈です。現⽣のホモ属が私たちサピエンス1種なのに対して、アウストラロピテクス属には約10種が知られています。彼らはまず間違いなく、私たち現⽣⼈類の祖先だと⾒做されています。

 とはいえ、もしも彼らが今もまだ⽣き残っていたとしても、⼈間として選挙権を認められることはなく、物園の檻の中で飼育されることになったでしょう。その外⾒は「直⽴⼆⾜歩⾏するチンパンジー」という形容がぴったりでした。

 アウストラロピテクスの体⽑はまだ薄くなっておらず、全⾝が⽑⽪で覆われていたと想像されています。脳容量は(やや⼤きいものの)チンパンジーと同程度で、⼝吻(こうふん)はゴリラやチンパンジー、オランウータンと同様に⼤きく前に突き出していました。平均⾝⻑は1・1〜1・4メートルほど[8]。現代の私たちのように俊敏に⾛ることはできず、敵に襲われたときや夜間の就寝時には⽊に登って安全を確保していたとみられています。

 その⼀⽅で、アウストラロピテクスは私たちにも共通する特徴を、すでに数多く持っていました。先述の通り⼟踏まずのある扁平な⾜を持ち、後肢で枝を摑めるという類⼈猿の特徴を失っていました。⾻盤はお椀やボウルのように広がっており、直⽴した際に内臓を下から⽀えることができました。⼀歩ごとの衝撃を吸収できる、⼤きく発達したかかとの⾻を持っていました。直⽴時に上体を安定させることに役立つ(横から⾒ると)⼸型にカーブした腰椎を持っていました[9]。これらの特徴は私たちホモ・サピエンスにも受け継がれています。

 アウストラロピテクスの⽣態を、その⾻格から推測してみましょう。

 彼らはがっちりした頬⾻と⼤きな⾅⻭を持っていました。また、理科室の⾻格標本を⾒たことがある⼈なら分かる通り、ホモ・サピエンスの肋⾻は樽のような形状に組み⽴てられています。⼀⽅、アウストラロピテクスの肋⾻はすその広がった、逆さにしたプリンのカップのような配置でした。これは彼らの消化器官が(体重⽐で)現⽣⼈類よりも⼤きかったことを⽰唆しています。彼らは⻑く頑丈な胃腸を持っていたのです。

 ここから想像できるのは、彼らがかなり硬いものを⾷べていたということです。

 チンパンジーは果実を主⾷としています。⼀⽅、森林を追われたアウストラロピテクスたちは、デンプン質の多い塊茎や根を主⾷にしていたと⾒られています[10]。⼤きな⾅⻭と頬⾻は、⾷物繊維の多いエサを時間をかけて嚙み砕くことに役立ったはずです。

 脳の容量から⾔って、アウストラロピテクスチンパンジーと同じかそれ以上に賢い動物だったはずです。地上に⾒えている植物から地下の様⼦を想像してエサを探すことなど、お⼿のものだったでしょう。⽊の棒などを道具として使って、⼟を掘り返すくらいのこともできたはずです。

 隠れ家の多い森林に⽐べて、開けた場所では⾁⾷獣に襲われるリスクが⾼くなります。このような場合、哺乳類は群れのサイズを⼤きくすることで対抗します[11]。個体数が増えるほど外敵に襲撃されにくくなるからです。これがアウストラロピテクスにも当てはまるとしたら、彼らはチンパンジーよりも⼤きな群れを作っていたかもしれません。このことが、ホモ属の協調性や協⼒⾏動の萌芽に繫がった可能性があります。

 約500万年前、私たちの祖先はチンパンジーの祖先とは別の道を歩み始めました。そして約400万年前にはアウストラロピテクスが現れ、ホモ・サピエンスへと続く進化の旅の第⼀歩を踏み出したのです。2本の⾜で。

 

 

ホモ・エレクトス:哺乳類最強のマラソンランナー

 17世紀の哲学者ブレーズ・パスカルは「⼈間は考える葦である」と述べました。ここには、⼈類の最⼤の武器は知性であり、⾁体は脆弱だという暗黙の了解が横たわっています。ヒトにはかぎ⽖も⽛もありません。イヌのような嗅覚も、ウサギのような聴覚もありません。⾝体能⼒では劣るものの、知性のおかげでどうにか⽣き延びることができた――。パスカルに同意する⼈は多いでしょう。

 しかし⾁体的に脆弱であるという⾒⽅は、誤りです。じつは⼈類には、コウモリの⾶⾏能力やイルカの遊泳能⼒に匹敵するほどの、哺乳類で随⼀の⾝体能⼒があるのです。

 それが⻑距離⾛の能⼒です。 

 2020年のコロナ禍で外出制限がなされたとき、運動不⾜解消のために私はルームランナーを買いました。そして驚くべきことに、時速10〜12キロメートルで、20〜30分間も⾛り続けることができたのです!

 なぜ驚くべきかといえば、私は大の運動音痴だからです。

 ⼩中学⽣の頃には、いつも体育の授業をサボる理由を探していました。現在の職業は作家であり、1日の大半をパソコンの前で座って過ごす⼩太りの中年男性です。これほど条件の悪い個体でも、ヒトは4〜6キロメートル程度であれば有酸素運動で⾛り抜くことができるのです。野⽣のチンパンジーの1⽇の移動距離が平均2〜3キロメートルに過ぎないことを考えると、これは驚異的な移動能⼒だといえます。

 

 たとえばアキレス腱を考えてみましょう。ヒトの成⼈は⻑さ10センチメートルを超える巨⼤なアキレス腱を持ちます。⼀⽅、ゴリラやチンパンジーのアキレス腱は1センチメートルにも満たず、アウストラロピテクスも⼤差なかったと考えられています[12]。直⽴⼆⾜歩⾏をするだけなら、アキレス腱はさほど重要ではありません。アキレス腱が真価を発揮するのは⾛⾏時です。これがバネとして働くことで、⾛るときの⼒学的エネルギーの約35%を蓄えたり放出したりできるのです。

 ⼈体で最⼤の筋⾁は⼤臀筋――すなわち、お尻の筋⾁です。これも歩⾏時にはさほど使われていません。この筋⾁が役⽴つのはやはり⾛⾏時で、着地時に固く引き締まることで、上体を安定させる機能を果たします。私たちが転倒せずに⾛れるのは⼤臀筋のおかげです。

 さらに三半規管も、私たちは他の霊⻑類より発達しています。たとえば公園でジョギングしているポニーテールの⼥性を思い浮かべてください。彼⼥の髪は激しく上下左右に揺れているはずです。本来であれば、頭部全体に同じだけの揺れが加わっています。それでも彼⼥が⽬を回さないのは、三半規管が敏感に揺れを感知して、それを打ち消すように⾸や⽬の筋⾁が働いているからです。歩くだけなら、これほど⾼性能のジャイロセンサーは必要ありません。

 約190万年前に現れた原人のホモ・エレクトスは、これらの⾝体的特徴をほぼすべて⾝につけていました。脳容量こそ約1000mlと現代⼈の4分の3ほどしかありませんでしたが、四肢のプロポーションは私たちとほぼ同じになっていました。もしも彼らが現代まで⽣き延びていたとして、銀座や原宿で売っている⾐服を難なく着こなすことができたはずです。

 化石に残らない体毛や汗腺も、ホモ・エレクトスは現代人と同様になっていただろうと推測されています。

 じつは⽪膚1平⽅センチメートルあたりの⽑根の密度は、ヒトとチンパンジーにさほど違いはありません。私たちの表皮が露出しているのは、毛の1本ずつが細いからです。また、汗腺も発達しており、⼤量の汗をかくことで体温を下げることができます。ヒトは哺乳類の中では極めて暑さに強い動物なのです。

 先述の通り、哺乳類には体がオーバーヒートしやすいという欠点があります。汗をかくのが苦⼿な四つ⾜歩⾏の動物の場合、浅い息を繰り返すことで体内の熱を放出します。あなたが愛⽝家であれば、ハアハアと荒い息をして体を冷ますイヌの姿を⾒たことがあるでしょう。ところが四つ⾜の動物では肺が⾜の動きの影響を受けるため、襲歩(ギャロップ)で⾛⾏している時にはこの呼吸法ができなくなり、体を冷やせなくなるのです。

 したがって四つ⾜の動物が狩りをする場合、あるいは敵から逃げる場合には、襲歩による⾼速⾛⾏と涼しい場所での休憩を繰り返す必要があります。体温を下げて、乳酸を始めとする疲労物質が筋⾁から洗い流されるのを待たなければなりません。

 もちろんヒトも全⼒疾⾛時には無酸素運動になります。しかしその間も、汗をかいて体を冷やし続けることができます。有酸素運動から無酸素運動に切り替わる⾛⾏速度も、他の哺乳類に⽐べて⾼めです。

 2004年のアテネオリンピック・⼥⼦マラソンは、気温30度を超える猛暑の中で⾏われました。この過酷なレースを野⼝みずき選⼿は2時間26分20秒で駆け抜けて⾦メダルに輝きました。こんな芸当ができる哺乳類は、ヒト以外に存在しません。

 この並外れた⻑距離⾛の能⼒は「持久狩猟」に役立ったので発達したと考えられています。これは原始的な狩猟法の⼀つで、獲物が熱中症で倒れるまで炎天下で何時間も追いかけ続けるという方法です。

 もちろん全⼒疾⾛するシマウマやレイヨウに、ヒトは追いつけません。しかしヒトは(イヌのような嗅覚がなくても)優れた視覚と知能でアニマル・トラッキングを⾏い、獲物の休憩場所を探し当てることができます。獲物に休む暇を与えず、暑さで⾝動きが取れなくなったところを、⽯やこん棒で撲殺して仕留めるわけです。この⽅法なら鋭い⽛もかぎ⽖も必要ありません。

 BBCのYouTubeチャンネルでは、現代のアフリカ・サン族の持久狩猟の様⼦を撮影したドキュメンタリー番組を⾒ることができます(動画内では8時間に渡って獲物を追いかけています)[13]。おそらくホモ・エレクトスも、これに似たような⽅法で狩猟を⾏っていたのでしょう。

 とはいえ動画の中のサン族の人々は、ゴム底のスニーカーを履き、プラスチック製の水筒を装備している。長距離走で獲物を追うという点は同じでも、細部は現代のテクノロジーでアップデートされている。

 アウストラロピテクスの時代には、私たちの祖先は草⾷中⼼の雑⾷性でした。しかしホモ・エレクトスの時代には、捕⾷者(プレデター)として進化していたのです。

 

 

遅すぎる技術革新

コンソ遺跡のアシューリアン⽯器の変遷。右下から左上に、約175万年前、160万年前、125万年前、85万年前のハンドアックス(画像出典:東京⼤学総合研究博物館


 ホモ・エレクトスは握斧(ハンドアックス)と呼ばれる⽯器を製作していました。これは獲物の解体などに使われていたと推測されています。

 残された⽯器を⾒ると、技術の進歩に数⼗万年という単位で時間がかかったことが分かります。インテルのプロセッサが過去50年でどれほど進歩したかを考えると、あまりにも技術⾰新が遅いことに驚かされます。

 彼らの名誉(?)のために⾔えば、綺麗な握斧を作るのは現代⼈でも難しく、熟練が必要です。しかし彼らに、現代⼈と同じような創意⼯夫の才能があったとは思えません。どちらかといえば「⼤⼈の作っている⽯器を⼦供が真似して作っていただけ」ではないでしょうか。そして模倣の過程でコピーのエラーが起きて、偶然にも「以前よりもちょっと良い作り⽅」が⽣まれたら、それが集団内に広まっていったのではないでしょうか。

 ホモ・エレクトスの技術の進歩には、現代⼈の創意⼯夫とはまったく違うメカニズムが働いていたはずだと、私には思えます。

 ホモ・エレクトスは成功した動物でした。ジャワ原⼈や北京原⼈という名前を聞いたことがある読者は多いと思います。それらも現在ではホモ・エレクトスに分類されています。つまり彼らはアフリカを出て、はるか彼⽅の極東アジアにまで⽣息域を広げていたのです。ジャワ島ではほんの11万年前まで棲息していたようです[14]ホモ・サピエンスが現れたのがざっくり20万年ほど前ですから、彼らは私たちの9倍ほども⻑く⽣き延びていたことになります。

 彼らの繁栄に知能が必要なかったとは⾔いません。しかし、ホモ・エレクトスの成功の⼀番の要因は、⼈間らしい創意⼯夫の才能ではなく、哺乳類最強の⻑距離⾛の能⼒でした。

 毎晩、⾵呂場で⾃分のアキレス腱を⾒るたびに私はこう感じます。

 ⼈間は考える脚である、と。

 

 

 

(次回、「火」編に続く。)

(本記事は、シリーズ『AIは敵か?』の第2回です)

★お知らせ★
 この連載が書籍化されます!6月4日(火)発売!

 

 

※※※参考文献※※※

[1] リチャード・ランガム『⽕の賜物 ヒトは料理で進化した』(NTT出版社、2010年)P.18-19

[2] クライブ・フィンレイソン『そして最後にヒトが残った ネアンデルタール人と私ったちの50万年史』(白揚社、2013年)P.42

[3] ダニエル・E・リーバーマン『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』(早川書房、2015年)上巻P.56

[4] フィンレイソン(2013年)P.45

[5] フィンレイソン(2013年)P.23

[6] リーバーマン(2015年)上巻P.72

[7] リチャード・ドーキンス『進化の存在証明』(早川書房、2009年)P.288

[8] リーバーマン(2015年)上巻P.86

[9] リーバーマン(2015年)上巻P.103-104

[10] リーバーマン(2015年)上巻P.99

[11] ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた ⼈類の繁栄と〈⽂化-遺伝⼦⾰命〉』(白揚社、2019年)P.445

[12] リーバーマン(2015年)上巻P.137

[13] The Intense 8 Hour Hunt | Attenborough Life of Mammals | BBC Earth(https://youtu.be/826HMLoiE_o

[14] nature「【考古学】ホモ・エレクトスの最後の姿」(https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/13170