⾒返りが労働と格差、そして戦争だとしたら、
なぜ⼈々は狩猟採集から農業に乗り換えてしまったのだろう
⼤ヒットしたマンガ『ゴールデン・カムイ』(集英社)の功績は、(マンガとしての誇張はあるとはいえ)アイヌ⺠族を「豊かな⽂化を持つ⼈々」として描き、そのイメージを広めたことでしょう。
かつての狩猟採集⺠族には「常に飢えと隣り合わせの貧しい⼈々」というイメージがあり、⼈類は農耕定住⽣活という素晴らしい発明によって、その貧しさから脱したのだというストーリーがまことしやかに語られていました。現代の⽇本でも同様のイメージを持つ⼈は珍しくないでしょう。
しかしマンガの中でも描かれた通り、アイヌの⼈々はコタンと呼ばれる村を作り、チセという家を作って暮らしていました。和⼈との交易があったとはいえ、彼らの経済は基本的には狩猟採集に⽴脚していました。じつのところ狩猟採集と農耕定住とは綺麗に⼆分できるものではなく、その中間段階の⽣活様式がたくさんあるのです。北海道のような⽣物資源の豊かな地域では、狩猟採集⽣活であっても、定住や半定住が可能になります。
農耕の開始によって⼈類が貧しさから抜け出したという⾒解も、現在ではほぼ否定されています。古⼈⾻の研究により、狩猟⺠が農耕定住⽣活を始めると体格・⾝⻑・⾻密度のすべてが低下することが確認されているからです[18]。
⾝⻑は栄養状態に敏感に反応する指標です。幼少期に栄養失調を経験すると、ヒトは⾝⻑があまり伸びません。体のサイズが⼩さければ、それだけ基礎代謝が少なくて済みます。⾷糧難の環境に適応して省エネの⾁体になるのです。農耕の開始後に⾝⻑低下が⾒られたことは、それだけ⼈々の⾷⽣活が貧しくなったことを意味しています。
狩猟採集⽣活では、⾷事のメニューは多彩です。穀類や芋類などのデンプン質、⾁・⿂・昆⾍などのタンパク質、さらに果物や野草、キノコ類――。栄養バランスに優れた⾷事を摂ることができます。
⼀⽅、農耕定住⽣活では⾷事のメニューはデンプン質に偏りがちです。⻨や⽶などの炭⽔化物は⼊⼿しやすい反⾯、たとえば畜⾁は年に数度しか⾷べられないご馳⾛になってしまうのです。栽培技術も品種改良も未熟だった初期の農耕⺠族では、このような偏⾷が⼦供の栄養状態に深刻な悪影響を及ぼしたのでしょう。農耕開始後に⾝⻑が低くなった要因の1つだと考えられています。
また、農耕定住⽣活では集落の⼈⼝密度が⾼まり、疫病が蔓延しやすくなります。農耕定住⽣活は⼈⼝増加率が⾼いためです。
狩猟採集⺠族では、農耕⺠族よりも乳離れが遅くなることが知られています[19]。1⽇あたりの移動距離や移動時間が⼤きくなるので、⼦供が⾃⽴して歩き回れるようになる3歳くらいまで乳離れさせられないのです。狩猟採集⺠族の⼥性は⼤抵、4〜5年に1⼈のペースで⼦供を産みます。⼀⽅、農耕定住⽣活では1歳くらいで乳離れが可能です。結果、⼥性の出産間隔は短くなり、合計特殊出⽣率が⾼くなるのです。
⼈⼝密度が⾼まれば、それだけ⾝体接触の機会が増え、感染症にかかるリスクが⾼まります。また、⼟壌や飲⽤⽔も糞尿で汚染されやすくなります。さらに⼈⼝が多いということ⾃体が、ウィルスや微⽣物、寄⽣⾍にとっては品種改良の実験室のような環境を提供し、新たな感染症が⽣まれやすくなります。
⼤航海時代以降、ヨーロッパ⼈たちは世界中の⾏く先々で疫病を流⾏らせ、現地の先住⺠に壊滅的な打撃を与えました。その原因は、⼈⼝過密なヨーロッパでは黒死病を始めとした疫病がたびたび流⾏していた⼀⽅、⼈⼝密度の低い地域で暮らしていた先住⺠たちにはそれらに対する抵抗⼒がなかったからです[20]。
農耕定住⽣活は、⼈類を飢えと貧しさから救ったイノベーションなどではありませんでした。歴史学者のイアン・モリスはこう述べています。
「⾒返りが労働と格差、そして戦争だとしたら、なぜ⼈々は狩猟採集から農業に乗り換えてしまったのだろう?」
(イアン・モリス『⼈類5万年 ⽂明の興亡』〔筑摩書房、2012年〕)
気候変動や過伐採により⽣活環境が悪化し、⾷糧難に陥った⼈類は、仕⽅なく農耕を始めたのではないか――。これが、現在の定説です[21]。
ところが――。
話が⼆転三転してややこしいのですが、この定説にも近年では異議が申し⽴てられています。というのも、考古学的な証拠と⼀致しないからです。遺跡発掘の結果から⾔えば、農耕定住⽣活は⾷糧難に陥るような貧しい地域ではなく、むしろ逆に、豊かな⽣物資源に満ちた地域から始まったようなのです[22]。
⼈類の農耕定住⽣活はチグリス川とユーフラテス川の流域で始まりました。⼩中学校の教科書に「肥沃な三⽇⽉地帯」の名前で載っている地域です。2つの⼤河はたびたび氾濫を起こし、上流から養分に富んだ⼟壌をもたらしました。⼤⻨や⼩⻨の原種が、天然の⻨畑のように⾃⽣していたのです。現在でこそ乾燥しているこの地域ですが、当時は今よりも海⾯が⾼く、湿地帯が広がっていました。タンパク源としてリクガメ、⿂類、軟体動物、甲殻類、⿃類、⼩型哺乳類、さらに季節ごとに移動してくるガゼルなどを好きなだけ採れる場所でした[23]。
こうした豊かな環境のもとで、狩猟採集生活でありながら定住する⼈々が現れました。彼らは採集した野⽣の穀類を(冬に向けて保管するだけでなく)やがて⾃ら⼤地に蒔くようになりました。農耕の始まりです。さらにヤギなどの動物を飼い慣らすようになりました。畜産の始まりです。
紀元前8000年〜紀元前6000年の間に、穀草類や⾖類、亜⿇(あま)などの栽培が始まりました。さらにこの2000年間に、ヤギ、ヒツジ、ブタ、ウシも登場しました[24]。
いずれにせよ、証拠から推測される農耕の始まりは定説とは異なります。⾷糧難のために仕⽅なく農耕を始めたというストーリーからは乖離しています。
もしかしたらオタクだったのかもしれない
初期の農耕定住⽣活は、狩猟採集⽣活よりも貧しかったこと。そして、最古の農耕は資源の豊かな地域から始まったこと――。
この2つの事実から、私は次のように想像しています。
農耕や畜産を始めたのは、新⽯器時代の「オタク(ギーク)」だったのではないでしょうか?
ここでは「オタク」という単語の意味を広くとって、「退屈を持て余したときにやらなくてもいいことに探究⼼を発揮し、『⾯⽩いから』という理由だけで無駄なことに労⼒を注ぎ込む⼈々」と定義しましょう。私たちホモ・サピエンスなら誰しも、⼼のどこかに(オタクではなくても)そういうオタク気質な部分があるはずです。
たとえば1万年前のある⽇、村の穀物庫を眺めながらこんなことを考えた⼈がいたはずです。
「ここには野⽣の⻨粒がたくさん備蓄されているが、もしもこれを⼟の上に蒔いたらどうなるのだろう?」
あるいは親ヤギを仕留めた狩⼈が、茂みの奥で悲しげに鳴く⼦ヤギを⾒つけたのかもしれません。その⼦ヤギも殺して、獲物として持ち帰ることもできたはずです。しかし、彼はこう考えました。
「もしも私が親代わりになって、この⼦ヤギを育てたらどうなるのだろう?」
彼らの⼼に現代⼈と同じオタク気質な部分があれば、きっと次にこう考えたはずです。
「⾯⽩そうだから試してみよう!」
⽣活に余裕がなく、飢餓と隣り合わせの環境では、このような発想は決して出てこないはずです。空腹に苛まれていたら、柔らかな⼦ヤギの焼⾁を諦めることなどできないでしょう。せっかく収穫した⻨粒を⼟の上に捨ててしまうなんて論外です。ある程度は⾐⾷住に満ち⾜りていて退屈していなければ、新しい何かを試すこともできないはずです。
退屈を持て余したハーバード⼤学のオタクがフェイスブック(の前⾝となるサービス)を作り上げたように、退屈を持て余した古代のオタクたちは「農耕」というイノベーションを起こしたのではないか。そして気候変動や過伐採により⾷糧難に陥ったときに、農耕を覚えていた集団だけが⽣き残った、あるいは周囲の集団も農耕を真似るようになったのではないか――?
私には、そう思えてなりません。
余談ですが、ホモ・サピエンスとネアンデルタール⼈を分けたものも、この「余計なことをする」という性質ではないかと私は睨んでいます。
以前書いた通り、旧⽯器時代の⼈類では、道具製作をする上で「模倣」が極めて重要だったはずです。⾼度な⾔語を持たない初期⼈類ならなおさらでしょう。
周囲の⼤⼈たちの⾏動を丸ごと模倣することには、⽣存・繁殖の上で⾼い価値があります。なぜなら、周囲の⼤⼈たちはその⽅法で上⼿くやっているからです。⼦供世代が新しい何かを付け加えたところで、以前よりも良い結果が出るとは限りません。むしろ⼤抵の場合では、失敗する可能性の⽅が⾼まるはずです。
この「⼤⼈世代を忠実に模倣する能⼒」がピークに達したのが、ネアンデルタール⼈だったのではないでしょうか。⼀⽅、私たちホモ・サピエンスは忠実な模倣ができなくなった――少なくとも、ネアンデルタール⼈に⽐べれば忠実な模倣に苦労するようになった種なのではないでしょうか。⼤⼈世代を正確にコピーできないからこそ、私たちはその場しのぎの「余計なこと」を試すようになり、それが創意⼯夫に繫がったのではないか――。そんな想像を禁じえません。
ともあれ、1万年〜8000年前のどこかの時点で⼈類は農耕を開始しました。
⼈⼝増加により集団が⼤きくなり、⾷糧⽣産能⼒の向上によって王族や貴族、聖職者などの階級を養えるようになると、ついに「国家」が誕⽣しました。
こうして「⽂字」の誕⽣する下地が整ったのです。
⽂字は簿記から⽣まれた
⽂字が⽣まれる以前から、私たち⼈類は「何らかの記録」を残していました。その証拠として、線や点の刻まれた⾻⽚がいくつも発⾒されています。
たとえばフランス⻄部では、平⾏線の刻まれた約6万年前のハイエナの⼤腿⾻が⾒つかっています。この線を刻んだのはネアンデルタール⼈です[25]。ホモ・サピエンスの場合でも、およそ4万年前から同様の⾻⽚が出⼟し始めます[26]。
これらの⾻⽚が何のために⽤いられていたのが、今となっては想像するよりほかありません。ただの暇つぶしや、⽯器の切れ味を試しただけだった可能性もあるでしょう。とはいえ⼤半の考古学者は、これらの⾻⽚が「外部記憶保持道具」だったという⾒⽅に同意しています。(たとえば⽉の満ち⽋けなどの)何らかの情報の記録のために傷を刻んだというのです。
似たような記録⼿段として「結縄⽂字」が存在します。とくに有名なものはインカ帝国の「キープ/Quipu」です。これは縄の「結び⽬」の形や位置によって、⼈⼝や農産物などの数値情報を記録するシステムでした。簡単なものであれば⾔語情報も記録できたようです[27]。
キープは優れた仕組みだったようです。ヨーロッパ⼈が南⽶⼤陸に到達したとき、インカ帝国に⽂字はありませんでした。巨⼤な版図と官僚機構を、キープで⽀配していたのです。残念ながら当時の書記官(縄記官?)は、キープの読み⽅をヨーロッパ⼈に伝えることなく死亡しました。残されたキープの数々は、現在では解読不能になっています。
キープのような結縄⽂字は世界中に分布しており、とくに環太平洋地域では広く使われていたようです[28]。たとえば沖縄(琉球王朝)でも、20世紀初頭まで「藁算(わらざん)」と呼ばれる結縄⽂字が数値記録や計算の道具として⽤いられていました[29]。
かつて琉球の一般庶民は王府の命令で⽂字の学習を禁じられていたため、藁算が発達した。
メソポタミアでは「トークン」と呼ばれる道具が、文字のない時代の記録手段として用いられていました。そして、このトークンこそが文字をもたらしたのです。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、メソポタミアの考古学研究は⻩⾦時代を迎えました。様々な遺物に混ざって、⼩さな粘⼟細⼯の「駒」のようなものが⼤量に出⼟し、「トークン」と名付けられました。円筒形や円錐形、球形、壺をかたどったもの、表⾯に幾何学模様が刻まれたものなど、その種類は多種多様でした。トークンの⽤途は⻑きにわたり不明のままでした。⼦供のおもちゃや装飾品、ゲームの駒など、様々な仮説が提案されましたが、いずれも決定打に⽋けていました。
1970年代、デニス・シュマント=ベッセラはトークンの網羅的な研究を⾏い、これらが物資の管理に使われていたことを突き⽌めました[30]。(キープが結び⽬の形と位置で数値記録をつけていたように)古代メソポタミアの⼈々はトークンの形状と数で、商業取引や徴税などの記録をつけていたのです。
トークンは使い勝⼿のいいシステムだったのでしょう。およそ紀元前8000年〜紀元前1500年という、かなり幅広い時代の遺跡から出⼟しています[31]。ざっくり6500年に渡って使われていたわけで、これは私たちアジア⼈の漢字の歴史よりも⻑いのです。(※発⾒されているなかで最古の甲⾻⽂字は、紀元前1400年ごろ、殷王朝時代のもの[32]。)
およそ紀元前7000年ごろ、ウバイド期と呼ばれるメソポタミアには都市国家がいくつも出現し、イランの⼭中やアラビア半島までまたがる広範な交易ネットワークを形成しました[33]。彼らはチグリス・ユーフラテス川のもたらす豊かな⼟壌のもたらす農産物を輸出し、⽊材をはじめとした様々な資源を周辺地域から輸⼊していたようです。中⼼的な都市ウルクには、やがて5万⼈が暮らすようになりました。
都市が⽣まれたということは、聖職者や貴族、王族のような⾝分が登場していた可能性があります。彼らを養うためにも、さらには灌漑⼯事などの公共事業のためにも、徴税の必要が⽣まれていたはずです。効率的な徴税のためには、誰がどれくらいの年貢を納めたのかという記録が⽋かせません。また、盛んに交易を⾏っていたということは、商業取引の記録――すなわち「簿記」――の必要にも迫られたはずです。
国家の成⽴は⽀配者だけでなく、被⽀配者にもメリットがあった。国家が暴⼒を独占するので、傷害や殺⼈の発⽣件数が下がるのだ[34]。司法の存在しない世界で⾃らの⾝体や財産を守る⽅法は、確実な報復の約束だけだ。現代のマフィアやヤクザと同様、「あいつらに⼿を出したらタダでは済まない」という評判を広めるしかない。国家のない世界では、復讐は権利であると同時に重荷でもあった[35]。だからこそ⼈々は暴⼒をふるう権利を喜んで国家に差し出した。
現存するトークンの多くは、「ブッラ」と呼ばれる容器に⼊った状態で発⾒されています。ブッラは薄く伸ばした粘⼟で作られた、球形の容器です。おそらく現代⽇本⼈にとっての契約書や領収書のようなもので、当時の⼈々は取引の記録としてブッラをやり取りしていたようです。たとえば(これは想像ですが)⽺5頭を購⼊したなら、その領収書として⽺を⽰すトークン5個を封⼊したブッラを渡す……といった運⽤がなされていたのでしょう。
ブッラの⽋点は、粘⼟製ゆえに中⾝を確認しづらいことです。そこで当時の⼈々は、ブッラの表⾯に中⾝のトークンを「型押し」するようになりました。粘⼟が乾く前の柔らかいうちにトークンを押し付けて、その「型」を取り、ブッラの表⾯を⾒るだけで中⾝が分かるようにしたのです。
型押しの習慣が普及すると、ブッラは少しずつ廃れていきました。ブッラやトークンをやり取りしなくても、四⾓い粘⼟板にトークンを型押しして、その粘⼟板を契約書や領収書として扱えばいいと気づいた⼈々がいたからです。
さらに粘⼟板の利⽤が広まると、今度はトークン自体も衰退し始めました。たとえば⽺5頭の取引をしたとして、⽺のトークンは5個も必要ありません。1つのトークンを5回、型押しすればいいからです。さらに、ここで⼤きな⾶躍が起きます。「⽺」を意味する印の隣に「5」を意味する印を型押しすればいいという発想に⾄ったのです。
つまり、数字の誕⽣です。
⼈類はついに、⾃分の周囲の宇宙を客観的に記録し、⽐較し、分析することが可能になりました。
現存する最古の粘⼟板は紀元前3300年ごろのものです。そこにはまだ商品とその数量を⽰す絵⽂字しか記されておらず[36]、⾳声の記録が可能な「完全な⽂字」ではありませんでした。しかし、絵⽂字の「表⾳化」は紀元前3700年ごろには始まっていたと考えられています[37]。
そして紀元前2500年ごろまでには、この地域では楔形(くさびがた)⽂字が完成していました[38]。
⽂字は、詩歌を書いたり歴史を記すために⽣まれたのではありません。
商業記録をつけるための簿記から、⽂字は⽣まれたのです。
青銅器時代のインターネット
⽂字の発明は、⻘銅器時代におけるインターネットのような情報⾰命だったはずです。
なぜなら⽂字は、時間や距離の制約を取り払うイノベーションだからです。⽂字があれば、伝令の記憶に頼らずとも正確なメッセージを送ることが可能になります。広い国⼟の隅々まで、同じ法令を適⽤できるようになります。儀式の⼿順を標準化できます。⽂字は単なる「外部記憶保持道具」などではありません。現代の⽇本⼈でも古代メソポタミアの粘⼟板の内容を読めること⾃体が、時間と距離を消し去るという⽂字の性質を⽰しています。
また、インターネットの登場によってECサイトやネットオークションサイトが花開いたように、⽂字の誕⽣は商業活動を刺激しただろうと私は想像しています。
というのも、⽂字がない世界では契約を結ぶときに「⼝約束」しかできないからです。相⼿に契約を守らせたければ、証⼈を⽴てるほかありません。では、いったい何⼈の証⼈を⽴てれば安⼼できるでしょうか? 証⼈が1⼈では、取引相⼿と結託してあなたを騙す危険があります。証⼈が2⼈では、彼らの証⾔が⽭盾したときに困ります。証⼈が3⼈いれば安⼼できそうですが、ちょっとした取引でいちいち3⼈も集めるのは⼤変です。もしもトラブルが起きたときは、紛争解決のために全員を同じ場所に呼ぶ必要があります。
しかし⽂字があれば、約束を契約書という形で残しておくことができます。相⼿に約束を守らせることが簡単になるだけでなく、(さらに重要なことだと思うのですが)⾃分は約束を守る⼈間なのだと相⼿に信じてもらうことも簡単になるのです。加えて、⽂字ならば、ブッラとトークンを使った場合よりもはるかに複雑な条件の契約を結ぶことも可能になったでしょう。
およそ3000〜4000年前のとある粘⼟板には、次のように記されています。
「収穫時にこの粘⼟板を持参した者に、アミル・ミラは330単位の⼤⻨を引き渡す」
(ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』
ハヤカワ・ノンフィクション⽂庫、2005年、P.58-60)
ポイントは、受領者の名前が指定されていないことです。この粘⼟板を持っている⼈なら誰でもアミル・ミラから⼤⻨の⽀払いを受けることができたわけで、現代の約束⼿形のように使われていたことが想像できます。
⼤胆なことをいえば、この粘⼟板の⽂⾔は近現代の紙幣にも似ています。たとえば1899年(明治32年)に発⾏された⽇本の10円札には「此券引換ニ⾦貨拾圓相渡可申候也」、すなわち「この券と引き換えに10円相当の⾦貨を渡します」と書かれていました[39]。これは古代メソポタミアの粘⼟板に書かれた⽂⾔にそっくりです。紙幣とは、要するに中央銀⾏の発⾏する約束⼿形です。
つまり私は、この粘⼟板に貨幣の萌芽を感じ取っているのです。
古代メソポタミアでは秤量貨幣として銀と⻨が広く⽤いられていました。が、ウルクに集まった5万⼈が鞄を⻨でパンパンにして持ち歩いていたと考えるのは⾮現実的でしょう。また、都市住⼈が⾃給⾃⾜を営むことも難しかったはずです。彼らは⽣きていくために購買⾏動が必須であり、そのためには何らかの決済⼿段が必要でした。その決済⼿段とは、信⽤取引――何かを得たら、⾒返りに何かを渡すという契約――だったはずです。
「⼈間の経済は物々交換から始まり、やがて信⽤取引に発展していった」という歴史観が、経済学の世界では今でも定説になっているようです。しかし、この定説には考古学的な証拠がありません。伝統社会の⼈々からも、物々交換を基盤とする社会は⾒つかっていません。どうやら私たち⼈類は「取引」を⾏うようになった当初から、信⽤取引を⾏っていたらしいのです[40]。物々交換を成⽴させるためには、価値の等しい(少なくともお互いがそう認める)物品を、同時に持ち寄る必要があります。その難易度を考えると、ヒトの商業活動は最初から信⽤取引だったと考えるほうが説得⼒を覚えます。
⽂字の誕⽣は、このような信⽤取引を劇的に円滑にしたことでしょう。
かくして文字は第二の天性となった
⾔語を⾝に着けた⼈類は、やがて農耕定住⽣活を始め、国家を作りました。
そして徴税と商取引の必要から、⽂字を⽣み出しました。
⽂字があることで、私たちは歴史を振り返ることができるようになりました。哲学を積み重ね、科学技術を普及させ、⽂学により情動を共有することも可能になりました。
しかし、⽂字はそれ以上のものです。
経済的な取引を円滑にして、⽣存に⽋かせない物資を世界の隅々にまで⾏き渡らせるために必須のプラットフォームなのです。
識字率の上がった現代に暮らす私たちにとって、⽂字は「第⼆の天性」とでも呼ぶべきものになっています。もはや⽂字のない世界で暮らすことを、想像することも難しくなっています。
これは今の20代の若者が、インターネットのない世界を想像しづらいことに似ています。私⾃⾝は1985年⽣まれなので、⼩学⽣の頃にはインターネットがありませんでした。しかし⼤学⽣になる頃には、電子メールやGoogle検索なしでは⽣活できなくなっていました。⼈類にとってインターネットは、⽂字のような「第⼆の天性」になりつつあります。
「インターネットが登場する前は、独り⽴ちした⼦供が毎⽉1回は電話で声を聴かせてくれたのに、今ではLINEのメッセージだけで済ますようになってしまった」
そんな愚痴を漏らす⾼齢者をしばしば⾒かけます。似たような愚痴を、⻘銅器時代の商⼈も漏らしていたかもしれません。
「昔は毎⽉1回は親族で集まって挨拶をしていたのに、最近では『⼿紙』で済ますようになってしまった――」
(次回、「紙と印刷」編に続く。)
(本記事は、シリーズ『AIは敵か?』の第5回です)
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※※※参考文献※※※
[18] リヴィ-バッチ(2014年)P.41-43の議論を参照
[19] リヴィ-バッチ(2014年)P.43-45
[20] ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎』(草思社⽂庫、2012年)上巻P. 386-394の議論を参照
[21] アンガス・ディートン『⼤脱出 健康、お⾦、格差の起原』(みすず書房、2014年)P.92
[22] ジェームズ・C・スコット『反穀物の⼈類史 国家誕⽣のディープヒストリー』(みすず書房、2019年)P.68-69
[23] スコット(2019年)P.47
[24] スコット(2019年)P.41
[25] Natureダイジェスト「古代人はいかにして数を数えられるようになったのか」
[26] E.フラー・トリー『神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』(ダイヤモンド社、2018年)P.132-133
[27] ハラリ(2016年)上巻P.161
[28] スティーヴン・ロジャー・フィッシャー『⽂字の歴史 ヒエログリフから未来の「世界⽂字」まで』(研究社、2005年)P.17
[29] 琉球大学博物館 風樹館を参照(https://fujukan.skr.u-ryukyu.ac.jp/exhibition/warazan/)
[30] フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』(東洋経済新報社、2014年)P.64
[31] フィッシャー(2005年)P.30
[32] フィッシャー(2005年)P.221-222
[33] マット・リドレー『繁栄 明⽇を切り拓くための⼈類10万年史』(早川書房、2010年)上巻P.222-223
[34] スティーブン・ピンカー『暴⼒の⼈類史』(⻘⼟社、2015年年)上巻P.108-221の議論を参照
[35] マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン『⼈が⼈を殺すとき 進化でその謎をとく』(新思索社、1999年)P.394の議論を参照
[36] フィッシャー(2005年)P.34
[37] フィッシャー(2005年)P.38
[38] フィッシャー(2005年)P.67
[39] 日本銀行「決済・市場」を参照(https://www.boj.or.jp/paym/outline/kg22.htm)
[41] マーティン『21世紀の貨幣論』(2014年)P.15-17