日本においては、結婚が遅くなったことが少子化に大きな影響を与えている。そして、結婚が遅くなった理由は「ライフスタイルが多様化したから」と説明されることがある。
論理的には、この命題は正しい。
しかし、少子化を解決するうえでは何の役にも立たない。
なぜなら、結果が結果を説明する循環論法になっているからだ。「ライフスタイルの多様化」という言葉には、そもそも「結婚を遅らせること」が含意されている。命題の原因と結果が同じなのだ。これでは意味がない。
たとえば「10時間何も食べなかったから空腹を感じた」という命題は正しい。が、これも結果で結果を説明する循環論法だ。10時間何も食べなかった場合に生じる現象(※血糖値が下がる、体脂肪が分解されるetc…)の1つとして、私たちは空腹を感じる。「10時間何も食べないこと」と「空腹を感じること」とは、同じ1つの問題を、2つの側面から見ているだけだ。こういう循環論法では、空腹を解決する助けにはならない。考えるべきは、「なぜ10時間何も食べられなかったのか」である。
さらに「ライフスタイルの多様化」説は、少子化の現実を説明する能力に欠ける。
現実には、少子化は世界全体で進んでいる。先進国はもちろん、発展途上国でも、合計特殊出生率は低下している。では、あらゆる国でライフスタイルが多様化したのか? 事態はまったく逆だ。井戸水が水道水になり、ランプが電灯になり、インターネットが普及し、農業から工業への転換が進み、都市ではオフィスワーカーが増えた。スタバやマクドナルドで食事できるようになった。ライフスタイルは、むしろ世界規模で画一化しているのだ。少子化が国や地域を問わずに進んでいる以上、ライフスタイルの多様化が少子化をもたらすという説は成り立たない。それを言うなら、「ライフスタイルの画一化が少子化をもたらす」と言うべきだ。
「ライフスタイル」は意味の広い言葉で、教育や所得水準のような文化的側面も含まれているし、有病率や寿命などの生理的側面も含まれる。現金収入を得やすくなることも、健康診断を受けやすくなることも、どちらも「ライフスタイルの変化」だ。少子化の原因を議論する際には、なぜか文化的側面が重視されがちだ。けれど、晩婚化と少子化は、ヒトの繁殖行動に関わる問題だ。ヒトのいちばんアニマルな部分の問題と言ってもいい。「ライフスタイルの変化」のうち、生理的側面を無視することはできないはずだ。
子供を消費財としてみなしてミクロ経済学で説明しようとするベッカーの仮説や、家族間での富の流れ(※老後の安定や地位相続)に着目するコールドウェルの仮説は、現代日本の少子化にはイマイチ当てはまらない。ヒトは本能的に子供に投資したがると考えたほうが、現実をうまく説明できる。このあたりの話は過去の記事(1)、記事(2)、そして著作で詳しく書いた。少子化の原因を文化的側面だけから解き明かそうとすると、必ず失敗する。ヒトの生まれ持った性質や習性──、言い換えれば「ヒトの本性」に注目しなければ、少子化の原因をきちんと理解することはできないし、解決することもできないだろう。
では、文化的な側面を完全に無視できるだろうか?
いわゆる近代化──資本主義や自由主義の普及──が、少子化をもたらさないと言うことはできるだろうか? 当然ながら、それはできない。なぜなら私たちの本性と文化は相互干渉的だからだ。文化は、私たちの本性が生み出したものであり、間接的には遺伝子が生み出したものだ。しかし文化それ自体も、遺伝子と同等以上に私たちの行動に影響を与える。矢印の向きは一方通行ではないのだ。
文化的な側面について考察する前に、ヒトの〝自然な〟繁殖能力について確認しておこう。狩猟採集民族の合計特殊出生率は2.8~8.0と幅広いが、中央値は4~5くらいになる[1]。現代的な医療の恩恵を受けられず、乳幼児死亡率がそこそこ高い環境では、女性たちは一生のうちに4人~5人の子供を持つようだ。
女性の権利を抑圧して「産む機械」に貶めると、この水準は押し上げられるようだ。たとえば16世紀~17世紀ごろのヨーロッパでは、合計特殊出生率は5.0~6.5の水準で推移し、人口爆発が起きた。この時代は、魔女狩りによって産婆が殺され、女性たちの産児調整の知識が失われた時期と一致するという[2]。現代の世界では、イスラム圏が女性に対して抑圧的な文化を持っていることで知られている。イスラム諸国の総人口は、20世紀の100年の間に1億5000万人から12億人へと8倍に増えた。比べて、同期間のヨーロッパ人口は4億6000万人から6億6000万人へと1.4倍に増えた「だけ」だ。イラクの女性は1950~90年にかけて、それぞれ7人の子供を育て上げた。イラクの人口は1950~2003年の約半世紀で5倍に増えた[3]。
日本では、戦前には家父長制的な「家族」の制度があった。女性に対して抑圧的なこの制度が、出生率を(女性たちが望む水準よりも)高く保っていた可能性はある。日本では第二次大戦後に急速に女性の権利が拡大し、1945年には婦人参政権が認められた。また1948年には優生保護法が施行され、1949年の法改正で経済的理由による中絶手術が可能になった。この法律は母体保護法と名前を変えて現在も受け継がれている。
戦後の高度成長期に、家父長制的な「家族」制度は経済的にも解体された。地方から「金の卵たち」が都心部へと移住し、核家族化が進んだからだ。「一家の主」を中心とした大家族から、父、母、子供2人ほどの小家族へと、家族の形が変わったという。このあたりは不勉強なので推測に頼るしかないが、おそらく1970年代、団塊ジュニアが生まれたころが、核家族ブームのピークではないだろうか。戦前のムラ社会に存在した地縁や社会資本を、日本では企業が代替するようになった。社員たちは家族ぐるみの付き合いをするようになり、生まれてから死ぬまでを企業に捧げるようになった。社内恋愛、社内結婚、社宅、社歌、社葬──。
ところが90年代初頭のバブル崩壊により、このような企業文化は失われた。
リストラの嵐が吹き荒れて、企業が一生をサポートしてくれるというのは幻想に過ぎないと暴露された。社員たちの「家族ぐるみの付き合い」も、有名無実のものになっていった。運動会やキャンプ大会の文化を維持している企業が、今ではどれほど残っているだろう。たとえ残っていたとしても、参加率はどれほどだろう。高度成長期に比べれば、見る影もないのではないだろうか。
問題は、終身雇用とともに企業の提供していた社会資本も吹き飛ばされてしまったことだろう。戦前はムラ社会が提供していた地縁や社会資本を、戦後は終身雇用制度とともに企業が提供するようになった。ところがバブル崩壊によって、企業文化からそのような機能が失われたのだ。
この文脈から見ると、都会に暮らす高所得層の人々がシェアハウスに興味を持つのは、失われた社会資本を復活させるためだと考えることもできる。たとえば、シェアハウスに暮らす人々の間では、しばしば「物々交換」が行われるという。しかし厳密に言えば、彼らの間で行われているのは純粋な物々交換ではない(※純粋な物々交換は、どちらかといえば見知らぬ他人同士のほうが成立しやすい)。彼らが行っているのは「貸し/借り」にもとづく贈与経済と言ったほうがいい。そして、それはまさに、都市化していない地縁社会に特徴的なものである。
「地縁」の力は強い。
たとえば京都に古くから住む家系の友人と、他地域から京都に越してきた友人の生活を比較すると、その威力を痛感する。地域に親戚や知人がたくさんいれば、たとえ失職しても食いっぱぐれない。すぐに誰かが仕事を紹介してくれるからだ。収入の安定しないフリーターでも、同じような生活水準の異性を紹介されて、結婚・子育てができるかもしれない。京都に縁もゆかりもない移住者では、こうはいかない。
地縁が再生産能力に与える影響を考えてみよう。
強力な地縁があれば、親は負担すべき育児コストを大幅に下げられる。都会に暮らす若者のように、「育児コストを賄えるほどの収入がないから」という理由で、結婚や出産を先延ばしにしなくて済む(場合がある)のだ。強い地縁に囲まれた人の場合、結婚・出産を決意するために必要な年間所得の閾値は、そうでない人よりも低くなりそうだ。この点はぜひ調べてみたい。
冒頭の疑問に戻ろう。いわゆる近代化──資本主義や自由主義の普及──は、少子化をもたらすだろうか? 資本主義や自由主義によって、地域社会の地縁は解体されて、それが持っていた社会資本も失われた。このことが少子化をもたらした可能性はあるだろうか?
自由主義の社会では、2つの経路によって育児コストが跳ね上がる。1つは、地縁が解体されて、親戚や知人からの支援を受けづらくなること。もう1つは、職を得るためには(親戚や知人の紹介ではなく)高い学歴や個人の能力が重要になることだ。どちらも、子供への莫大な投資を親に強いる。
前者の経路は分かりやすい。困ったときにすぐに頼れる親戚縁者が近くに暮らしていなければ、子育ての難易度は上がる。後者については少し説明が必要かもしれない。たとえ地縁が解体されても、職を得るのに必要な能力がそれほど高くなければ、子供への投資は少なくて済む。低学歴な子供でも結婚・出産して、孫を持つことができるだろう。高度成長期の日本は、これに当てはまる。しかし経済成長とともに就業に必要な能力は高騰したため、親たちの負担も増えた。
進化心理学的に考えれば、たとえ子供を育て上げることに成功しても、その子供が繁殖に失敗すれば、遺伝的には投資が無駄になってしまう。「孫を持つのに必要な投資の量」が極めて多ければ、それだけの投資が行えるほど資源を得られる(=所得が増える)まで繁殖を先延ばしにしようとする心理が働いても不思議はない。子育てのコストが高騰した際に合計特殊出生率が下がるのは、進化の観点から見ても適応的な反応だ。
したがって、近代化が──資本主義や自由主義の普及が──少子化を加速させるというのは、あながち的外れな議論ではないと思う。世界的なライフスタイルの画一化が少子化をもたらすように見えるという現実にも一致する。
地縁の喪失が少子化を加速させるなら、新しい地縁を作り直せばいいじゃん……という議論はできると思う。だけど、これはトマ・ピケティが危惧するような格差の固定化メカニズムそのものだと感じる。新しいコミュニティを構築するのは結構難しい問題で、同じくらいの所得階層、知的階層の人々でないとなかなか上手くいかないようだ。コミュニティ間での社会階層の違う人間の移動は望めない。
私の東京の友人には、それこそ家族のように親密なコミュニティを作っている人もいる。毎週のように数十人規模の宴席を自宅で開いている。だが、その場に参加できるのは、高学歴な人か、特殊な技能・職を持つ人だけだ。いわゆる「底辺」の人間は、あのコミュニティには参加できない。参加する機会がない。
私は自由主義を素晴らしいものだと思っていて、なぜならヒューマンネイチャーにぴったりだからだ。たとえば厳格に階層化された社会や、住む場所や仲間を選べないこと。それらは農耕開始以降に発達した生活習慣で、せいぜい8000年の歴史しかない。200万年近い狩猟採集生活に比べれば瞬きに等しい。農耕開始以降に発達した階層社会と、ヒトが狩猟採集生活のなかで進化させてきたヒューマンネイチャーとをすり合わせる過程で、自由主義という思想が産み落とされたのではないか……と私は思っている。
たとえ自由主義が少子化に悪影響をもたらすとしても、封建社会や家父長制の農村社会に戻るなんてまっぴらごめんだ。自由主義を守りながら、どのように出生率を高めていくか? という方向に議論を進めていったほうがいいだろう。
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◆参考文献等◆
[1]グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)上p138
[2]グナル・ハイゾーン『自爆する若者たち』新潮選書(2008年)p125-146
[3]グナル・ハイゾーン(2008年)p20、p34、p75