進化心理学は既存の文系学問の枠組みをぶっ壊すものだったので、様々な方面から批判を受けた。当然である。「イデオロギーが……ウフフ」とか「○○主義が……オホホ」とか語り合っているインテリ集団に、「生殖だーッ!」と叫びながら半裸で飛び込んできた蛮族集団。それが進化心理学者だった。(※彼らは「進化論」と書かれた棍棒を振り回していた)
進化心理学に浴びせられた批判には的外れなものも多く、なかには「自然主義の誤謬(ごびゅう)」のように大層な名前をつけられたものまである。で、この自然主義的誤謬の説明を読みながら、私は「あー、あるある!」と首肯した。インターネットでよくある誤解やカン違いそのものなのだ。
なので、ネットで見かけるよくある誤解を4つほどまとめたい。
・平均値の誤謬
・過程と目的の混同
・遺伝子決定論という誤解
この記事では、以上の間違いを取り上げる。
■自然主義の誤謬(ごびゅう)
たとえば、男性には生まれつき暴力的な傾向がある。犯罪統計を見れば、傷害事件や殺人事件の犯人はぶっちぎりで男性のほうが多い。男性がレイプの被害者になることは稀で、大抵は加害者になる。どんな時代、どんな国・地域でも、だいたい同じ傾向が見られるだろう。だとすれば、男たちの暴力性は後天的なものではなく、生まれつきのものだと考えたほうが辻褄が合う。
こういうことを書くと、必ず「暴力を肯定するつもりか!」という反論が飛んでくる。というか、実際にこういう批判を進化心理学者たちは受けてきたらしい。
少し考えてみれば分かるはずだが、生まれつきの傾向だからといって、その傾向を肯定することはできない。善悪の区別は、自然のあり方とは別次元の問題だからだ。
たとえばダイエットと食欲について考えてみると分かりやすい。
私たちの脳は、生まれつき糖分や脂質の多い食品を喜ぶようにできている。私たちが進化した数万年~数十万年前の世界では、蜂蜜以外に甘い食べ物はほぼ存在しなかった。私たちの祖先はつねに飢えと隣り合わせだった。甘いものを喜ぶ脳の持ち主は、それを持たない者に比べて、必死で甘い食べ物を探しただろう。結果として高カロリーの食品を見つける機会が増えて、生存・繁殖の面で有利になった。こうして私たちは糖分が大好きな生き物に進化した。
ところが、現代では高カロリーな食品が溢れており、肥満と生活習慣病が先進国の社会問題になっている。たとえ「甘いものを好む」という性質を生まれ持っていても、糖尿病患者が砂糖たっぷりのケーキを食べることは肯定できない。生まれ持った傾向が肯定できるかどうかは、周囲の社会的状況によるのだ。
生まれつきの傾向だからといって、それを肯定する理由にはならない。
「生まれつきの傾向」や「自然な状態」を、即座に「良いもの」だと判断してしまうことを、自然主義的誤謬という。
これは現代社会のいたるところで見られる。たとえば「自然食品」や「天然素材」を無条件に良いものだと信じ込む人がいる。「人工素材」や「工業製品」を悪いものだと決めつけてしまう人がいる。これらもすべて、自然主義的誤謬だと言える。
現代人「天然素材さいこー!自然の植物ってすばらしい!」
— Rootport (@rootport) 2015年12月10日
タバコ「昆虫を殺すためにニコチンを身につけました」
果実「タンニンでタンパク質の消化を阻害して胃腸を攻撃します」
ジャガイモ「ぼくのソラニンは神経毒!解毒剤は無いよ」
キャッサバ「シアン化水素で殺す」
トリカブト「絶殺」
自然なものが「良いもの」であるかどうかは、時と場合による。
「自然 = 無条件に善」と考えるのは誤りだ。
■平均値の誤謬
これは私の造語だ。たとえば「男は若い女が好きだ」と聞いたときに、「年上の女が好きな男もいます」と言うことで反論した気になってしまう人がいる。例外を出せば充分だと思ってしまうのだ。しかし、これはあまり筋のいい反論ではない。この人は平均値の誤謬に陥っている。
「平均値の誤謬」とは、「集団の平均的な傾向を、集団を構成するすべての要素に共通の特徴だと誤解してしまうこと」と定義できる。たとえば「男は若い女が好きだ」という発言は、「すべての男」についての話ではない。あくまでも「平均的な男は、自分よりも若い女を好む傾向がある」というだけの話だ。
「何歳ぐらいの異性に魅力を感じるか、配偶者にしたいか」というアンケートを男性に対して行うと、年齢差の平均値は解答者自身よりも若い年齢になる。つまり、平均的な男は自分よりも若い女を好む傾向があると言える。(※女性では逆に歳上を好む傾向が現れる)この結果を以て、進化心理学者は「男は若い女が好き」と書いているのだ。
たとえば「男は女よりも背が高い」という主張に対して、「男よりも背の高い女もいます」という反論は反論にならない。この主張は、「すべての男はすべての女よりも背が高い」と言っているのではない。男性の平均身長は女性のそれよりも高いと言っているにすぎない。例外が存在することは最初から分かっている。例外を提示するだけでは、反論としては不充分だ。
厳密な論理学の話をすれば、「男は女よりも背が高い」という命題は間違っていることになる。より正確には「平均的な男は平均的な女よりも背が高い傾向がある」と言うべきだろう。けれど、日常会話では普通、そこまでの論理的厳密さは要求されない。だからこそ、平均値の誤謬に陥る人が出てしまう。
また、記事を書く側が平均値の誤謬に陥っているケースもよく見かける。たとえば「女は金持ちの男が好きだ、だからすべての女はクソだ」というような主張だ。たしかに心理学的には、女性は金持ちの男性を好む傾向があることが知られている。けれど、それはあくまでも傾向の話であり、すべての女性が金持ちの男を好きなわけではない。したがって、「すべての女はクソだ」という結論を導くことはできない。
(※余談だが、「平均値への過剰な信頼」という間違いもよくある。というか、私もかつてこの間違いを犯していた。平均値は、バラツキが正規分布に従う集団でなければあまり意味がない。ところが現実には、正規分布に従わない集団もよくある。こういう集団を分析するときは、平均値以外の指標を使ったほうがいい)
■過程と目的の混同
昨日の記事にも書いた内容だが、念のため再掲しておく。
なぜ進化心理学の仮説に不愉快さを覚えるかといえば、まるで、私たちの心が繁殖のためだけに存在するかのように思えるからだ。
「なぜ笑顔を浮かべるの?→繁殖のため」
「なぜユーモアのセンスが身についたの?→繁殖のため」
「どうして金持ちの男性や若い女がモテるの?→繁殖のため」
「宗教を信じるのは?→繁殖のため」
ふざけんなって感じだ。
ただ、この不愉快さは過程と目的を混同した結果である。進化心理学が注目しているのは、あくまでも私たちの心が進化してきた過程だ。有史以前の世界で、私たちの脳がどのように進化してきたのかを解き明かすことに注目しているのだ。
現代の私たちが心や感情を持つ目的は、進化の過程とは独立の問題である。現代を生きる私たちが、自分の「心」をどのように使うのか。何の目的で心を持っているのか。それらは進化の過程とは関係ない。
たとえばインターネットは、戦争で勝利するために発明された[1]。ロケットエンジンは、敵国まで爆弾を飛ばすために発明された。そういった発明の過程は、現在の使用目的とは独立した問題だ。どんな過程を経て生まれたものであろうと、日常生活を豊かにしたり、人類の未来を切り開くという目的で使うことができる。
過程と目的を混同してはならない。私たちの「心」が進化の過程で発達した産物であることを、私は疑わない。しかし、発達の過程は存在の目的には関係ない。自分の心をどのように使うのか、私たちは自分自身で選べるのだ。
■遺伝子決定論という誤解
進化心理学は、ヒトの心の生まれつきの傾向を調べる分野だ。そのため、しばしば遺伝子決定論だと誤解を受ける。生まれた時点でその人の持っている遺伝子によって、その人の性格や個性がすべて決まる。そういう学問だと誤解されてしまうのだ。
20世紀後半まで、人間の心は「空白の石版(タブラ・ラサ)」だと考えられてきた。人間の心は真っ白な白紙状態で生まれてきて、人格や個性はすべて教育の過程で身につけるものだとされていた。まるで空白の石版に彫刻を施すように、人間の心は成長過程で刻み込まれるものだと考えられていた。「空白の石版(タブラ・ラサ)」を信じている人にとって、人間に生まれながらの性質があるという事実は受け入れがたかった。
しかし近年では、ヒトが生まれながらに個性を持つことや、人格が遺伝の影響を受けることが明かされている。
とくに興味深いのは、心理学者トマス・ブーチャードが行った「双子の研究」だろう。一卵性双生児は、まったく同じ遺伝子を持った天然のクローンだ。別々の環境で育てられた一卵性双生児を比較すれば、人格形成に遺伝と環境がどれほど影響するのかが分かる。もしも環境だけが人格形成に影響するなら、たとえ遺伝子がまったく同じでも、別々に育てられた一卵性双生児は似ても似つかぬ性格になるはずだ。
ブーチャードの研究の巧妙な点は、別々に育てられた二卵性双生児でも同じ調査をしたことだ。同じ双子といっても、二卵性双生児の場合は遺伝子は異なる。一卵性双生児のような天然のクローンではなく、普通の兄弟に近い。
結果は衝撃的だった。
たとえば宗教的信仰に関するアンケートをとって、個人の原理主義的な傾向を調べたところ、「別々に育てられた一卵性双生児」同士でのスコアの相関は62%だったのに対して、「別々に育てられた二卵性双生児」のそれはわずか2%だった。また、ブーチャードの同僚キャスリン・コーソンが「右派的態度」を見つけるアンケートを取ったところ、やはり別々に育てられた一卵性双生児は高い相関を示した。
ブーチャードは、移民、死刑、成人映画などの単語をあげて、ただ是非を問うだけのアンケートも行った。移民に「NO」、死刑に「YES」などと答えた人は「右派」の傾向が強いと見なすわけだ。結果、別々に育てられた一卵性双生児の相関が62%なのに対して、別々に育てられた二卵性双生児の相関は21%にすぎなかった[2]。
要するに、遺伝はその人の人格形成に多大な影響を与えるのだ。私たちの心は「空白の石版(タブラ・ラサ)」などではありえない。
しかし、だからと言って遺伝子がすべてを決めるわけではない。
ブーチャードの研究は、遺伝的に「右派的になりやすい人」「宗教的原理主義者にやりやすい人」がいると示したにすぎない。「この遺伝子を持っていたら確実に右派になる」という遺伝子を発見したわけではないし、そもそも、そんな遺伝子があると考えるのはバカげている。ヒトの脳はそこまで単純ではない。
ブーチャードや、彼に続く進化心理学者の研究は、あくまでもヒトの心の「傾向」を調べているだけだ。「何か特別な遺伝子を持っている人は全員が全員右派になる」とは言っていない。彼らの研究を遺伝子決定論だと誤解するのは、すでに書いた「平均値の誤謬」の一種だと言える。
進化心理学者ダニエル・ケンリックは、ヒトの心は「ぬりえ帳」のようなものだと述べている[3]。「ぬりえ」には無限のバリエーションがある。あらかじめ引かれた線画が同じでも、色を塗る人の創造性によって完成品は変わる。ゾウをピンクに塗る人もいれば、バラを青く塗る人もいるのだ。私たちの遺伝子は、ぬりえの線画のようなものだ。生まれ持った傾向は遺伝の影響を大きく受けるかもしれない。しかし成長の過程によって、十人十色の人格が生み出される。私たちの性格・個性には、無限のバリエーションがあるのだ。
(※またしても余談だけど、同じ心理学といっても、進化心理学と臨床系の心理学とでは、あまり相性が良くないのではないかと想像してしまう。というのも、進化心理学はあくまでも全体的な傾向や平均を見るからだ。一方で、臨床の現場に立っている心理学者たちは、徹底的に個人の心の問題を扱うはずだ。だから、進化心理学の研究成果は臨床ではそれほど役に立たなそうだけど……実際のところどうなのだろう?)
◆ ◆ ◆
今回は、進化心理学に向けられる(そしてインターネットでもよく見かける)誤解を4つ取り上げた。
自然主義の誤謬とは、「自然なもの = 善」と考えてしまうことだ。善悪の区別は人間が下すものであって、自然法則や宇宙の成り立ちとは別次元の問題だ。たとえ何かの傾向が自然だとしても、即座に「良いもの」になるわけではない。
平均値の誤謬とは、平均的な傾向を、すべてに共通の特徴だと考えてしまうことだ。「男は女よりも背が高い」という発言を聞いて、「すべての男はすべての女よりも背が高い」と思い込んでしまうことを、平均値の誤謬と名付けた。
過程と目的の混同とは、何かの成立過程を、現代の目的だと思い込んでしまうことだ。インターネットは戦争で勝利するために作られた。けれど現在では、インターネットの使用目的はどこまでも広がり、戦争以外の用途で用いられる機会のほうが増えた。
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◆参考文献等◆
[1]基礎知識 - インターネットの歴史
[2]マット・リドレー『やわらかな遺伝子』紀伊國屋書店(2004年)p109
[3]ダニエル・ケンリック『野蛮な進化心理学』白揚社(2014年)p93以降