格差の条件
マニラは夏だった。
「イントラムロスのマニラ大聖堂まで行きたいんだ。いくらですか?」
ビジネス街マカティで、私はタクシーを探していた。窓から顔を突っ込んで尋ねると、20代後半の運転手はぶっきらぼうに答えた。
「1,000ペソ」
「冗談でしょう? 200ペソが相場のはずだ」
相手はムッとした顔を浮かべる。
「オーケー、それなら300ペソでどうですか? それで嫌なら他のクルマを探します」
彼はとたんに愛想よく微笑んでドアを開けた。高級なタクシー会社を使えば300ペソ以上、しかし彼のような一般的なメータータクシーでは200ペソ少々の距離だ。私たちの利害は一致していた。
「最近は石油が高いと聞いています。大変じゃありませんか?」
「本当にその通りだよ。俺たちの場合、ガソリン代は自腹だからね」
フィリピンは産油国だが、金額ベースで輸出額の約5倍の石油を輸入している。世界的な原油高と無関係ではないのだ。動き出したタクシーの窓の向こうを、いくつものガソリンスタンドが通りすぎていく。日本と比べればたしかに安いが、この国の平均所得を考えれば目を剥くような値段が並んでいた。
「あんなにガソリンが高いと、クルマに乗る人は大変ですね」
「そうさ、だから大多数のフィリピン人はクルマなんか持っていない」
しかしベトナムのようなオートバイの大群もいない。
「じゃあ、フィリピンの人は何に乗って移動するんですか?」
「あいつだよ」
彼の指差した先では、ジープニーが乗客を満載にしていた。
※ジープニー。画像はWikipediaより転載しました。
「あれがフィリピンの庶民の足だ」
整備は行き届いていないし、運転は荒い。ときには交差点の真ん中で故障することもあるという。マニラは渋滞の街だ。その原因の一つはジープニーだと、彼は言った。タクシー運転手が商売敵に向ける目は厳しい。
「そうは言っても、フィリピンにはタクシーに乗れない人も多いんじゃありませんか?」
「マニラではそうでもないけど……。まあ、たしかに少しでも郊外に出たら、誰もタクシーなんか使えないね」
貧しいからである。
その前夜、私はAIMの教授とワインを飲み交わしていた。
イエローテイルのカベルネ・ソーヴィニヨン。日本人にとってはスーパーで買えるお手頃なワインだが、この国のほとんどの人は、生涯のうち一度も口にしない酒。
「フィリピンは、本当はもっと発展できるはずなんです。人口、資源、技術……様々な経済指標から言って、フィリピンはまだ本来の力を発揮できていない」
AIMはアジア地域では名の知れたビジネススクールのひとつだ。まだ40代の教授の口ぶりは切実だった。
フィリピンのGDPはベトナムの約1.6倍だ。タイには後塵を拝しているものの、人口ではタイのおよそ1.4倍。すでに少子化の始まったタイとは違い、いまだに正三角形に近い人口ピラミッドを持っている。英語が公用語という強みもある。教授の言うとおり、もっと華々しい経済発展を遂げてもおかしくないはずなのだ。
「いったい何が足枷になっているのでしょうか?」
相手は笑わなかった。
「あなたは知っているはずですよ。フィリピンに来る前にこの国の歴史を勉強したはずだ」
「勉強と言ってもwikipediaを読んだ程度ですが……やはり財閥ですか?」
教授はゆっくりとうなずいた。
西欧の歴史にフィリピンが登場するのは、16世紀になってからだ。スペイン領となった国土には、広大なプランテーションが築かれた。
19世紀末に米西戦争が勃発。フィリピンの領有権は戦勝国アメリカの手に移る。しかし激しい抵抗を受けて、アメリカはフィリピンの自治を認めざるをえなかった。
1934年には、アメリカ議会は10年後のフィリピン独立を承認する。が、太平洋戦争の影響で、独立を勝ち得たのは1946年になってからだった。
ポイントは、アメリカが植民地支配に失敗したのみならず、農業政策の転換にも失敗したことだ。フィリピンでは現在でも、スペイン時代のプランテーションにもとづく地主と小作人の関係が続いている。全国に数十人いる強大な地主の家族が、国土の半分以上の土地を所有しているらしい。一方、農村住民のおよそ半数は、1日1ドル以下で暮らす最貧困層だという。
「たしかにフィリピンの経済を牽引しているのは、彼ら財閥です。けれど、いい影響ばかりではありません」
財閥が存在するということは、そこに利権が存在するということだ。一部の資産家が利権を守ろうとすれば、自由な経済取引は著しく制限される。そして、ミクロ経済学でお馴染みの「厚生の損失」が生じるというわけだ。
財閥の存在が経済発展にどれほど悪影響を及ぼしているか、フィリピンの知的階層の人々は(財界人も含めて)痛いほど分かっているという。しかし、財閥の力はあまりにも強く、もはや手がつけられないのだそうだ。
※「ジョリビー」はフィリピンのローカルなファーストフード店。
※世界で唯一、マクドナルドにシェア1位を奪われなかったローカルチェーンだという。
タクシーは渋滞に巻き込まれた。
「これはサービスだよ」
運転手はニヤリと笑うと、ハンドルを切って裏道に入った。メーターを回しているときは、できるだけ渋滞で粘ったほうが観光客からカネを搾り取れる。が、金額が決まっているなら、できるだけ早く目的地についたほうがトクだ。料金を先に交渉しておくと、こういう利点がある。
高層ビルの建ち並ぶ表通りから一本裏に入ると、そこには貧困が広がっていた。
いい歳の男たちが、空のビールケースに腰掛けてぼんやりと宙を見つめていた。子どもたちは襟の伸びたTシャツをまとい、裸足で駆け回っていた。地面にはチョークで描かれたラクガキと、空缶、スナック菓子の袋。
マニラの失業率は高い。豊かさを求めて農村から人々が集まってくるが、仕事が充分に行き渡らないのだ。
赤信号でタクシーが止まった。
すかさず物乞いが近寄ってきて、窓ガラスを叩いた。
運転手はチッと舌を鳴らすと、シッシッと追い払うジェスチャーをした。物乞いが立ち去ると、顔をしかめたままため息を漏らした。
「ごめんなさい、フィリピンの恥ずかしい部分を見せてしまったね」
「えっと、まあ……」
脳裏によぎったのは、ニューヨークの地下鉄だった。
◆
マンハッタンで見かけた物乞いは、じつに堂々とした態度だった。
その時、私はウォール・ストリート駅からW4駅に向かっていた。時刻は18時。友人たちと合流して、ブルーノートにのり込む予定だった。仕事を終えたばかりの乗客たちは、誰もがシワ一つないスーツを着ていた。
と、その場に似つかわしくない身なりの男が現れた。
色のあせたジーンズと毛玉だらけのネルシャツ、髪は油でごわごわしており、メガネのレンズは曇っている。スニーカーの壊れたつま先から、足の親指がのぞいていた。幸いにも体臭はほとんどなかったが、一目見てホームレスだと分かった。彼は車両の真ん中に立ちはだかると、朗々と響く声で言った。
「俺は若いころからYMCAで奉仕活動をしてきた。今はこんな姿になってしまったが……(難しい単語でうまく聞き取れない)……だが、自分を恥じてはいない。俺に共感してくれる人がいたら、1ドルでもいい、俺をサポートしてほしい」
物乞いだ!──理解した瞬間、私は思わず顔をうつむけた。
もしも目があったら、しつこくカネを求められるかもしれない。東京の人間は冷たい。たとえ道を訊かれても、キャッチセールスだと疑って無視をする。日本にいるときの習性で、私は物乞いを視界から追い払おうとした。
そして驚くべき光景を見た。
乗り合わせた人々はサイフを開くと、カネを差し出したのだ。ベンジャミン・フランクリンの書かれた札を渡す人も珍しくなかった。ウォールストリートは金融の街だ。カネ持ちにとって、100ドルなんて微々たる額かもしれない。が、そうは言っても……である。東京日本橋や大阪北浜では、絶対にお目にかかれない光景だ。
物乞いは車両の先頭から後ろまで、お札を集めながら練り歩いた。ステージ上のミュージックスターのように「ありがとう!」と手を振ると、隣の車両に消えた。
私が見たのは、マンハッタンではよくあることなのだろうか。
それとも、やはり珍しい出来事なのだろうか。
いずれにせよ、物乞いがあれだけのカネを集めるところは見たことがなかったし、物乞い自身が卑しい態度を一切とらないことも衝撃だった。
ニューヨークは、マニラ以上に苛烈な格差の街だ。
しかし、ホームレスが「自分の生き方を恥じない」と言い切れる街でもあるのだ。
格差は是正すべきか否か。
格差は自己責任か、それとも社会の責任か。
リーマンショック以来、私たちは似たような議論を繰り返してきた。アメリカの社会保障制度は日本に比べてお粗末で、悪い手本だと名指しされる。たしかに私の周囲にも、脚の骨折を廃材とダクトテープで治したと自慢げに語るアメリカ出身の友人がいる。当時、かの国には医療保険がなかった。
反面、物乞いが「サポートしてくれ」と訴えたら、ためらいなくカネを渡す人々が暮らしている。アメリカの富裕層のなかには、まるでステータスシンボルであるかのように多額の寄付金を出す人がいる。政府の保障が弱い分、相互扶助の意識は日本よりも強いのかもしれない。
「格差」を肯定するには条件がある。
助けを求められたときに、国家の仲介に頼らずカネを渡せること。そして貧しさを理由に、惨めな気持ちを味わわないこと。言い換えれば、一人ひとりの人間が、貧富の差によらず、対等な個人として尊重しあえることだ。
この条件が満たせるのなら、格差はどれだけ広がってもいい。
しかし現実には、そんな条件を無視して格差は広がり続けている。
私たちは「r>g」の世界を生きている。
正社員と同じ仕事をしながら、はるかに安い賃金しか受け取れない契約社員がいる。日本の飲食店は、もはやアルバイトの存在なくして経営できない。運よく新卒採用で正規雇用につけたとしても、いつまでも上がらない平坦な給与カーブが若者を待ち構えている。にもかかわらず、消費税は上がり、社会保険料は上がり、年金は上がる。自分が受け取れるかどうかも分からないのに。
自由を求めて独立起業しても、成功するとは限らない。ニュースサイトではヒーローとして扱われるベンチャー経営者でも、実際には投資家の顔色をうかがってばかりだ。
私たちはカネと引き替えに、自由を売り渡してしまいがちだ。
格差は、その存在が問題なのではない。
貧困層が飢えなければいいという問題でもない。
格差によって、支配する者と支配される者が生まれるから問題なのだ。
◆
タクシーはイントラムロスに到着した。
石造りの古い町並みは、スペインの入植者が作ったものだ。サン・アグスティン教会、サンティアゴ要塞、経済のグローバル化が始まった時代の史跡。貿易のもたらす膨大な富をもって、スペイン人は世界を制覇した。
はるか昔、メソポタミアの支配層は農作物の生産高を記録することで──原始的な会計技術によって──権力を手にした。現在のフィリピンは財閥が強大な力をふるっている。経済を牛耳ることができれば、支配力を手にできる。
しかしカネは、自由をもたらす武器でもある。
貨幣の使用によって、古代ギリシャは部族社会を終わらせた。カネが無ければ、給料は無く、当然、職業選択の自由もない。兵士の家系に生まれたら死ぬまで兵士であり、農民として生まれたら死ぬまで農民だ。たとえば古代アテネには「リタージー」という制度があり、劇場での合唱や海軍の乗組員になる等、様々な奉仕活動が義務づけられていた。しかし貨幣が導入されると、これらの奉仕は瞬く間に「職業」に取って代わった。
14世紀のイギリスで貴族階級が弱体化した背景にもカネがある。百年戦争で疲弊しきった貴族たちは、しかし貨幣経済が発達していたために負債の返済に迫られ、領地を切り売りせざるをえなかった。結果、独立自営型農民(ヨーマン)が生まれて、封建社会の終焉が始まった。独立自営型農民の誕生は、その後のピューリタン革命や産業革命、近現代の民主主義や資本主義の萌芽をもたらした。
そして日本で士農工商の解体が成功した背景にも、通貨の統一がある。
江戸時代の日本では、関西では丁銀、江戸では大判・小判が通貨として使用されていた。さらに、それぞれの藩が「藩札」を発行していた。明治政府はこの状況をよしとせず、全国統一通貨の「日本円」を発明した。人々は日本円さえ持っていれば、日本のどこに移動しても取引ができるようになった。大阪で稼いだカネを東京で使えるようになったのだ。これが人口の移動を加速させ、士農工商の解体を後押しした。
カネがあるから権力が生まれるのではない。カネが偏在するから、権力が生まれるのだ。
カネの存在は、本来、人々に自由をもたらす。
私たちとカネの関係は、今、新しい局面に入りつつある。
20世紀半ばまで「計算手」という職業があった。大企業や研究機関などで単純計算に従事していた人々だ。現在ならExcelシート1枚でできる計算を、数人から数百人のチームで行っていたのだ。また、今ならパソコン1台で一瞬で終わる決算作業を、ほんの30年前までは部屋いっぱいの大型コンピューターで一晩かけて計算していた。一昔前までは大企業が膨大なコストをかけていたカネの管理を、今ならスマホ一台で、ほぼノーコストでできる。
携帯電話の普及は、インド・ケララ州の漁師に多大な利益をもたらした。鮮魚は劣化が早いため、一日に一か所の市場でしか売りさばけない。インドの漁師は洋上から電話をかけて、取れた魚がもっとも高値で売れる市場を調べられるようになったという[1]。
マニラで私が乗った自動車には、「EasyTaxi」のステッカーが貼られていた。一般のタクシーをスマホから呼び出せる配車アプリだ。運転手に訊いたところ、「最高だよ!」と言っていた。客を探さずに済むので、時間もガソリン代を節約できるというわけだ。
情報技術をうまく使いこなせれば、世界はもっと豊かになる。
それこそ、部族社会が「職業」に置き換わったり、民主主義が始まったりするのと同程度の、とんでもない進歩を私たちは経験できる。使い方さえ間違えなければ、情報技術は、資本家に富を集める道具ではなく、私たち全員を豊かにする魔法の杖になるのだ。
私たちは「r>g」の世界を救える。そう信じてやまない。
21世紀は格差が拡大し続けるという不吉な予言を、きっと、覆すことができる。
[1]インドにおける携帯電話の普及について
http://www.rieb.kobe-u.ac.jp/academic/newsletter/column/pdf/column069.pdf
◆おまけ◆
海岸沿いを飛ばしながら、運転手が尋ねた。
「日本にはジープニーがないんだろ?」
「ええ」そうです、と答えかけて私は首をしげた。「よく私が日本人だと分かりましたね」
海外では中国人に間違われるのが常だった。
「そりゃ分かるさ」と運転手は楽しそうに笑った。「だってあなたは完璧な日本人英語(Perfect Japanglish)を話しているじゃないか!」
なるほど、大変光栄である。
これがフィリピン旅行のハイライト。