デマこい!

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2015年の始めに思うこと/老人に悲観論者が多いわけ

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 毎年、正月が来るたびに悲観論を目にする。

 今年も例外ではない。2015年にいいことは1つも起こらず、悪いことばかりが起こる。ここ数年、世界はどんどん悪くなっていて、日本の未来は真っ暗だ──。とくに年配の人ほど、そういう考え方になりがちのようだ。ネットで拡散されているところを見ると、一定の共感を得られる考え方なのだろう。

 言うまでもなく、この考え方は間違っている。

 単純に「いい」「悪い」を判別できるほど、世界のあり方と私たちの人生との関係は単純ではない。あなたが世の中を悪くなったと感じるのは、悪くなった部分しか見ていないからである。

 この原則を忘れて、私たちが悲観論に染まってしまうのはなぜだろう。どうして思慮深いはずの人々が、世の中の「善し悪し」を総合的に判断できなくなってしまうのだろう。

 それは私たちの心が、過去を評価するときに「ピーク・エンドの法則」に支配されているからだ。

 

     ◆

 

 たとえば病気の治療法について考えてほしい。

 治療法Aは猛烈に痛いけれど数秒で終わるとする。一方、治療法Bは耐えられないほどではない不快感を何時間も味わうとする。あなたならどちらの治療法を選ぶだろうか。

 客観的な判断をすれば、治療法Aを選ぶべきだと言える。仕事に手がつかず娯楽も心から楽しめない数時間を過ごすくらいなら、たとえどんなに痛くても数秒で終わる治療のほうが経済的だ。

 逆に苦痛ではなく、快感や幸福感の場合はどうだろう。一時的にしあわせの絶頂を味わうのと、そこそこのしあわせを長く味わうのの、どちらがより幸福な人生だと言えるだろう。客観的な判断をすれば後者だ。一時の快楽のために財産を食いつぶすのは、一般的に愚かな行為だと見なされる。

 ところが実際には、私たちの「苦痛・快楽」や「不幸・幸福」は、経過時間にあまり影響されないらしい。

 

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 1990年代前半、トロント大学の医師ドナルド・レデルマイヤーは大腸内視鏡検査の苦痛度を調べた。当時、この検査には麻酔が使われておらず、患者は多大な苦痛に耐えなければいけなかった。レデルマイヤーは、検査中の患者に60秒おきに現在の苦痛度を十段階で評価してもらい、上記のようなグラフを多数作成した。

 客観的に判断すれば、苦痛の総量が大きいのは被験者Bだ。被験者Aはピーク時の苦痛は大きいものの、検査自体は10分程度で終わっている。一方、被験者Bはピーク時の苦痛はAほどではないが、検査自体に20分以上かかっている。グラフの下の部分の面積はBのほうが大きくなる。

 しかし検査後の患者に苦痛の総量を評価してもらったところ、驚くべき結果が出た。検査時間の長さは、患者が後から評価した苦痛の総量には関係なかったのだ。むしろ重要なのは「ピーク・エンド」──つまり検査中にもっとも苦痛が大きくなるときと、検査終了直前の苦痛度だった。

 たとえば被験者Aの場合、ピーク時の苦痛度と検査終了直前の苦痛度がともに大きい。こういう患者の場合、検査後に苦痛の総量を高く見積もる傾向があったという。一方、被験者Bの場合はピーク時の苦痛度がAほどではなく、また苦痛が穏やかになったタイミングで検査を終えている。こういう患者は苦痛の総量を低く見積もる傾向があるという。

 私たちが「苦痛」を振り返って判断するとき、経過時間は考慮されない。

 苦痛だけではない。快楽や幸・不幸を判断するときにも、経過時間は見過ごされがちだ。

 たとえば結婚5年目に離婚した夫婦の場合、しあわせな4年間があったとしても最後の1年で台無しになったと感じて、自分たちの結婚は不幸な失敗だったと判断するだろう。

 あるいは、こんな男の例を考えてみてほしい。幼少期からずっと貧困のなかで過ごし、家族にも先立たれて天涯孤独になった……そんな不幸な身の上の男がいたとする。しかし彼は最晩年に芸術的な才能を見いだされ、多くの人から愛されるようになった。最期には何万人ものファンに惜しまれながら亡くなった。経過時間で見れば、彼は人生の大半を不幸に過ごしている。しかしあなたはこの男の人生を、晩年の数年間で「釣り合いがとれた」と判断するのではないだろうか。

「苦痛・快楽」「不幸・幸福」を判断するとき、経過時間はあまり考慮されない。

 むしろピーク・エンドが重大な影響を及ぼす。

 

     ◆


 ヒトは「慣れる」生き物だ。

 私の姪っ子は、つい2~3年前までリンゴが大好物だった。初めて口にしたリンゴの甘さにすっかり酔いしれて、ことあるごとにリンゴをねだった。英語には、子供が甘いものを食べて興奮する様子をあらわす「sugar rush」という表現がある。糖分を口にすると、ヒトの脳内には幸福感を与える物質が分泌される。

 ところが甘さに慣れるうちに、彼女はりんご程度では大して喜ばなくなった。甘さで彼女の機嫌を取るには、今ではショートケーキの力を借りる必要がある。

 どんなに幸福な経験にも、ヒトはすぐに慣れてしまう。

 これは子供から老人まで共通の原則だろう。初めてケータイで電車の乗り継ぎを調べたとき、私たちはその便利さに深く感動したはずだ。「おもしろFlash」やYouTubeのスーパープレー動画を見つけたとき、感動のあまり似たような動画を探したはずだ。Skypeで初めて会話したとき、LINEで初めてスタンプをやりとりしたとき、私たちは多かれ少なかれ感動したはずなのだ。しかし時とともに感動は薄れていき、やがて当たり前になっていく。

 一方、不幸に慣れるのは難しい。

 1つの不幸に慣れることができても、何千、何万という新しい不幸が降りかかってくるからだ。「新しさ」は、ただそれだけで人を不快にさせる。私たちの心の一部はいつでも安定を求めていて、昨日と同じ毎日が続くことを期待している。見知らぬもの、不慣れなものに対して、私たちは警戒心を持つようにできている。進化の過程で安全に生き抜くために身につけた性質だろう。たとえば新卒採用の履歴書を手書きで書かせたり、会計伝票を紙媒体で保管させたりするのは一例だ。変化を嫌うあまり、ヒトはときに利便性や効率性を無視してしまう。

 すべての幸福な家庭は互いに似ているが、不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸であるとトルストイは言った。幸福はヒトの想像力の範囲内に収まる場合が多い。カネがあるとか、家族がお互いを愛しているとか、幸福の条件はいくらでも想像できる。しかし不幸は、大抵、想像もよらない原因でもたらされる。想像もしていない事態に陥ることそのものが、多くの場合で不幸だ。ヒトの想像力に限界がある以上、不幸のほうがバリエーション豊かになる。

 

     ◆

 

 1年を振り返るとき、そこにはピーク・エンドの法則が働く。

 つまり「幸せな時間がどれだけ続いたか」や「不幸だった日数」はあまり重視されない。幸せな経験や不幸な経験の「数」だけを、単純にカウントしてしまうのだ。

 それぞれの経験のピーク時にどれほど幸福だったか(あるいは不幸だったか)だけが判断材料になり、経過時間は考慮されない。もしも年末12月に面白くないできごとが起きたら、その1年すべてが面白くなかったように感じるだろう。ヒトの心はそういうふうにできている。

 さらにヒトは幸福な経験にはすぐに慣れてしまうが、不幸には慣れにくい。不幸のほうがバリエーションが多く、新しい不幸が毎年発生するからだ。したがって「幸福な経験」の数は毎年減っていくが、「不幸な経験・不愉快な経験・面白くない経験」は減らない。1年を振り返ると、年齢を重ねるごとにネガティブな経験の割合が増えていくように感じるはずだ。

 たとえば3年前よりも2年前は悪いことが多くて、良いことは少なかった。2年前よりも去年は悪いことが多かった──と、感じるようになる。すると当然、今年は去年よりも悪い1年になるだろうと予想してしまう。

 毎年、正月に悲観論者が現れるのはこのためだ。また、年配の人ほど深い悲観に染まりやすい理由でもある。

 繰り返しになるが、この世界のあり方と私たちの人生の関係は極めて複雑だ。

 民主主義とは一人ひとりの妥協点を探る政治形態であり、結果として、全員が少しずつ不満を抱えることになる。何一つ社会に対して不満を感じたくないのなら、独裁者になるしかない。もしも世界が少しずつ悪くなっているように感じるとしたら、あなたが悪くなった部分だけを見ているか、あるいは世界について詳しくなったのだ。「世の中が毎年悪くなる」というのは、ピーク・エンドの法則に縛られた私たちの脳が見せる錯覚だ。

 この錯覚から脱する方法は2つある。

 1つは、どんなものにも新鮮な感動を忘れないこと。いつも子供のように喜ぶことだ。電話をかけるときは、電信が始まったばかりの明治時代を想像してみるといい。食事をするときは、飢饉の頻発した江戸時代を思い出すといい。待ち合わせ場所をGoogle Mapで確認するとき、飲み会の出欠をLINEで取るとき、「それの無かったころ」に思いを馳せるのだ。

 私たちの暮らしは年を追うごとに便利で快適になっている。たしかに技術革新が新しい問題をもたらす場合も珍しくない。が、その技術によって解決された問題と比較するのは難しい。「便利になった喜び」をヒトはすぐに忘れてしまうからだ。少なくとも数年前まで、ぼったくり居酒屋を回避するのは今ほどかんたんではなかった。

 もう1つの方法は、経過時間を意識することだ。

 単純な数だけを比較すれば、年を追うごとに「イヤな経験」のほうが増えていく。しかし時間を比べたらどうだろう。「イヤなことがあった日数」は、なかった日数に比べてどれぐらい多いだろう。経過時間から客観的に判断すれば、きっと違う結論が見えてくるはずだ。

 今年は、第二次世界大戦から70年だ。

 70年間にわたり日本は他国と直接の戦争をしていない。

 継続時間から判断すれば、これは驚異的な成果だ。不幸には様々なバリエーションがあると私は書いた。しかし戦争は、ほぼすべての人にとって不幸になりうる数少ないものの1つだ。これほど長い期間、この不幸を遠ざけてきたことは、日本人にとって代えがたい「しあわせ」ではないか。一日でも長くこの「しあわせ」を維持できることを私は願ってやまない。

 

 2015年の「楽しい時間」が、そうでない時間よりも長くなりますように。

 新年、明けましておめでとうございます。

 

 

 

 

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