デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

経済格差との向きあい方

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久しぶりに見た。
「2,000円、貸してくれませんか」
心底困り果てたという顔で、彼は道行く人に声をかけていた。よれよれのジーンズに色褪せたTシャツ。額には玉の汗が浮かび、伸びきった襟はアカで汚れている。京都駅の烏丸口ヨドバシカメラの前だ。通り過ぎようとしたら、私も呼び止められた。
「明日、仕事に行けばお金が入るんです。今夜の宿泊代が必要なんです。だからお金を貸してください」
おそらく日雇い労働者だろう。2,000円という金額は、マンガ喫茶の深夜料金+αなのだろう。手持ちが無かったわけではないが、私は答えに窮した。彼のような人を見るのは久しぶりだった。



       ◆



私は東京・多摩地区の出身だ。
高校生のころ、放課後は立川にたむろして、週末は新宿、原宿、渋谷、ときどき池袋に足を運んでいた。東京で暮らしていたころは、彼のような人をしょっちゅう目にした。ゼロ年代の前半、教科書的には「日本経済は復活の兆しを見せていた」はずの時代だ。しかし新宿西口の公園で、あるいは渋谷や池袋の細い路地で、彼のような人を見かけた。立川駅南口のマンガ喫茶には、いつも彼のような人が泊まっていた。

人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。
しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。
――リルケ『マルテの手記』

都市には、人を生かす力がある。明治時代、都市部では『女工哀史』のような厳しい労働が待ちうけていた。それでも人々が都会に集まったのは、農村の暮らしがあまりにも苦しかったからだ。都会の奴隷的労働のほうがマシだったからだ。「人を生かす力」は、田舎になればなるほど弱くなる。農村は貧乏人を養えない。時代や地域が違っても同じだ。現代の東京に“彼のような人”が多いのは、やはり東京が豊かな都市である証拠なのだろう。
結果として都市部では貧富の差が顕在化する。所得格差による分断が日常の一場面になる。
そして私は冷たい東京人として育った。“彼のような人”はいくらでもいる。目の前の一人にカネを渡しても、なんの解決にもならない。まして高校生のアルバイト収入などタカが知れている。当時の私なら、声をかけられても足を止めなかったはずだ。
しかし東京を離れて、彼のような人を見かけなくなった。
もちろん京都にも貧しい人はいる。鴨川の橋の下にはダンボール住居が並んでいる。けれど彼のように、今まさに貧困に落ちていこうとする人はあまり見かけない。少なくとも、私の生活圏内に入ってこない程度には珍しい存在だ。だから、対応のしかたを忘れてしまった。無視することができず、立ち止まってしまった。
日本では格差が広がっているという。かつては都会のものだった貧富の差が、地方都市へと拡大している。私たちはそれを肌で感じるようになった。



この国は金持ちと貧乏人に分断された/新・富裕層と新・貧困層の対決が始まった!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33286


コールセンターで予感する「低収入・ダブルワーク時代」の到来 10年間全く収入が上がらない人も
http://sierblog.com/archives/1656240.html




       ◆



感傷的な人は言う:彼のような人は市場主義経済の犠牲者だ、と。行き過ぎた競争主義が「負け組」を生み出して、格差を拡大させた。だから、市場主義はやめるべきだ……と、主張する。本当だろうか?
楽観的な人は言う:自由な競争こそが経済を発展させ、社会全体を豊かにする。その恩恵は貧乏な人々にも行き渡る。だから、社会保障はいらない……と、主張する。本当だろうか?
感傷的な人と、楽観的な人。彼らのすれ違いの背景には、視点が「短期的」か「長期的」かという違いがある。



自由な経済体制が社会全体を豊かにする。これは疑いようのない事実だ。
現在の東京では、貧しい人でも平安貴族よりもいいものを食べている。かつて糖尿病は金持ちの病気だった。しかし現在の先進国では、肥満は貧困層のほうが多い。長期的な視野に立てば、私たちはたしかに豊かになっている。ほんの50年前と比べても、生活水準は飛躍的に良くなった。
同時代のほかの国々を見るといい。共産主義国や、旧ソ連の国々……。いずれも経済発展につまずいてしまった。改革開放にせよドイモイ政策にせよ、豊かさを増したのは市場を開放してからだ。一般的に言って、計画的な経済には限界がある。(※1)
たとえばアンゴラは豊かな石油資源を持っている。しかし、その恩寵にあずかっているのは政府の高官だけで、一般人はいまだに貧困にあえいでいる。利権を確保するために、権力者が無意味な規制を乱発しているからだ。あるいはジンバブエは独立当初、多くの中産階級を擁するそれなりに豊かな国だった。しかしムガベ政権が愚かな経済規制を続けた結果、人々は貧困に突き落とされ、経済は崩壊した。たとえばパンの価格統制が行われた結果、街からパン屋が消えた。パンを売れば売るほど赤字になるからだ。そしてジンバブエの国民は自給自足の生活に押し戻されてしまった。
南アフリカ共和国の白人たちは、アパルトヘイト時代に豊かさを貪ったと思われがちだ。が、本国に残った白人たちに比べて所得が伸び悩み、アパルトヘイトの末期にはむしろ貧しくなっていた。肌の色に準じた経済統制が発展を阻害したのだ。差別的な政策のせいで優秀な人材が育たず、育っても登用されず、国を豊かにできなかった。
アフリカの国々は、まるで「政府の失敗」の見本市だ。
あるいは日本の新幹線は、いままで深刻な事故を一度も起こしていない。あれほど高速の乗り物なのにシートベルトがない。これは驚異的だ。鉄道は、船舶や航空機、深夜バスと競争している。だから競争相手よりも質の高いサービスを提供しようとするし、事故なんてもってのほかだ。東日本大震災のとき、東北新幹線地震速報を受けて本震の9秒前にはブレーキをかけ始めていた。競争相手のいない電力会社とは大違いだ。
自由な経済と健全な競争が、生産物やサービスを低価格で高品質にする。経済を豊かにしていく。
米一俵の価格は昭和30年代には約4,000円だったが、平成15年には約1万5,000円、およそ3.5倍になった。一方、国家公務員の初任給は昭和30年代に8,700円だったが、平成15年には約18万円、およそ20倍になっている。これは米に限らず、あらゆる食料品、工業製品に当てはまる。かつて国家予算を投じて作られたスーパーコンピューターよりも高性能なデバイスで、あなたはこの記事を読んでいる。
市場競争によりモノの価格が下がること:経済が豊かになるとは、突き詰めればそういうことだ。労働時間に対して得られるモノの量と質が増すことなのだ。経済発展があったからこそ、アルバイトでも平安貴族より良いものが食べられるようになった。自由な競争こそが経済を発展させ、社会全体を豊かにする。その恩恵は貧乏な人々にも行き渡る。(※2)
しかし、これはあくまでも「長期的」な視点だ。



結論からいえば、貧困は「短期的」な問題なのだ。
経済発展はあらゆる所得階層の人を豊かにする。しかし、豊かさが行き渡るには時間がかかる。いま目の前にいる貧しい人に「飢えて死ね」とは言えないし、社会保障がいらないとは主張できない。熱中症で意識がもうろうとしている人に、「外に出るときは日傘を差しましょう」と説教するようなものだ。「日頃から自律神経を鍛えておきましょう」と言うようなものだ。たしかにそれらの対策は、長期的な視点では熱中症に効果的だ。しかし、目の前で苦しんでいる人に必要なのは水である。



感傷的な人は言う:貧乏人は市場主義経済の犠牲者だ、と。その通りだ。いきすぎた競争によって「負け組」が生みだされ、格差を拡大させてしまう。ここに反論の余地はない。しかし、だからといって自由な競争を否定すれば、社会全体の豊かさは伸び悩み、そのシワ寄せは貧困層に回ってくる。
楽観的な人は言う:自由な競争こそが経済を発展させる、と。その通りだ。市場原理によって社会全体を豊かになり、その恩恵は貧乏な人々にも行き渡る。もはや疑いようのない事実だ。しかし、だからといって社会保障がいらないとは主張できない。豊かさが行きわたるのには時間がかかる。経済発展はあくまでも「長期的」な処方箋であり、貧困という「短期的」な問題の答えにはならない。
長期と短期、マクロとミクロ……。世の中は合成の誤謬に満ちている。それらを解きほぐさなければ、建設的な議論などできない。小さな政府と大きな政府のどちらが良いか:言うまでもなく「小さな政府」だ。しかし、ここでいう小ささとは経済への介入の小ささだ。しかし日本の詐欺師たちは、社会保障の小ささへと問題をすり替えた。長期的な視点と短期的な視点とを、わざと混同させたのだ。(※3)



貧困は「短期的」な問題だ。
これが長期的な問題になってしまうことは、あってはならない。
貧困の固定化は、絶対に避けなければいけない。



       ◆



「2,000円でいいんです。1,000円でも構いません」
泣き出しそうな顔で彼は言った。私は事務的に答えた。
「すぐそこに警察署があります。そちらで相談してみてはいかがですか」
個人的に救済の手を差し伸べるのではなく、社会的な仕組みに任せることにした。たいして多くもない給料から、びっくりするほど高い税金を納めている。社会の仕組みを利用したっていいはずだ。そう自分に言い聞かせて、私は足早に立ち去った。
2,000円程度のカネなら持っていた。しかし彼のような人はいくらでもいる。たった一人を助けたところで、なんの解決にもならない。理屈では解っていても、胸の底がもやもやとした。私の納めているカネは、きちんと彼のような人に行き渡っているのか……。
ふり返ると、彼はまだ道行く人を呼び止めていた。



あの時の判断は正しかったのだろうか。
私はどうしても、そうは思えないのだ。





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http://anond.hatelabo.jp/20120820044622


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http://mainichi.jp/area/news/20120820ddn041040007000c.html


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http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1726798.html


日本社会にホームレスが多く物乞いがいない理由
http://japanese.china.org.cn/life/txt/2012-04/17/content_25165403.htm





(※1)高度成長期の日本のように、保護主義的な政策でうまく立ち回っている国も無いわけではありません。が、極めて珍しい例だと考えたほうがいいでしょう。所得倍増計画がうまく機能していた10年ほどを例に取って、数万年の世界経済史を否定することはできません。


(※2)あくまでも経済的な豊かさの話をしています。個人的な豊かさについては問うていません。


(※3)日本で「新自由主義的な人」と呼ばれる方は、短期的な貧困と長期的なトリクルダウンとを混同しています。リベラリズムの本来の精神を自分たちの都合のいいようにねじ曲げている……と見なすべきでしょう。