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スティーブン・キング『THE MIST』感想

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「原作厨」という言葉がある。小説やマンガなどが原作の映像作品を観たときに、原作とのわずかな差異も許さない。そういう原作至上主義者のことを「原作厨」と呼ぶ。私も宮部みゆきの某作品の映像版を見たときは原作厨と化して、夜な夜な映像版の製作スタッフへの呪詛を吟じていた。そもそも映像作品は、物語の消費されるテンポが小説やマンガとは違う。リズムと言い換えてもいい。紙媒体のほうがたいてい情報量が多く、映像化にあたり省略・簡略化が行われる。それが原作厨の不興を買うというわけだ。

The Mist

The Mist

ところが『THE MIST』は、映像化に大成功した稀有な例といえるだろう。もちろん原作には小説ならではの良さがある。月並みだが、主人公の内面のより深い部分――思考や感情だけでなく生い立ちまで理解できるのは小説版のほうだ。しかし映画版では、各登場人物の物語上の役割が整理され、見る人の感情をより強くつき動かすことに成功している。
なお、この映画の結末はとても後味が悪い。これ以上のバッドエンドはないってぐらい最高に最悪だ。SAN値をごっそりと削られるので、これから見る人は要注意。体調がよくて、なおかつ晴れた日に見ることをおすすめしたい。






【ここから先はネタバレあります】





【むしろネタバレしかありません】





【それでもおk?】






さて本作は、結末が映画版と小説版とで違うことで有名だ。脚本を務めたのはフランク・ダラボン監督。原作者のキングにして「執筆中にこの結末を思いついていればこのとおりにした」と言わしめたという。
結末以外にも神改変と言わざるをえない変更点がいくつかある。





1.“Sacrifice”の有無
「宗教おばさん」の愛称でおなじみのMrs. Carmodyのせいで、マーケットの人々は狂信的になっていく。それに恐怖して主人公たちは脱出を決意する。この部分では原作と映画に違いはない。
しかし、原作では「いつか生贄を求めるようになるぞ」と予想されるだけだったのに対して、映画では実行に移されてしまう。若い兵士が刺され、外に放り出される。つまり狂信化した人々の怖さが、より具体的な恐怖として描かれているのだ。主人公の“恐れていること”を具体的なエピソードに落とし込むことで、登場人物の動機が明確になり、行動に説得力が生まれている。
また若い兵士が生贄に選ばれる過程で、原作には登場しない“MP”が重要な役割を果たしている。MPが死にぎわに発した「すべて我々のせいだ」という言葉をきっかけに、マーケットの人々は兵士に憎悪を向ける。このMPの存在はドラッグストアのシーンでの恐怖を煽ることにも役立っており、脚本にうまく組み込まれている。




2.ロマンスを演じる役割
原作では、主人公DavidとヒロインAmandaは薄暗い事務室でことにおよぶ。ところが映画版では二人のロマンスは省略され、代わりにレジ打ちの女の子と兵士という若いカップルにその役割が移されている。映画版のスタッフはDavid、Amandaそして息子のBillyたちを疑似家族的なものとして描こうとし、不倫はその妨げになると考えたようだ。
たしかにDavidとAmandaが肉体関係を持っていたら、映画の見え方はだいぶ変わっていただろう。一般的にいって、肉欲は本能的で野性的な衝動だ。しかし映画版の彼らは、あくまでも理性的で人間的な信頼関係で結ばれている。だからこそ結末の悲惨さが引き立つ。冷静な判断の結果だからこそ、取り返しのつかない悔悟の念に主人公(と観客)は襲われるのだ。
ちなみに原作では兵士は2人しか登場しない。が、映画版ではロマンスを演じさせる都合(?)から、3人に増やされている。上述の通り、この追加の1人は“Sacrifice”の具体化にも有効活用されている。どうせ死なせるキャラクターだからトコトン使ってやろうという目論見だ。まさに死者にムチ打つような所業、ダラボン監督の鬼畜っぷりがよく分かる。




3.やけどする人
ドラッグストアに向かう動機が、原作と映画版とでは微妙に異なる。
原作では、マーケットの入り口から20フィート(約6メートル)の距離のドラッグストアまで行くことができれば、より近い場所に停めてある自動車にもたどり着けるはずだと考えて――つまり脱出の予行練習として、ドラッグストアの探索が計画される。マーケットを出発する直前に“転んで足の骨を折った女性”の話が書かれ、彼女のための薬を取ってくるという目標が追加される。
一方、映画版では重度のやけどを負って生死をさまよう人物が登場し、彼のために薬を取ってくるという、より明確でのっぴきならない動機が準備されている。主人公たちの行動の説得力が増している。
この人物がやけどを負ったのは、虫が襲来したときに燃料の入ったバケツにつまずいたからだ。この“最初の夜”のパニックシーンは、映画のほうがずっとデキがいい。やけどする人物だけでなく、ロマンスの結末や、Mrs. Carmodyの幸運が描かれる等、とても情報密度の高いシーンになっている。同時進行する複数のエピソードを見せるのは、たぶん映画がもっとも得意とする“語り口”の一つだ。断片的なエピソードを次々に見せるパニックシーンは、まさに映画の本領発揮。といえるかも。




4.主人公と妻
嵐の翌日、街は深い霧に覆われた――。これが『THE MIST』のあらすじだが、原作では“嵐の夜”にかなりのページ数が割かれている。
近隣住民の話や、主人公の生い立ちの話も、この序盤部分に詰め込まれている。そして何より主人公の妻Stephanieだ。映画ではチョイ役として出演してすぐに舞台袖に引っこんでしまう彼女だが、原作では主人公がいかに彼女のことを愛しているか、くどいぐらいに描かれている。
主人公がスーパーマーケットに到着するのは全体の1/5が過ぎたころ、スーパーが霧に覆われるのは全体の1/4を過ぎてからだ。ところが映画では、この序盤部分は10分程度に短縮されている。つまり映画版は、原作の後半部分をおもに描いているのだ。
これは小説と映画というメディアの違いによるところが大きい。どちらがイイ・悪いとは言えないだろう。小説は、主人公Davidの一人称で書かれる。したがって、彼がもっとも大切にしているモノは何なのか、彼が欲するモノは何なのか、彼自身について丁寧な描写の積み重ねが必要になる。一方、映画版ではDavidだけでなく、マーケットに残された人々にも目が向けられている。たとえば若い兵士のロマンスが描かれたように、映画版は群像劇のような要素を持っている。主人公1人だけに時間を割くわけにはいかなかったのだろう。
映画版を散々褒めちぎってきたが、主人公の家族については原作のほうが丁寧に描いている。とくに息子のBillyは、原作のほうが可愛らしく感じる。嵐の翌朝、破壊の爪痕に興奮して駆け回るシーンはちょっとヤバい。ショタコン歓喜の萌えシーン。




       ◆ ◆ ◆




総じて、人物の描き方がうまい作品だと思う。パニックものなら当然っちゃ当然なのだが、どのキャラクターも「どこかで見たような人」として行動している。アメリカの片田舎という、日本で暮らす私には縁遠い人々であるにも関わらず、危機的な状況での行動は「あー、こういうことしそうな人いるわー」と納得させられる。誇張があるにせよ、登場人物の反応には現実味がある。だからこそ、正体不明の霧に包まれるという荒唐無稽な舞台設定でも、ぐいぐいと物語に引き込まれてしまう。
面白いお話にとって一番重要なのは、やっぱりキャラクターだよな……。と、あらためて感じた。
文句なしの傑作。







※参考

[映画]ミスト‐くりごはんが嫌い
http://d.hatena.ne.jp/katokitiz/20080520

ハリウッドの暗黒星「ミスト」深町秋生のベテラン日記
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080430

ミスト(THE MIST)‐映画感想 * FRAGILE
http://fragile.mdma.boo.jp/?guid=ON&eid=821750