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発売直前!『アサシンクリード3』のための「アメリカ独立戦争史」復習ノート

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今週木曜日(15日)発売予定のゲーム『アサシンクリード3』は、独立戦争時代のアメリカが舞台だ。アサシンクリード・シリーズは、緻密に再現された大昔の都市を自由に歩き回れるのが魅力のゲーム。あなたは悪者をやっつけながら、歴史上の大事件を目撃することになる。
アメリカは現在、世界でもっとも影響力のある超大国だ。が、この国がどのように誕生したのか、日本では意外と馴染みが薄い。ゲームをより深く楽しむために、独立戦争の歴史をざっくりと復習してみよう。



アサシン クリードIII【CEROレーティング「Z」】

アサシン クリードIII【CEROレーティング「Z」】


※この動画のほとんどはムービーではなくプレイアブルなシーンです。
※注意:暴力的な描写があります。





◆そもそも独立戦争って何?
大航海時代から北米大陸にはヨーロッパ人が移住していた。1775年、イギリス系の13の植民地 (※大陸13州と呼ぶ)が本国イギリスに対して反旗を翻す。開戦当初は民兵によるゲリラ攻撃が主体だった“イギリスの内戦”は、徐々に戦火を広げ、最終的にはヨーロッパ諸国を巻き込んだ国際戦争へと発展していく。8年間にわたる激戦のすえ、イギリス議会は大陸13州の独立を承認、ここにアメリカ合衆国が成立した。



◆どんな時代なの?
アメリカ独立戦争は1775年4月19日“レキシントン・コンコードの戦い”に始まり、1783年9月3日“パリ条約締結”によって終わった。戦争中の1776年7月4日には“アメリカ独立宣言”が発行される。この独立宣言には「生命、自由、幸福の追求」の権利が明記されており、のちのフランス人権宣言などに多大な影響を与えた。
※フランスの市民革命の端緒となった“バスティーユ監獄襲撃事件”は1789年7月14日の出来事だ。
※日本では福沢諭吉の『学問のすすめ』で独立宣言の和訳が紹介され、また現在の日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」という文言にその精神が受け継がれている。
17世紀の清教徒革命や名誉革命からおよそ100年、現代的な「個人の尊重される時代」がまさに始まろうとしていたのが18世紀末、アメリカ独立戦争の時代だった。
経済面では、産業革命の前夜だった。経済の構造を一変させる“ミュール紡績機”の発明が1779年、ジェームズ・ワットが蒸気機関のピストン運動から円運動を生み出すことに成功するのが1785年、いずれも独立戦争以降である。世界初の蒸気船の特許が取得されるのは1788年、したがって独立戦争当時のヨーロッパ‐北米間の移動には帆船が使われていた。
現代でこそ、兵士の服装はオリーブ色や迷彩色の目立たないものがいいとされている。が、独立戦争のころは敵味方の判別がしやすいように派手な色の制服が使われていた。イギリス軍が赤、大陸軍が青である。なぜなら、当時の銃は先込め式の滑腔砲 (※マスケット銃が主流であり、射程、威力、命中精度が低く、敵からの発見が死に直結するわけではなかったからだ。なお、大陸軍ではマスケット銃のほかに、銃身に施条の刻まれた最初期のライフル銃が配備されていたという。この装備の差が勝敗を決する一因になったという説もある。
思想、経済、科学技術――。いずれの面でも“近世”が終わりを告げて、現代まで続く様々なものが萌芽しようとしていたころ:それがアメリカ独立戦争の時代だ。



◆どうして戦争が始まったの?
アメリカ独立戦争の遠因は1754年〜1763年の“フレンチ‐インディアン戦争”にある。北アメリカ大陸での覇権をめぐり、イギリス領の植民地とフランス領の植民地とが戦った。イギリスはこの戦争に勝利したものの、深刻な財政難に陥ってしまう。
そこで1764年“砂糖法”、1765年“印紙法”、1767年〜1770年の“タウンゼンド諸法”など、植民地に対して次々に税金を課した。これらの課税法は植民地側の激しい反発により撤廃されたものの、茶葉に関する税金だけは残った。植民地側の人々にとって、“茶”は本国イギリスに対する不満の象徴になっていく。また1770年3月5日にはボストン虐殺事件が発生、イギリス軍兵士が植民地の民間人5名を射殺した。本国と大陸側の対立は深まっていった。
1773年、イギリス議会は“茶法”を制定する。これは東インド会社の利益確保を目的とした法律であり、インド産の安い茶葉が植民地に流入することになった。植民地の人々はこの法律に激怒し、12月16日に“ボストン茶会事件”を起こす。モホーク族のインディアンに扮した過激派の人々が、イギリス商船に忍び込んで茶葉を海に捨てた。
翌1774年、イギリス議会は植民地に対して懲罰的な措置に出る。このとき、米国政治家のベンジャミン・フランクリンは訪英中であり、英国の大物政治家ウィリアム・ピットと共にイギリス議会へと和解を働きかけた。しかし、国王ジョージ3世とフレデリック・ノース首相はあくまでも強硬策を貫いた。大陸側では、イギリス議会に対抗するため13の州の代表者が集まり、“大陸会議”を創設した。
“No taxation without representation” (代表なくして課税なし)
この言葉が大陸側のスローガンになっていった。


1775年4月19日、イギリス軍はボストン北西部の町・コンコードに大陸側民兵の武器庫があるという情報を掴み、接収に向かう。が、その道中で民兵からのゲリラ攻撃を受け、撤退を余儀なくされる。この“レキシントン・コンコードの戦い”により、大陸側とイギリス側との戦端が開かれた。
“Shot heard 'round the world” (一発の銃声が世界を変えた)



◆誰と誰が戦ったの?
紛争の最初期こそ、イギリスの内戦であり、民兵によるテロ攻撃という扱いだった。しかし1775年6月に大陸会議は“正規軍”を制定し、初代司令官としてジョージ・ワシントンを任命する。さらに10月13日には大陸海軍が、11月10日には大陸海兵隊が組織され、本格的な“戦争”へと発展していく。
イギリス側では、イギリス正規軍のほかに、植民地住民の一部 (ロイヤリスト)や、植民地に対して不満を募らせていたネイティブ・アメリカンの人々イロコイ連邦が参戦した。また、当時はまだ単一国家ではなかったドイツからも傭兵部隊が送り込まれ、イギリス軍と共に戦った。
大陸側では13州から集められた兵士によって正規軍が組織され、とくに1777年のサラトガの戦いで大きな成果を上げた。これを受けて、1778年2月にフランスが参戦し、さらに1779年にはスペインがアメリカ合衆国の成立を承認していないにもかかわらず)フランスと同盟を組んでいることを理由に参戦した。1780年にはオランダが大陸側についた。これら三国は、覇権国家イギリスの力を削ぎたいという目的があった。また同年、ロシアのエカチェリーナ2世は、イギリスの対米海上封鎖を非難し、武装中立同盟を結成する。これによりイギリスは国際的に孤立することになった。
このほかにもポーランドプロイセンの志願兵、インドのマイソール王国なども大陸側として参戦した。



◆おおまかな戦争の流れは?
先述の通り、独立戦争は1775年のレキシントン・コンコードの戦いから始まった。ボストン近辺からニューヨーク、フィラデルフィアなど戦火は大陸北東部の全域に広がり、また北部のサラトガでも激しい戦闘が行われた。当時、大陸会議の政府はフィラデルフィアを拠点としており、ここを占領するのがイギリス側の目的だった。1777年9月26日にはイギリス軍はフィラデルフィアを陥落させている。が、大陸側は西のランカスター、さらにヨークへと政府を移し、革命は終わらなかった。
1778年にフランスが参戦してからは、世界規模で戦闘が行われるようになる。西インド諸島やメキシコ沿岸での海上戦が激化し、またインドやオランダ領諸国にまでも戦火は飛び火した。この時代、私掠船も大いに活躍していた。私掠船とは、敵国の商船を襲っていいよ、という免許を受けた個人船のことだ。いわば政府公認の海賊船だ。これが大西洋を駆け回り、イギリス軍を大いに消耗させたという。
イギリス軍は大陸北部での支配力を失っていき、戦争の末期にはノースカロライナサウスカロライナなど南部戦線が主戦場となる。1781年10月、バージニア州ヨークタウンの戦いでイギリス軍は大敗を喫し、約7,000名の兵士全員が降伏した。イギリス議会は戦費の浪費を憂慮して、すでに休戦の方向で議論を進めていた。このヨークタウンの敗北によって国王ジョージ3世は議会に対する支配力を失い、1782年3月にはフレデリック・ノース首相が辞任。1783年9月にパリ条約が締結され、同11月には大陸からイギリス軍が完全撤退した。こうしてアメリカ合衆国は独立を勝ち取った。






◆年表 (via Wikipedia
1754年‐1763年:フレンチ・インディアン戦争
1764年:砂糖法
1765年:印紙法
1767年:タウンゼンド諸法
1773年12月16日:ボストン茶会事件
1774年 :第1回大陸会議が開かれる
1775年
・4月19日:レキシントン・コンコードの戦い独立戦争始まる
・5月10日:第2回大陸会議が開かれる。1781年3月1日まで。
・6月17日:バンカーヒルの戦いでイギリス軍が辛くも勝つ。
1776年
・3月17日:大陸軍によりボストンが解放される。
・7月4日、アメリカ独立宣言。アメリカ合衆国が誕生する。
・8月27日:ロングアイランドの戦いでイギリス軍がニューヨークを占領する。
・12月26日:トレントンの戦いで合衆国軍がイギリス軍のドイツ傭兵部隊を破る。
1777年
・1月3日:プリンストンの戦いで合衆国軍が勝つ。
・9月11日:ブランディワインの戦いでイギリス軍が勝利、フィラデルフィアを占領する。
・9月19日:第一次サラトガの戦い
・10月7日:第二次サラトガの戦い イギリス軍のバーゴイン将軍が降伏する。
1778年
・2月6日:フランスがアメリカ合衆国と同盟し、参戦する。
・6月28日:モンマスの戦い 北部での最後の戦い
・12月29日:イギリス軍がジョージア州サバンナを占領する。
1779年6月:スペインがフランスと同盟を結んでいることを理由に参戦する。
1780年
・5月12日:イギリス軍がチャールストンを占領する。
・8月16日:キャムデンの戦いで合衆国軍が大敗する。
・10月7日:キングスマウンテンの戦いで合衆国軍が王政派軍を破る。
1781年
・9月5日:チェサピーク湾の海戦でフランス艦隊がイギリス艦隊を破る。
・10月17日:ヨークタウンの戦いでイギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍が降伏する。
1782年4月:イギリス議会が停戦を決議する。
1783年
・9月3日:パリ講和条約が締結される。
・11月19日:イギリス軍がアメリカから撤退する。




レキシントン・コンコードの戦い(Apr. 19 1775)
独立戦争の緒戦。コンコードに保管されている大陸側民兵の弾薬を接収しようとしたイギリス軍がゲリラ攻撃を受けた。敗走するイギリス軍を、民兵たちは追撃。レキシントンを抜けて最終的にボストンまで敵を押し込んだ。
“Shot heard 'round the world” (一発の銃声が世界を変えた)
この戦いにより、ボストン包囲戦が始まる。イギリス軍の逃げ込んだボストンを、大陸側の民兵たちが包囲し、睨み合いが始まった。



◇バンカーヒルの戦い(Jun. 17 1775)
ボストンからバンカーヒルを抜けてチャールズタウンへと脱出しようとしたイギリス軍を、大陸軍が側面から叩いた。ハウ将軍の率いるイギリス軍は辛くも勝利するが、多大な被害をこうむった。
なお、この戦闘では大陸側の司令官の誰かがこんな命令を出したと言われている:
“Don't fire until you see the whites of their eyes” (敵の目の白い部分が見えるまで撃つな)
弾薬があまり豊富でなかった大陸軍にとって、極めて適切な命令だったと言われている。
また、1775年6月にはジョージ・ワシントンが大陸側“正規軍”の初代総司令官に任命されているが、彼はバンカーヒルの戦いには参加していない。ワシントンがボストン近郊に到着するのは7月になってからだ。



◇ボストン解放(Mar. 17 1776)
大陸軍は、タイコンデロンガ砦から奪ってきた大砲を、ボストンを見下ろす丘の上に設置した。これを見たイギリス軍は街の防衛を諦め、撤退。カナダのノバスコシア、ハリファックスの海軍基地へと移動した。



◇アメリカ独立宣言(Jul. 4 1776)
トーマス・ジェファーソンの執筆した独立宣言には先進的な内容がいくつも含まれており、その後の世界に多大な影響を与えた。



ロングアイランドの戦い(Aug. 27 1776)
ニューヨーク・シティ周辺を舞台に、独立戦争のなかでも最大規模の戦闘が発生した。
開戦直前、大陸軍はマンハッタンに、イギリス軍はステートアイランドに陣取って睨み合っていた。
ワシントンは、マンハッタンの陥落がイギリス軍の目標だろうと予測していた。イギリス軍は、まずロングアイランドに侵攻して陽動したうえで、本隊をマンハッタンに送り込むはずだ――。と、考えていた。
ところが実際には、イギリス軍はロングアイランドへと本隊を進軍させて、大陸軍を蹴散らした。ワシントンはあわててロングアイランドへと大部隊を送るものの、戦況は悪化。撤退を余儀なくされる。ワシントンたちは包囲、殲滅の一歩手前まで追いつめられたが、機転を利かせた作戦で総勢9,000名の部隊を無事に脱出させることに成功する。
大陸軍はその後も敗走を続け、ニューヨーク・シティはイギリス軍の手に落ちる。ニューヨークとロングアイランドは戦争終結までイギリス軍の拠点となった。9月15日、21日の原因不明の火事 (※ニューヨーク大火)によって市街は壊滅的なダメージをこうむった。


大陸軍ペンシルベニアまで後退した。士気は下がり、冬が近づくころには革命の成功そのものが疑われるようになっていた。



トレントンの戦い(Dec. 26 1776)
トレントンデラウェア川に面した町で、下流にフィラデルフィアを臨む戦略上重要な地点だった。イギリスに雇われたドイツ人の傭兵部隊がこの町を守っていたが、ワシントンは冬のデラウェア川を渡る奇襲作戦に成功し、多数の捕虜を得た。このときの様子を描いた『デラウェア川を渡るワシントン』という有名な絵画がある。
なお、伝説ではこの時ドイツ人の兵士たちがクリスマスパーティー明けで二日酔いだったと言われている。が、史実では裏付けられていない。



◇アサッピング・クリークの戦い(Jan. 2 1777)
プリンストンの戦い(Jan. 3 1777)
年明け早々、ワシントンはトレントンの北北東にあるプリンストンを攻撃、勝利を収める。イギリス側はこれを小さな敗北としてしか受け止めなかったが、大陸側はこれで戦争に勝てると考えた。士気が高まり、革命運動は息を吹き返した。


大陸軍は冬の陣営に入り、春まで大きな作戦行動は行われない。しかしニュージャージー民兵たちはイギリス軍にいやがらせを続け、ニューヨークまで撤退させる。このころのニューヨークでは諜報活動がさかんに行われていたという。



◇カナダからの遠征
ハドソン川は、カナダ国境のシャンプレーン湖から流れ出し、はるか南のニューヨーク・シティまで続く大河だ。川沿いを南下する作戦を立てたイギリス軍のジョン・バーゴイン将軍は、6月、1万名の兵士を連れてカナダ国境より進軍を開始した。7月初めにはシャンプレーン湖南端のタイコンデロンガ砦を占領した。
またニューヨーク州の北西からは、モホーク川に沿って別部隊が南下していた。この部隊の半数は、モホーク族の指導者ジョセフ・ブラントに率いられていた。
シャンプレーン湖とニューヨーク・シティの中間地点、オールバニ近郊で、2つの川は合流する。イギリス側の2つの部隊はここで合流する予定だったが、モホーク川からの部隊はスタンウィックス砦の包囲戦で消耗、敗北していた。
絶望的な状況にもかかわらず、バーゴインの部隊はオールバニを目指して南下を続けた。ニューヨーク・シティから応援が来ることを期待していたのだ。
しかしその頃、ニューヨークのハウ将軍はフィラデルフィア奪取へと向かっていた。


◇第一次サラトガの戦い(Sep. 19 1777)
◇第二次サラトガの戦い(Oct. 7 1777)
大陸軍が勝利を収め、バーゴインは降伏した。



◇ブランディワインの戦い(Sep. 11 1777)
8月下旬、ハウ将軍はチュサピーク湾の北端に1万5000名の兵士を上陸させた。この場所はフィラデルフィアの南西約90kmの地点だった。
9月11日、両軍はブランディワインで衝突。イギリス軍は側面攻撃に成功し、大陸軍を総崩れにさせる。ところが思わぬ抵抗を受けたハウ将軍は、2年前のバンカーヒルのような辛勝を恐れたのか、大陸軍を深追いしなかった。
大陸側はフィラデルフィアを放棄。西のランカスター、さらにヨークへと政府を移した。
9月26日、ハウ将軍はついにフィラデルフィアを占領する。しかし革命は終わらなかった。



◇ジャーマンタウンの戦い(Oct. 4 1777)
◇ホワイトマーシュの戦い(Dec. 5-8 1777)
いずれの戦闘でも、決定的な勝敗には至らなかった。



◇バレーフォージでの冬の宿営
ワシントンはバレーフォージを冬の宿営地とした。寒さと飢えで多数の兵士が命を落としたものの、プロイセンの元士官シュトイベン男爵の指導により、大陸軍は規律のとれた連弩の高い軍隊へと成長した。



◇イギリス軍司令官の交代(Feb. 4 1778)
大陸におけるイギリス軍総司令官が、ウィリアム・ハウからヘンリー・クリントンに交代した。



◇フランス参戦(Feb. 6 1778)
フランスはアメリカ合衆国の独立を承認、独立戦争に参戦する。これを受けてイギリス軍はフィラデルフィアを撤退し、ニューヨークに向かう。ニューヨーク・シティがフランス海軍の脅威にさらされたためだ。



◇モンマスの戦い(Jun. 28 1778)
熱い日だった。クリントン将軍はイギリス本国からの命令でフィラデルフィアを撤退、モンマスから海路でニューヨークに戻ろうとしていた。そこをチャールズ・リー率いる大陸軍が攻撃、戦闘が勃発した。
しかし、なぜかリーは退却命令を出して部隊を混乱させてしまう。そこでワシントンは自ら指揮を執り、“ワシントンの前進”と呼ばれる2度の反撃に出た。両軍は激しくぶつかりあったものの決定的な勝敗に至ることなく、日没には戦闘は終結した。
7月1日、クリントンはサンディフィックに到着し、無事ニューヨークへと渡った。これはフランス海軍到着の直前だった。


この戦闘の以後、イギリス軍はニューヨーク・シティに、大陸軍はその北のホワイト・プレーンズに陣取って睨み合うカタチとなった。またこの時の不可解な行動から、チャールズ・リーはイギリスと内通した裏切り者だったのではないか、と言われている。


モンマスの戦いは北部での最後の戦闘となった。これ以降も海上戦は続いており、1778年12月29日にイギリス軍がジョージア州サバンナを占拠したところから南部での戦闘が激化していく。しかしゲーム『アサシンクリード3』で準備されているマップはボストン、ボストン近郊の森林地帯、フィラデルフィア、ニューヨーク等、北部の都市ばかりだ。南部での戦線についてはほとんど描かれないのではないか、と私は推測している。



ベンジャミン・フランクリンについて
アサシンクリード・シリーズの主人公は架空の人物だが、周囲には歴史上の有名人が必ず登場する。『アサシンクリード3』ではジョージ・ワシントン、チャールズ・リー、ベンジャミン・フランクリンなどが登場するらしい。ここまでの戦史ではほとんど登場しなかったベンジャミン・フランクリンについて軽くおさらいしておこう。
18世紀の知の巨人、それがベンジャミン・フランクリンだ。
ベンジャミン・フランクリン独立戦争の直前に英国内で和平交渉を画策していたことはすでに書いたとおりだ。が、彼の功績は政治家・外交家としての活躍にとどまらない。
ベンジャミン・フランクリンは物理学と気象学に造詣の深い科学者であり、印刷業で成功を収めた実業家であり、文筆業で名を馳せた著述家でもある。いわば18世紀版のレオナルド・ダ・ヴィンチ。多才すぎる。雷の正体が電気であることをつきとめたのも、この人だ。凧を使った実験はあまりにも有名。
現在、アメリカの100ドル紙幣には彼の肖像が印刷されている。
ベンジャミン・フランクリンは本当に色々なことをやっていて、しばしば全然違うことを調べているときにも彼の名前に出くわす。たとえば先日、潜水艦の歴史を調べたところ、世界で初めて実戦投入されたのは“タートル潜水艇”だと分かった。この手回し式の潜水艇は、船内が暗く、なおかつ酸素量の問題からろうそくを灯すことができなかった。そこで開発者のデヴィッド・ブッシュネルは、ベンジャミン・フランクリンに助言を仰いだという。彼の回答は「発光微生物を使ってみてはどうだろう?」というものだった。




◇その他、登場が予告されている人物
◆サミュエル・アダムズ (※戦争以前から独立運動を指導していた活動家であり、ボストン茶会事件を組織した人。現在、ボストンでは彼の名を冠した地ビールが作られている。美味)
◆ポール・リビア (※ボストンで暮らしていた腕のいい金属職人。レキシントン・コンコードの戦いでは伝令を務め、彼の活躍は「真夜中の騎行」として現在も語り継がれている)
イズラエル・パットナム (※バンカーヒルの戦いで大陸軍を指揮した将軍。ワシントンに引き継ぐまで、大陸軍の戦線を支えた蛮勇の人)
◆ウィリアム・プレスコット (※バンカーヒルの戦いでパットナムの副官を務めた人物。「敵の目の白い部分が見えるまで撃つな」という命令を発したのは彼だとされている)
ラファイエット (※フランスの侯爵であり、軍人、政治家。1776年、当時まだ19歳だった彼は、訪仏していたベンジャミン・フランクリンに魅せられて渡米を決意する。独立戦争末期のヨークタウンの戦いで活躍し、フランスへ帰国後は市民革命に参加、人権宣言を起草した)






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