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『ショーシャンクの空に』と人間の尊厳

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ショーシャンクの空に(字幕版)

ショーシャンクの空に(字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

「歴史上、最高傑作の映画を1つ選ぶとしたら?」

 映画が好きだと自己紹介すると、そんな質問を返されることがあります。

 これに対する映画オタクの平均的な回答は:

「えーっと、3つじゃダメ? あ、やっぱり5つ……いいや、10本くらい選ばせてもらえないかな?」

 という感じになるでしょう。

 それでも、『ショーシャンクの空に』を上位にランクインさせる映画オタクは多いはずです。間違いなく90年代のベスト映画の1つであり、商業的にも大成功しました。脚本術の教科書に「お手本」として取り上げられることも珍しくありません。143分間の毎秒すべてが名シーンみたいな映画です。

 歴史を超えて楽しめる映画というものが存在します。たとえば『市民ケーン』は今見ても〝薔薇のつぼみ〟の謎に心惹かれますし、『素晴らしき哉、人生!』を見るとクリスマスが待ち遠しくなります。『或る夜の出来事』のテンプレ的なラブコメにはクスリと笑わされてしまいます。いずれ『ショーシャンクの空に』も、これら歴史的傑作の1つに名前を連ねるようになるのではないか……と言ったら言い過ぎでしょうか?

 これは〝人間の尊厳〟についての映画です。

 

 どの映画サイトでも「冤罪で投獄された…」というあらすじが紹介されているため、記憶違いを起こしている人がいますが、じつはこの映画、途中まで主人公のアンディが本当に無実なのかどうか分かりません。トミーの証言を聞くまでは、物語の〝語り手〟であるレッドもアンディを有罪だと思っているからです。レッドの目を通して物語を見ている観客にも、アンディが無罪かどうか分からないのです。

 映画の冒頭に「アンディが自動車の中で拳銃を握りしめる」というシーンがあり、これがミスディレクションになっています。アンディが酒を飲み、震える手でリボルバーを握りしめる……というシーンが挿入されています。が、画面が暗くて主人公の顔が分かりにくい。そのうえ、真犯人の独白シーンと光の当て方が似ています。だから記憶違いを起こしやすいのでしょう。

 アンディは出会った当初から、「自分は無実だ」とレッドに言います。

 それに対するレッドの答えは、「ここじゃみんな無実さ!」でした。

 

 久しぶりにこの映画を見ながら、『シャンタラム』という小説のことを思い出していました。インドでむちゃくちゃな大冒険(?)を経験した、グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの半自伝的な小説です。この小説は、主人公が投獄されて、ひどい拷問を受けているシーンから始まります。 

 愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、今自分が知っていることを学んだ。しかし、その核となるものが心にめばえたのはまさに一瞬の出来事だった。壁に鎖でつながれ、拷問を受けているさなかのことだ。叫び声をあげている心のどこかで、どういうわけか私は悟ったのだ。今の自分は手枷足枷をされ、血を流している無力な男にちがいないが、それでもなお自由なのだと。拷問している男を憎む自由も、その男を赦す自由もあるのだと。どうでもいいようなことに聞こえるかもしれない。それはわかっている。しかし、鎖に噛まれ、痛さにひるむということしか許されない中では、その自由が可能性に満ちた宇宙となる。そこで憎しみと赦しのどちらを選ぶか。それがその人の人生の物語となる。

 ――『シャンタラム』新潮文庫版(上)p9

 『ショーシャンクの空に』で描かれるテーマは、この小説の冒頭部分と重なります。

 たとえば映画の中盤で、主人公のアンディは「フィガロの結婚」を大音響で刑務所内に流します。「レコードを止めろ!」と命じられた彼は、ドヤ顔でボリュームを上げる。この映画でもっとも象徴的なシーンの1つです。従順な模範囚であるはずの彼が初めて起こした問題は、美しい音楽を流すことでした。もう最高。

 この事件でアンディは懲罰房に放り込まれます。

 2週間後、仲間のもとに戻った彼は懲罰房の中で「音楽を聴いていた」と述べます。「レコードでも持ち込んだのか?」と訊く仲間に対して、アンディはこう答えます。

 

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【画像出典】映画『ショーシャンクの空に

 

 どれだけ体の自由を奪っても、独房にどれほど長く幽閉しても、心の自由まで奪うことはできません。他のすべての自由を奪われたときに最後に残る自由。それが心の自由です。その自由のことを〝人間の尊厳〟と呼ぶのだと私は思います。

 老囚人のブルックスは結局、終身刑の果てに尊厳まで奪われました。仮出所したブルックスは、娑婆の日常生活に馴染むことができず、ついには首を吊ります。レッドも同様です。長すぎる刑期の果てに、人間の尊厳を危うく失いかけました。

 

 

  つい最近、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読みました。学生向けの講義をまとめた本なので、著者の思想を主張するというよりも、平易な言葉で歴史上の哲学者たちの思想を紹介することにページが割かれていました。良書だと思います。この本を読んでから考えてみると、『ショーシャンクの空に』や『シャンタラム』で描かれる〝人間の尊厳〟は、イマヌエル・カントの指摘したそれに近いものがあると感じます。

 カントは近現代の自由主義に多大な影響を与えた哲学の巨人です。彼の思想は18~19世紀のものなので、現在の私たちから見ると違和感を覚える部分も少なくないでしょう。しかし、彼がいなければ、私たちが当たり前に享受している「人権」の概念も、自由もありませんでした。参政権社会保障もおそらくなかったでしょう。

 カントの言う「自由」とは、どのようなものでしょうか?

  カントは次のように論じる。動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。

 ――『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p174-175 

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 スプライト(もしくはほかの砂糖入り飲料)が飲みたいという気持ちは、遺伝子に刻まれているのだろうか、それとも広告によって誘発されたのだろうか。カントにすれば、このような議論は的外れだ。生物学的に決定されていようと、社会的に条件づけされていようと、そのような行動は本当に自由とはいえない。

 ――『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p176 

 しかし、あらゆる欲求や欲望、快感や苦痛といった刺激を超えて、 ヒトは何かの判断を下すことができます。カントはそれら欲求や刺激を「傾向性」と呼んだそうです。ヒトは傾向性を無視して判断を下せる唯一の動物だと、カントは考えたのです。これら外因的な目的とは関係なく判断を下せるヒトの能力のことを、カントは「自律」と呼びました。

 自分が定めた法則に従って行動するとき、われわれはその行動のために、その行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物とを隔てているのである。

 ――『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p178

 

 小説『シャンタラム』の冒頭に戻りましょう。主人公は、自分を拷問にかけている男を憎むことも許すこともできるのだと気づきます。

 なぜ彼を許されなければならないのでしょうか?

 逆に、なぜ彼を憎む必要があるのでしょうか?

 つまりここで主人公は「何かのため」とか「必要性」によらず、憎むことも許すこともできると気づいたのです。こういう過酷な状況に置かれたときに、自分はどんな行動を「正しい行動だ」と考えて、原則とするのか。自分の行動原理にするのか――。

『シャンタラム』の主人公が見せた、原則や行動原理を選べる〝自由〟こそ、カントの考える〝自由〟ではないでしょうか。

 正直なところ、サンデル教授の著作(や、他のいくつかの一般向け書籍)を読んだだけでは、なぜカントがこの自由を「尊厳を与えるに値する」と考えたのかはよく分かりませんでした。もしかしたら、相対性理論における「光の速さは一定である」とか、進化論における「遺伝子は増えようとする」とか、Magic: the Gatheringにおける「カードはルールに優越する」のような、議論を組み立てるための大前提なのかもしれません。その前提に疑問を差し挟むのは一旦置いといて、ここから議論を組み立てましょう――みたいな感じでしょうか。

 ともあれ、私もカントの指摘に異存ありません。

 自律した判断の下せる人間は素晴らしいものだと、私も思います。

 人間は誰かの道具になってはならないと、私も思います。

ショーシャンクの空に』のアンディが音楽を流すのは、それが正しいことだと考えたからです。刑務所内のルールを破ることになっても、懲罰房に放り込まれると分かっていても、あの状況では「美しい音楽を流すこと」が正しいとアンディは判断しました。彼は自由なのです。

 しかし彼の自由は安泰ではありません。

 すでに肉体の自由は完全に奪われているわけですが、署長や看守は心の自由までも奪おうとします。署長はアンディを〝道具〟として扱います。アンディだけではありません。トミーも、他の囚人や看守たちも、署長にとっては私利私欲を満たすための道具にすぎません。カントの基準に照らせば、擁護の余地のない悪人でしょう。

(※なお、署長も最初から完璧な悪人というわけではありません。少しずつエピソードを重ねて、悪人の度合いが高まっていくのもこの映画の見どころです)

 

 並みの人間なら、アンディのような境遇に置かれたら簡単に尊厳まで手放してしまいます。その意味では、アンディは並みではないし、物語の主人公になるべきヒーローなのだと思います。物語の主人公には、語るに値する何かしら〝特別なところ〟があるものです。スーパーマンなら空を飛び、バットマンなら秘密兵器をたんまりと開発している。

 アンディの場合なら「自由であること」です。

 おそらくアンディは、脱獄を決意するよりかなり以前に、壁の穴を完成させていたはずです。彼は(雷雨さえ降れば)いつでも逃げ出すことができました。しかし、そうしなかった。なぜなら、正規の手続きを経ずに刑務所から出るのは、アンディにとって〝正義〟ではないからです。アンディは自由だからこそ、最後まで正しくあろうとしたのでしょう。

 だからこそ、トミーの証言を耳にして、アンディはまず署長に掛け合います。再審してくれと訴えます。しかし署長はその要望を突っぱね、トミーを殺害します。刑務所の外に出るには、もはや脱獄する以外の選択肢がない――。そういう状況に追い込まれたからこそ、アンディは脱獄を決意するのです。この辺りは脚本の作り方がとても丁寧ですね。

 アンディが最後まで尊厳を失わずに済んだ理由は、彼が「希望/hope」を持ち続けたからです。一方、レッドは「希望は危険だ」と述べます。

 人間にとって希望は必要なのか?

 それとも危険なのか?

 映画の中盤までに浮き彫りにされるこの疑問が、本作のテーマを1つに繋ぎとめています。アンディとレッドの根本的な違いでもあります。『ショーシャンクの空に』は143分間かけて、この大きな問いに答えを出す物語です。

 

  ◆ ◆ ◆

 

 最後に、細かい〝気づき〟ポイントをいくつか。
 すごい当たり前のことかもしれませんが、「悪役ほど感情表現が豊か」「良いやつほど感情表現が穏やか」みたいな傾向を感じました。たぶん成人男性にとって「感情を露わにすること」は幼稚さを示すシグナルで、成熟した男性は穏やかに微笑んでいるべきみたいなバイアスがあるのでしょう。そのバイアスの是非は脇に置いといて、自分の作品にも活かせそうだと感じました。

 また、私は「ドラマとは〝葛藤〟である」を金科玉条にしています。

 ここでいう〝葛藤〟がどういうものであるか、『ショーシャンクの空に』を見るとよく分かります。脚本術の教科書を読むと、キャラクター同士を対立させなさいとか、深い葛藤を持たせなさい等と書かれています。けれど、それは別にキャラクター同士をケンカさせろという意味ではありません。

 選択肢Aを選んだら選択肢Bが選べなくなる……という個人的な苦悩が、物語の〝葛藤〟の本質です。

 たとえば「希望を失わない」という生き方を選んだら、「希望は危険なのでできるかぎり抱かないようにする」という生き方は選べません。2つの生き方のどちらが正しいのか、物語の登場人物は葛藤します。

ショーシャンクの空に』の場合なら、それぞれの選択肢を別々のキャラクターに当てはめています。アンディは「希望を失わない」という生き方を象徴する登場人物であり、レッドは「希望は危険である」という生き方を象徴しています。彼ら2人が声を荒げて喧嘩するシーンはありません。が、2人の生き方の違いがドラマを生んでいます。

 なぜ物語に〝葛藤〟が重要かというと、理由は2つあります。

 第一に、「どちらの選択が正しいんだ?」と興味をくすぐられるからです。〝葛藤〟は、観客を物語に引き込むためのテクニックの1つというわけです。

 そして第二に、葛藤が解決されるときに、強烈な快感が生まれるからです。アンディの脱獄シーンが気持ちいいのは、それまでの葛藤が解決されて、「希望を失わない」という選択が正しかったと示されるからです。葛藤が解決されるときの快感のことを、私は「カタルシス」と呼んでいます。

 注意すべきは、映画でも漫画でも小説でも、作者は「葛藤が解決するシーン」の演出に凝るという点でしょう。カタルシスを最大化するため、カッコよくて印象的なカットやコマ割り、気の利いた美文で表現しようとします。だからこそ観客の側は「カッコいいカットだから感動したのだ」と勘違いしてしまうんですね。
 もちろん「カッコいいカット」は重要です。しかし、観客はそれだけで感動するわけではありません。そこに至るまでの文脈がなければ感動できません。

 なんだか「気づきポイント」が無駄に長くなってしまいました。

 ともあれ『ショーシャンクの空に』は大傑作です。私がこの記事で言いたいのは「御託はいい!面白いからとにかく見ろ!俺も記憶を消してもう一度見たい!」ということで、これを私なりの言葉で表現しようとしたら6000字を超えてしまいました。さもありなん。

 

 

★お知らせ★

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 新連載『神と呼ばれたオタク』が、くらげバンチにて始まりました

 毎週火曜日更新の予定です。よろしくお願いします。