デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ネット時代の人格管理(ペルソナ・マネジメント)

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr




“PR”という業界がある。たとえばテレビに登場する政治家は、みんなスーツの選び方が似ているし、エキセントリックな恰好をする人は滅多にいない。セリフや口調も、判を押したようにそっくりだ。日本国民の多様性を正しく反映しているのなら、一人ぐらいストリート生まれヒップホップ育ちの政治家がいてもおかしくない。たとえばダボダボのジーンズを履いて、キャップを斜めにかぶり、マイクを片手に日曜討論に乗り込んで、「ここでTOJO! 俺がDAIHYO! RhymeでSYUHYO! 本気(マジ)なSEITO!」(ドゥ〜ン ドゥンドゥンドゥ〜ン キュワキャキャキャッキャキュワキャ!)と、リリックを刻む。そんな政治家がいないのはなぜだろう。
それはPR業界が、政治を影で支えているからだ。
政治家は政治のプロであっても、人前に立つプロだとは限らない。ファッションにはスタイリストの助力が必要だし、スピーチの原稿にはゴーストライターが必須だ。発声方法やジェスチャー、目線の運び方まで、それぞれ“その道のプロ”から助言を受けている。政治家のような“人から見られる仕事をする人”に、“よりよく見える方法”を教える:そういうサービスを提供しているのがPR業界だ。
たとえば2008年のアメリカ大統領選挙で、バラク・オバマヒラリー・クリントンの両候補はどちらも神懸かり的にスピーチが上手かった。言葉のセンスがすばらしいだけでなく、檀上での言動すべてが完璧で、見る人の心を動かすものになっていた。彼ら自身にも類まれな才能があるのだろう。が、あのまぶしいスピーチの数々は、PR業界の功績だ。ヘタなスピーチしか準備できないPR企業はすぐに潰れる。そういう意味では市場原理と資本主義の成果であり、人類が積み重ねてきたスピーチの歴史の集大成だった。
たとえば映画『マーガレット・サッチャー』には、田舎娘のサッチャーボイストレーニングを受けるシーンがある。たとえば1960年のアメリカ大統領選挙では史上初めてのテレビ討論が行われ、リチャード・ニクソンが“男らしくない”という理由からメーキャップを拒んだのに対し、ジョン・F・ケネディは念入りな体調管理とメーキャップをほどこしてからカメラの前に立った。結果、世論は大きくケネディの支持へと傾いた。テレビの力とPR業界の重要性を示す、あまりにも有名な逸話だ。
これは政治家に限らない。テレビに映る芸能人で、スタイリストのアドバイスを受けない人はいない。
“誰かから見られる”のは、じつは簡単ではない。
“誰かからよく見られる”には、プロの助けが必要だ。
ところが私たちは“人から見られる”ことについてズブの素人だ。どういう言動が評価され、どんな思考が嫌われるのか。どんな顔や服装なら、どんな層の人々に受け入れてもらえるのか。私たちはまったくの無知である。そういう知識を持たないまま大衆の面前に立つのは、防火服を着ずに消火活動にあたるようなもの。火傷して当然だ。
インターネットの登場は、私たちすべてに“大衆の前に立つ”機会を与えた。かつて“人から見られる技術”は一部の人々の専門知識だったが、現在ではすべての人に必要なものになった。しかし実際には、私たちの多くはそうした知識を持たないままだ。人から見られているという意識を忘れて、迂闊な言動を漏らしてしまう。「バカッター」「バカ発見器」という言葉が生まれるほど炎上事件が頻発するのは、結局、素人が裸のまま火に飛び込んでいるだけなのだ。



【バカ発見器】【バカッター】ツイッターの主な暴露・炎上騒動のまとめ
http://uguisu.skr.jp/recollection/twitter2.html



あなたは見られている
どんなにブログのPV数が少なくても、Twitterのフォロワー数がわずかでも、Facebookの公開範囲が狭くても、あなたは人から見られている。あなたが誰かをヲチしているのと同じぐらい、あなた自身も誰かからヲチされているのだ。インターネットって、そういうものだ。双方向のメディアって、そういう意味だ。
インターネットを使う以上、かならず「他人の視線」を意識しなければいけない。
自分をいかによく見せるのか、戦略を持っていたほうがいい。ネット上での自分を、どんなキャラクターにするのか。自分の人格(ペルソナ)をどのように演出していくのか。危機感と緊張感を持って考えたほうがいいし、それができない人はインターネットを使わないほうがいい。……ありのままの自分? そんなものクソと一緒に流してしまえ。人間の本性なんて、ふつうは直視できないほど醜いのだから。





       ◆ ◆ ◆





ここまで、他人の視線を意識することの重要性を説いてきた。ネット上での自分のキャラクターを作るのが大事だと書いた。
では、どういう人格が望ましいだろう。人から極端に憎悪されることも無視されることもない、そういう無難な人格とはどういうものだろう。



ところで最近、橋下徹市長の旗色が悪い。
もともとは既得権益者に切りかかり、その舌戦のあざやかさで人気を集めた人物だ。有名な大学教授やコメンテーターを次々に斬り伏せていく姿は、まさに“強きを挫くヒーロー”に見えた。
ところが、最近ではいろいろな場所に“被害者”が現れて、彼に悪者のレッテルが貼られつつある。代表的なものは、朝日新聞社と名前を間違えられて批判された朝日出版社だろうか。橋下氏の支持者からすれば「被害者ヅラすんな」と言いたいところだろう。が、しかしTwitter上でふじこる彼の姿は“弱きを助く”ものには見えない。思い返せば大阪府知事時代、彼は名だたる“識者”を相手に負け知らずの討論を続けていたが、一度だけぐらついたことがある。
それは女子高生を泣かせたときだ。
理屈はともかく、パッと見は「大人の議論を振りかざす悪者とその被害者」という構図になっていた。
……あれあれ? と、当時の私は思った。橋下さんってかなり頭の切れる人なのに、こんな人気を失いそうなことをしちゃうんだ……って。人は理屈よりも感情で動く。そして、泣いている女子高生の姿には、人々に再考を迫るだけのインパクトがあった。
橋下氏は基本的に“攻撃型”の人だ。
誰かを論理的に追い詰め、切り刻み、叩き潰す。そうやって人気を掴んできた人だ。攻撃が“強者”に向けられている間は、絶大な支持を得られる。悪を暴くヒーローに見えるからだ。しかし、そうやってのし上がった人はもろい。一度でも攻撃を“弱者”に向けてしまったら、もう悪者にしか見えないからだ。どんなに自己弁護の言葉を並べても、詭弁を弄しているようにしか見えないからだ。“被害者”を出してしまったら終わりなのだ。
橋下氏の“相手を黙らせる技術”には、目を見張るものがある。しかし“人から見られる技術”については、もしかしたら素人同然だったのかもしれない。




ここから得られる教訓は、なんだろう。大衆の面前に立つ人間の一人として、私たち素人はどんなことを学べるだろう。
それは「攻撃型の人格はリスクが大きい」ということだ。
誰かをするどく批判していれば、かならず喜ぶ人がいる。「よくぞ言ってくれた!」と拍手喝采してもらえる。しかし、その人気は永続的なものではない。攻撃型のペルソナはちょっとしたきっかけで信頼を失い、悪者だと見なされてしまう。正義を振りかざすのは気持ちいいものだ。しかし正義は、ほかの正義から見れば悪なのだ。
つまり「頭のいい人だと思われたい!」なんて考えないほうがいいのだ。ネット世界での「頭のよさ」とは、つまり誰かを論破する能力であり、黙らせる能力だからだ。ネット上で「頭のいい人」と見なされるペルソナは、いつだって攻撃型だ。少なくとも、いまはまだ。
世間は弱い人にやさしく、強い人に冷たい。物語のヒーローは基本的に弱きを助け強きを挫く。「強い立場」に立てば、ただそれだけで赤の他人から憎まれてしまう。




世の中には、アホだと思われることを極端に恐れる人がいる。一言の反論も許せない、誰からも批判されない強者でありたいと願う人がいる。その気持ちはよく分かる。私たちが日常生活で目にするよりもずっと強烈で濃密な呪詛が、インターネットには満ちているからだ。



インターネットは無いほうがいいのだろうか?
――たぶん、人によってはそうなのだろう。



けれど私たちはすでにネットの便利さを知ってしまったし、これを捨てることはできないだろう。私たちにできることといえば、“人前に立っている”という意識を持って、自分のペルソナをうまく演じていくことだけだ。
「あいつバカだけど、時々いいこと言うよね」
そう言われるぐらいで丁度いい。








ペルソナ4 ジ・アルティメット イン マヨナカアリーナ

ペルソナ4 ジ・アルティメット イン マヨナカアリーナ

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 コレクターズ・エディション [Blu-ray]

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 コレクターズ・エディション [Blu-ray]





※参考



Twitterについて、理解しておくべきこと‐Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20121023



“職業釣り師”になるための10の条件 ‐シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120410/p1



※なお私は橋下徹市長を支持も批判もしていません。ただ最近の状況からいって、「悪者っぽいイメージ」になりつつあると指摘しているだけです。政治家はイメージではなく政策で判断すべきだと呼びかけておきます念のため。