先日、『アナ雪』を観た。
びっくりするほど面白かった。
白状すれば、あまり期待していなかったのだ。というのも、飲み友達の野郎どもがディスりまくっていたからだ。本当、いい意味で裏切られた。まあ、あの男どもが『アナ雪』をディスりつつ『ベイマックス』をベタ褒めにしたのも無理はない。完全に客層が違う。『アナ雪』はなあ……百合が好きなら嫌いになるわけがないんだよなあ……。
レリゴーがまさかあんなに切ないシーンで歌われる曲だとは思っていなかった。もっと、こう……クライマックスの盛り上がるシーンに流れるものだと思っていたのだ。実際には、映画開始から1/4経過~2/4までのあたりにレリゴーのシーンは配置されている。脚本用語でいえば第2幕の前半だ。
『アナ雪』のレリゴーを聞いて、『シャンタラム』という小説を思い出した。この小説には、主人公の男が、愛する女を失って、悲しみと寂しさのなかに自由を見つけるシーンがある。そうなんだよ! 人は愛を失ったときに自由を感じるんだよ! 完全な自由は、孤独とセットなんだよ! エルサ!!!!
……って感じで、ヤバい涙腺に来た。で、エンディングでは同じ歌詞がまったく別の意味になっていて涙腺崩壊。目と鼻から大量の液体がレリゴーしていったわけである。
■『アナ雪』と『ベイマックス』
『アナ雪』と『ベイマックス』の脚本は、比較研究にもってこいじゃないかと思った。客層の違いが脚本にどのように反映されているか、とても勉強になる。たとえば、映画の最初の1/4のことを脚本用語で「第1幕」と呼ぶ。一般的には、主人公を取り巻く状況設定と彼(彼女)が解決すべき問題の提示は、この第1幕でなされると言われている。そして『アナ雪』と『ベイマックス』と比較すると、問題の設定に興味深い違いがある。
まず『ベイマックス』のヒロが解決すべき問題は、ほぼすべて外因性のものだ。彼の周囲で起った出来事が、困難な障害となって立ちはだかる。兄の死の悲しみからどう立ち直るか、なぜ兄は死ななければならなかったのか……等々。もちろんヒロ自身の内面(=子供っぽい部分)も解決すべき課題なのだけど、それは裏の課題だ。表の課題は、あくまでも外因性の問題を解決することである。
一方、『アナ雪』の第1幕で提示される問題は、どれも人間の内面に関わるものだ。本当の自分を隠さなければならないというエルサの葛藤。イケメンを目にしたら簡単に恋に落ちてしまうアナの幼さ。そして姉妹の心の距離──。徹底的に「心の内側」の問題が取り上げられて、解決すべき課題として提示されている。
また、『アナ雪』の対象年齢は(たぶん)『ベイマックス』よりも低い。そのため、物語そのものがとてもシンプルに作られている。伏線は必要最低限だし、ミステリ要素はない。エルサにとっては自分自身の内面が、そして、アナにとっては姉との関係が、物語を前進させる中心的な興味の対象となっている。
脚本家ブレイク・スナイダーは、主人公の欲求はできるだけ原始的(プリミティヴ)なほうがいいと言ってる[1]。観客の感情移入を誘いたいのなら、それこそ原始人でも分かるような、人間誰もが持つような欲求を登場人物に抱かせるべきだ。
「本当の自分をさらけ出したら、誰かを傷つけるかも」
「本当の自分は隠しておきたい」
「もしも本当の自分を知られたら、みんなから嫌われそう」
エルサの悩みはとことんプリミティヴだ。誰もが思春期に(※人によってはもっと早い年齢で)感じる苦悩そのものだ。氷の魔法というのは、あくまでも象徴である。ファンタジーの設定を使って、普遍的な人間の悩みを描いているのだ。
戴冠式を前に不安に震えるエルサに対して、イケメンをひっかけてうかれるアナ。この対比も上手い。ハンス王子のプロポーズで、アナの頭から姉のことは消える。姉妹の心は、長すぎる時が過ぎて遠く離れてしまったのだ。この2人の距離こそがアナの立ち向かうべき中心的課題で、この映画全体で解決していく問題だ。
ベイマックスは、優しい本体の外側に攻撃的な鎧をまとう。一方、『アナ雪』のエルサは、美しい外見の内側に攻撃的な魔法を秘めている。内面と外見のギャップと、その逆転。このあたりの違いも面白い。
■『アナ雪』と現代の神話
『アナ雪』の現代的なところは、魔法をコントロールするという点だと思う。
『眠り姫』『シンデレラ』『美女と野獣』『鶴の恩返し』『かぐや姫』……。女の子が主人公の寓話では「魔法が解ける」というモチーフが非常に重要だ。これはアニメ『魔女の宅急便』や『ストライクウィッチーズ』にも受け継がれている。でも、エルサの魔法は解けない。『まどか☆マギカ』のまどかやほむらと同様、エルサの魔法は失われない能力であり、呪いに近い。かといって、まどマギの魔法少女たちのように魔女になってしまうわけでもない。エルサは魔法を手なずけることに成功する。
これは一体、何を象徴しているんだろう?
神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、世界中の神話や寓話には共通の物語構造があると主張した。すべての神話には、原形となる物語があり、同じ物語が(地域の文化に応じて)姿を変えて語られているだけだと彼は考えた。普遍的な「神話の原形」を、彼はモノミスと呼んだ[2]。人生には、すべての人に共通の精神的・肉体的な課題があり、それらを克服する過程を象徴的に描いたものが神話だ──。どうやら彼はそう考えていたらしい。
(かつては神話や宗教で乗り越えた)心理学的に危険な事態を、現代の私たちは一人で立ち向かわなければならず、助けがあったとしても、せいぜいあやふやで間に合わせで、たいていはあまり役に立たない手引きがあるだけだ。これは、現代的で「啓蒙された」人間としての私たちの問題で、そういう私たちのせいで、神や悪魔は合理的に説明されて存在しなくなってしまった[3]。
──ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』
要するに、神話に登場する英雄の物語をなぞることで、かつての私たちは「心理学的に危険な事態」に対処してきたというのだ。
『千の顔を持つ英雄』は1949年に発表された本なので、その内容は今読むとかなり古くさい。彼が神話を分析するときに武器としたのはフロイト‐ユングの心理学で、本書では現代人の夢分析にもかなりの字数を割いている。この本を著したとき、彼は20世紀後半の華々しい科学的知見を利用できなかった。そのため、この本の主張には、やや説得力に欠ける部分がある。
たとえば心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、子供の人格は周囲の仲間の影響によってかたち作られると主張した。子供の集団を見れば――あるいは自分が思春期だったころを思い出せば――分かるとおり、子供たちは仲間内で「役割」を作るものだ。リーダー格がいれば、腰巾着のようなやつがいて、腕っ節の強い者もいれば、ウィットに富んだ者もいる。策士や、天然ボケや、美貌の持ち主もいる。
子供たちの見せるこれらの個性は、遺伝的性質と家庭環境の双方の影響を受けて生み出されたものだ。しかし、どの子供も、集団内の他者との比較によって、自分の得意分野と苦手分野にすぐに気づく。すると子供は自分の「役割」に相応しい振る舞いをするようになり、得意分野を伸ばして、苦手分野は放置するようになる。自分の選んだ(あるいは選ばれた)役割に専門化していくのだ。ハリスによれば、このような役割の分化は8歳ごろから現れるという[4]。
もしも彼女の説が正しいとしたら、私たちの歩む人生は、その「役割」に応じてかなり違ったものになる。有史以前の世界ならなおさらだろう。集団のリーダー格を務める者は、そうでない者に比べて、かなり違った人生の物語を経験することになったはずだ。であれば、キャンベルが想定していたような、すべての人に共通の精神的・肉体的な課題なんてあるのだろうか?
疑問はまだある。
キャンベルの提案したモノミス「英雄の旅」のプロットは、なんていうか──極めて主観的な感想だけど──すごく男性的なのだ。
たとえば、英雄は生まれた地を追われて、クジラの腹の中のような危険地帯に立ち入り、そこで何か神秘的な力を手に入れて、美しい姫君とともに故郷へと帰還する……。このプロットに「男の子の旅」という印象を受けるのは私だけだろうか。少年が母親のもとを離れて、人生経験を積み、やがて自分自身が父親になる。そんな人生の物語を象徴しているように私には感じられる。
これだけ男女同権が進んだ現代でさえ、男性と女性の歩む人生はかなり違う。
たとえば小学生くらいまでは女のほうが成長が早いと言われる。男に初潮はないし、女は夢精を経験しない。平均的な初婚年齢を比べれば、いつの時代も男性のほうが遅い[5]。そして何より、女性は妊娠・出産を経験する。有史以前からかなり最近まで、戦争で武器を握るのは男性だった。先述の「役割」と比べてもはるかに明白に、男女では人生の物語が違う。
たしかに男女を問わない人生の課題はあるし、それに応じた神話もあるかもしれない。けれど、それとは別に、「男の物語」と「女の物語」があったとしても少しも不思議ではないと思うのだ。
個性にもとづく「役割」の違いや、男女という性別の違い──。それらの違いを無視した、包括的なたった1つのモノミスがあるという考え方は、やはり説得力が足りないと私は思う。キャンベルの時代は、ナチズムや優生学への反省から、ヒトは生まれながらにみんな同じだと考えられていたのかもしれない。しかし実際には、ヒトは生まれながらにみんな違う。私たちは権利のうえで平等なのであって、肉体や能力の面で平等なわけではない。
とはいえ、モノミスというアイディアそのものはイイ線いっていると思う。
たとえば言語学では、最近ではほとんどの研究者がノーム・チョムスキーの説を支持し、あらゆる言語に共通した「深層構造」が存在すると認めているらしい。しかも、その「深層構造」は学習されるのではなく、脳にもともとプログラムされていると考えられているそうだ[6]。
また、心理学者アーヴ・ビーダーマンは「ジオン」説という仮説を唱えている。この宇宙に、数学的に完璧な球や円錐、立方体は存在しない。それらの概念は私たちの脳のなかにあるだけだ。どうやら私たちの脳内には、概念的な立体パーツがプリインストールされているらしい。そういうパーツを脳内で組み合わせて、私たちは身の回りの物体の形状を認識しているというのだ。この概念的な立体的なパーツを、ビーダーマンは「ジオン」と名付けた[7]。
言語が、純粋に文化的な現象ではなく、ヒトの脳の生理的機能に根ざした「深層構造」によって生み出されるものならば──。あるいは物体の形状認識が、文化的なものではなく、「ジオン」のような根本的な概念によって生み出されるものならば──。私たちの物語にも、根本的な共通構造が存在してもおかしくない。私たちの喜ぶような物語のプロットが、あらかじめ脳に組み込まれいてもおかしくない。
そんな根本的なプロットに名前を付けるとしたら、その名は「モノミス」しかないだろう。
実際、文化的に遠く離れているはずの地で、よく似た物語がしばしば作られる。これはヒトの脳を喜ばせる「普遍的な物語」があるからだと信じずにはいられない。たとえば、アイルランドの英雄オシーンの物語だ。森で狩りをしているときに、彼は「常若(とこわか)の国」の王女と出会い、彼女を助けた。彼女と結婚して「常若の国」で何年も幸せに過ごした。そしてある日──。
「ああ、今日にでもエリン(※アイルランド)に帰って、父上や騎士団の仲間たちと会えたら、どんなにいいか」
それを聞いた妻は、こう言った。「もしエリンにお帰りになって、その地に足をつけられたら、もう二度と私のもとに戻ってくることはできず、目の見えない老人になってしまいます。あなたがこの地に来てから、どれほどの歳月が流れたとお思いですか」
「三年ほどだろう」オシーンは答えた。
「三〇〇年です、あなたが私と一緒にこの国にいらしてから。もしどうしてもエリンにお帰りになりたいのなら、この白い駿馬(しゅんめ)に乗っていらしてください。もし馬から降りたり、エリンの地に足をついたりしたら、この馬はたちまちにしてあなたをその場に置いて戻ってしまい、あなたは取り残され、そのまま哀れな老人になってしまいます」
しかし、ちょっとした不注意からオシーンは片足を地面につけてしまう[8]。空恐ろしいほど『浦島太郎伝説』によく似ている。これはほんの一例にすぎない。文化的な関係性が希薄な地域間で、そっくりな神話や寓話がしばしば語られるのだ。
おそらく、モノミスのようなものはある。
ただ、キャンベルが想定したような単一の物語ではない。モノミスには、男女の違いや、社会的な「役割」の違いに応じた、いくつかのパターンがあるのではないかと私は想像している。(※もはやモノミスじゃなくてポリミスである)
話を戻そう。
女の子の登場する寓話では、「魔法が解ける」というモチーフが頻出する。この魔法は、たぶん少女性みたいなものを象徴しているのではないだろうか。少女の時代には、いつか終わりがくる。大人になり、妻になり、母になる時がくる。少女性という魔法は、いつか解けてしまうのだ。そういう古い時代の人生観が、寓話や説話には反映されているのかもしれない。
ところが現代の女性は、いつまでも少女性を失わずにいられる。
肉体的な面だけを見ても、現代人はいつまでも若々しい。心理学者スティーヴン・ピンカーは、現代の女性は「中年になっても古代のティーンエイジャーのように見える」と述べている[9]。精神面でも同じだ。しばしば「男はいくつになっても少年の心を持つ」と言うが、(たぶん20世紀の女性解放にともなって)これが男女を問わないものになった。女も、いくつになっても少女の心を失わずに済むようになった。だから、エルサは魔法を失わないのだ。それを手なずけることに成功したのだ。
『アナ雪』は子供向けだし、まぎれもなく寓話だ。
けれど、語る価値のある映画だと思った。本当に面白かった。
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◆参考文献等◆
[1]ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』フィルムアート社(2010年)p217
[2]ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2015年)上p54
[3]ジョーゼフ・キャンベル(2015年)上p156
[4]マット・リドレー『やわらかな遺伝子』紀伊國屋書店(2004年)p335
[5]戦前の初婚年齢の推移をグラフ化してみる(2016年)(最新) - ガベージニュース
[6]マット・リドレー『赤の女王 性とヒトの進化』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2014年)p493
[7]スティーヴン・ピンカー『心の仕組み』ちくま学芸文庫(2013年)上p513以降
[8]ジョーゼフ・キャンベル(2015年)下p51~55
[9]スティーヴン・ピンカー(2013年)下p349