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汝はヒーローなりや?/『ガッチャマンクラウズ』の宿題

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 物語における「ヒーロー」は、時代や世相に応じて変化を続けてきた。『ガッチャマンクラウズ』に描かれたヒーロー像を、今回は2つの軸から考えてみたい。
 1つは「ヒーローが戦うのは社会秩序を守るためか、それとも壊すためか」だ。前者であれば敵は犯罪者──既存の社会では対応できないほどの巨悪──になるし、後者であれば暴君や独裁・圧政が敵に選ばれやすい。
 もう1つの軸は「ヒーローは選ばれし者か、それともみんなか」だ。伝統的な英雄物語では、英雄1人に正義を背負わせるシステムになっている。しかし、このシステムには疑いの目が向けられ続けてきた。

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 一言でいえば『ガッチャマンクラウズ』は、社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語だ。そして、「みんながヒーロー」になった時代にあるべきヒーロー像を示そうとした。



      ◆



 まずは『マトリックス』から話を始めよう。
 現代の生物を理解するには化石と比較するしかないように、現代のヒーローを理解するには、過去のヒーローと比較するしかない。もちろん『マトリックス』には、『攻殻機動隊』という元ネタがある。『攻殻機動隊』には、『ニューロマンサー』という元ネタがある。しかし起源をたどればキリがなく、究極には『ギルガメッシュ叙事詩』のような神話時代の物語にたどり着いてしまう。時代をさかのぼるのはほどほどにして、まずは『マトリックス』から話を始めたい。三部作のうち、1999年の公開された第1作目についてだ。

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マトリックス』の主人公・ネオは、救世主だ。
 ごく普通のプログラマーとして生活していた彼は、赤い錠剤を飲んだことで世界の真実を知る。彼が現実だと思っていたものは、コンピューターの作り出した仮想空間にすぎなかった。かつて人工知能との戦争に破れた人類は、眠ったまま生体電池として利用されていたのだ。
 仮想空間を離れたネオは、トリニティなどの仲間たちと冒険を繰り広げる。やがて彼は「仮想空間を克服する能力」を手に入れる。映画の最後は、仮想空間に戻ったネオが人々に目覚めろと訴えるシーンで終わる。
マトリックス』は、典型的な貴種流離譚と言っていいだろう。
 英雄(ヒーロー)は生まれ故郷を離れて、旅先で神秘的な“力”を手に入れる。やがて英雄は凱旋し、故郷にその“力”をもたらす。こうしたプロットを持つ物語のことを貴種流離譚という。ギリシャ神話のオデュッセウスヘラクレス、日本神話のスサノオヤマトタケルなど、英雄物語の多くは貴種流離譚に当てはまる。
 オデュッセウスのような英雄は、自立した自我を持つ個人の象徴だ。
 すべての子供は、両親の言いつけが絶対だった世界を離れて、やがて自我を獲得する。大人になった彼らは、今度は自分たちが誰かの両親になる。「旅立ち→力の獲得→帰郷」という貴種流離譚の基本プロットは、私たちの人生の縮図と言っていい。支配からの離脱、自我の獲得。それが貴種流離譚に普遍的なテーマだ。『マトリックス』では「Free your mind.」というセリフが繰り返されていた。



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マトリックス』のような古典的な英雄物語では、世界を救う役割は英雄1人に背負わされる。
 また英雄が戦う目的は2つに大別できる。1つは社会秩序を守るため、もう1つは社会秩序を刷新するためだ。
マトリックス』の場合は後者だ。ネオは既存の社会秩序と敵対することで、新しい社会秩序をもたらそうとする。この場合、敵は支配者であり、暴君だ。多くの貴種流離譚では、英雄は「暴君たる父親」と戦うことになる。言うまでもなく、父親は社会秩序の象徴だ。この点でも『マトリックス』は古典的な英雄物語の基本を踏襲している。
 一方で、既存の社会秩序を守るために戦う英雄もいる。この場合、敵となるのは社会秩序を脅かす存在──すなわち犯罪者だ。しかし、ただの犯罪者であれば警察や軍隊が対応すれば充分で、超人的な力を持つ英雄に出番はない。既存の社会秩序では対応できないほどの強大な敵だからこそ、英雄が必要なのだ。たとえば宇宙からの侵略者や、超能力者のテロ組織などがそれにあたる。『X-MEN(2000年)』や『スパイダーマン(2002年)』は、この典型だろう。

 社会秩序と戦うタイプの英雄物語では、支配・権利などの社会構造がテーマになりやすい。『マトリックス』では仮想空間を作り出している人工知能が「悪」と見なされていた。なぜなら人工知能が、自らの存続のためだけに人々を支配しているからだ。支配とは、他者の権利を奪うことをいう。合意もなしに人々の権利を奪っているからこそ、人工知能は「悪」と見なされるのだ。
 一方で、社会秩序を守るタイプの英雄物語では、英雄自身の人間的成長がテーマになりやすい。既存の社会秩序のなかで自らの能力をどうやって活かしていくのか、自分はいったい何のために生まれてきたのか。英雄は深く悩みながら成長していく。『スパイダーマン』のキャッチコピーは「大いなる力には、大いなる責任がともなう」だった。

 社会秩序を壊すために戦うのか、それとも守るために戦うのか。
 戦いの目的や物語のテーマは違うが、1つだけ共通点がある。
「世界を救う役割は、英雄だけに背負わされる」
 大いなる力には、大いなる責任がともなうのだ。



      ◆



 現代的な英雄像を語るうえで、映画『V for vendetta(2005年)』は外せないだろう。この映画は既存の英雄像を崩して、現代的なものへと作り替えてしまった。

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 ちなみに映画としての見どころは、主演のヒューゴ・ウィーヴィングの超絶演技力だ。主人公の“V”は作中でずっと仮面をかぶっている。が、わずかな仕草や呼吸だけで、仮面が笑っているようにも泣いているようにも見えるのだ。能かよ。
 物語の舞台は、第三次世界大戦後のイングランド。暴君に支配される全体主義国家だ。オーウェルの『1984年』によく似た世界が舞台である。ある晩、ヒロインのイヴィーは強姦されそうになったところを、仮面の男 “V”に救われる。しかし“V”は支配体制の崩壊を目論むテロリストであり、自分を怪人に変えた者たちを憎悪している復讐鬼だった。
 仮面の男“V”は最後まで素顔を見せない。“V”の正体は何者なのかという問いが作中で繰り返される。そして終盤の印象的なシーンにより、「“V”の正体は私たちみんなだ」という結論が示される。
『V for vendetta』は2つの点において斬新だった。
 1つは英雄“V”を犯罪者として扱ったこと。
 もう1つは「世界を救う役割を英雄1人に背負わせる」という構造を崩したことだ。
 たとえば『ダークナイト(2008年)』は、ゼロ年代のベスト映画と言っていいだろう。ノーラン監督の濃密な脚本と映像、ヒース・レジャーの怪演、すべてにおいて素晴しい映画だった。しかしこの作品のテーマである「英雄は光の存在ではない、犯罪者と紙一重の存在(=闇の騎士)だ」という結論を、『V for vendetta』は先取りしていた。ダークヒーローそのものは別に新しいものではない。が、大事なのは時代だ。『ダークナイト』以降、英雄たちは光の存在ではいられなくなった。少なくとも大人向けの物語では、そうなった。その先鞭を付けたのは『V for vendetta』だった。
 さらに『V for vendetta』は、「世界を救う役割を英雄1人に背負わせる」という構造を崩してしまった。これは『ダークナイト』にもできなかったことだ。映画の終盤で「“V”の正体はみんなだ」と示すことで、「みんなが英雄(ヒーロー)だ」と結論づけたのだ。『ガッチャマンクラウズ』にもつながる現代的な英雄像は、『V for vendetta』のあの印象的なシーンによって誕生した。



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ガッチャマンクラウズ』を語るにあたり、『まおゆう』を避けては通れないだろう。2009年に2ちゃんねるに書き込まれたこの物語は、やはり英雄の解体を試みていた。「勇者が魔王を倒す」という英雄物語の続きを描こうとした。

『まおゆう』に登場するメイド姉は、人間という種族を象徴する存在だ。彼女は他の登場人物と関わるなかで成長し、やがて「勇者の苦しみを共有したい」と言い出す。「世界を救う役割を1人の背に背負わせる」という英雄物語の基本構造に疑問の目を向けたのだ。
 結論から言えば、『まおゆう』は英雄物語を崩すことはできなかった。
 世界を救ったのは勇者、魔王、女騎士などの一部の英雄であって、作中の一般人は彼らに導かれたにすぎない。英雄譚の基本構造を踏襲した物語になっている。
 しかし英雄としての務めを果たした勇者たちは、最後に「丘の向こう」へと旅立つ。あとに残されるのは、英雄のいない世界だ。英雄のいらない世界だ。普通の人間の世界を残して、英雄たちは旅立つのだ。北欧神話ラグナロクによって消える「古い神々」や、アーサー王のような、最後に立ち去るタイプの英雄なのだ。そこには、普通の人間たちへの熱い期待がある。英雄がいなくても大丈夫だという強い信頼がある。「みんなが英雄だ」という物語をほのめかして、『まおゆう』は終わる。
 なお、『まおゆう』の勇者たちは社会秩序と戦うタイプの英雄だと見なせる。犯罪者を狩って社会秩序を守るのではなく、既存の社会秩序──人間と魔族が戦い続けることで経済的・政治的に維持されている社会──を壊そうとする。
 それでも勇者たちが“V”のようなテロリストにならなかったのは、『まおゆう』の世界には絶対的な支配者がいないからだ。人間にも魔族にも権力者はいるが、社会秩序すべてを統括するような支配者がいない。『マトリックス』の人工知能や『V for vendetta』の独裁者のような存在が登場しない。だから勇者たちは、社会秩序と戦うタイプの英雄でありながら、“V”のようなダークヒーローにはならなかった。



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『V for vendetta』は「みんなが英雄だ」と結論づけた。では、それを真に受けた人がいたらどうなるのか? そんな思考実験をコメディに昇華した映画が『キックアス(2010年)』だ。

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 主人公のデイヴは、アメコミが大好きなオタク少年。誰もヒーローになろうとしないことに疑問を感じた彼は、ネット通販でコスチュームを買い、1人でヒーロー活動を初めてしまう。覆面のヒーロー「キックアス」を名乗り、不良たちと戦う。やがて彼の活動を撮影した動画がyoutubeにアップロードされ、彼は一躍有名人に。そんなある日、麻薬密売組織と戦う親子──ヒットガールとビッグダディに出会う。派手な衣装に身を包んで戦うのは主人公とよく似ているが、親子は復讐に燃える殺人鬼だった。
『キックアス』は、主人公の“残念さ”が楽しいコメディだ。
 オタクの痛さや、いわゆる中二病の痛さにあふれている。やがて主人公は麻薬密売組織とのガチバトルに巻き込まれてしまうのだが、事態が悪化すればするほど笑えるというドリフみたいな仕様。終盤のジェフ・バックリーの名曲が流れるシーンでは涙が出るほど爆笑した。
『キックアス』に描かれる英雄像は、「みんなが英雄だ」を実行に移したらどうなるか? という思考実験だった。カン違いしたオタクのコメディになるか、それとも一線を踏み越えた殺人鬼になるか、2つに1つ──これが『キックアス』の描いた英雄像だ。前者は「誰もがヒーローになれるわけではない」という現実を直視した結果だし、後者は『ダークナイト』の系譜と言っていいだろう。



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ダークナイト』のバットマンは、社会秩序を守るために戦っている。しかし彼が社会秩序の外で活動している限り、犯罪者と紙一重の存在でしかない。バットマンのような英雄が闇の騎士をやめて光の当たる場所へ出てくるためには、英雄自身が社会秩序に組み込まれるしかない。
 そんな世界を描いたのが『TIGER & BUNNY』だ。
TIGER & BUNNY』の世界には「ヒーローTV」というテレビ番組が放映されており、ヒーローたちの犯罪者を捕まえる様子が生中継されている。ヒーローたちはコスチュームにスポンサー企業のロゴを入れて戦っている。

 超人的な英雄の存在が社会的に認知され、社会制度に組み込まれた世界。それが『TIGER & BUNNY』だ。これは『ダークナイト』の問題提起に対する解答だと見なしていいだろう。バットマンは社会秩序の外で戦っているからこそ闇の騎士だった。ワイルドタイガーは社会秩序に組み込まれたうえで戦っているから、光の当たる場所で活躍できる。
 しかしこうなると、『マトリックス』のころとはかけ離れた英雄像になってしまった。『マトリックス』のネオはたった一人でも世界を変えられるほどの力を持っていた。『X-MEN』では世界を滅ぼすほどの敵が現れるから、敵と同等の能力を持った英雄が必要だった。既存の社会秩序では対応できない強敵だからこそ、社会秩序から外れて戦うことが許されていた。
 しかし『TIGER & BUNNY』では、超人の存在そのものが社会秩序に組み込まれている。スーパーヒーローというよりも警察に近い存在なのだ。現実世界の警察官も、拳銃や警棒を持ち歩いている。一般人よりも強い“力”が与えられている。その“力”を超人的なレベルまで大きくすれば、『TIGER & BUNNY』のヒーローたちになる。
 主人公の鏑木虎徹はやがて超人としての力を失っていく。ヒーローがいかにしてヒーローをやめるのか。あるいは、どうやってヒーローでありつづけようとするのか。それを描いたのが『TIGER & BUNNY』だった。



      ◆



 今回は2つの軸からヒーローについて考えてみた。
「戦いの目的は社会秩序を守るためか、それとも壊すためか」
「世界を救うのは選ばれし者か、それともみんなか」
 たとえば戦いの目的によって、敵の設定は変わる。
ガッチャマンクラウズ』の敵は、『マトリックス』とは対照的だった。
 カッツェはネット回線を介して「立ち上がれ」とネオハンドレット鼓舞する。心を解き放って、やりたいことをやれとそそのかす。『マトリックス』のネオがやっていたのと同じことを、『ガッチャマンクラウズ』では敵がやるのだ。
マトリックス』では英雄の行為だったことが、『ガッチャマンクラウズ』では敵の行為になる。この十余年で正義のありようは変わったのだな、と隔世の感を禁じ得ない。腐敗した社会秩序の破壊と支配からの脱却が、1999年の正義だった。それから現在まで、色々なことがありすぎた。
 2001年に米国同時多発テロがあり、中東で泥沼の戦争が始まった。2008年にはリーマンショックで世界中が不況の底に沈んだ。2011年には東日本大震災と福島の原発事故が起きた。私たちの日常は繰り返し破壊され、そのたびに社会秩序を作り直してきた。
 世紀末、私たちは世界の終わりを求めていた。つまらない日常なんて壊されてしまえばいい、世界なんて終わってしまえばいい。そんな感情を多くの人が持っていたのだろう。しかしテロや不況、災害によって日常が壊されても、世界は終わらなかった。カタストロフィ後の日常が続いていった。
 世界が終わらなかった絶望と、日常に支えられている自覚。
 この二つのことを学んだ時代に、私たちは生きている。社会秩序は壊すべきものではなく、守るべきものになった。




マトリックス』のネオは救世主であり、世界を救える唯一の人物として社会秩序と戦った。しかし『V for vendetta』以降、「世界を救う役割を1人に背負わせる」という構造が崩され続けてきた。「みんなが英雄」という構造へと転換してきた。
 ガッチャマンは社会秩序を守るタイプのヒーローだ。敵は宇宙人──警察や自衛隊では対応できないほどの強敵だ。ガッチャマンたちはその圧倒的な能力で、力のない一般人を守ってきた。ところが物語の終盤、一般人たちがヒーローと同等の力を手に入れてしまう。ガッチャマンの守っていた秩序が壊されてしまう。
 しかし、作中のヒーローたちは社会秩序をもとに戻そうとはしない。「力のある者が力のない者を守る」という社会秩序を作り直そうとはしない。みんながヒーローに準ずるほどの力を持った社会を、そのまま見守ることにする。社会の変化を受け入れるのだ。
 つまり『ガッチャマンクラウズ』は、社会秩序を守るはずのヒーローが、社会秩序の変化を受け入れる物語なのだ。



 ヒロイン・はじめはカッツェを殺さないだろう。
 殺さないと約束したからだ。
 もしもはじめが約束を破ろうとすれば、それが心の弱みになり、カッツェに付け入る隙を与えてしまう。そうなれば世界は再び混乱の渦に突き落とされ、地球は滅びる。だから、はじめはカッツェを殺さない。共存し続ける。
 はじめのカッツェに対する勝利は、いわば思想的・精神的な勝利だ。
 あいつが憎い、あいつを滅ぼしてやりたい。そういう負の感情があるかぎり、カッツェには勝てない。少なくともはじめの戦闘力では不可能だ。したがって負の感情を抑えることが、すなわちカッツェを受け入れることが、はじめの勝利条件になる。

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 悪を悪と認めながら社会秩序を守るために受け入れる。この構造は『PSYCHO-PASS』の結末にもよく似ている。現実世界でも同じだ。悪は、私たちのすぐそばにあって、けっして滅ぼすことができない。なぜなら悪は自分自身のなかにもあるからだ。私たちは悪を抑えながら、悪と共存するしかない。毎分毎秒、悪に勝ち続けるしかない。
ガッチャマンクラウズ』の世界では、誰もが特殊能力を使えるようになる。スーパーヒーローに準ずるような力を誰もが手に入れる。そのとき、ヒーローの役割は戦闘によって敵を滅ぼすことではなくなる。精神的・思想的に勝利すること、勝利し続けることが、新しい時代のヒーローだ。




ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
 世界を変えるのに、肩書きも立場もいらない。
 名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
 いまや革命を起こすのに、チェ・ゲバラのような英雄はいらない。FacebookTwitterがあれば充分だ。「アラブの春」を見れば明らかだ。また、人を罰するのに警察も司法もいらない。違法行為の画像をアップロードすれば、ネット住民が罰を下してくれる。今日もどこかで炎上事件が起きている。
 悲劇を目にしたとき、義憤に燃えるのは英雄的な感情だ。誰かが困っていると知ったとき、助けようと行動を起こすのは英雄的な行為だ。たとえば「東北にボランティアに行こうよ」と声をかけるのは、英雄的な行為なのだ。現代の英雄たちは、あなたの隣にもいる。
ガッチャマンクラウズ』の人々がそうであるように、今の私たちは英雄に匹敵するような力を手にした。
 世界をアップデートするのはヒーローじゃない、僕らだ。


 大いなる力には、大いなる責任がともなう。
 私たちは、その責任を果たせるだろうか。






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