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映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません

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※この記事は、書かれた当時のブログ記事の流行にのっとり、意図的に「毒舌」な書き方をしています。苦手な方はお読みいただかないことをおすすめします。



細田守監督の最新作『おおかみこどもの雨と雪』を観てきた。細田監督はポスト宮崎駿の最有力候補と目されており、『おおかみこども』は『となりのトトロ』と並び称されることが多い。『カリオストロの城』や『ナウシカ』で評価を積み重ねた宮崎駿は、ファミリー向けの映画『トトロ』で名声を確固たるものにした。それと同様に、『デジモン』や『オマツリ男爵』、『時をかける少女』で評価を積み重ねた細田監督が、『おおかみこども』で宮崎駿と同じような経歴をたどるのではないか……と言われていた。
で、今回はその感想。思いっきりネタバレしているので、未見の方は戻るボタンをクリックしてください。







     ↓ネタバレまで「5」↓







     ↓ネタバレまで「4」↓







     ↓ネタバレまで「3」↓







     ↓ネタバレまで「2」↓







     ↓ネタバレまで「1」↓








おおかみこどもの雨と雪』を「惜しい映画」だと感じた。映像表現はすばらしいし、これだけのスタッフを集められるのは細田監督の人望あってのものだろう。きちんと観客を感動に導けるよう丁寧に作りこまれていて、一見するとケチのつけようがない。しかしそれでも、細田監督はまだ宮崎駿の後続としては力不足だし、『おおかみこども』は『トトロ』ではありえないと感じた。
ただ一点、脚本が甘いのだ。
「理想の母親像」がひたすら描かれているだけで、実際の母親がどういうものであるかという洞察が浅い。もちろんドキュメンタリー映画ではないのだから、理想を描くのは悪いことではない。リアリズム崇拝は唾棄すべきだ。ただ、「母親ってこうであってほしいな」という妄想で立ち止まるのではなく、「しかし実際の母親はこうだ」→「だからこそ母親はこうあるべきだ」という一歩踏み込んだ価値観が欲しかった。思想と言い換えてもいい。
正直なところ、映画の序盤では感心したのだ。狼男の子供という「社会から疎外される存在」を描くことで、差別の構造や、現実のシングルマザーが抱える問題をありありと描き出している。ケアが必要な人々にケアが行き届かない構造。ヒロインは児童虐待育児放棄をしてもおかしくない状況まで追いつめられる。狼男の子供だとバレたら大変なことになるから、定期健診にも予防接種にも行けない。そして児童相談所からネグレクトを疑われる。深夜の公園で赤ん坊をあやすシーンは涙なしには見られない。細田監督がこんなに社会派な映画を作るようになったのか……と嘆息した。




ところが、それらの問題はヒロインの「強い母性」だけで解決される。
おいおい、そりゃねーだろ、と。




現実世界で子供に手をあげる母親たちは、「母性が弱い」のだろうか。母親たち一人ひとりの「母性」が強くなれば、そういう問題は解決されるのか。子育ては「母性」の――母親の個人的な責任なのか。
言うまでもなく、女は生まれながらに母親ではない。たしかにヒトには「母性」がある。子供をかわいいと感じるのは、男女ともにヒトにプログラムされた感情だ。しかしヒトの本能は、いつでも・誰でも・確実に発揮されるものではない。ヒトは野生動物ではないのだから、本能には支配されていない。眠くてたまらないのになぜか夜更かししてしまうように、可愛くてたまらないのになぜか子供を殴ってしまう。ヒトはそういう生き物だ。女は自分一人の力で母親になるわけではない。
ところが『おおかみこども』には、ヒロインを「母親らしさ」へと導く存在が登場しない。
この映画に登場する“メンター”は、頑固じじいの韮崎さんだ。しかし韮崎さんが教えてくれるのは「農業」や「田舎暮らし」であって、「母親らしさ」を教えるわけではない。ヒロインは子供たちを身ごもった瞬間に、すでに母親らしさを身につけているのだ。
女は生まれながらに母性を発揮し、子供ができたら自動的に母親になる――この映画の根底に流れているのは、そういう母性信仰だ。薄っぺらな神話だ。序盤にヒロインを追い詰めた社会の無理解やシングルマザーの問題も、結局は母性信仰を描くための道具に過ぎなかった。そう気づいて、ぐったりと脱力した。社会派だと思ったのは私の勘違いだったのねん……。
たとえば、この映画では「産む決断」が描かれていない。「つわりのシーン → 病院の前で立ちすくむヒロイン → 図書館で出産・育児の本を集めるヒロイン」とノンストップで流れていく。本当なら「妊娠したかも?」と気づいてから「よし産もう」と覚悟を決めるまでに、それなりに葛藤があるはずだ。まして人ならざる者の子だ。産んでから苦労するのは目に見えている。堕胎を考えたっておかしくない。しかし、作中でそういう苦悩は描かれない。なぜなら母性信仰に従えば、女は妊娠すれば産むのが当たり前で、一瞬でも「堕ろしたほうがいいのかな」と考えるのは母親失格・女失格だからだ。
好きな男の子供なら当然、産みたくなる。けれど、産みたいと思うだけで産めるほど「出産」は簡単な決断ではない。子育てなんて不経済で非合理な選択だ。堕ろすこともできるのに、あえて「出産」を選ぶ。だからこそ親はすごいのだ。
たとえば「出産経験のある友人に相談するシーン」がワンカット入るだけで、この不自然さは解決できた。あるいは夫から「産んでくれ、大変だろうけど一緒にがんばろう」と言われるとか。なにかしらヒロインの背中を押すものが必要だったはずだ。惜しいと思う。
また田舎に越してきたヒロインは、都会には無かった「助け合い」によって救われる。ジャガイモの育て方を教わり、物々交換をして……。一連のシーンはコミカルかつ感動的だ。しかし「助け合い」が力を発揮するのは衣食住だけで、子育てについてヒロインは誰からも助力を得られない。近所のおばさんや学校の先生など、“メンター”になりうる存在をたくさん登場させているにもかかわらず、だ。
これは作劇上の問題だと思う。「娘の自立」を表現するのに「狼であることのカミングアウト」というイベントを使ってしまったため、「狼であることを知っているキャラクター」を草平以外に登場させられなくなってしまった。誰にも言えなかった秘密を打ち明けるからこそ、草平は特別な存在たりうる。
もしも「子育てに協力してくれる人物」を登場させたとしたら、その人には狼男の子供だということを知られてしまうだろう。たとえば近所のおばさんの一人に狼男だとバレてしまって、その人が子育てに協力してくれる――ヒロインを「母親らしさ」へと導いてくれるとしよう。「狼だろうと人間だろうと子供は子供でしょう」とか言って、力を貸してくれるのだ。(※宮崎駿なら……あるいは高畑勲なら、そういうキャラを登場させると思う。もしくは佐藤竜雄とか花田十輝とかetc...etc...)しかし、そうすると「狼であること」が特別な秘密にはならず、クライマックスでの雪のカミングアウトが迫力に欠けたものになってしまう。
クライマックスにカミングアウトを使う → だから草平以外には「狼である」ことを知られてはならない → よって子育ての“メンター”を登場させられない……というわけだ。たぶん。
このクライマックスでのカミングアウトには、他にも不自然さがある。雪の打ち明ける秘密と、草平の打ち明ける秘密の「重さ」が違いすぎるのだ。草平が打ち明ける秘密は「母親の再婚、妊娠、自分はいらない子供になる」というもの。もちろん子供にとっては重大な秘密だが、時間が経てば解消されるものだ。一方、雪の秘密はどんなに時間が経っても解決されず、一生背負っていかなければならない。「お互いの秘密を打ち明ける」というシーンだけを見れば美しいが、その内容はあまりにもアンバランスだ。
草平の秘密をもう少し重くすれば、このアンバランスさは解決できる。たとえば草平の実父はとある事情で犯罪者になってしまい、それが離婚や転校の理由だった……とか。草平の秘密も「一生モノ」にしてやるのだ。けれど話が重たくなってしまうので、この映画のコンセプトに照らして適切かどうか分からない。そもそも「少女の自立≒信頼できる男を見つける」という設定に疑問を感じなくもない。



なんの葛藤もなく出産を決め、誰の力も借りずに母親になるヒロイン。
そして「少女の自立」が「男を見つけること」として描かれる。



一言でいえば、この映画は「男が望む女性像」を追求した、とてもマッチョな作品だ。そうなってしまったのは脚本の詰めが甘いからで、あと一歩、ほんの少しでも注意を払えば、もっと受けの広い作品になりえただろう。細田監督のアニメ制作者としての才能は群を抜いているだけに、とても「惜しい」と感じる。
つい難点ばかりをあげてしまったが、見どころはたくさんある。
とくに「息子の自立」の描き方はどんなに称賛しても足りない。男の子はある一定の年齢を過ぎると、母親とは決定的に違う生き物になっていく。「男の子ってどうしてこうなの?」と、母親の理解を越えた存在になっていく。娘が母親の生き様をなぞる(場合が多い)のとは対照的だ。それを「姉弟の対比」と「雨の自立」によって描き切っている。
繰り返しになるが、理想を描くのは悪いことではない。現実を描くだけならフィクションである意味がない。リアリズム崇拝は唾棄すべきだ。しかし現実を踏まえない理想は、ただの妄想になってしまう。この映画を見た子供たちもいつか大人になり、親になる。『トトロ』は、あるいは『時をかける少女』は、歳をとっても、何度見ても感動できる作品だ。『おおかみこども』はそういう作品に仕上がっているだろうか。
映画『バタフライ・エフェクト』のラストシーンを決めるためにエリック・ブレスとJ・マッキー・グラバーは議論に議論を重ねたという。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の脚本は、ゼメキスとボブ・ゲイルの二人三脚から生まれた。“完璧な脚本”は討論の果てに生み出される。脚本上の小さな瑕疵が残ってしまうのは、細田守監督と奥寺佐渡子先生がカリスマになり、誰も口を挟めなくなってしまったからではないか……と思わずにはいられない。
『おおかみこどもの雪と雨』の一番のファンタジー要素は狼男の存在ではない。作中で描かれる「母親像」だ。めまいがするほどファンタジーな女性像だ。このままでは細田監督は宮崎駿の後進にはなれない。ファンの一人として次回作に期待したい。






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※一回見ただけの勢いで書いているので、思い込みや勘違いがあるかもしれません。ままならぬものです。母だけに。
※映画『となりのトトロ』が公開された直後、懐古趣味すぎるという批判があったそうです。私の感想は、それと同じような的外れな批判なのかもしれません。もう少し時間が経たないと、きちんと評価できないかも。ままならぬものです。母だけに。
※なお、この記事はあくまでも「感想」です。批評や評論ではありません。
※最後に煽っておくと、この映画を見て「母の強さに感動した」とか言っちゃう男を見ると、理想の母親像を見せられたマザコン野郎が幼児退行を起こしているみたいで超絶キモいです。作品のどこに感動するかは自由だけどさぁ、そこでいいの?ほんとに?