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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

なぜ新聞は誤報をするのか?/電子時代の“誠実さ”について

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このところ、新聞の誤報が目立つ。つい先日、日経新聞任天堂について飛ばし記事を書いたばかりだ。新聞各社は気を引き締めて、誤報に注意しているものだと思っていた。その矢先に自衛隊の防災訓練について産経新聞が誤報を出した。一体どうなっているのだろう。



任天堂が激怒!もう信用できない日経の「飛ばし記事」の数々
http://matome.naver.jp/odai/2133887596023833001



産経「自衛隊訓練で立ち入り拒否」記事に9区が抗議・訂正要求
http://www.j-cast.com/2012/07/24140479.html




昔のことは分からないが、最近の誤報は「電子版」が原因だと私は思っている。
電子版では、どの記事がどれだけ読まれたのか、明確な数字として把握できる。電子版ができる以前は販売部数こそ分かるものの、記事単位での「反響」は分からなかった。少なくとも現場の記者たちの目標は「一面を飾る」ことであって、PV数を稼ぐことではなかったはずだ。ところが新聞記事が電子化されたことで、より拡散されやすい記事を書くというインセンティブが生まれた。より刺激的な見出し、より話題をさらいそうな内容……。すると情報の確度よりも注目度が優先されがちになる。そして飛ばし記事が書かれてしまう。
これは新聞に限った話ではない。
インターネットでは誰もが発信者だ。おそらく人間は、生まれながらに誰かに話を聞いてもらいたい生き物なのだろう。日本には一億人のインターネットユーザーがいるという。一個人が膨大な数の人々と繋がることのできるこの時代、誰もが「狼が来たぞ!」という一言を叫びたくてうずうずしている。
うそをうそと見抜けない人にインターネットを使うのは難しいという。では、間違った情報に“騙される側”が悪いのであって、情報の発信者には何の責任もないのだろうか。新聞記者ならいざ知らず、一般人たる私たちは「誠実さ」を持たなくてもいいのだろうか。
誤解を恐れずにいうが、「うそをつく自由」はあると思う。情報を発信するときに誠実である“義務”はないと思う。新聞社であっても例外ではない。けれど間違った情報を出した責任は「信頼の失墜」として返ってくる。ちょうど、狼少年の寓話が教えるように。
誰もが不誠実な情報を発信している環境では、たった一人で誠実な情報を出しても損をする。情報の価値が「どれだけたくさんの人の目に触れたか」で決まるとしたら、不誠実な情報が許される環境では、誰もが情報の正しさよりも注目度を優先し、過激で刺激的なものばかりを垂れ流しにする。そんな環境で誠実な情報発信を心がけても、地味で目立たず、誰の目にも止まらない。
しかし、これが集団単位、コミュニティ単位になったらどうだろう。
誰もが誠実な情報発信を心がけるコミュニティでは、そうでないコミュニティよりも「うそを見抜くコスト」が下がる。迅速で効率的な意思疎通が可能になる。誠実なコミュニティに属する人は、不誠実なコミュニティに属する人よりも、意見交換や学習の面で多大な恩恵を受けられる。ネットの外でも同じだ。会議中の発言よりも根回しのほうが重要な職場では、オープンで誠実な意見交換が足りないといえる。そういう集団では革新的なアイディアなど生まれない。
大事なのは、あなたがどちらに属したいか、だ。
あなたが不誠実な情報発信を続ければ、あなたの周りには不誠実な人々が集まってくるだろう。そして「煽り」と「釣り」にまみれた環境に属することになる。あなたが誠実な情報発信を続ければ、あなたの周りには誠実な人々が集まってくるだろう。確度の高い情報で、あなたを成長させてくれる人たちだ。
個人の能力には限界がある。人はすぐに勘違いするし、調査はいつでも不足する。人は常に正しい情報を発信できるわけではない。けれど、それでも、最低限の誠実さを失ってしまったら、もはや「誠実な人たち」からは相手にされなくなると思うのだ。




君にご奉仕

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新聞の虚報・誤報―その構造的問題点に迫る

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誤報―新聞報道の死角 (岩波新書)

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※でもって“最低限”のレベルについては議論が絶えないのですが。