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脱原発のデモが批判される理由(わけ)/原発を“畏敬”していませんか?

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多くの人が不安にさいなまれている。放射能の汚染は怖いけれど、エネルギー需給の逼迫も怖い。
計画停電や電気料金の値上げのせいで不景気になったら、今年の夏は企業の業績が悪化し、冬のボーナスは激減し、ローンの返済や子供の就学資金の工面が難しくなる。にもかかわらず、脱原発を訴える人は「多少の不便は我慢しましょう」と言う。いいご身分だ。
一方、原発容認派の人々は「放射能の影響は軽微だ」と、ことさら強調する。しかし日本産の製品に対する世界的な“偏見”を取り除くのには数十年かかるし、福島第一原発の周辺住民はいまだに避難生活を強いられている。原発事故の影響が軽微であるものか。
電力需給という目の前の不安と、原発事故という長期的な不安。私たちは二つの不安にがんじがらめにされている。原発容認派と脱原発派との違いは、この二つの不安のうちどちらを優先しているかの違いだ。本質的には「不安の解消」という共通の目的を持っているのに、歩み寄ることができないのはなぜだろう。圧倒的多数の人々は、どちらに傾倒することもなく、ただ不安を抱き続けている。
新聞、雑誌、インターネット……。メディアでは双方の陣営が、自分たちの正しさを証明しようと躍起になっている。お互いに自分の派閥がいかに理性的であるかを誇示し、相手の陣営の非論理性を罵倒している。日本の将来について議論するはずが、ののしりあいになってしまうのはなぜだろう。憎しみにも近い感情が渦巻いてしまうのはなぜだろう。
誤解を恐れずに言おう。
それは「原発」が〈神〉だからだ。




      ◆




このところ少しずつ考えをまとめているのだが、「原発」は社会学的・民俗学的な意味で〈神〉や〈妖怪〉に近いのではないだろうか。もちろん物体としての「原子力発電所」には神性や神秘的エネルギーはない。しかし原子力発電所が「原発」と呼ばれ、知識のない一般人に認知された瞬間に、それは日本的な〈神〉になる。日本の神話や説話において、〈神〉〈妖怪〉〈もののけ〉……などの「超常的な存在」は、たとえば自然災害や疫病のような「人には制御できない現象」の象徴だった。



たとえばヤハウェ一神教系の文化圏の神話では、モンスターは討伐され、駆除される場合が多い。一方、日本の神話や説話では追い払ったモンスターを「祀(まつ)る」場合がまま見られる。
たとえば『常陸国風土記(ひたちのくに ふうどき)』には「夜刀の神」というお話が収められている。
「夜刀(やつ)の神」とは角の生えた蛇で、田畑の開墾を邪魔するモンスターだ。麻多智(またち)という英雄がこのモンスターを退治し、山奥へと追い払う。ここまでは「怪物討伐」の物語の典型的なプロットだ。しかし麻多智は、夜刀の神を駆除・根絶しなかった。
怪物討伐の物語は世界中にあるが、多くは(とくにキリスト教文化圏では)モンスターの息の根を止めて幕となる。主人公が財宝もしくは捕らわれの姫君を手に入れてめでたしめでたし……となるのが普通だ。しかし「夜刀の神」の麻多智は山の入口に祠(ほこら)を建てて、モンスターを〈神〉として祀るのだ。


「ここより上は神の地となすことをゆるさむ。ここより下は人の田となすべし。今より後、われ、神の祝となりて、とこしえに敬ひ祭らむ。ねがはくは、な祟りそ、な恨みそ」──麻多智『常陸国風土記』「夜刀の神」

怪物を追い払った後、山の入り口に祠(ほこら)を建てて「あなたを神として祭ります。どうか祟らないでください」とお願いしているわけだ。「夜刀の神」は典型的な例だが、似たような説話や神話が日本にはたくさんある。ヤハウェ一神教にはありえない、日本の〈神〉の特徴だ。



ヤハウェ一神教が生まれた南西アジアは、もともと豊かな草原が広がる場所だった。麦の野生種が群生し、穂を揺らしていたと言われている。農耕が始まる前から「秋に麦穂を拾い、それを蓄えて定住する」という暮らしが可能だった。いつしか人々は麦の種を食べずに蒔くようになり、そして農耕が始まった。これはヤハウェ一神教が生まれるよりもはるか昔、石器時代の話だ。
農耕を覚えた人々はやがて森を切り開き、麦畑や牧草地へと変えていった。信じがたいことに、当時のレバノンやシリア、イスラエルには豊かな樹林が広がっていたらしい。人々はそれを開墾し、乾いた砂漠へと変えてしまった。
荒れ野に囲まれた厳しい自然環境のなかで、人々は規律の行き届いた、社会的な生活をせざるをえなくなった。ジョゼフ・キャンベルはヤハウェ一神教の神話を、砂漠で暮らす人々の社会的で父性的な神話だと評している。自然は共存ではなく)克服するものであって、神が人の子に与えた試練なのだ。だからこそ楽園から追放された夫婦は、罰として「荒れ野」へと放り出される。
一方、日本の神話や説話では、自然は「共存すべきもの」として描かれる。「夜刀の神」は典型だが、日本のモンスター(≒自然の象徴)はヒトの隣人として、山奥(≒"あちら側"の世界。常世の国?彼岸?)で生き続ける。
ここで日本の神話・説話がモンスターとして象徴した「自然」の解釈をもう少し広げてみよう。日本の〈神〉は、災害や疫病を象徴している存在ばかりではない。なぜ受験の直前に中学生が北野天満宮を訪れるのか、なぜ豊かな家には座敷わらしがついているのか。「学業」や「繁栄」は自然現象ではない。が、何かしらの神性を帯びた象徴が準備され、それが信仰されている。
どうやら私たち日本人は「自分たちの力で制御できないもの」に〈神〉〈妖怪〉〈もののけ〉といった超常的な存在を仮定してしまうらしい。
「憑かれる」という表現はいまでも日常的に使われている。ついてなかった、つきが回ってきた、つかれたように勉強する、彼はAKB48にとりつかれている……。「夜刀の神」に垣間見ることのできる精神性が、いまの日本人にもある程度は継承されているはずだ。



これらのことを踏まえて、デモを巡る状況を考えてみたい。
なぜデモをする人々がいるのか、なぜデモを批判せずにはいられない人々がいるのか。



ほとんどの一般人にとって、原子力発電の仕組みは「本で読んだ知識」でしかない。原子核崩壊の実験をしたことのある人は少ないし、本の知識すら持たない人がたくさんいる。私たち一般人にとって原子力発電は「専門家だけが仕組みを理解しているもの」であり、平安時代陰陽道と大差ない
だから原子力発電所について一般人が議論するようになり、「原発」と呼ばれるようになった瞬間に、それは「自分たちの力では制御できないもの」として扱われるようになる。とくに事故が起きてからは、この傾向が顕著になったように見うけられる。「原発」は、日本的な〈神〉もしくは〈妖怪〉になったのだ。
忘れてはいけないのは、日本の説話・神話にも「怪物の息の根を止めるパターン」があることだ。モンスターとの共存は日本文化の特徴だが、しかしそれがすべてではない。ヤマタノオロチは首を切り落とされた。
したがって「原発」を〈神・妖怪・もののけ〉のようなものだと捉えた場合、それを「討伐しよう」と考える人々と、それを「祀り上げよう」と考える人々とに二分されてしまう。前者はデモを起こしてシュプレヒコールを上げ、後者はデモを許しがたい反社会的行為として糾弾する。
以上が「原発原子力発電所ではない)」についての日本人の信仰・精神性にもとづく考察だ。




      ◆




私に言えるのは「冷静になれ」ということだけだ。
日本人が脱原発派と原発容認派に分断されたとき、いちばん得をするのは誰だろう。分断により議論や政策決定が遅滞したときに、いちばん得するのは誰か。そして今後50年ほど続く私たちの将来について、私たちの子や孫の世代について、いちばん「利益」になると判断とはどのようなものか。
答えを出すには「信仰」に振り回されない冷静さが何よりも必要だ。



社会とは、ヒトの群れのことである。ヒトすなわちホモ=サピエンスが群生しているときの生態が、社会と呼ばれるものである。したがって社会が変わるということは、群れを構成する個体一人ひとりの価値観や思考基盤を変わり、行動が変わるということにほかならない。デモとテロを同列に語るドあほうがいるようだが、両者はそもそも比較の対象にすらならない。どちらも一見すると秩序を乱す反社会的な行為に思えるが、前者は社会的な合意の変更を目的としているのに対し、後者は合意など求めずに殺戮と暴力によって社会を変えようとしている。「社会」の体制が構成員の合意により形成される以上、後者で社会が変えられないのは当前だ。テロが上手くいかなかったからデモが無意味だと主張するのは、コウモリが上手く飛べないことをみてハヤブサの飛行能力を判断するようなものだ。
ではデモが世論を変える最良の手かといえば、現時点では選べる行動がない(社会を変えた実績のある代替案がない)から選ばれているという側面が強いだろう。情報技術の発達によってこれだけ人と人との距離が縮まった時代、シュプレヒコールを上げるよりも効率的な方法があるのではないか。デモが無意味だとは言わないが、それと並行して、より効果的な社会変革の手法を模索していくべきだろう。





      ◆





私たちに必要なのは「未来のイメージ」だ。
現在の社会が最低最悪なのは当たり前だ。どんな時代でも、人々は当時の世相を憂いていた。私たちは「いま」を最悪だと思う生き物で、だからこそ文明を発展させることができた。もしもヒトが「現状維持」を至上とする生き物だったら、私たちいまでも山奥で野ねずみや昆虫を捕らえて食べていただろう。どうしようもない「現在」にうんざりしていたからこそ、未来に向かって突き進むことができたのだ。



50年後の自分は、どんな生き方をしていたいか。
子の世代、孫の世代にどんな未来を残したいのか。
あなたは、あなたなりの「未来のイメージ」を持っているだろうか?






憑霊信仰論 妖怪研究への試み (講談社学術文庫)

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