デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「仕事なんてクソだろ?」と言うべきではないたった一つの理由

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「海外ニート」さんというブロガーさんがいた。いわゆる「社畜」な人に向けて、煽り・おちょくりたっぷりのオラオラ系の記事を書いていらっしゃった。言葉遣いはキツイけれど、的を射た意見ばかりで、読んでいるといつもハッとさせられた。社畜wを目覚めさせ、奴隷的な勤労から解放することを至上の目的となさっていた。


海外ニートさんの過去エントリー保管所
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.geocities.jp/asc_worker/
※過去ログのまとめが作られるも、速効で削除されていた。


ブログ閉鎖の理由は「身の危険を感じたから」だという。
たかがブログ、されどブログ。過激なアンチを生んでしまうと、身の処し方も難しくなる。世の中の(というか日本の)大半の人は、小市民的な幸せのためにコツコツと地味な努力を続けている。外からはそれが奴隷的な勤労に見えたとしても、本人にとっては、かけがえのない人生なのだ。それを頭から批判されたら、激怒するに決まってる。


仕事なんてクソだろ? 海外ニートリバタリアン経済学者
http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20110822/1314539128


海外ニートさんblog閉鎖?騒動
http://togetter.com/li/171658


そうは言っても、だ。
この騒動に驚かされた人は多いだろう。だってさ、繰り返すけどたかがブログだよ? 海外に暮らすライターの素性を調べあげ、ストーカーとして付け回す。その暗い熱意を想像すると、背筋が冷たくなる。それだけの行動力があるなら何か別のことに使えよと、みんな思ったはずだ。
なぜ海外ニートさんのアンチはここまで憎しみを膨らませてしまったのだろう。「仕事なんてクソ」派と「労働信者」派との宗教戦争の様相を呈してしまったのはなぜか。
ご本人の身の処し方や幕の引き方については、様々な意見や憶測が飛び交った。が、アンチ側の心情についてはどうだろう。充分に議論が尽くされただろうか。帰属意識を重視する日本的経営の弊害? それとも画一的な学校教育のせい? ――いろいろな意見を目にしたけれど、いまいちピンとこない。「仕事なんてクソ」と言われて激怒する心理:その心理の背後には、もっと根本的で根源的な理由がありそうだと思っていた。


そんな折に、こちらの記事を目にした。


「貨幣」と「神社」の意外な共通項
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120119/226322/


神社の「ご神体」ってなんだ? というところから話を広げ、私たちの祖先がどのように社会を維持してきたのか分析している。社会は、その集団の構成員が「見えないモノ」を信じることで運営されてきた。
こちらの記事では日本神道を中心に書かれていたけれど、これはなにも日本だけではない。世界中の文化で、私たち人類は「見えないモノ」に心を寄せて暮らしてきた。宗教的な儀式は共同体の結束を強めることで、共同体の生存率を高めていた。イワシの頭も信心。現在から見れば野蛮でバカバカしい儀礼でも、当時の人々にとっては真剣そのものだった。



ところで、西洋の神話や伝説は個人主義的だと言われている。たとえばギリシャ神話の神々は、与えられた社会的な役割よりも、自らの願望や欲求、嫉妬などに従って行動する。中近東のヤハウェ信仰に比べると、ギリシャの英雄たちは奔放で人間的だ。また時代はぐっと現代に近づくが、アーサー王伝説にはこんな下りがある:聖杯を探すため暗い森に立ち入ろうとした円卓の騎士たちは、まとまって行動するのは恥だと考え、バラバラの場所から森に入るのだ。ヨーロッパに流れる個人主義的な価値観が、こうした物語にも流れている。
一方、東洋の神話や伝説は社会的だと言われている。インドのカースト制は極端な例だとしても、社会的に割り振られた役割を演じることが最善だとされてきた。クッキーの型に個性を押し込めるようなものだ。社会が与えてくれた「立場」から外れると罰を受ける――なんて伝承が珍しくない、らしい。自分の感情に従うのは東洋では悪いコトだとされてきた。
ここからは想像になるけれど、ヨーロッパでは中世から「社会VS個人」という葛藤が生まれていたのかも知れない。カトリックの教会が強いチカラを持ち、人々の生活は戒律に縛られていた。たとえば結婚は家族間の議論と教会の承認によってするものであって、恋愛結婚は不義だった。その反面、10世紀にはすでに吟遊詩人が現われて、恋愛の素晴らしさを歌っていた。15世紀にはルネサンスが興り、人間主体の価値観が形成された。それが後の宗教改革や、啓蒙思想の発達、市民革命、産業革命へと繋がっていく。ヨーロッパには「社会VS個人」の長い戦いの歴史がある。
それに対して日本はどうだろう。森鴎外夏目漱石といった明治の文豪たちは「近代的自我」を描くことで「社会VS個人」の構図を日本人に提示した。(この二人にはヨーロッパへの留学経験があるという点も興味深い。彼らは「社会VS個人」という思考方法をヨーロッパから持ち帰ったとも言えるかも)それから100年、大正デモクラシーのように民主化の進んだ時期もあるが、戦時中の日本は全体主義に染まった。その後は企業への帰属が求められる時代だ。日本での個人主義の歴史は浅い。私たちは今まさに「社会VS個人」の神話を創っている最中なのだ。
日本では「社会への帰属」を大切にする価値観がいまだに生き残っているし、神話になっている。でなければ、過労死――帰属する共同体のための殉死――を説明できない。一部のサラリーマンが死ぬほど働くのは、そこにパッションがあるからだ。



話がだいぶ脇道にそれたけれど、「貨幣」と「神社」の意外な共通項 の記事に戻ろう。
かつて人々は「見えないモノ」への信仰で社会を運営してきた。そしてこの記事によれば、現在でも私たちは見えないモノを信じているそうだ。
それは貨幣だ。
福沢諭吉の書かれた紙きれがなぜ一万円という価値を持つのか。それは、みんながそう信じているからに他ならない。たとえば貨幣制度の無くなった5000年後の人類になったつもりで考えてほしい。未来人の目に、いまの私たちはどう映るだろう。「お金」を信仰しているようにしか見えないのではないか。
だとすれば「お金」を稼ぐという行為は――「勤労」は、大切な神事だといえる。神棚を壊されたり仏壇を倒されたりしたら、誰だって怒る。神聖な行為をバカにされるのは、許しがたい冒涜だ。だからこそ神事たる「勤労」を愚弄されて、一部の人たちは狂信的なアンチになったのだ。
海外ニートさんをめぐる一連のできごとを「まるで宗教戦争のようだ」と、私は書いた。しかし実際には宗教戦争そのものだったのだ。
宗教は、明確な教義や教団を持っているとは限らない。
心うばわれぬよう、ご注意を。





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