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なぜ、いい歳のおっさんがももクロにハマるのか/ヒトの生態と現代の「巫女」

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ももクロは従来のアイドルファンだけでなく、幅広い層からの支持を集めることに成功した。いい歳のおっさんがハマってしまう場合も珍しくないという。私の周辺にも、DVDを買い集めてライブに足繁く通うおっさんがいる。職場で一定の地位を築き、守るべき家族も分別も持っているはずのおっさんたちが、どういうわけかももクロに熱を上げてしまう。
なぜ、いい歳のおっさんがももクロにハマるのか?
ももクロの魅力を書き連ねるだけでは、この疑問に答えることはできない。アクロバティックなパフォーマンスにせよ、生歌のライブにせよ、ももクロよりも上手な人物を探せば枚挙にいとまが無い。したがって、これらは「おっさんがももクロにハマる理由」の決定的な要素ではない。あるいは、パフォーマンスや歌やルックスの「バランスがよかったのだ」と考えることもできるだろう。しかし、どういう基準を満たせばバランスが「よい」と言えるのだろうか。基準が不明確なため、「ももクロはバランスがよかった」という主張は何も説明していない。たんに「ももクロはよかった」と主張しているに等しい。





結論から言えば、おっさんがももクロにハマるのは、私たちヒトがももクロ的なものを求める生態を持っているからだ。
私たちヒトは社会的な哺乳類であり、「神話」や「物語」によって社会を維持する生態を持っている。そして神話や物語は、それ単体では存在できない。物語には「語り手」が必要だし、神話には「体現者(カリスマ)」が必要不可欠だ。古代ではシャーマンや巫女がその役割を担い、中世には宗教組織が、近代には国民国家が、20世紀後半には企業がその役目を果たしてきた。
しかし現在、国家も企業も急速に「神話・物語の担い手」としての力を失いつつある。
それでもヒトは神話や物語を求めるため、アイドルがその役割を託されるようになった。アイドルは現代によみがえった巫女であり、ファンの信じる神話の体現者であると同時に、ファンの求める物語の語り手だ。したがって、人々の信条と合致するのであれば「ももクロ」でなくてもかまわない。現在、多数のグループの乱立する「アイドル戦国時代」なのが何よりの証拠だろう。人々は、自分の信条と一致するアイドルを自由に選べるようになった。そして「いい歳のおっさん」の信条にもっとも一致する巫女が、ももクロだったのだ。




       ◆




■生きていくための「錯覚」■
私たちヒトは社会的な哺乳類であり、「神話」や「物語」によって社会を維持する生態を持っている。神話は人々に社会への帰属意識を植え付け、物語は人々に一体感や承認欲求の充足をもたらす。
帰属意識、一体感、承認欲求――これらはすべて錯覚だ。
私たちは脳をUSBケーブルでつなぐことができず、他人が何を考えているのか完全には理解できない。ただ、言動から推察するのみだ。にもかかわらず、私たちは同じ組織に属していると信じることができるし、同じ目標を共有していると信じることができる。他人から仲間として認められていると信じられる。客観的な確証がなく信じているのだから、これは「錯覚」と呼ぶべきだろう。こうした錯覚がなければ、私たちは生きていけない。



私たちは「あるはずのないもの」を、まるで存在するかのように錯覚して生きている。

たとえば、この宇宙には「色」がない。網膜に到達した電磁波の波長の違いを、脳が「色」という概念を使って認識しているにすぎない。色はヒトの脳が生みだした概念であり、ヒトがいなければこの宇宙に「色」という概念も存在しない。私たちヒトの祖先は色覚を発達させたことで食物を容易に識別できるようになった。色覚の発達とは、ハード的には網膜の光受容体の進化であり、ソフト的には脳の画像処理能力の進化――すなわち「色」の発明だった。
私たちは錯覚しながら生きている。「色」は最もわかりやすい例だ。
たとえば私たちが暗闇を恐れるのは、ヒトの祖先が夜行性の肉食獣に襲われていたからだろう。暗闇を恐れない個体は片っ端から食われてしまい、本能的に夜を恐れる個体だけが生き残った。本能的とは、理性的・論理的な説明がいらないということだ。知的に劣っていた原始的なヒトが、「夜は肉食獣が来るから恐れるべき」と論理的に理解していたとは考えにくい。「なんかよく分からないけれどとりあえず夜は怖い」と感じる脳の構造を進化させただけだ。この本能は現在の私たちにも受け継がれている。私たちは理由もなく暗闇に恐怖を覚える。そして無理やり理由づけをするために、幽霊や妖怪――怪異の存在を仮定してしまう。
たとえば「パワースポット」と呼ばれる場所には、見晴らしのいい高台や、清澄な水場が選ばれやすいようだ。ヒトの祖先にとって、見晴らしのいい高台は生存を有利にする場所だった。肉食獣の接近に気づけるだけでなく、景色を一望して食物を探すこともできた。また言うまでもなく、清澄な水場は生存に不可欠だ。知的に劣っていた原始的なヒトは、「生存に有利だから高台を探すべきだ」「水は生きるのに欠かせないから清澄な水場を探すべきだ」と論理的に思考することはできなかった。代わりに「高台に登るとなんとなく気持ちいい」「きれいな水場を見つけると理由もなく嬉しい」と感じる脳の構造を進化させた。現代の私たちがパワースポットを信じてしまうのは、その場所に神秘性や快感を覚えるような脳の構造を持っているからだ。この世には、不思議なことなど何もないのだ。



ヒトは、たくさんの本能的な錯覚を持っている。これらの錯覚は、生存に不可欠だからこそ進化してきた。またヒトは社会的な哺乳類であり、一匹だけでは生きていけない。群れを作ることが生存を左右する重要な要因になっていた。したがって、群れを――社会を――作り維持するという部分にも、本能的な錯覚があると考えられる。
ヒトは同じ神話を共有したときに、帰属意識を覚える。
ヒトは同じ物語を信じたときに、目的が一致したと感じる。一体感を覚える。
ヒトは同じ神話・物語を共有する他者といるだけで、承認欲求が充足される。
帰属意識、一体感、承認欲求……これらはすべて客観的な確証のない「錯覚」だ。しかし社会を維持するうえで必要不可欠なため、こういう錯覚をするような脳の構造が進化した。ヒトが神話と物語を求めるのは、社会を作らなければ生きていけない動物だからだ。同時に、神話や物語を使わなければ社会を維持できない程度に、孤独な動物だからでもある。アリやハチのように本能的な行動だけで社会を作れるわけではないし、群体ボヤのように神経系や血管を共有できるわけでもない。
ヒトは社会がなければ生きていけない動物であり、神話や物語を使わなければ社会を作れない動物なのだ。





■神話の力■
古代の社会では「神話」は共同体の継承・再生産のために必要不可欠なものだった。
たとえばアボリジニでは、多くの部族でイニシエーションとして割礼が行われていた。ある部族では、儀式の際に「神話」を描いた劇が演じられたそうだ。陰茎を尿道が露出するまで切開されて泣き叫ぶ少年の前で、大人たちは粛々と一族の神話を演じた。少年は神話を学び、文字どおり体に刻み込むことで、ようやく共同体の一員として認められたのだ。アボリジニは文字を持たず、その風習は国家誕生以前の社会を保存しているはずだ。割礼や演劇などの儀式は、あくまでも神話の継承方法の一形態にすぎない。オーストラリア以外の地域でも、古代には一族の構成員を再生産する過程で「神話」が重要な役割を担っていただろう。
人類学者ジェレド・ダイヤモンドによれば、ヒトの社会は、規模と、富・権力の分配方法によって、大きく4つの段階に分けられるという。
1.小規模血縁集団(バンド)
2.部族社会(トライブ)
3.首長社会(チーフダム)
4.国家(ステート)
……以上の4段階だ。
まず小規模血縁集団は、血縁者もしくは少数の家族から構成される社会だ。指導者・権力者と呼べる人物はおらず、強いて言えば家族の長(父系・母系を問わない)が一族を率いていた。富や権力は極めて平等に分配されていた。
構成する家族数が増えていけば、そのうちに小規模血縁集団とは呼べなくなる。そこで登場するのが部族社会(トライブ)だ。これは小規模血縁集団の構成人数が増えたものであり、富や権力は依然として平等に分配される。しかし、部族の長と呼ぶべき指導的立場の人物が選ばれて、一族の重要な意思決定を任されるようになる。とはいえ、部族の長はふだんは他の構成員と同じように狩猟採集や農作業に従事している。
さらに集団の構成人数が増えると、首長社会(チーフダム)が生まれる。狩猟採集や農作業には従事せず、もっぱら集団の意思決定のみに従事する人物が現れる。それが首長(チーフ)だ。首長社会では、富・権力の偏在が生じるようになる。また祭りの日には首長に貢ぎ物がなされ、首長は祭りの参加者にそれを配り直す……という風習を持つ集団もあったという。これは徴税と再分配の極めて原始的な形だと見なせるだろう。
集団の構成員がさらに増えると、もはや個人的な狩猟採集、農作では食をまかなえなくなる。灌漑施設を建設したり、組織的な農作業を行ったり……集団全員で協力・分業しなければ、集団を維持するのに充分な生産ができなくなる。そのため、集団を組織・指導する官僚組織が生み出される。国家(ステート)の誕生だ。
以上のように、社会の規模によって統治機構は発展し、最終的に行政機能は官僚化した。
行政の官僚化と同時期に、おそらく「神話」の担い手も官僚化したものと思われる。組織的な「宗教」の誕生だ。
こうして政治経済を王侯貴族が牛耳り、神話・物語を宗教組織が支配する社会体制が生まれた。




■ヒトの社会の聖俗■
ヒトの社会を聖俗の二面から考えてみよう。聖とは、生きていくのに欠かせない非物質的なものを意味している。言い換えれば、神話や物語、社会を継承して再生産するための「錯覚」のことだ。一方、俗とは、生きていくのに欠かせない物質的なものを意味している。カネやモノの流れ、利害関係を調整するためのルール。およそ「政治」「経済」と呼ばれるものが、ヒトの社会の俗なる部分だ。
中世における国家は、聖俗が二分された社会体制だった。ヨーロッパでは、俗なるものは専制君主が牛耳り、聖なるものは教会によって支配されていた。
ところが科学の発展と、それにともなう近代的な思想の発達により、ヨーロッパでは教会が力を失うようになる。聖なるものが衰退したことで、王侯貴族たちは神権による専制君主制を維持できなくなった。聖なるものの衰退は俗なるものの失墜をもたらし、最終的には市民革命によって中世の社会体制は打倒された。



国民国家は、聖俗が一致した社会体制だ。
国民国家ナショナリズムの誕生は18世紀、市民革命の時代にさかのぼる。民主主義――国民が国家の主権を握るという思想――が広まるためには、たとえば「私はフランスの国民だ」「私はイングランドの国民だ」と自覚しなければならない。ナショナリズムの萌芽だ。逆にいえば、民主主義が台頭する以前の社会では、人々の国民としての自覚は薄く、ナショナリズムと呼べるような感覚は存在しなかったと考えられる。
日本は明治維新によって国民国家になった。明治維新以前は、人々の日本人としての自覚は薄く、それぞれが暮らす藩や村への帰属意識しか持っていなかったと考えられる。たとえば江戸時代の土佐弁のネイティブスピーカーと津軽弁のネイティブスピーカーが難なく会話できたとは考えづらい。日本人が共通の言語、共通の文化を持っているというのは幻想にすぎなかった。日本が単一民族の国家だという発想は、あくまでも「錯覚」にすぎなかった。しかし明治政府はこの「錯覚」を現実にすることで、日本を欧米列強と肩を並べる先進国へと躍進させた。
国民国家において、政府は国家運営という俗なるものを担うと同時に、国家への帰属意識・一体感という聖なるものを担っていた。ナポレオンは権力者・施政者であると同時に、「フランス国民は単一である」という神話の体現者でもあった。明治政府は国家の象徴たる天皇を最高権力者にすることで、日本を国民国家へと進歩させた。国民国家は、聖俗が一致した社会体制だ。
その後、国民国家は力を強めつづけ、20世紀に最高潮に達した。二度の大戦と冷戦の時代、言い換えれば「大きな政府」の時代だ。大きな政府の究極の形態が共産主義社会主義国家だが、資本主義諸国においても政府に多様な機能が求められていた。20世紀半ばの小説や論評を読むと、洋の東西を問わずこの時代の人々がいかに「大きな政府」の影響を受けていたかが分かる。国家への帰属意識が最高潮に達していた時代だ。
しかし20世紀も後半になると、国民国家は力を失い始める。国民国家が衰退したというよりも、大戦と冷戦の反省から、強くなりすぎた国家の力が適正値に戻されようとしたと解釈すべきだろう。戦争は大規模な公共事業であり、遂行するには国家の介在が欠かせない。しかし戦争がなくなってしまえば、公共事業による景気刺激ができなくなり、国家の介在はむしろ市場の機能を弱めて経済を沈滞させてしまう。ここから「小さな政府」が志向されるようになり、サッチャーレーガンなどの新自由主義に基づく政治が行われるようになった。
日本では20世紀の半ばに、国民国家としての力が一夜にして失われた。そう、敗戦だ。その後の復興期と高度成長期を経て、20世紀後半には「企業の時代」と呼ぶべき状況になっていた。国民の大半がどこかの企業グループに属し、一生をその企業で過ごす。親子二代、場合によっては三代で同じ企業の世話になる場合も珍しくない。「20世紀型の企業」と呼ぶべきだろう。企業が極めて強い力を持っていたのが、この時代だった。
こうした「20世紀型の企業」も、聖俗一致の社会体制だ。
松下幸之助はカリスマであり、実利的なビジネスマン(俗なる存在)であると同時に、社員からの信頼と尊敬を集めるカルト的な人物(聖なる存在)だった。好業績を上げている企業では、経営者がカルト的な畏敬を受けている場合が珍しくない。新進気鋭のベンチャー企業では、ほとんどの場合で創業者は一種のカリスマとして畏敬されている。またベンチャー企業では経営が軌道に乗るまでの道筋に、数々の「伝説」が残され、語り継がれている。新しい組織を作るとは、つまり「神話」を創ることにほかならない。



古代から現代にいたるまで、「神話」は人々に共同体への帰属意識を植えつける役割を負っていた。集団の規模が国家と呼べるほど肥大化すると、神話の担い手も官僚化・組織化して、宗教が生まれた。中世までの社会体制では聖俗が二分され、聖なるものを教会が支配し、俗なるものを王侯貴族が掌握した。しかし、この社会体制は民主主義革命によって崩壊し、聖俗一致した「国民国家」が誕生した。国民国家の力は20世紀半ばに最高潮に達した。また20世紀後半には「企業の時代」と呼ぶべき状況が生まれた。
しかし国民国家も、20世紀型の企業も、いま終焉を迎えようとしている。




グローバル化の影響■
国民国家が成立するためには、国家・企業・国民の利害が一致していなければならない。企業が利益を伸ばせば国の税収が増えて、国家と企業の利害が一致する。また企業が利益を伸ばせば国の雇用が増えて、企業と国民の利害が一致する。国家・企業・国民の利害がイコールで結ばれるため、たとえば護送船団方式のような経済政策が国民に歓迎された。社会のあらゆる階層が「お国のため」に一致団結できる状況でなければ、国民国家は成り立たない。
しかしグローバル化によって、この前提が揺らいでいる。
スターバックスコーヒーやアップルコンピューターの租税回避を見れば分かる通り、国家と企業との利害はすでに一致しなくなっている。また能力のある個人は、国を選ばず、自分の利益を最大化できる地域で生活するようになった。さらに企業からの税収が揺らいでいるため、国家は消費税のような個人への負担を増やしつつある。国家と国民との利害も一致しづらくなっている。
加えて、企業が利益を伸ばしても、自国の雇用は増えなくなった。利益を最大化するために、自国よりも人件費の安い地域の人々を雇うからだ。企業と国民との利害も、すでに一致しなくなっている。
国民国家と20世紀型の企業は、どちらも聖俗一致した社会体制だ。
しかし現在、グローバル化によってこれらの社会体制は急速に力を失っている。



問題は「神話」の担い手だ。
聖俗一致の社会構造が崩れて、俗なる部分はグローバル経済に取り込まれた。一方、聖なる部分は「神話」の担い手が不在のまま、宙ぶらりんになっている。しかしヒトは「神話」なしでは生きていけない。神話や物語によってもたらされる一体感や帰属意識、承認欲求の充足を、ヒトは無条件に求める。
その結果、人々は国民国家や企業に代わる「神話」の代替物を求めるようになった。
たとえば宮台真司先生など一部の研究者は、中間共同体としての「宗教」を再評価している。国民国家も企業も聖なるものを満たしてくれない以上、宗教に回帰するのは選択肢の1つだからだ。また最近ではパワースポットやWEB怪談に見られるような、簡易で安直な神秘主義が流行している。いずれにせよ、人々が「聖なるもの」を求めた結果だ。
そして現在のアイドルブームも、この文脈に位置づけられる。




■アイドルの機能■
アイドルには、重要な機能が3つある。
まず第一に、アイドルは、ファンの理想化自己対象を担う者である。憧れや賞賛を胸に抱くとき、ヒトは承認欲求が満たされる。アイドルの歌やダンス、ルックスに拍手を送っているだけで、ヒトは感情的に充足する。そして憧れや賞賛は、ときに畏敬の念に変化する。
また第二に、アイドルは「その子を応援している」という一体感や帰属意識をもたらしてくれる。この帰属意識は強烈なもので、人々は「応援している私たち」と「応援していないあいつら」とに世界を二分してしまう。言い換えれば、ウチとソトを作り出すのだ。かつて国民国家はソトとの競争を煽り続け、二度の大戦をもたらした。ソトとの競争は人々に理性を失わせる。総選挙のたびに常識はずれな枚数のCDが売れるのは、そのためだ。
そして第3に、アイドルは成功までの軌跡が物語化され、神話化される。過去を持たないアイドルはいない。人々はアイドルの歌やダンスを消費しているのではなく、彼/彼女たちの物語を消費しているのだ。さらにアイドルたちの物語は、典型的な成功譚になっている。おそらく例外なく「黄金の羊毛を持ち帰る」タイプの物語になっているはずだ。無名だが前途有望な若者が無理難題に直面し、逆境を跳ね返しながら旅の目標を達成する:大昔から存在する伝統的なプロットであり、私たちヒトが普遍的に喜ぶタイプの物語だといえる。



・憧れや賞賛、畏敬の念を人々に植え付ける。
・人々に世界をウチとソトに二分させ、一体感と帰属意識をもたらす。
・「神話」や「物語」の体現者として人々の前に現れる。



以上のようにアイドルの社会的機能は、古代社会におけるシャーマンや巫女に近い。古代社会との違いは、社会の再生産のための神話をもたらすのではなく、人々が「自分の信じる神話」に一番近いアイドルを自由に選べるという点だ。前田敦子がキリストを超えたかどうかは判らないが、「聖なるもの」としての役割を担っていたのは間違いない。
ももクロはわりと「体育会系」で、まるで部活のようだと評されることが多い。彼女たちが体現しているのは、スポ根まんがにありがちな「友情・努力・勝利」の物語だ。おそらく、いい歳のおっさんには、こういうスポ根的な物語を信仰している人が珍しくないのだろう。



ここで、冒頭の疑問に戻ろう:
なぜ、いい歳のおっさんがももクロにハマるのか?
ヒトは「神話」や「物語」無しには生きていけない。にもかかわらず、現在の社会では神話や物語の担い手がいない。そのため人々は、自分の信仰にもっとも近い「神話」や「聖なるもの」を自由に選ぶようになった。多くのおっさんが「スポ根的な成功譚」を愛好しており、その体現者たるももクロに熱を上げてしまう。




       ◆




世の中には色々なアイドルがいる。夢に向かって一生懸命がんばっている少年/少女には、たしかに勇気づけられる。しかし彼/彼女たちを泣かせるのなら、それはちょっと違うような気がする。大人たちが台本通りの物語を作るために、子供を傷つけているようにしか見えないからだ。無抵抗な子犬をいじめて喜んでいるような趣味の悪さを感じてしまう。
とはいえアイドルは、消費者一人ひとりが個人的な満足のために消費するものだ。実体のある人間として愛情を傾けるべきではないし、生身の子供として見るのは、たぶん無粋なのだろう。





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