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人をだます技術/現代のプロパガンダを開沼博先生に学ぶ

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言葉には力がある。人の心を動かす力だ。
その力を手にすれば、世の中を意のままに操れる。だから歴史上の権力者たちは、言葉の選び方に慎重だった。より民衆の胸に響く言葉、より人々を熱狂させる言葉――。言葉は深く研究され、プロパガンダの技術が編み出されていった。「人をだます技術」は洗練されて、現在では「型」とでも呼ぶべき典型的なパターンがある。
そういう「型」がはっきりと分かる記事を見つけたので、ご紹介したい。




デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか? 開沼博「“燃料”がなくなったら、今の反原発運動はしぼんでいく」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120719-00000732-playboyz-soci




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1.権威付け
この記事ではまず、開沼博先生を「なし崩し的に原発が再稼働することを予想した人」として紹介している。「予言を的中させた」ことを示すことで、「この人が言うことなら正しいかも」という印象を読者に植え付けるのだ。これを権威付けという。プロパガンダに限らず、人をだますときの古典的手法だ。人間は「すごそうな人」の意見には耳を傾けてしまう習性がある。
ただ、冷静に考えてみると「なし崩し的な原発再稼働」は誰にでも予想できたシナリオだ。ていうか私だって予想していた。もしも「再稼働」が誰にも予測できなかったのなら、デモに走る人もいなかっただろう。「このままでは再稼働が決まってしまう」と判断したからこそ、反原発の人々はデモを始めたのだ。
再稼働は誰にでも予想可能なことだった。それを強調するのは、権威付けをしたいからだ。






2.レッテル貼り
この記事の巧みなところは、まず「過去の脱原発運動がいかに無意味だったか」を書いている点だ。そうすることで、現在の運動も同じように無意味だという印象を読者に与えている。「現在のデモ」の様子はまったく描写されていないのに、それが反社会的行為であるかのような印象を読者に植え付けている。
これがレッテル貼りだ。プロパガンダに限らず、人をだますときの常套手段だ。
実際のデモの様子は以下の記事が詳しい。



それぞれが自由に集まり、整然と帰っていく「個人」の力 〜代々木公園「さようなら原発10万人集会」で感じたこと
http://bit.ly/NHHD9n
※デモの参加者だって「いますぐ原発を止められる」とは思っていない。みんな冷めている、いい意味で。



官邸前のデモは「無難」。だから効く
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120719/234639/
※忘れがちだけど、これだけの人数が集まって暴動も略奪も怪我人も出さないのは驚異的だ。世界でいちばん民度の高いデモだと言っていいだろう。



ネットで拡散される情報を見ていると、「反原発」は冷静さを欠いた人々であるかのような印象を受ける。データの改竄をいとわず、原発を止めるためには手段を選ばない。そんな人々であるかのように思えてしまう。なぜなら、そういうエキセントリックな人物のほうが目に止まりやすいからだ。そして現実とは大きく乖離した反原発派の人物像が作られていく。そして原発容認派の人は「反原発脱原発はけしからん」という気持ちを強くしていく。相手が架空の人物像であるにもかかわらず、だ。
実際にはデモに参加している人も様々だ。







3.内部分裂を誘う
この記事には、次のように書かれている。

脱原発派のなかでおかしな人はごく一部で、そうじゃない人が大多数」というのなら、まともな人間がおかしな人間を徹底的に批判すべき。

一見すると正論だが、よく読んでほしい。この主張には理由が示されていない※「何かを主張するときは理由をつけましょう」って、いまどき小学生でも知っているよ……。
すでに書いたとおり、脱原発を訴えているのは過激な人からマイルドな人まで幅広い。そして一部の過激な人に対しては、すでに原発容認派から激しい批判が行われている。なぜわざわざ「脱原発派」の側からも、同じような“徹底的”な批判をする必要があるのだろう。似通った目的を持つ相手なら、うまく利用してやるのが合理的だ。
脱原発派が内部分裂を起こしたときに、いちばんトクをするのは誰か:言うまでもなく、原発の利権をすすっている人々だ。脱原発派がお互いに批判しあうのは非合理的だ。
それでもなお、脱原発派から批判が必要だというのなら、その根拠を示すべきだろう。
また、この記事の巧みな部分はもう一つある。「原発をどうすべきか」という日本全体の課題から、いつの間にか「被災地をどうすべきか」という地域の課題について議論が移っているのだ。これら二つの議論はトレードオフではなく、同時並行で考えるべき問題だ。にもかかわらず、「いまは被災地について考えるべきで原発について考えるな」と言われると、読者は「そうかも……」と思ってしまう。そして議論が分断される。
どちらも大事な問題であり、どちらかを優先できるものではない。






4.分断、分断、分断……。
この記事では、まずデモ参加者を「まともな人」と「おかしな人」に分断した。そして「脱原発」的な意見を持つ人を、「被災地重視派」と「そうでない派」に分断した。仕上げに「世代間での分断」を行っている。アンダー40ではまともな議論ができる……という謎の議論を展開している。なぜ、こうまでして脱原発派を分断したがるのだろう。
それは世の中を変えないために一番いい方法が、分断だからだ。
アメリカの黒人解放運動を先導した人物といえば、日本ではキング牧師がよく知られている。「I have a dream……」で始まる演説はあまりにも有名だ。徹底的な非暴力を貫いていた。そしてもう一人、黒人解放運動を先導したマルコムXという人物がいる。当時の黒人たちはどんなに不当な理由で逮捕されても、白人に対して暴れることができなかった。心理的に無理だったのだ。奴隷制度が長く続いた結果、白人に対して腕を振り上げるなんてとんでもないという考え方がすり込まれてしまった。が、マルコムXはそれをやった。キング牧師の非暴力に対して、マルコムXはどんな暴力も辞さない過激な人物だったとされている。
ただし、マルコムXの過激さについては、当時のマスコミの“煽り”が多分にあったようだ。キング牧師に率いられた人々と、マルコムXに率いられた人々。二つの集団が手を取り合ったら、白人の支配する社会は簡単に覆されてしまう。当時の白人たちはそれを恐れた。だからマスコミはキングとマルコムを対照的な人物として描いた。
それだけではない。白人たちは、様々な方法で黒人たちを分断しようとした。
たとえば……
・ごく一部の黒人を『名誉白人』として扱い、白人のような待遇を与えた。「私はたくさんの努力をして(白人みたいに)立派になった。今あなたが苦しいのは私のように努力しなかったからだ」と言わせて、一般民衆と名誉白人の対立を煽った。
・カネを使って「黒人差別がなくなると困る黒人」を生み出した。(これは日本の沖縄によく似ている。米軍基地の土地を持っている人は、国からたくさんのお金をもらえる。米軍相手に商売をしている人もいる。基地移転を望む沖縄県民は多いが、基地がなくなると困る人もいるのだ)
・黒人に同情的な言葉をかけながら、差別的な状況を「白人との融和」だとのたまう論客(もちろん白人)がいた。
当時の白人たちが「分断」のために講じた手段は、枚挙にいとまがない。
社会とは、人の集団である。社会が変わるとは、つまり社会を構成する一人ひとりの行動が変わるということだ。中国人がいっせいにジャンプしたらブラジルで地震が起きる……なんてジョークもあるけれど、一人ひとりの影響力は微々たるものでも、それが積み重なると大きな変化につながる。だから「社会を変えたくない人」は、個人の力を引き裂こうとする。個人の力が積み重ならないようにして、自分の利権を守ろうとする。社会運動を止める唯一にして最高の方法が、分断を煽ることなのだ。






5.ペテン師の条件
この記事では「建設的・非建設的」という抽象的な言葉が飛び交うばかりで、具体的な中身がない。どのような意見が「建設的」なのか、読んだ人にまかされている。つまり読者が都合よく解釈できるようになっているのだ。この記事を読んだ人は「建設的な意見」というに、自分のアイディアを詰め込むことができる。そして著者が自分の意見を代弁してくれたかのように錯覚する。
抽象的な言葉で夢を見させる、これが「ペテン師の条件」だ。
注意して読めば分かるとおり、この記事には「脱原発に踏み切るための具体的施策」が一切登場していない。「デモだけではダメだ」と繰り返すばかりで、デモに代わる対案がない。
たしかに「高度な知識を踏まえて政策を考えている団体」があるので、そういう団体に参加したり、金銭面で援助してはどうか……という提言があるにはある。では、高度な知識を踏まえた政策って具体的にはどんな政策だろう。そういう政策を考えている団体って、具体的にはどこだろう。そういう団体は(デモ以外の)どのような手段で「政治の舵切り」をするつもりなのだろう。政治や社会が変わるまでの道筋が、まったく書かれていない。
なにも書かれていないからこそ、読者は自分の理想を重ねられる。
繰り返しになるが、脱原発運動には過激な人から冷静な知識人まで、様々な人が参加している。言葉を借りるが、高度な知識を踏まえて政策を考えている団体も少なくない。したがって「原発をどうするか」という政策についても、幅広い具体案がすでに提供されているのだ。
たとえば即時停止をする(※さすがに無理だろ)とか、自然エネルギーを使う(※未来志向すぎないか?)とか、発送電分離をして電力価格の適正化を図る(※ようやく地に足がついてきた)とか、国有化して処理する(※まずできるのはこの辺りだよね)とか、様々な具体案がすでに挙がっている。「原発をやめる」だけでなく、「原発をやめられない社会をやめる」ための代替案だ。
たくさんの具体案がすでにあるのだから、施政者はその中から適切なものを選べばいい。必要なのは「原発をやめる」という方向への舵切りだけだ。反原発脱原発の人々は代替案を持たないのではなく、たくさんありすぎて一望できないのだ。「デモをする人は代替案がない」という主張は、ただの誤解でしかない。
デモを批判するのなら、デモに代わる具体的な代替案を示すべきだ。




       ◆



1.権威付け
2.レッテル貼り
3.内部分裂を誘う
4.分断を煽る
5.ペテン師の条件を満たす

以上がこの記事に見られる代表的な「人をだます技術」だ。その他にも「素人は意見を慎むべき」という主張を行間に滲ませるなど、プロパガンダのテクニックがこれでもかというほど使われている。まさに職人芸だ。
この記事に登場する開沼博先生は、するどい分析眼を持った社会学者だ。ダイヤモンド・オンラインで連載中の「闇の中の社会学」はとても面白くて、いつも更新を楽しみにしている。これだけ頭の切れる開沼先生が、まさか「プロパガンダの方法」を知らないはずがない。この記事では本当に言いたいことを言っているのだろうか……と思わずにはいられない。そう考えると、記事に添えられた写真の表情が硬いことにも、どこか哀しさを感じる。





燃料投下がなくなったら、いまの脱原発の機運はしぼんでしまう。
いつもながら開沼先生の指摘はするどい。たしかに現在のデモは(冷静な人が多いとはいえ)祭りの要素を少なからず持っている。原発に関するニュースが一切流れなくなったら、あっという間に勢いを失ってしまうだろう。デモだけでは世の中が変わらないのは事実だ。世の中が変わる前に、デモの熱が冷めてしまったら元も子もない。
ただし水だけを飲んでも生きていけないからといって、水を飲まなくていいことにはならない。「デモだけでは意味がない」からといって、「デモは意味がない」とはいえない。いま考えるべきなのは、デモに加えて何をしていくべきかだ。



社会とは、個人の集まりだ。社会が変わるとは、個人それぞれの行動が変わるということを意味している。人が行動を変えるのは、正論をぶつけられたときではない。「あ、いまの自分の行動ってダサいな」と気付いたときに、人は行動を変える。
たとえば「デモってダサい」という認識から、「デモにいちいち目くじら立てるのがダサい」へ。
「世の中に文句つけるのはダサい」から「世の中に無関心なのはダサい」へ。
そういう意識の変化が、社会を変えていくのだと思う。「心を一つにして」とか、「一致団結して」とか、クサいセリフを吐くつもりはない。万国の労働者よ団結せよ……なんてイマドキ流行らない。ただ、行動している人を批判することで、行動しない自分を慰めたくはない。
必要なのは「未来のイメージ」だ。
このままではよくない、今のままではダメだ。そう願いながら、日本人はこの20年を過ごしてきた。
首相を何度も変えたけれどダメだった。政権与党を変えたけれどダメだった。企業の経営者が変わっても景気は上向かず、結局ダメだった。もうリーダーを変えても意味がない。一人ひとりが変わるしかないのだ。
強いリーダーに頼る時代は終わった。名も無き個人の時代が、すでに始まっている。
変わろう、私たちが。






プロパガンダ[新版]

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人はなぜ騙すのか――狡智の文化史

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東大エリートの『名誉若者』論に巻き込まれるのは御免です
http://busidea.net/archives/3725
※黒人解放運動について参考にさせていただきました。