"――I cannot die washing up a teacup"
映画『鉄の女 マーガレット・サッチャー』が面白かった。
みどころは何よりもメリル・ストリープのそっくりさんぶり! 年末モノマネ紅白なんか目じゃないぐらい、みごとに化けていた。リアルタイムで彼女の映像を見たことなんてほとんどないはずなのに、なんども爆笑しそうになった。ノンフィクションの映像もふんだんに使われており、記録映画的な側面も持った作品だ。
ただし、イギリスの現代史についてある程度知っていることが前提で作られているため、多くの日本人にとっては「テレビ版を見ていなかったドラマの劇場版」みたいに感じられるかも。第二次大戦後のイギリス史とサッチャー政権の政策について、ちょっとでもググっておいたほうが楽しめると思う。
少しおさらいすると、イギリスでは「保守党」と「労働党」の二大政党が覇を競っている。保守党は比較的裕福な層の利益を代表しており、タカ派な政策を採りがち――と言われている。サッチャーは保守党の党首だった。
サッチャーは「新自由主義」的と呼ばれる政治家の1人だ(というか代表格だ)。他にはアメリカのロナルド・レーガン、日本なら小泉純一郎元首相などが「新自由主義」の政治家だと言われている。いわゆる「小さな政府」を志向し、徹底した減税と支出削減を政策の柱としている。
新自由主義が生まれた背景には、「大きな政府」への深い反省がある。新自由主義が生まれた当時、世界は冷戦の真っただ中だった。力をつけすぎた国家により人類は滅亡の一歩手前までいった。また国営企業が大きな力を持っていた時代でもある。しかし国営企業は基本的に倒産しないため、放漫経営になりがちだ。そして国際的な競争力が衰え、国の経済全体が停滞していった。そんな状況を打開するため、20世紀の終盤に新自由主義が注目を集めた。
ただし新自由主義的な政策には、減税によりカネ持ちがトクをしやすく、逆に財政支出の削減により貧乏人が損をしやすい――という問題点がある。そのためサッチャーには熱狂的な支持者がいる一方で、現在でも厳しい批判がつきない。おさらいここまで。
意外なことに映画はサッチャーを礼賛するような内容にはなっておらず、賛否両論な彼女の人物像をわりと冷静に描いていた、と思う。
マーガレット・サッチャーは、私のなかでは「孤高の暴君」型の指導者というイメージだ。
チェーザレ・ボルジアとか織田信長とか――ええっと、あと1人ぐらい適当な例が思いつきそうで思い出せない。
日本では思想的な理由から彼女を嫌っている人も多いみたいだ。けれどサッチャーの経済政策のなかでも、市場の自由化については評価されるべきだろう。某国の電力会社を見れば明らかなように、基幹産業ほど競争したほうがいい。冷戦という、いつ戦争になるか分からない特殊な状況下では、国営企業であっても必死で商売をする。でないと攻め込まれるスキを作ってしまうし、攻め込まれたときの経済的混乱を避けるためには、安定した国営企業のほうがいい。しかし戦争の脅威が遠ざかると、倒産しない国営企業は放漫経営・殿様商売になっていった。そんな状況下では民間企業のほうがいいに決まってる。
また作中で「不満の冬」の描写があって感心した。
なるほど、こんな雰囲気だったのか……と、当時を知らない私にはとても興味深いシーンだった。労働組合はマクロな経済政策を発案する義務も責任もない。労働組合は、基本的にデモやストライキをすることでしか所得拡大を計れない。そしてゴミが回収されなくなり、電車もバスも動かず、遺体すら収容されなくなった――それがイギリスの「不満の冬」だ。サッチャー政権誕生の前夜のできごとだった。労働組合が広汎な視点を持つのは原理的にとても難しい。日本の労組は企業別で組織されているため、自社の組合員のことしか考えられない。業界別・業種別だという欧州の労組でも、基本的に自国の労働者のことしか考えられない。これは「労働組合が悪い」という話ではなくて、そもそも労働組合とはそういう組織なのだ。被雇用者の声を代弁する組織がなくなっていいはずがないし、「不満の冬」のような現象が起こってしまうのは「労組と雇用者」という構造そのものに原因がある。
その構造に手つかずのまま、サッチャーは性急な改革を行った。そりゃあ餓死者もでるよなぁ……。
サッチャーは他にも倫理的に問題のある判断をいくつもしている。たとえば劇中でも重要なエピソードとして描かれているフォークランド紛争。あれは歴史上唯一と言ってもいい、現代的な西側兵器で武装した軍隊どうしの衝突だった。
「兵器が高性能になればなるほど、戦場は非人道的になる」という洞察にもとづいて、SF作家の伊藤計劃は『虐殺器官』を記した。最新鋭の兵器で武装した両軍がぶつかれば膨大な数の戦死者を出すのは誰の目にも明らかで、しかしサッチャーの下した決断は「sink it.」だった。うっひょーこのオバハンまじ怖え!
政権の終盤期には人頭税の導入といった、近代的な国家ではまずありえない政策にも手を染めていく。税金は普通、所得や財産に対して課される。一方、その国で暮らすすべての人に等しく税金を掛けてしまうのが人頭税だ。「生きているだけで税金が取られる」というわけ。中流以上の人なら簡単に払える金額でも、貧乏人には負担になる。貧乏になればなるほど負担が重くなる制度であり、消費税を上回る逆進性を持っている。この制度についてサッチャーがどんな意見を述べていたのか、ぜひ映画で確認してほしい。
ことほどさようにサッチャーは「孤高の暴君」の典型例だ。
しかし、その彼女が「女性」であり「母」であったことの意味は大きい。若き日のマーガレットが夫のデニスからプロポーズを受けたとき、劇中の彼女はこんなふうに答えている。「わたしは他の女の子みたいに可愛らしく旦那のそばに付き従うことはできないし、一人で孤独に皿洗いにふけることもできない。ティーカップを洗いあげるだけでは死ねないの」――映画ならではの誇張もあるだろうが、彼女がそういう性格をしていたからこそ、西側諸国で初めての――そして歴史的にもまだ少ない女性主宰へと昇りつめたのだろう。
ふりかえってわが国はどうだろう。経団連のトップ陣に女はいるだろうか。入閣した女たちを「女性団体への配慮のためのマスコット」にしてはいないか。
人類は失敗を繰り返しながら、少しずつ進歩してきた。
サッチャーには批判がつきないし、たしかに非道な行いもした。一方で、彼女が成し遂げたことには「偉業」と呼べるものも少なくない。彼女の成し遂げたことと、しでかしたこと。その両面どちらからも学べることがあると思う。
ただ、まあ、現代の「働くことを余儀なくされた」女の子たちがどんな感想を持つのかには興味がある。いまの日本の女の子って、価値観が二分されている思うのだ。男勝り(死語)に働きまくって、周囲からは「ひげが生えてる」と揶揄される――そんな「バリキャリ」として生きるか、あるいは昔ながらの女らしさに安住するか。「できれば台所でひとりで洗い物をしていたい……」と思う草食系女子はいまだに少なくない。というか増えてるような気がするのだ、不景気だし。
当時はマギーぐらい尖ったヒトじゃないと、男社会を生き抜けなかったのだろう。そして日本はいまだに強烈な男社会だ。今日から働きはじめた新入社員の方々には、それを思い知らされた人も多いはずだ。経済や政治といった分野は、男女の格差と差別をもっと無くしていかなければならない。反面、女の子がみんなマギーのようなアドレナリン全開の女になれるわけじゃない。
家庭も仕事もそこそこに、自分のやりたいことやるのが理想じゃないかな。
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あとは……当時のイギリスはIRAの活動が活発だった。それに引き換え日本の内政の平和なことよ。戦後の学校教育が言語的・文化的に日本をひとつに均質化したおかげ、だよなぁ……たぶん。