デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

『ギムレットには早すぎて(1)』

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    【1】



夜の電話は、悪い知らせだ。
三十年もこの仕事をしていれば、その程度の勘は働く。眼を開けると、カーテンの隙間から漏れた光が天井に縞模様を描いていた。携帯電話の赤と緑が点滅している。バイブレーションのくぐもった音が、枕元で急き立てる。液晶画面を見ると、布団に入ってから二時間も経っていなかった。
「遅くに悪いね、おやっさん」
煙草に燻された声。
「事件だよ、間違いなく警視庁を呼ぶことになる。いつもどおり、おやっさんは初動捜査から見物するだろ?」
八木忠政は上半身を起こした。携帯電話を耳に、頭をさする。こめかみがまだ熱い。嫌な事件をひとつ終え、二時間前まで酒を飲んでいた。
「こんどは何が起きた、物騒なあんたの街では」
物騒だなんてご挨拶だな、相手は笑う。
「ちょっと、な――。高校生だ」
「かける相手を間違えてるぜ、俺は少年課じゃねえ」
煙草が仇で、とうとう脳みそまで煙たくなっちまったか。言ってやると、相手はけたけたと声をあげた。
「おやっさんの頭ほど薄ぼやけちゃいねえよ。あんたのご専門さ」
殺人事件。
「十七歳の高校生が殺された。場所は立川公園陸上競技場の隅――、要は多摩川の河原だな。いますぐ出られるか?」
そう急かすな、俺はそば屋じゃねえ。悪態をつきつつ、布団から飛び起きる。鬱陶しいアルコールを振り払うため、大きく息を吐いた。顔を洗い、ひげを剃り、スーツを着込み……。外に出るための動作をイメージトレーニングする。もはや眼をつぶってでも出来る動き。
「おやっさんが辺境の地に家を建ててくれて、助かるぜ」
警視庁捜査一課に属しながら、八木忠政は東京都国立市に家を構えている。JR立川駅までわずか一駅、車をすっとばせばカップラーメンより早くたどり着ける。お陰で立川署の面々とは、すっかり顔なじみだ。大きな事件が起こるたび、こんな電話がかかってくる。
「辺境の地で悪かったな」学園都市と呼んでくれ。
電話を切ったときには、すでに洗面所へと辿り着いていた。鏡の前に立つと、深く隈の彫られた顔が睨み返していた。忠政の顔を見るだけで、若い警察官は身をすくめる。酒の赤みが抜けていることだけ確認して、蛇口をひねった。
じゃぶじゃぶと顔に水をぶっかけていると、背後に気配を感じた。
「今度はどこ?」
片目をこすりながら、佳奈が訊く。下着一枚にTシャツという格好で、華奢な手足を晒している。洗面所のくたびれた蛍光灯に、薄い肌がひときわ生白い。
「すまん、また起こしちまったな」
顔を拭きながら、鏡のなかの佳奈に応える。
「立川だ。長くかかるかどうか、まだ解らない」
もう慣れたよ、父さん。佳奈はそう言って、ドアの向こうの暗がりに消える。ひげを剃って洗面所を出ると、スーツとネクタイの一式がテーブルの上に揃えられていた。黙々と着替える忠政を、佳奈は黙って見つめている。こんどの死者は十七歳――、奇しくも娘と同い年だ。醒めた視線は、かつての妻にますます似てきた。すきっとした鼻梁など、生き写しに等しい。
「それじゃ、行ってくる」
佳奈は玄関までついてきた。
「そんな格好でドアのそばに立つな。誰が見てるか分からん」
娘はくすりと笑い、傘を差し出す。冷たく、湿った空気。
「わたし、見られたって平気だもん」
ふん、と鼻を鳴らして、忠政は玄関の外に出た。マンションの廊下から、駐車場が見下ろせる。細かい霧のような雨が、街灯の光を滲ませている。
嫌な天気だ。



     ◆



濡れた砂利に四肢を広げて、彼はぼんやりと空を見上げていた。もう二度とまばたきをしない瞳に、水の微粒子が降り注ぐ。左胸に空いた大きな穴が、彼のワイシャツを赤黒く染めている。雨に滲んだ、赤い世界地図。
「財布のなかに学生証が入っていました。両親の確認も取ってあります。本人に間違いありません」
立川署の倉島ミカオが、淡々とした声で報告する。とうに四十を過ぎた男だが、その立ちふるまいにはすきがない。背が高く、広い肩幅に小さな頭。スーツには、ぴしりと折り目がついている。ポマードで固めたオールバックが自然に似合う、そういう男だ。
「財布が残っていた、か……」
遺骸を覆うシートをつまみ上げたまま、忠政は呟いた。ブルーのデニムに黒のジャケット。襟は乱れているし、ポケットというポケットがひっくり返されている。一目見て、物色された形跡だと分かる。
「物取りだと思いますか?」
「さあな、財布の中には何が残っていた」
「現金は四百円弱と、学生証に定期券。ファーストフード店のポイントカードとスポーツクラブの会員証」
倉島は手帳も開かずに暗唱してみせる。
「あとはヴィクトリノックスのナイフが――、折り畳み式の、ナイフの他にハサミやドライバーなどが一つになっているやつですね。それが一本、落ちていました」
忠政は眉をひそめる。倉島は口元をゆるめた。
「凶器ではありません。刃渡りはたったの六センチ、こんな深手を負わせることなんか、できやしませんよ。なにより被害者の持ち物だったようです」
見てください、と倉島は死体に近づく。
「ジーンズのポケットのあたりが、楕円形に色落ちしているでしょう。そのナイフをこのポケットに入れて、いつも持ち歩いていたんでしょう」
昨今の高校生では、珍しくもない。
忠政は死体から顔をあげて、あたりを見回した。この砂利の広場は、駐車場として使われているらしい。広さは乗用車五台ぶん程度。ところどころ、砂利のはがれた箇所がぬかるんでいる。広場は背の高い草で囲まれていた。ススキか、アシか。その向こうから、多摩川の水音が聞こえてくる。背後には、陸上競技のグラウンド。つなぎを着た捜査官が、そこかしこで地面にへばりついていた。死体のすぐそばの地面に、黒いコーンが立てられている。
「足跡がありました。大きさからいって、男です」
うちの若いやつらは、簡単なヤマだと高をくくっていますよ。倉島は肩をすくめる。気障な男だが、嫌味なやつではない。
「若いってのは、羨ましいことです」
なにより、こいつとは馬があう。
「被害者の両親はどこに?」
忠政が訊くと、倉島は親指で背後を指さした。公園の入り口に、捜査車両が並んでいる。
「会いますか?」
「いや、今は遠慮しておくよ。気の毒すぎて、寝起きの頭には毒だ」焼酎もまだ残っている。「それより、第一発見者だ」
倉島に案内されて、捜査車両のひとつに乗り込む。婦人警官の落ち着いた声が、相手をなだめすかしている。そして女のすすり泣く声。カーテンに遮られ、彼女たちの姿は見えない。
「邪魔するよ」
忠政の顔を見ると、彼女は白い顔をさらに蒼白にした。いつも通りの展開に、忠政は苦笑する。
「そんな恐がりなさんな、姉さん。慣れないものを見ちまって、可哀想に。俺も初めて――、もう三十年も前だ、初めてああいうのを見たときは、トイレで便器と仲良しになっちまった。それに比べりゃ、姉さんは強いほうだ」
倉島から大雑把なことは聞いている。相川美知子、近くのアパートに一人暮らしをしている、二十二歳のフリーターだ。もっと具体的に言えば、立川駅前のピンクサロンで働く風俗嬢。散歩の途中に想像を絶する物体と遭遇し、慌てて携帯電話で通報した。交番勤務の警察官が駆けつけた時には怯えきっていて、訊く前から自分のことを喋り散らしたという。
「あ、あの、わたし、疑われたりしてませんよね?」美知子は出し抜けに叫んだ。「ほら、ドラマなんかだと、まずは第一発見者が疑われるじゃないですか! でも、でも、わたし、何にも関係ありませんし、知らないです」
忠政はぽかんと口を開け、不謹慎にも吹き出した。美知子は倉島と忠政を見比べている。
「失礼しました」優男が頭を下げる。「そんな心配はいりませんよ」
倉島の柔らかい笑顔に、美知子の顔から、少しずつ緊張が消えていく。忠政には逆立ちしても真似のできない芸当だ。通称、クラシマジック。彼と組んで仕事をすると、いつも役立つ。
「もう一度、発見した時のことをお聞かせ願いますか?」片手で忠政を示す。「こちらの刑事さんは、見た目どおりの怖くて偉いヒトなんですけどね、どうしても貴女からお話をうかがいたいと申しておりまして。何度も同じ話をされてお疲れだと思いますが、申し訳ありません」
倉島が必要以上に優男ぶりを発揮したおかげか、美知子の口振りに支離滅裂なところは無かった。
「わたし、散歩をしていたんです。いつもどおり、多摩川沿いを歩くコースでした。向こう岸の遊歩道を歩いてから、日野橋を渡って、ぐるっとアパートへ戻ってくる。そういうコースです」
――散歩、この天気なのに。忠政は無意識のうちに片目を細める。
「ダイエットしてるんです」
美知子の首周りは、鎖骨が浮き出ているというよりも、他の部分が落ちくぼんでいるといった具合だ。
「だから、散歩っていうよりも、ウォーキングって言ったほうがいいのかな。こないだ読んだ雑誌に、ダイエットにすごくいいって書いてあったから」
へえ、とつぶやき、忠政は彼女の顔をじっと睨み付けた。
「俺は毎日かかとをすり減らしているが、ちっとも痩せねえ。なんていう雑誌だい、その記事を載っけたのは」
美知子はくちびるを軽く噛む。
「それは……、コンビニで立ち読みしただけだし、覚えて、いないですけど……」
そして恨みがましい眼で、婦人警官に視線を向ける。
「普通、そんなもんですよね、雑誌の記事なんて」
忠政は咳払いをした。
「まあいいや、その雑誌を信じ込んだ姉さんは、この霧雨降る夜に、そんな綺麗な格好で散歩していた。で、どうしてまた公園の中に入ったんだ。夜は園内の電灯が消えているし、怖いだろう」
倉島がそっと背中をつつく。分かってる、こいつに聞いても何も出てきやしなさそうだ。だけどこれが八木流の仕事なのだ。邪魔するな。
「公園に入ろうとしたわけじゃありません」
美知子は口をとがらせる。
「公園の入口から、あの駐車場まで、まっすぐに見通せるじゃないですか」
彼女の言う「入口」とは、正確には公園の裏口を指す。多摩川にかかる日野橋を渡ってくると、ちょうど右手に公園の裏門が口を開いている。そこから砂利の広場まで、自動車一台がやっと通れるほどの通路がある。左右を木立に挟まれた薄暗い道。しかし、誰かが倒れていたとして、それを見落とすほどの距離ではない。
「家に帰るつもりなら、わざわざ公園のなかを覗き込まなくてもいいんじゃねえか。足元も濡れてるし、さっさと帰りたかったろうに」
先ほどよりも強く、倉島が背中をつついた。忠政は無視する。
「家になら、今すぐにだって帰りたいわよ」美知子の声は裏返っていた。「どうして、なんども同じこと喋らなくちゃなんないの? わたし、ただ、喉が渇いていただけ! 自動販売機で飲み物買おうとして、公園の入口に近づいて、そしたら人が倒れてたから、ちょっと近寄ってみたら、そしたら、そしたら――」
「ご無礼をお許し下さい」忠政を押しのけて、倉島が前に出る。「こちらの刑事さんも、悪意があってこのようなことをお尋ねしているわけじゃないんです。どんな些細なことでも、はっきりさせておきたい。それが警察官の性分なのです。ご理解いただけなくて当然です。本当に申し訳ない」
目元を拭いながら、美知子は言った。
「理解なんか、したくもない」



美知子の迎えが来たのは、それから一時間後だ。
一度は取り乱した彼女だが、婦人警官と倉島の魔力によって平静を取り戻した。その間、忠政は捜査車両から追い出され、現場をぶらぶらとしていた。所轄の初動捜査に、警視庁の人間がうろつく。慣例から言えば異常なことだ。しかし立川署の人間はすでに忠政の存在に慣れきっていて、顔を合わすたびに「ひさしいね」などと片手をあげる。
「ったく、面倒くせえもん見つけやがって」
現れた男は美知子をどやしつけ、そのたびに美知子は「ごめんなさい」と首をすくめた。スーツに白シャツと、体面だけならサラリーマンにも見える。だが吉澤と名乗るその男の目つきは、忠政とは親しくなれない人間のものだった。
「あの男、仕事は何をしてるんだ」
美知子が「彼氏」と呼んだ男の背中をあごで指して、忠政は呟く。傍らには倉島が立ち、一緒に二人を見送っている。
「自営業、だそうですよ。このあたりに数件、飲食店を持っているらしいです。いますぐにでも裏を取りますか?」
倉島の口調はおどけていた。忠政は溜め息をつく。
「どんな飲食店だかね。たぶん聞いて呆れるぜ」
立川署の捜査員たちは引き続き現場周辺で捜査にあたるという。通り魔的な犯行も予想される事件だ。なにより迅速さが要求される。またもや徹夜仕事だと倉島は嘆いた。
「おやっさんも付き合いますか?」
「その呼び名は気持ち悪いからやめろ。お前の口ぶりに似合わねえ」忠政は苦笑する。「みなさんには申し訳ないが、おたくんとこの仮眠室に行かせてもらうよ。もう三日もまともに寝てねえんだ」
やっと眠れると思えば、このざまだ。察したのか、倉島は微笑んで車を手配した。人通りの少ない時間とはいえ、立川は人口密集地だ。現場のすぐそばには幹線道路が走っている。目撃者だって期待できないわけじゃない。足跡だってある。靴底の形が決め手となる事件も経験してきた。死体をもう少しいじくり回せば、犯人像だってすぐ分かる。焼酎はすっかり抜けていた。水分を失った脳味噌は、ひたすら前向きに考えろと言っている。
忠政が車に乗り込むまで、倉島は話し相手になってくれた。
「どう思いますか、今回は」開けた窓に顔を突っ込むようにして、倉島は訊く。「おやっさんの経験は、簡単なヤマだと告げていますか?」
忠政は鼻を鳴らす。立川署の顔がいくつか思い浮かんだ。倉島の後輩たちだ。
「若いってのは、本当に羨ましいね」



     ◆



眼を覚ますと、中華人形のような丸々とした顔が覗き込んでいた。
「いい眠りっぷりだな。気分はどうだ?」
年不相応につややかな頬で、中華人形が訊く。ぷくぷくと太った手に、下がった目尻。警察手帳なんかより、こいつには肉切り包丁のほうが似合う。煙草に焼かれた声でなければ、張飛翼徳だとかぴったりなあだ名を付けてやれる。
「おかげさまで最悪だ」毒づきながら、忠政は体を起こした。「もう少し心落ち着く朝を演出してくれ」
ソファとは名ばかりの固い長椅子に身を預けていたせいで、肩こりが酷くなった。思わず目頭を強くもみ、うめき声を漏らす。
「歳だねえ、おやっさんも」
馬鹿言うな、てめえとは同い歳じゃねえか。忠政の視線に、諏訪道時(すわ・みちとき)はにやりと笑う。中学以来の腐れ縁。昨夜、八木家の安眠を妨害した張本人はこいつだ。現在でこそ立川署刑事課のトップだが、市立第四中学校のころ、彼は多摩全域に名をとどろかす札付きだった。どでかいバイクを乗り回し、近隣中学の「気にいらねえ野郎ども」を「ぶっ潰して」まわっていた。そして付いた呼び名が、立四の怒髪天。しかしその髪の毛も、いまや風前の灯火だ。
「聞いて喜べ、特別捜査本部が設置されるぞ」
聞かずとも分かってる。諏訪が電話をかけてきた時点で、それは決まったも同然だった。こいつが事件に絡むと、普通ならありえない早さで捜査本部の設置が決まる。
「俺の辞書に普通って字はねえんだよ。おやっさんだって、よく知ってるじゃねえか」
どうやら諏訪は、警察庁の上のほうにいる誰かと強力なコネを持っているらしい。が、旧友である忠政にさえ、その尻尾を掴ませない。捜査本部が設置されれば、首脳陣の末席には立川署刑事課長の居場所も準備される。当然、事件が解決すれば、諏訪はそれを支えた優秀な管理職と見なされる。そしてこの肉まん男の財布に、さらに血税が流れ込むという寸法だ。裏でどんな汚いことをしているのか知らないが、諏訪の出世はひもの切れたバルーン広告みたいに天井知らずだった。
「今度はどんな屁理屈をこいた」
「通り魔犯の可能性があること、未成年を狙った凶悪なものであり、捜査に手間取ると二次、三次の被害が出る可能性もあること。――屁理屈とはずいぶんな言いぐさだな。立派に市民の安全を守るための仕事だぜ?」
「本部設置が早すぎるって言ってんだ」
「迅速な解決は警察官の義務じゃねえか、誰にも悪くは言わせねえ」
以前にも似たようなやり取りがあった。不自然に早い警視庁の決定をいぶかしがり、忠政が問いつめたのだ。すると諏訪は「魔法だよ」とうそぶいた。まったく倉島のクラシマジックといい、立川の連中は魔術学校で修行でもしていたのだろうか。
「そういやお前、徹夜明けの日は、禁じられた森の番人みてえだもんな」
ぼやくと、諏訪は眉をひそめた。
「なんの話だ?」
「娘と見た映画の話だよ」
釈然としない表情の諏訪を無視して、忠政はようやく立ち上がった。
「さあ、無駄話してないで会議室の場所を吐け。お役所仕事なんざ、さっさと片付けちまいてえ」



午前九時三〇分、立川競技場未成年殺人事件の捜査本部が設置された。立川署内の大会議室に、見知った顔ぶれが揃う。警視庁刑事部捜査一課・第四強行犯捜査九係の面々だ。漢字だらけの黒々とした名前だが、そこに属する人間たちはもっと浅黒い。肌の色の話ではない。八木忠政をはじめとして、瞳の奥に底知れぬ暗さをたたえた男たちの集団だ。
管理官の自己紹介や立川署長の挨拶に続き、諏訪が肉切り包丁を振り回さんばかりの檄を飛ばした。その後、事件の概要と捜査状況について報告がなされた。
「被害者は乃渡俊一(のわたり・しゅんいち)、十七歳。都立T高校の二年生です。テニス部に所属し、成績は優秀だったようです。父親は証券会社に勤務しており――」報告を任された三十がらみの捜査員が、会社名を告げる。「また、母親は完全な専業主婦で、パートタイムなどもしていません。一昔前なら、いわゆる中流家庭とでも呼べたでしょう。が、比較的、裕福な家庭ですね。父親の職場での評価などは現在捜査中です」
不満をはらんだため息が随所から聞こえる。子供が殺されたときは、まず親の人間関係を押さえるのが常識だ。たしかに被害者はすでに高校生だし、行きずり犯の可能性も高い。だからといって現在準備中とはのんきなものだ。
「すでにお伝えしたとおり、現場は立川公園陸上競技場の隅、多摩川の川原に接した駐車場です。死因はショック死、鋭利な刃物で心臓をひと突きにされていました。死亡推定時刻は昨夜十時から十一時のあいだ。目撃証言はまだ出ていません」
不満げなため息がいっそう大きくなる。
「なお、被害者の肋骨が折れていたそうです。ナイフを突き立てられた際に、一緒に折れたのだと考えられます。犯人はもみ合って被害者の上に馬乗りになり、そこを思い切り刺したのでしょう。肋骨を折るほどの力で刺殺したのですから、犯人は男性だというのが、検死官の意見です」
忠政のとなりに座る大男が、足を組み替えた。気持ちは分かる、とっ捕まえて、一発ぶん殴ってやる。
「第一発見者は相川美智子、二十二歳。立川駅南口のピンクサロン《プリンセスナイト》で働いています。自宅は立川市錦町六丁目の――」
彼はアパート名を告げ、さらに彼女が二百万の債務を抱えていること、忠政も見た吉澤という人物と男女関係であること、服飾専門学校に通っていたが、現在は休学中であることなどを話し、最後に「出身は長野県だそうです」と付け加えた。不満げなため息が、にわかに失笑へと変わる。犯人は男だと考えていながら、この短時間によくも詳しく調べたものだ。トップを筆頭に、立川警察は優秀な人材ばかりだ。
「ま、優秀だってのはいいことだ」
「最近、独り言が増えてるぜ、おやっさん」
となりの大男にたしなめられた。



     ◆



東京都立T高校は、駅の南口から徒歩十五分の好立地にある。立川の街はジキルとハイドだ。まったく性格の違う二つの顔が、駅によって切り分けられている。立川署の庁舎がある北口は米軍から返還された土地で、現在でも再開発が進んでいる。背の高い建物がにょきにょきと生え、諏訪が言うには、立川の「キレイキレイな部分」を「無理矢理かき集めた街」だという。そして北口進出から漏れた猥雑な部分が、この街の南口に集中している。パチンコ、カラオケ、飲み屋に風俗店、競馬の場外馬券場まで揃っている念の入りようだ。
しかし、駅から十五分も歩けば繁華街も途切れ、静かな住宅街に入る。そのど真ん中に、T高校の薄紫色の校舎が突っ立っている。少子化社会の影響で学校が減る中、二次利用を考えたのだろう、病院か老人ホームにでもなりそうな厳つい建物だ。
昇降口から入ろうとして、倉島に止められた。
「おやっさん、この学校は土足のまま入れますよ」
靴のかかとに指をつっこんだまま、忠政は目を剥く。
「ここ、本当に学校か? 上履きも履かねえのか、最近の高校生は」
個性尊重の名のもとに、都立高校では服装の自由化が進んでいる。娘の佳奈が高校に入学したときも、「制服なんて着たくない」と言われて面食らった。彼女は立川から二駅、昭島の高校に通っている。



応接室に通されて数分、革張りのソファの座り心地を堪能する間もなく、浅黒い男が現れた。忠政たちとは逆だ。健康的に日焼けした肌と、精力あふれる瞳。短い髪の毛が、よけいに彼の若々しさを強調している。しかしその顔も、今日はどこか疲弊していた。
「お待たせしてすいません、授業が長引きまして」
声は腹式呼吸の、純然たるスポーツマンだ。こちらが何か言うよりも先に、名刺を差し出してきた。
「失礼ですけど、センセ、教師になる前に何かしてたでしょう」受け取りながら、忠政は言った。相手は眼をしばたたかせる。「サラリーマンか、何かを」
そこまで聞いて、彼は力なく笑った。
「ええ、その通りです。解っちゃうものなんだなぁ」
人の背景を見抜く、なにかコツでもあるんですか。そう聞かれて、忠政はにやりと笑う。
「まあ、魔法みたいなもんですよ」
隣の倉島がにやにやしていた。馬鹿やろう、お前も同族だ。
白井義晴(しらい・よしはる)は被害者の担任教師だった。そして被害者の所属していたテニス部の顧問でもある。
「彼は、ええ、非常にまじめな生徒でした」乃渡俊一について聞くと、白井は胃袋の上の方が痛そうな顔をした。「信じられませんよ。今朝、連絡を受け取って、最初は悪い冗談だと思ったんです」嫌だなぁ、変なこと言わないでくださいよ、教頭先生。「本当に残念でなりません、眼を閉じれば今でもあいつの笑顔が思い浮かびます。テニス部のレギュラーメンバーのなかでも、いちばん真剣に練習へ打ちこんでいました」
一度注意されたことは二度と繰り返さない。後輩たちの世話を頼めば、文句一つ言わずに仕事をこなす。
「手のかからない生徒、でしたね。だから教師のあいだでも、彼への信頼感は厚かったはずです。変な話ですけれど、頼れる生徒っていうのがいるんですよ。授業をやっていて、どうも教室の雰囲気が盛り上がらない、みんなシーンとして、中には居眠りしているやつもいる。そんなときに、その生徒に当てるだけでクラスが何となくまとまる。どこの学校でも、そういう生徒が学年に一人はいるんです。――乃渡くんを頼りにする人はいても、彼のことを悪く思う人間はいないはずです」
だから白井は、テニス部の部長にも彼を推した。
「部員全員の前で名指しにしたわけじゃありませんよ。今年の三月頃、彼が二年になる直前です。練習が終わった後に、こっそり呼び出して、話を持ちかけました」おう乃渡、お前、部長なんてやってみないか。「なるべく軽い雰囲気で声をかけたはずなんですけど、乃渡くんはこわばった表情で笑ったんです」
――僕は、そういうの、向いてないと思います。
「私としては、あいつにはもっと人前に出てきて欲しかった。あれだけ優秀だし、人心を掴むのもうまくて……」
倉島が手で制す。
「人心。それは同級生の気持ちを掴むのがうまい、ということですか」
白井は深々とうなずいた。
「ええ、その通りです。文化祭の時、クラス代表こそ務めなかったものの、彼のお陰でクラスの展示が間に合ったようなものでした。教師の僕は完全には把握していませんけど、非協力的なクラスメイトに対しては、一人ひとりに個人的に電話をかけて、説得して回っていたようです」
一対一で真剣に向き合えば、必ず相手の気持ちは動く。乃渡俊一は十七歳にして人間関係の極意を身につけていた。
「だからこそ、私は部長に推したんですけどね……。だけど彼自身、真面目に考えた上での返事だったようです。自分の頭で考え抜いたことは、どんなことでも貫き通す、そういう意固地さは、やはり十七歳の少年ですよ」
白井は誇らしげに笑い、すぐにその瞳を伏せた。
「口数が少なくて、いつも穏やかに笑ってる。あと一歩だったんです。あれで人前に立つ勇気がもう少し身につければ、乃渡くんはもっと影響力のある生徒に育ったと思います。他の生徒や、教師に対しての影響力です。今よりさらに充実した高校生活を送れていたはずなんです」
本当に、残念です。大好きな弟分を無くした兄貴の表情で、白井は打ちひしがれていた。
その様子をしり目に、倉島が目配せする。忠政はゆっくりと口を開いた。
「……確かに、誰の恨みも買いそうにありませんな、乃渡くんは」
白井は顔をうつむけたまま、静かにうなずく。
「ところでテニス部で、彼はレギュラー選手だったとお話されましたね」
「はい、高校テニスには団体戦というのがありまして、乃渡くんはその先鋒でした」
忠政は指を組み、そっと身を乗り出した。肘をひざに載せる。
「すると大変ですなぁ。乃渡くんが亡くなられて、新しい先鋒を探さなければいけなくなる」
そうですね、と返事をしかけて、白井はぴたりと動きを止めた。
「それ、どういう意味ですか、刑事さん」
深い意味はありませんよ、忠政は指を組んだまま、低く応える。目はぴたりと相手を見据えたまま動かさない。白井の血色のいい頬が、みるみる青ざめていく。
「まさか、僕の教え子に――」いつのまにか一人称が〈僕〉になっている。「テニス部員の中に犯人が、いると?」
その質問には、倉島が応える。
「いいえ、まだ昨日の今日です。犯人の目星なんてついておりません。私たち二人の役目は、ただ、乃渡くんの普段の生活について調べることだけです」
白井は落ちつきなく瞳を揺らし、倉島の微笑みと忠政の灰色の顔を見比べている。倉島が表情を引き締めて、畳みかける。
「教えてはもらえませんか、次は誰がレギュラーになるのかを」わざとらしく咳払いを入れる。「そういう些細な情報を一つひとつ集めることが、私たちの仕事なのです。私たちは生きている被害者と会ったことがありません。だからこそ、彼がどんな場所で、どのように生きてきたのか、それを知りたい。そういった情報があるからこそ、被害者のために、私たちは」
噛みしめるように、倉島は言った。
「戦えるんです」
逡巡するように、白井は眼を泳がせた。腕を組み、落ちつきなく指を動かす。小声でぼそぼそと何か自分に言い聞かせ、やがて口を開いた。
「新しいレギュラー選手は、テストを行って決めます。それがテニス部の慣例ですから」
「そうは言っても、先生、だいたいの目星はついているのでしょう。あなたは非常に熱心に指導されているようです。生徒たちの実力も、きちんと把握しているはずですよ」
あくまでも柔らかい倉島の声。忠政を無視して、白井は倉島だけを見ている。
「竹原……竹原尚人になると思います。実力から言って。ですが刑事さん、あいつだって真面目なテニス部員だし、第一、常識的な高校生ですよ。それなのに――」
「お話、ありがとうございます」忠政は遮った。「いやあ、本当に助かりますよ。こういう仕事をしていますとね、後ろ暗いところの無い人までも、あたしらに対しては口が堅くなる。つかなくていい嘘をつく。ですがセンセ、あなたは合格だ。正直に話してくれた」
白井は頬を引きつらせた。
「あんたたち、いったい何なんだ。何を聞きたいんですか」
話を変えましょうか、と倉島が呟く。
「白井先生、昨夜の十時から十一時まで、どちらにいらっしゃいました?」
スポーツマンは浅黒い肌を真っ青にし、そしてゆっくりと、赤くなった。
「人格を疑いますよ、あなたの」吐き捨てるように白井は言った。「僕はまだ独身なんだ、その時間は家に一人でいた。分かってますよ、証人はいるかって聞きたいんでしょう。いない、いませんよ、そんなもん。家に仕事を持ち帰って、レポートの採点をしてたんだ。誰とも会ってないし、電話もしてない」



竹原尚人は、小ぶりの眼鏡をかけた、神経質そうな少年だった。
生真面目に出席していると聞いたので、応接室に呼び出してもらった。肌の色こそ小麦色に焼けているが、忠政と倉島の前で、落ちつきなく腕時計を見ていた。授業後すぐに練習へ参加するためだろうか、ジャージにテニスシューズという出で立ちだ。
「刑事さんたちは、どういうケンゲンでこの取り調べを行っているんですか」まくし立てるような早口で、竹原は言う。「僕たち高校生だって、ヒマを持て余しているわけじゃありません。変に勘ぐられるのは嫌だからご協力しますけど、でも、忘れないでください。僕はただ協力しているだけですし、この部屋から出ていくのだって自由ですから」
さすがに地域で一番の難易度を誇る学校だ。なかなか優秀そうな書生さんじゃねえか。忠政は少し楽しい気分になる。生意気なガキめ。
「なあ、坊主――」
「それ、誰に言ってるんですか。言ったはずです、僕はただ、あなた方にご協力差し上げているだけです」
ぴしゃりと返された。苦笑いしか出てこない。倉島に目配せすると、得意の肩すくめを見せられた。
「ええと、竹原さん。申し訳ありませんね、お忙しい中」
「いいえ、別に」
むっつりと眼鏡を押し上げる竹原は、それでもどこか得意そうな面もちだ。少し大人扱いをするだけで素直なものだ、嫌味にも気が付かないなんて。
「じつは、私たちは今、ある方の生活について調査をしているところです。どなただか、竹原さんもお解りですよね」
もちろんです、彼はふっと笑う。
「乃渡でしょう。今日の朝、聞かされました。びっくりしましたよ」
小学生じゃあるまいし、隠す必要はないと判断したのだろう。乃渡俊一の死は、今朝一番に生徒たちへ伝えられた。変な噂が立つほうがまずい。
「刑事さんたちが来るところを見ると、乃渡のやつ、誰かに殺されたんですね?」
これには、さすがの公僕二人も顔を見合わせた。乃渡が他殺であったことは、まだ教師たちしか知らないはずだ。どのタイミングで実情を明かすかは、この学校の大人たちを大いに悩ませているらしい。妙な事件が続くと困るので、生活態度や下校時の指導が緊急に行われることだけは決まっている。その「口実」を考え出すために、教頭たちはいまごろ嫌な汗を流しているだろう。
「簡単ですよ、そんなの」竹原は続ける。「もしもただの病死なら、先生たちが隠す必要はない。あいつは自殺なんてしそうになかったし、交通事故だとしても、わざわざ学校に刑事さんが来る必要もない。誰だって分かります」
さすが、地元で一番優秀な学生さんだ。話が早くて助かる。
「自殺なんて、しそうになかった?」
竹原は深々とうなずいた。
「ええ、乃渡が死ぬほど悩むなんて、想像できません。あんな調子のいいやつに、どんな悩みがあるっていうんですか」
――調子がいい?
忠政は首をかしげる。クラスの笑いを取るお調子者という意味だとしたら、白井の話と食い違う。
「違います、なんていうのかな、要領がいいんです。先生や上級生に取り入って、どんどん得をする人間でした。鼻につくタイプですよ。やつは先鋒を勤めてましたし、部長職の話もあったようです」
テニスだって、さして上手いわけじゃないのに。竹原はくちびるを尖らせて、公僕二人から眼を反らす。そら来た、と忠政は思った。倉島も心得ているようで、忠政のしたい質問をそのまま口にする。仕事のときは以心伝心、デジタル回線で繋がっている。
「じつは白井先生にも、同じようにご協力いただいたんですよ。先生のお話ですと、レギュラーメンバーはテストのようなものをして、実力で決めているようですが」
鼻から息をはいて、竹原は頬を膨らませる。
「まあ、下手だとは言わないけど……。でも、本当は僕が先鋒でもおかしくなかった。あの日はたまたま体調が悪かったんだ」レギュラーメンバーは試合の結果で決める。「もしあの日、僕のコンディションが万全だったら、レギュラーテストであいつに負けたりしなかった」
事実、それまでの練習で、竹原は何度も乃渡に勝利していた。白井教諭の言うとおり、二人の実力は伯仲していたのだ。
「死んだ人をこんなふうに言いたくはないけど、お高くとまったやつでした。なんか自信満々で、他人のコトなんか眼中にないって雰囲気で」
努力しても努力しても手に入らないものを、すぐ隣の人間が顔パスで手に入れている。しかもその人間は、それを誇ることもせず、ただ穏やかに笑っている。このガキは、そういう妬みを抱えながら大人になるのか。忠政は溜め息をつきたくなる。なるほど、俺たちが忙しくなるはずだ。
「そのくせ女にばっかり、良い格好を見せて」竹原は眉間にしわを寄せていた。「夏合宿のとき――、僕らのテニス部では、夏休みに河口湖で合宿をするんですけど、その時にも、女の前では張り切っちゃってました。僕らの使っていたテニスコートに、大きな野良犬が迷い込んだんです」
最初こそ遠巻きに竹原たちを見ていた野良犬だが、徐々にその距離を詰めていった。背中の高さは人の腰ほどもある、大きな犬だったという。黒々とした毛並みは、ところどころささくれ立っていた。
「コートの中に入ってくる様子もありませんでしたし、放っておいたんです。中には犬に気付いていない部員もいました」
だが、何か気にくわないことでもあったのだろうか、犬は一声大きく唸ると、ひとりの女子部員に向かって突進した。テニスコートはにわかに騒然とする。部員たちはちりぢりになり、犬から遠ざかった。巨大な犬に押し倒された女子部員の悲鳴が、河口湖の乾いた空に響いていた。
「突然のことでしたし、何が起こったのか、みんな冷静に判断できていなかったと思います」
しかし一人だけ、冷静な人間がいた。乃渡俊一はラケットを握りしめると、怯える様子もなく、すたすたと犬に近づいていった。
「あれはびっくりしたな、だってあのラケットは四万円はする品物だったから」
なんの躊躇いもなく、乃渡は犬を殴りつけた。犬が驚きの鳴き声をあげる間もなく、二発、三発とぶん殴った。
「逃げるとき、脚をがくがくさせてました、あの野良犬」竹原は両肩をさする。「確かに女子部員はかすり傷で済んだけれど、それでも、やりすぎだと思いませんか? 少し可哀想じゃないかって、僕は訊いたんです」
――そんなことない、当然の罰だよ。
そうつぶやく乃渡俊一のラケットは、血で汚れていた。
「怖いやつだな、と思いました。普段は大人しいぶん、あの時の乃渡には鬼気迫るものがあったんです。それからはテニス部内でも、乃渡を怒らせたらまずい、っていう空気になりました。上級生や白井先生も、あいつに対しては妙に気を遣うようになって」
本当、調子がいいやつなんです。竹原の眼に、乃渡俊一と白井教諭の関係はそう映っていた。竹原の言葉はかなり偏っているように思えるし、頭から信じてはいけない。忠政は無表情のまま、彼の発言を吟味する。
「ところで、昨夜の十時から十一時ごろまで、どちらにいましたか?」
竹原はにやりと笑った。待ってましたと言わんばかりの表情で、てきぱきと応える。
「アリバイってやつですね。へえ、刑事ドラマみたいだ」
テニスシューズを履いた脚を、もったいつけた動作で組み替える。
「これだけ乃渡のことを悪く言えば、聞かれると思っていました。だけど、刑事さん、僕のアリバイは完璧ですよ」
竹原は昨日、部活終了後すぐに予備校へ向かった。立川北口にある大手の進学塾だ。そこで九時すぎまで勉強に精を出し、帰宅したのは十時ちょうど。見たいテレビ番組があったから、詳しい時間まで覚えているらしい。それからは一度も家の外に出ず、ずっと家族と一緒にいた。
「ここは毎年、東大への進学者が何人も出る学校ですよ。殺人なんて愚かな真似を、この高校の連中がすると思いますか?」



それから夕方まで、忠政と倉島は学校関係者への事情聴取を続けた。わずかでも乃渡俊一と関係のあった人間すべてを相手に、しらみ潰しに話を訊いた。だが彼らの話はみんな似たり寄ったりで、時間経過とともに二人の警察官は徒労感を募らせていった。
「乃渡くんは、とても落ち着いた人でした」
金子麻耶(かねこ・まや)は、その愛らしい丸顔をうつむける。
「他の男子と違って、大人びているというか、馬鹿みたいなことで騒いだりもしないし、人の話はよく聞いてくれるし、すごく頼りになる人でした」
彼女は乃渡のクラスメイトで、例の文化祭の際に、クラス代表を務めていた。白井教諭の言葉を裏付けるように、金子はいかに乃渡俊一が素晴らしい男であったかを切々と語った。この高校の生徒たちの話を聴いているうちに、竹原の言葉もあながち嘘ではないな、と忠政は思うようになった。死者に対する偏見はさておき、竹原の言うとおり、この学校の子供たちは殺しを犯すには冷静すぎる。言葉巧みな丸顔を見つめながら、ふと娘のことを思い出す。あいつも、こいつらぐらい落ち着いていればなぁ。
「乃渡くんのこと、貴女は高く評価なさっていたんですね」
倉島に訊かれ、金子は頬を赤らめながら「はい」と応えた。
「でも、評価とか、そんな固い言葉はやめてください。なんだか彼のことを睥睨しているみたいじゃないですか。私なんかが偉そうに評価できる人じゃなかった」
さて、ヘイゲイとはどんな漢字を書いたかな、忠政が脳内の国語辞書を引っ張り出しているうちに、彼女は話を変える。
「乃渡くん、他人のことでも、すごく真剣になる人でした」金子は乃渡俊一を尊敬していたという。「私、彼に助けられたことがあるんです。いつだったっけ、たぶん文化祭の買い出しを一緒にしたときかな。彼といっしょに吉祥寺の手芸用品店に行って――」
クラスメイト数人で布きれや小物を買い集め、帰りの電車に乗った。そして立川駅に着いたとき。
「わたし、切符を落としたのに気が付いたんです」
そういうドジなら、忠政もしょっちゅうする。とくに山ほど酒を飲んだ時は要注意だ。小学生ばかりを狙った強姦魔を捕まえてみたら犯人は中学生だった、そんな事件の後は、いつも新宿あたりで酔いつぶれる。切符を落としたと告げると、駅員は眉根を寄せながらも、「今回だけですよ」と改札を通してくれる。JRのサービス精神万歳だ。
「普通、そうですよね。ちゃんとお金を払うのが規則かも知れませんけど、乗客を疑ったりしないものだと思います」
しかしその時対応した駅員は、新米だったのか、「キセルじゃないの?」と顔をしかめたという。
「なんだか変だな、とは思ったんです。切符を落としただけで、区間の三倍料金を払えって言われたんですから。だけど、駅員さんの口調が強かったから、なんだか怖くなって、わたし、何も言えずにいました。さっさとお金を渡して、駅から出たかった――、その駅員さんから逃げたかったんです」
払うことない、乃渡俊一ははっきりと言い放った。
「駅員さん、キセルの意味、分かってますか? って、顔はいつもどおりの笑顔なんですけど、言葉には絶対ゆずらない部分があって」
年長の駅員を呼びだし、金子に代わって事情を説明した。論理的な物言いで、あくまで冷静に、問題を解決した。
「結局、駅員さんたちも乃渡くんの言葉を信じてくれて、改札を通してくれました。わたしのことなんて無視して、さっさと学校に戻ってもよかったのに、乃渡くんは困っている人を見ると、放っておけないタイプだったんだと思います」
あの時の乃渡くん、格好良かったなぁ……、噛みしめるように、金子は言う。
「好きだったんですね、乃渡くんのこと」
珍しく倉島が悪戯心を見せる。金子は顔を耳まで真っ赤にして首を振った。
「そ、そんなことありません! 乃渡くんはただ、クラスメイトの一人で――」



そんな具合に、乃渡俊一の人物評価は軒並み良好だった。
彼ら高校生の言葉を借りれば、「クールなやつ」だったらしい。人目に付くことを避けていたから、乃渡の顔と名前が一致しない者も多数いた。
「どうしてでしょうね」
最後の一人から話を聞き終えて、倉島の顔にもさすがに疲労が漂っていた。
「同級生が死んだのに、誰も泣かない」
窓の外に夕日はなく、水彩画のような淡い曇り空だ。分厚い雲は、徐々に夜をため込み始めていた。
ふん、と忠政は鼻を鳴らす。
「死んだのは自分じゃねえからな」





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