1944年7月、アメリカ・ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国の代表が集まり、第二次大戦後の世界について議論した。米ドルが国際的な基軸通貨に選ばれたのはこの時だ。当時、偉大なる経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、米ドルではなく、どこの国にも属さない「バンコール」という基軸通貨を創設すべきだと訴えていた[1]。
国際情勢の影響で円高になるたびに、「もしもバンコールが存在したら?」と想像せずにはいられなくなる。
2016年6月23日に行われた国民投票で、イギリスのEU離脱が決まった[2]。実際にEUから抜けるには今後2年ほど交渉を重ねる必要があると見られるが、金融市場はヒステリックに反応した(※いつものことだ)。一気に円高が進み、日経平均株価は暴落した[3][4]。
日経平均株価には「円高になると下落する」という、わりと簡単なパターンがある。輸出や海外売上への依存度が高い企業が多いからだ。たとえば、ある企業が年間100万ドルの海外売上があると見積もっているとしよう。1ドル120円なら1億2000万円の売上だ。円高が進んで1ドル90円になると、これが9000万円の売上になる。当初の見積もりを下回ってしまうのだ。円高になると、日本円に換算した際の企業の業績が悪くなる。だから株価が下がる。
では、なぜイギリスのEU離脱のような国際情勢の大きな動きがあると、円高になってしまうのだろう?
それは、日本円が「手堅い通貨(ハード・カレンシー)」だからだ。Wikipediaによれば、今の世界には253種類の通貨があるらしい[5]。しかし、そのすべてが国際的な取引で使えるわけではないし、通貨の価値が安定しているわけでもない。特定の地域でしか流通していない使い勝手の悪い通貨のことを「手ぬるい通貨(ソフト・カレンシー)」と呼ぶ。
今の世界では、「手堅い通貨(ハード・カレンシー)」の数は限られている。米ドル、ユーロ、日本円の3つぐらいで、場合によってはここに英ポンドやスイスフラン、カナダドルを加えることもある。将来的には人民元が加わりそうだが、まだもう少し時間がかかりそうだ。
国際情勢に大きな動きがあると、世界の将来が分からなくなる。
将来に不安があると、私たちは価値の落ちにくい財産を溜め込もうとする。株券よりも貯金を持とうとするし、銀行の経営が不安なら、現金や金(ゴールド)をタンスのひきだしに隠そうとする。国際的な為替取引の場合、「手堅い通貨(ハード・カレンシー)」に人気が集まる。将来何があるか分からないイギリスのポンドを持っているよりも、日本円を持っていたほうがマシだ──。みんながそう判断したから、イギリスのEU離脱で日本円が高騰した。
イギリスのEU離脱は、投票以前から「自滅行為だ」と指摘されていた[6][7]。EUに残留したほうが生活の質は良く、経済も安定しているはずだった。ところが、イギリスの有権者たちは自滅の道を選んだ。そして予想通り、世界経済は混乱の渦に巻き込まれている。
こういう「自滅行為ブーム」は、イギリスに限ったことではない。
たとえばアメリカではドナルド・トランプ氏が人気を集めている。私のアメリカ人の友人は、もしもトランプ氏が大統領になったら暗殺されるのではないかと言っていた。彼の政策が実行されれば、アメリカだけでなく世界中がヤバいことになるからだそうだ。
また、日本の「憲法改正ブーム」も似たような例と言えるかもしれない。日本が戦前のような憲法を採択すれば、周辺の国々(※とくに中国)との関係が悪化するのは目に見えている。そもそも日本国憲法は、西側諸国の自由主義の理想を詰め込んだような内容だ。もしもこれを中近世のような憲法に書き換えたなら、盟友たるアメリカやヨーロッパ諸国から政治的に見放される可能性もないとは言い切れない。決して少なくない人が、今もパールハーバーの「恨み」を忘れていない。
イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ旋風、日本の改憲ブーム。(ここにドイツのネオナチブームを加えてもいいかもしれない)このような「自滅的」なムーブメントはなぜ起きるのだろう。何か共通の社会学的・経済学的な背景があるのだろうか。
イギリスのEU離脱は、移民を嫌うレイシストや右翼的思想の持ち主が主導してきたと考えられがちだ。ところが、現地で暮らす人々の言葉を見ると、そうでもないらしいと分かる[8][9]。単純に、ただ貧しくて困っている人たちが離脱に票を入れたらしい。
イギリスは世界的に見て平均月収が高い。さらに医療費は無料で、公教育も比較的充実している。そしてEU加盟国の間では、人の移動は自由だ。こうなると、貧しい東欧の国々から移民が押し寄せる。イギリスの労働者階級の人々から見れば、公的なサービスを移民に奪われて、さらに職業も移民と奪いあうことになる。レイシストとはほど遠い左寄りな人でも、明日の仕事に困るような状況では理想論を語る余裕はなくなる。
もちろん、右翼的な思想の持ち主が、人々の怒りに薪をくべたという側面はあるだろう。けれど、根底にあるのは思想やイデオロギーの問題ではなく、経済的な問題ではないだろうか。
イギリスがEUを離脱すれば、なるほどイギリス人の生活はドン底になるかもしれない。けれど、すでにドン底だと感じている人にとっては関係ない。現状維持では生活が向上する見込みがないのなら、現状を破壊して、すべてリセットするという危険な賭けが魅力的な選択肢になる。「グレート・リセット願望」を抱くようになる。
良識派の人々は、グレート・リセット願望を「自滅行為だ」と笑う。けれど、たとえ自滅だとしても現状を破壊したい、リセットしたいと望む人の数が増えれば、それは現実になる。
問題は、グレート・リセットを望む人がなぜ増えたのか、だ。
理由の一部は、経済的な格差の拡大で説明できるかもしれない。上記のグラフは、所得ランキングの上位1%の人々が、国民所得の何%を手にしているかを示したものだ。アングロサクソン諸国では、80年代以降に上位1%の人々が受け取る所得が増大した[10]。たとえばイギリスの場合、1970年代には上位1%のカネ持ちは国民所得の6%ほどしか受け取っていなかった。ところが80年代以降に彼らのシェアは拡大し、2010年には国民所得の14%ほどを受け取るようになった。
話がややこしいのは、これら先進国のもっとも貧しい人でも、世界的に見れば「ドン底」とは言えないことだ。たとえばアメリカにおける貧困の基準は、1日15ドルほど。一方、コンゴ民主共和国では国民の半分以上が1日1ドル以下で暮らしている。シエラレオネやスワジランドも似たようなもので、紛争のために統計自体が取られていないアフガニスタンのようなもっとひどい場所もある[11]。絶対的な数字を追いかけるだけでは、先進国の貧困層が自分たちをどれくらい「ドン底」だと感じているかは分からない。
とはいえ、格差そのものが「ドン底な感じ」をもたらしている可能性はある。
豊かさは絶対的な基準ではなく、他者との比較で実感されるものだからだ。
たとえ1日1ドルで生活していても、周囲の人々がみんな同じような生活水準で、なおかつ、もっと豊かな生活があることを(テレビやインターネットで)見ないで済むのなら、本人たちは「自分は貧しい」とは思わないだろう。反面、たとえ1日1,000ドルで生活していても、1日1万ドルで生活する人の姿を見たら、自分は貧しいと感じるかもしれない。心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーは、幸福に関する研究でこれを実証した。給与明細を見たときに5%昇給していたら嬉しい──ただし、同僚が10%昇給したと知るまでは[12]。
80年代以降に、これらの国々で格差が拡大した原因は何だろう?
20世紀後半に起きた世界経済の事件としては、ニクソン・ショックがすぐに思い当たる。1944年のブレトン・ウッズ会議で、米ドルは一定比率で金(ゴールド)と交換できると決定された。ところが戦後の世界経済の発展により、アメリカの金の保有量は慢性的に不足するようになった。第37代アメリカ大統領リチャード・ニクソンは、米ドルと金との交換を停止すると発表。以降、各国の中央銀行は金の保有量にかかわらずお金を刷れるようになった[13]。
これはいわば現代的な「錬金術」で、現在の銀行はほとんど何もないところからお金を創造できる。金融業界や、それに近い地位にいる企業経営者たちが高給になりがちなのは、この錬金術を利用しやすいからだと解釈できるかもしれない(※かなり乱暴な解釈ではあるが)。経済学者トマ・ピケティは、高額の役員報酬を受け取る「スーパー経営者」の登場が格差拡大の推進力になっていると指摘している[14]。
ただし、この仮説──ニクソン・ショック以降の過剰流動性がスーパー経営者を生み出して格差を拡大させた──は、2つの点で苦しい。
第一に、時期が一致しない。ニクソンが金との交換停止を発表したのは1971年、ブレトン・ウッズ体制が完全に崩壊するのは1973年だ。アングロサクソン諸国で上位1%の人々の所得シェアが上昇するのは、その10年後である。この仮説だけではタイムラグを上手く説明できない。
第二に、アングロサクソン諸国以外の国では、上位1%の人々のシェアはそれほど増大していない。フランス、ドイツ、スウェーデンのような大陸ヨーロッパ諸国や日本では、アングロサクソン諸国ほど急激な格差拡大は起きていない。ピケティは、この格差拡大は一般的で普遍的な原因(※技術変化や世界の経済情勢)ではなく、国による制度の違いが原因だと指摘している[15]。
80年代に起きた「制度」の変化といえば、イギリスのマーガレット・サッチャー首相やアメリカのロナルド・レーガン大統領が行った一連の改革が思い当たる。国営事業の民営化、所得税の最高税率の引き下げ、法人税の引き下げ、消費税の引き上げ等をひとまとめのパッケージにした政策を実行したのだ。不勉強なため、今の私にはこれら個々の政策がどのように格差を広げたかを説明することはできない。ここでは時期の一致を指摘するにとどめたい。サッチャーが首相を務めたのは1979~90年、レーガンが大統領を務めたのは1981~89年だった。
ここで、アングロサクソン以外の国々の上位1%の人々について見てみよう。上記のグラフは、フランス、ドイツ、スウェーデン、日本における所得上位1%の人々が国民所得の何%を受け取っているかを示したものだ。アメリカやイギリス等に比べて、大陸ヨーロッパや日本では格差拡大は緩やかだと分かる[16]。
とはいえ、どの国でも20世紀末~21世紀初頭にかけて、上位1%の所得シェアは増大した。日本も例外ではない(※図中:オレンジの矢印)。日本では、ゼロ年代にサッチャーやレーガンと同じ方向性の政策を取るようになった。郵政民営化や消費税増税は記憶に新しいだろう。また、日本の法人税率は80年代後半以降、断続的に引き下げられてきた[17]。
では、これらの政策で日本の格差は拡大したのだろうか?
私の手元にあるデータだけでは、この疑問に答えるのは難しい。
よく言われるのは、非正規雇用者が増大したことだ。男性被雇用者の総数は1997年の2950万人をピークに横ばいであるにもかかわらず、非正規雇用で働く人は一貫して増えてきた。とくにゼロ年代に入ってからは非正規雇用者の比率が増大し、現在では男性労働者の5人に1人以上が非正規だ。この期間における65歳以上の被雇用者の増加は微々たるもので、高齢化だけでは非正規雇用者が増えたことを説明できない[18]。政策的・制度的な要因があると考えたほうがいいだろう。
とはいえ、先ほどのグラフが示しているのは「上位1%の受け取るカネが増えた」ということだ。非正規雇用者の数が増えたからといって、カネ持ちの受け取るカネが増えるとは限らない。グラフ内のオレンジ色の矢印を説明するには、より直接的な理由を探したほうがいい。
[画像引用元]大企業の配当金と人件費の関係をグラフ化してみる - ガベージニュース
直接的な理由の1つは、企業の配当金額が増えたことかもしれない。
2000年度の水準に比べて、大企業の人件費はほぼ横ばいであるにもかかわらず、配当金は大幅に増えた。上位1%の人々は、賃金所得のほかに、配当金を始めとする不労所得を得ている場合が多い。企業が配当金を増やしたのなら、上位1%の人々の所得シェアが増えるのもうなずける。
ただし、この配当金増加を国の政策と結びつけて説明するのは難しい。画像引用元のブログでは、経済の不確実性の増大が配当金の増加をもたらしたと指摘している。経済の先行きが不透明で、今の企業が3年後には潰れているかもしれない──。そういう状況では、株主はすばやく利益を得るために配当金の増加を求める。一方、1970~80年代のように経済が安定して成長している時代には、将来の株価上昇によるキャピタル・ゲインを得るほうが魅力的になるため、株主は配当金増加をあまり求めない[19]。
国の政策が経済にどのような影響を与えるかは、ここでは答えを保留しよう。この記事を読んだ方1人ひとりに判断をゆだねたい。今回の記事では、あくまでも事実の確認に務めたい。
・アングロサクソン諸国では1980年代以降、国民所得のうち上位1%の人々の受け取るシェアが増大した。
・大陸ヨーロッパや日本でも(アメリカやイギリスほどではないが)上位1%の人々が受け取るカネは増えている。
・日本ではゼロ年代以降、企業の支払う配当金が増えた。
これらの事実から、日本を含む先進国では格差が少しずつ広がっており、とくにアメリカやイギリスでは急激に経済格差が拡大していると推測できる。
また、心理学的な研究から言えば、絶対的な貧困ではなく、相対的な貧困──つまり経済格差──の存在が、「ドン底な感じ」をもたらし、グレート・リセット願望をもたらしている可能性がある。同僚が10%の昇給を経験しているなら、5%の昇給では満足できなくなるのが人間という生き物だ。
■高齢化と「1回きり囚人のジレンマ」
イギリスの国民投票では、EU離脱に票を入れたのは主に高齢者だったそうだ。ある調査によれば、18~24歳の75%が残留派だったという[20]。グレート・リセット願望は、若者が抱くものだと考えがちだ。リセット後の混乱を生き延びるには体力が必要で、若いほうが有利なはずだからだ。ところが現実は逆である。人生の残り時間が短く、巻き返しのチャンスが少ない高齢者のほうが、「危険な賭け」に挑戦しがちになるようだ。日本における憲法改正ブームでも、集会参加者の平均年齢はおそらく60代後半~70代前半くらいだと言われている[21]。
(※この点ではアメリカのトランプ現象は少し状況が違う。彼の支持層を特徴づけるのは、イデオロギーでも年齢や性別でもなく、学歴だそうだ。トランプの支持層には高卒の人が多い[22])
ここで「囚人のジレンマ」について考えてみたい。
有名な話なので、ご存じの人も多いだろう。ごく簡単に紹介すると、経済学の1分野「ゲーム理論」で登場する考え方だ。人間がお互いに合理的な判断をすると、協力しあうことができず、お互いにとって最悪の結果になる場合があるという予想だ。
たとえば、あなたがパートナーと2人で敵国に潜入したスパイだとしよう。ところが運悪く、あなたたち2人は敵の警察に逮捕されてしまう。別々の取調室に連れ込まれて、お互いに連絡を取ることはできなくなった。一方、警察の側もあなたがスパイだという充分な証拠を持っているわけではないようだ。
そこで警察はあなたに取引を持ちかける。
もしもスパイだと告白してパートナーを裏切れば、あなたは無罪放免。自分の国に帰れる。パートナーは長期間収監される。もしも黙秘を守った場合(スパイだとバレた場合に比べればマシだが)ある程度の期間は牢屋にぶち込まれることになる。もちろん、警察は同じ取引をパートナーにも持ちかけているだろう。最悪なのは、あなたが黙秘したのにパートナーが告白した場合だ。パートナーは無罪放免、あなたが長期間収監されることになる。そしてお互いに告白を選んだ場合、2人揃って長期間収監されることになる。
社会的に最も望ましい──2人にとってお得な──選択は、2人揃って「黙秘」を貫くことだ。相手を裏切るのではなく、協力しあうほうがいい。ところが、取調室に連れ込まれた時点ではお互いに連絡は取れず、また、こういう状況になったときにどうするかの取り決めもしていなかったとしよう。個々人が「合理的」に行動した場合、果たして社会的に最も望ましい状況に到達できるだろうか?
ここでは、あなたには「協力」「背信」の2つの戦略がある。相手も同じだ。話を分かりやすくするために、それぞれの選択肢を取った場合に起きる状況に0点~5点の得点を付けた。
まず、相手が「協力」を選んだ場合を考えてみよう。あなたが裏切れば、あなたは無罪放免だ。得点にして「5点」を得られる。しかし相手に協力して黙秘すれば、短期間とはいえ牢屋生活に耐えなければならない。得点でいえば「3点」だ。したがって相手が「協力」を選んだ場合には、あなたは裏切るほうが合理的な選択になる。
また、相手が「背信」を選んだ場合を考えてみよう。ここであなたが協力を選べば、パートナーは無罪放免、あなたは長期間収監されることになる。最悪の事態であり、得点でいえば「0点」だ。しかし、あなたも裏切れば2人揃って牢屋生活をすることになる。『ショーシャンクの空に』のアンディとレッドのように、協力して刑務所生活を送れるかもしれない。『アルカトラズからの脱出』のフランク・モリスたちのように、2人で脱獄の計画を立てられるかもしれない。いずれにせよ、1人きりで牢屋にぶち込まれるよりはマシだ。得点にすれば「1点」だ。したがって相手が「背信」を選んだ場合にも、あなたは裏切るほうが合理的な選択になる。
つまり、相手が「協力」を選ぼうが、「背信」を選ぼうが、あなたはつねに裏切ったほうが合理的なのだ。
パートナーがどちらの戦略を選ぼうが「背信」を選んだほうが合理的──。
これは相手も同じである。
結果として、「お互いに裏切る」という社会的に最悪の事態になる。各個人がバラバラに「合理的」な行動を追求すると、利己的なふるまいをするようになり、お互いに協力しなくなる。社会的にもっとも望ましい状況には到達できないのだ。これが囚人のジレンマだ。
囚人のジレンマという単純なゲームでは、プレイヤー同士がお互いの信頼を確かめる方法はない。プレイヤーの少なくとも一方が、現実離れした「お人好し」でないかぎり、このゲームは双方にとって損になる相互背信に陥ることを運命づけられている。
しかし、このジレンマから脱出する方法がないわけではない。
じつはこのゲームには「反復囚人のジレンマ」という別バージョンがあるのだ。1回きりの囚人のジレンマであれば、お互いに裏切るという結果を避けられない。しかし、囚人のジレンマを繰り返し行えば、結果は変わってくる。たとえば過去の履歴に照らして、相手が裏切るかどうか予想できるようになるからだ。
アメリカの政治学者ロバート・アクセルロッドは、「反復囚人のジレンマ」をプレイするコンピュータープログラムのコンペティションを開いた。どのような戦略がもっとも得点を稼げるのかを調べるためだ。彼のもとには14通りの戦略が提案された。おまけとしてアクセルロッドは、「協力/背信」をランダムに選ぶ15番目の戦略を付け加えた。もしもある戦略がランダムよりも得点が低いとすれば、それは相当できの悪い戦略だと言わざるをえない。
このコンペで勝利を収めたのは、「やられたらやり返す」戦略だった。心理学者でゲーム理論家でもあるアナトール・ラパポート教授の提出したものだ。「やられたらやり返す」戦略は、拍子抜けするほど単純な戦略だ。最初の勝負では「協力」を選び、それ以後は前の回に相手が選んだ戦略をただ真似するだけである。
相手が「協力」を選び続けるかぎり、「やられたらやり返す」戦略も「協力」を続ける。もしも相手が裏切れば、次の1回は「背信」を選ぶ。その後も相手が裏切り続ければ「背信」を選び続けるし、相手が気分を変えて「協力」に戻れば、自分も「協力」に戻る。
さらに重要な点は、トーナメントに参加した15の戦略のうち、上位8位までを「気のいい(ナイスな)」戦略が閉めていたということだ。「気のいい(ナイスな)」戦略とは、自分からは決して裏切らない戦略だ。「やられたらやり返す」戦略も、これに含まれる。参加した15のプログラムのうち8つが「気のいい(ナイスな)」戦略で、それらが上位を独占した[23]。
アクセルロッドは第2回のトーナメントを実施した。それには62の応募があり、ランダムを含めて63のコンピュータープログラムが競い合うことになった。しかし、またしても勝者は「やられたらやり返す」戦略だった。「気のいい(ナイスな)」戦略は、そうでない戦略よりも一般的にいい成績を収めたという。
この実験から導かれる教訓は明らかだ。
囚人のジレンマが無限に等しいくらい繰り返される環境では、協力的な行動を取るほうが大きな利益を得られる。一方、繰り返しの回数が少なくなり、「1回きり囚人のジレンマ」に近づくほど、相手を裏切ることで得られるものが大きくなる。利己的な行動のほうがトクになる。
このことから、若者ほど協力的な行動を取ろうとし、老人ほど利己的な行動を取るだろうことが予測できる。(※精神的に不安定な思春期の少年は除くとして)充分に理性的で、成熟した人物なら、人生の残り時間が長いほど利他的にふるまうはずだ。たとえ囚人のジレンマのような状況に巡り会ったとしても、似たような状況に何度も遭遇する可能性を考慮すれば、「協力」を選択したほうがいい。一方、人生の残り時間が短くなるほど、囚人のジレンマは「1回きり」に近づいていく。同じ状況に遭遇する可能性は低くなり、利己的なふるまいをすることが合理的になる。
グレート・リセット願望は、そもそもが利己的な発想だ。
カン違いしてほしくないのだが、私は「利己的」という言葉を批判的な意味では使っていない。ただ「利他的」という言葉の反対語にすぎない。時と場合によっては、利己的な行動を取ることがもっとも合理的で、理に適ったものになる状況もありうる。そういう状況で利己的な行動を取る人を倫理的に断罪することはできないし、すべきでもないと思っている。
そう前置きをしたうえで、あえて言うが、グレート・リセット願望は利己的だ。この願望の根底には、「現状をリセットすることでドン底になってもかまわない、なぜなら自分はすでにドン底だから」という発想がある。リセットによって「自分が」一発逆転するチャンスに賭けているのであって、リセットに巻き込まれて損失をこうむる他者のことは、はなから考慮されていない。グレート・リセット願望は利他的ではありえない。
繰り返しになるが、残り時間の短い人ほど「危険な賭け」に手を染めがちである。テレビのクイズ番組だって、放映時間が残りわずかになると、その時点で勝ち目のないプレイヤーは危険な「一発逆転問題」に挑戦しようとするものだ。
人生も同じだ。
残り時間の長い人は、それだけ現状の枠組みのなかで成功を掴むチャンスもある。残り時間の短い老人には、そのチャンスがない。だからこそ、現状の枠組みそのものを破壊することが魅力的な選択肢になる。グレート・リセットによって被害者が出ようと関係ない。なぜなら老人たちにとって、残りの人生は「1回きり囚人のジレンマ」に近いからだ。他者に協力するよりも、裏切ったほうが合理的だからだ。
■先進国の高齢化は世界を不安定にするか?
少子高齢化は、いまや世界中で進行している現象だ。合計特殊出生率は先進国の大半で人口置換水準を下回っており、子供の数は減っている。一方、先進国における65歳以上の人口は2010年の時点で総人口の約16%であり、2050年にはほぼ倍増するだろうと予測されている[24]。日本の場合はさらに苛烈で、2010年に23.0%、2050年には39.6%と、老年人口の割合がほぼ4割に達すると見られている[25][26]。
今後も少子高齢化が進むことを考えると、ピケティの指摘したとおり経済格差も広がると推測できる。なぜなら、現役を引退した高齢者は所得が大幅に減るからだ。
世間では「若者に比べて老人たちは厖大な金融資産を持っている、ズルい」と言われることが多い。しかし、すべての老人がカネ持ちなわけではない。金融資産の運用益だけで悠々自適の生活を送れる老人はごく一握りだ[27]。大半の高齢者はわずかな年金と貯金を切り崩しながら生活することになり、保有する金融資産は目減りしていく。カネ持ちの老人と貧乏な老人の間では、「持てる者はますます与えられ、持たざるものは持っているものまで奪われる」というマタイ効果が実現してしまう。高齢化が進めば、自然な結果として、所得格差・経済格差は拡大する。
豊かさとは、他者との比較によって実感されるものだ(※これを「隣人効果」という)。したがって、国全体がどれほど豊かになっても、国民が豊かさを実感できるとは限らない[28]。自分よりもさらに豊かになった者の姿を見れば、自分は貧しいと感じる。人間はそういう生き物だ。格差が拡大すれば、どれほど経済全体が底上げされても、「ドン底な感じ」を覚える人は増えるだろう。
さらに、老人は「危険な賭け」に出る可能性が高い。人生の残り時間が短いために、現状の社会情勢で勝利を掴むチャンスが少ない。なおかつ、あらゆる選択が1回きり囚人のジレンマに近づくため、利己的な判断を取りがちになることが予想される。
結果として、老人たちは現状を破壊したいという「グレート・リセット願望」を抱くようになり、選挙を通じてその願望を実現する。幸いにして(?)彼らは巨大な票田であり、民主主義社会では政治を動かす力を持っている。イギリスのEU離脱は、そういう「グレート・リセット願望が満たされる時代」の端緒を開いた……のかもしれない。
少子高齢化が先進国すべてに当てはまる現象なら、似たような政治的事件が世界中で起こり、国際情勢を不安定にしてしまうかもしれない。
どうすればいいのだろう?
「姥捨て山」が許された中世ならいざしらず、現代社会で老人を見捨てるわけにはいかない。年金を破綻させて、社会保障を切り下げれば、「ドン底な感じ」を味わう老人の数は増える。グレート・リセットを望む人が増えて、政治情勢はますます不安定になるだろう。
現代の先進国では、どんな貧困層も客観的には本当の「ドン底」ではない。1日1ドルで暮らす絶対的貧困に陥っているわけではなく、あくまでも相対的に「貧しさ」を感じているにすぎない。しかし、その「貧しい感じ」が社会を不安定にし、様々な問題を巻き起こすのだ。
現代における貧困とは、ただ所得のばらつきによってのみ決まってくるものなのだ。すなわち現代の貧困は、富の再分配によってのみ克服可能なのである。一定限度内での所得の強制的な平準化は、その社会の貧困を減少させ、その社会全体の幸福感を改善するであろう[29]。
──ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』
たぶん世界は、急速に不安定になっている。
個人としての対策は、どんな事件が起きても対応できるような収入源と資産を持つことだろう。少なくとも、持てるように努力することだろう。そして政治的には、できるだけ安定を保つような選択をすることだろう。
希望はまだある。すべての老人がグレート・リセットを望むわけではない。どれだけ人生の残り時間がわずかになっても、本当に思慮深く、分別があり、将来世代を思いやる心の持ち主は、決して破滅的な願望は持たないだろう。
たしかに老人たちに比べれば、私たちの票にはわずかな力しかない。
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◆参考文献等◆
[1]吉川元忠『マネー敗戦』文春新書(1998年)p22
[2]英国EU離脱で市場は大荒れ、キャメロン首相「辞任の意向」 | ロイター
[3]英離脱 円高介入、手詰まり感 日本単独効果なし G7協調は困難 (産経新聞) - Yahoo!ニュース
[4]日経平均大引け、急落 1286円安 英EU離脱派勝利で :日本経済新聞
[5]現行通貨の一覧 - Wikipedia
[6]EU離脱は自滅=日本も残留支持を-英実業家:時事ドットコム
[7]EU離脱「自滅行為」と殺害4日前に訴え-生前のコラムを英紙が掲載 - Bloomberg
[8]「イギリス国民が世界恐慌を起こしてでもEU離脱を希望した理由」 イギリス在住のめいろま氏が語る分かりやすい解説 | netgeek
[9]地べたから見た英EU離脱:昨日とは違うワーキングクラスの街の風景(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース
[10]トマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房(2014年)p328
[11]アンガス・ディートン『大脱出 健康、お金、格差の起源』みすず書房(2014年)p41
[12]スティーヴン・ピンカー『心の仕組み』ちくま学芸文庫(2013年)下p177
[13]ウルリケ・ヘルマン『資本の世界史』太田出版(2015年)p211以降
[14]トマ・ピケティ(2014年)p346
[15]トマ・ピケティ(2014年)p328
[16]トマ・ピケティ(2014年)p329~330
[17]法人税率の推移 : 財務省
[18]統計局ホームページ/労働力調査 長期時系列データ
[19]【更新】大企業の配当金と人件費の関係をグラフ化してみる - ガベージニュース
[20]【EU離脱】高齢者に怒り、悲痛な声をあげる若者たち なぜ?
[21]日本会議・日本青年協議会による学生オルグの実態――シリーズ【草の根保守の蠢動 第25回】 | ハーバービジネスオンライン
[22]コラム:米大統領選、不動産王トランプ氏人気上昇の理由 | ロイター
[23] リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店(2006年)p312~330
[24]マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』東洋経済(2014年)p259
[25]河野稠果『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』中公新書(2007年)p25
[26]統計局ホームページ/平成25年/統計トピックスNo.72 統計からみた我が国の高齢者(65歳以上)−「敬老の日」にちなんで−/I 高齢者の人口
[27]【転送】高齢者の貯蓄現在高の世帯分布をグラフ化してみる - ガベージニュース
[28]ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』日経ビジネス人文庫(2015年)下p225~231
[29]ウィリアム・バーンスタイン(2015年)下p233