ここ最近、念仏のように「神話の喪失!神話の喪失!」と繰り返してきたけれど、もしかしたら大間違いかも知れない。
成人という「監獄」に入れられる子供たち
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120112/226090/
小田嶋先生のこの記事を読んで、そう思った。
日本では儀式・儀礼が強烈に残っている。名刺の渡し方からお辞儀の角度まで決まっていて、それらをそつなくこなすことが「ビジネスマン」のステータスになる。エレベーターでの立ち位置から、酒をお酌するときの動作まで、細かなルールが整備されている。四季豊かなこの国にはふさわしくないスーツ+ネクタイを、かつては割賦払いで買う時代もあった。なぜなら「スーツを着ている」という属性が、「仕事の話ができる」というサインだったからだ。馬子にも衣装。
日本人は異常なまでに、儀式・儀礼・形式を重んじる。
儀式や儀礼、形式というモノは、社会運営のフレームワークとして発達してきた。
狩猟民族であれば狩りの後の祈りの儀式だったし、農耕民族ならば氾濫する川への人柱だった。日々の営みに組み込まれた儀式を通じて、人々は共同体としてのつながりを強固なものにしていた。時代とともに、こうした儀式は体系化され、宗教という形に収斂されていく。
宗教には含まれなかった儀礼でも、その痕跡は現在まで残っている。
たとえば裁判官の服装だ。彼らはなぜ黒の法衣を纏うのだろう。なぜ、普通のスーツとかアロハシャツにジーンズという格好で入廷してはいけないのだろう。
裁判官が「法律の運用者」という社会的役割を果たすだけのマシンなら、たぶん、あんなに仰々しい服装は必要ない。だけど彼らは生身の人間。であるがゆえに、特別な外見を以て自らの特異性を誇示しなければならない。黒の法衣は、ネイティヴアメリカンのシャーマンの化粧と同じだ。
日本では、こうした「神話の残滓」が社会のいたるところに残っている。サラリーマンにとって業務後の飲み会は、大切な儀式なのだ。若い社員を人柱にして共同体のつながりを強固なものにする、いわば祈りの時間だ。だからこそ飲み会に参加しない新入社員は「共同体の部外者」と見なされ、敵視される。人間関係の構築を儀式に頼ってきた人たちは、それなしでは生きられなくなってしまう。
儀式・儀礼・形式――。これらを産み出すのは、社会の根底に流れる人々の共通認識:すなわち神話である。日本の神話は無くなっちゃいないのだ。
しかし、だ。
そういう古くさい神話に身をゆだねても、もはや私たちは幸せになれない。日本の神話は力を失い、私たちを導けなくなった。そういう意味では、やはり神話は喪失しているのだろう。社会環境が著しい速さで変化している時は、社会のフレームワークもまた、変化から逃れられない。
問題なのは、日本は「神話の喪失」をしているにもかかわらず、なぜ儀式・儀礼・形式だけが残ってしまうのか、だ。
冒頭の小田嶋さんの記事では、その点をするどく分析していた。儀式に参加する人があまりにも多く、取りやめるとその人たちが損失を被るからだ。「社会」のつながりを規定するモノとして、儀式はいまでも機能している。が、その「社会」に若者の姿はない。
つまり日本の儀礼は、共同体を活性化させるものではなく、「古い社会」を維持するために形骸化して生き残っているだけなのだ。いまの神話は、私たちの人生を導くものではなく、既得権者を守るためだけのものに成り下がってしまった。
このような「神話」と「儀礼」との乖離が、私たちの閉塞感の原因だ。
やはり私たちには、新しい神話が必要なのだろう。
形骸化した贅肉をひとつずつそぎ落として、私たちの社会にとってほんとうに必要な価値観だけを残し、1から組み立て直すのだ。思想の不連続やオリジナル信仰は、私たちの悪いクセ。だからゼロからではなく、1から。
ヒトは道に迷ったときほど、神話や物語を求める。
願わくば、ゼノフォビアやレイシズムに満ちた愚かな神話に染まらないことを。
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【追記】いわゆるアニメの「聖地巡礼」は新時代の儀式だ。あと震災直後に自発的に行われた「ヤシマ作戦」も、うまくすれば新しい儀式になりそうだと思った。ここ、笑うところです。