ヨンホは目を覚ました。
両親は寝静まっているようだ。平壌の冬は冷える。カーテンの隙間から差し込む月明かりに、吐く息がぼわりと白く照らされる。このマンションには、お婆ちゃんちのような床下暖房(オンドル)がない。ヨンホは寒くてイヤなのだけど、お父さんは「この街に暮らせることはとても名誉なことなのだ」と言っていた。いつか、お父さんのように立派な人民軍になりたい。この寒さはきっと、ヨンホを鍛えてくれる。だから、がまんしなくちゃ――。
そんなことを考えて、後ろめたさをごまかした。そっとベッドから出る。床は飛びあがるほど冷たかったけれど、ヨンホは歯を食いしばってこらえる。いけないことをしている罰だ。毛布で体をくるむと、足音を忍ばせてリビングに向かった。
この国の平均からすれば、豪勢な部屋だ。といっても、冷蔵庫と食器棚、壁には金日成の肖像画があるだけで、他には何もない。ソファの向かい側には、古いブラウン管のテレビ。隣国ではとっくに廃れた型だけど、ヨンホは知る由もない。
両親の寝室を振り返って、耳をすました。
二人の起きてくる気配がないことを、何度も、何度も確かめる。
テレビの前にしゃがみこんだ。床の近くには冷気が溜まっている。ヨンホは毛布をかき合わせる。二十三分間――。そう、たった二十三分間だ。平壌の長い冬に比べれば、一瞬のように短い時間だ。その間だけ、お父さん、お母さん、どうか目を覚まさないで――。
かじかむ手をこすり合わせて、ヨンホはテレビに指を伸ばした。ぶつん、と驚くほど大きな音がして、ブラウン管に光が灯る。あわてて音量を一番小さくして、チャンネルを秘密の周波数に合わせる。学校では、すでにうわさになっていた。大人は知らない、子供だけの秘密。
ざらつくノイズが途切れた。砂嵐が消えて、画面が像を結ぶ。
心臓がどきどきしていた。見つかったら、どれだけひどく怒られるかな――。想像すればするほど、恐怖よりも快感がわいてくる。大丈夫、きっとバレやしないさ。だって僕らは優秀な人民軍の卵だもの――。
華やかな音楽と共に、青い海原の絵が映し出される。かわいらしくデフォルメされた帆船の絵と、麦わら帽子の少年、不敵な笑みを浮かべる海賊の仲間たち。
――ありったけの夢をかき集め、捜し物を探しに行くのさ!
絞り切った音量で、主題歌が流れてくる。ハングルの字幕を目で追いながら、気付けばヨンホも鼻歌を歌っていた。ヨンホは寒さを忘れた。両親に見つかる心配も、意識の外に消えた。画面では麦わら帽子の少年が、「正義」を掲げる敵と対峙している。主人公は海賊だから、正義の側から追われる身なのだ。敵の姿が憎き米帝と重なって、ヨンホは胸がすっとする。いいぞ、やってしまえ――!
月明かりだけの薄暗いリビング、ブラウン管の前にしゃがみこみ、毛布で体をくるんで。
ある年の冬、子供たちは秘密の番組に夢中になった。
◆ ◆ ◆
死は、生存以上にその人の存在感を示すものだ。
最近ならマイケル・ジャクソンの「再発見」がその最たる例だろう。日本ではすっかり下火だった“スーパースター”は、死によって蘇った。私たちは彼のすばらしさを再発見した。遺作となったドキュメンタリー映画『THIS IS IT』は飛ぶように売れ、有線放送は今でも一日に一回はジャクソン・ファイブを流している。あるいはスティーブ・ジョブス。今年もっとも惜しまれた故人だ。彼の「Connecting the dots」というスピーチは有名すぎるほど有名だが、訃報の直後にはふたたび再生数を伸ばしていた。死はその人の存在を、みんなの記憶に焼きつける。
これは何もヒーローたちだけではない。オサマ・ビンラディン、カダフィ大佐、そして金正日。生前の彼らがしてきたことを、私たちは「死亡のニュース」をきっかけに思い出す。
とくに北朝鮮との関係は、私たちに日本人にとって、いつか解決しなくてはいけない「宿題」だ。日本から脱出できるノマドの人には関係ないかも知れないけれど、この国に骨をうずめる多くの日本人にとっては、頭上にぶら下がった火薬樽だ。北朝鮮はすでに核兵器も、それを飛ばすロケットも所持している。米ソ冷戦時代ほどではないにせよ、私たちは核攻撃の可能性にさらされながら暮らしている。
どうすれば、その可能性をなくせるだろう。あの国の独裁体制を崩し、国際社会からの孤立を取り除き、日本や韓国との関係を正常化させることができるだろう。
普段は忘れかけているけれど、この機会に少し考えてみたい。
◆
日朝問題のいちばんやっかいな部分は、相手があまりにも小さい国だという点だ。
向こうには失うものがない。いざとなれば、なりふり構わず攻撃に転じるだろう。だから周囲の経済大国は、圧力をかけたくてもかけられない。経済制裁にせよ武力にせよ、やりすぎれば反撃を招く。
どうあがいても滅亡するのならいっそ――という選択肢が相手側にはある。一方、周囲の大国はどうか。万が一、戦争状態になったとしても“うまみ”がほとんどない。無駄に兵士の――国民の命を危険にさらすだけだ。開戦するという選択肢が、大国側には最初から存在しないのだ。したがって相手に強硬策を打ち出された場合、大国の側が譲歩せねばならなくなる。
この「小国であるがゆえに大国に対して交渉で勝利できる」という現象は、ゲーム理論ではとてもよく研究されている。どんな教科書を開いても「瀬戸際戦略」というキーワードと一緒に最初のほうに載っているはずだ。
日朝間の交渉で日本が常に「敗北」するのは、こういった構造的な原因がある。日本の外交手腕うんぬん以前の問題なのだ。この構造を変えない限り、日本は永遠に北朝鮮の言いなりだ。
私たちの感情としては、北朝鮮のむちゃくちゃな要求を日本政府が飲むたびに「いったい何をしているんだ!」という気持ちになる。こちら側も、もっと強硬策で応えるべきじゃないの? と。たしかに中学生同士のケンカなら、売り言葉に買い言葉で殴り合いになっても、せいぜい前歯を折るぐらいで済む。しかし国家間ではそうはいかない。外交は子供のケンカではない。私たちは平和的な戦略を――妥協策を採るしかない。
変えるべきは外交政策ではなく、国際構造なのだ。
◆
じつはかつて、この「構造」を変えようとした政策があった。金大中・盧武鉉時代の韓国が行っていた「太陽政策」だ。北朝鮮をイソップ物語の『北風と太陽』に登場する旅人にたとえて、冷たい風(=経済制裁などの圧力)ではなく暖かな日差し(=手厚い援助)によって態度を軟化させ、南北朝鮮の統一を目指す――というのが大儀名文だった。国内の若者の失業を差しおいて、韓国は北朝鮮にせっせとカネを貢いだ。まるで北朝鮮の体制を応援しているかのように――。
当時の韓国はアジア通貨危機のあおりから回復しておらず、もしも北朝鮮から大量の難民が押し寄せるようなことになれば、経済も社会秩序も崩壊するだろうことが目に見えていた。北朝鮮の体制維持に手を貸す理由があったのだ(そしてこの構図は、現在でもあまり変わっていない)。太陽政策は、北朝鮮の核開発が発覚したことで幕を閉じる。韓国の渡したカネで北朝鮮は豊かになるどころか、大量破壊兵器を作っていた。
ところが太陽政策の過去に目をむけると、最初のころはかなり本気で「支援による融和」を目指していたようだ。太陽政策のおおもとをたどると、南北分裂直後の「先建設後統一政策」に行き着く。これは「韓国側が先に発展を遂げて、圧倒的な経済力を武器に統一を図ろう」というコンセプトの一連の政策を指す。
先建設後統一政策にもとづき、韓国の歴代大統領による北方政策が執り行われてきた。まずは北朝鮮とつながりの深い中国との関係改善に力が注がれた。中韓での貿易を拡大し、その規模は1985年には中朝貿易を上回った。また90年にはソ連との国交を樹立。共産圏を巻き込んだ北朝鮮の包囲に成功し、同年、南北の首相会談こぎつけている。1991年、南北基本合意書を締結。北朝鮮にとって韓国は、中国に次ぐ貿易相手国になる。
共産圏の国々とともに北朝鮮を外向的に包囲し、また北朝鮮の韓国に対する経済依存度を高めることで、最終的な南北統一を目指す――韓国の北方政策はここで完成した。
94年には南北首脳会談も決まった(が、これは金日成の急死により実現しなかった)。2000年からは離散家族再開事業が始まり、2002年には小泉純一郎首相による日朝首脳会談が行われた。牛歩かもしれないが、しかし確実に北朝鮮の態度は軟化を続けていたようだ。
2006年、2009年に北朝鮮は核実験とミサイル発射実験を行う。これにより周辺国との関係は一気に緊張した。このまま軟化を続けたら国家の体制が本当に溶かされてしまうという危惧が、北朝鮮にはあったのかもしれない。
繰り返しになるが、いちばん良くないのは北朝鮮側の挑発に乗ってこちらまで強硬策を採ることだ。相手が子供じみた態度を見せるほど、私たちは大人の態度で応えなければいけない。
大国と小国の交渉は、構造的に小国が勝利する。問題を解決するには外交政策を変えるぐらいではダメで、関係性そのもの・構造そのものを変える必要がある。その点、韓国の「先建設後統一政策」は一定の成果をあげたように見える。しかし無分別にカネを渡すだけでは、相手の増長を招くだけだった。
強硬策もダメ、行き過ぎた援助策もダメ――。
ほかに打つ手はないのだろうか。
◆ ◆ ◆
小学校の教室は、朝は指先が痛くなるほど冷える。ストーブの周りに子供たちが群がっていた。先生はまだ来ていない。
――ねえ、見た?
――見た見た。昨日もすっごく面白かった。
ヨンホたちは声をひそめて、昨夜の感想を交換する。あの番組は、学校で見せられるどんなアニメとも違う。うまく言葉にできないけれど、登場人物のセリフや行動一つひとつがヨンホたちにとっては新鮮なのだ。
野蛮な米帝の兵士や堕落した日本人を将軍様の知略で打ち負かす――この国の映画やアニメは、みんな同じ筋書きだ。だけど真夜中のあの番組には、それが当てはまらない。見てはいけないものを見ている――。口には出さないけれど、子供たちはみんなそういう気持ちを抱いていた。
だけど見るのをやめられない。だって続きが気になるから。
「来たぞ!」
廊下側のドアに貼り付いていたサンジュンが、小さく叫んだ。彼は今日の“見張り係”だ。その声を合図に、子供たちはストーブから四散する。慌ただしく席に戻って、先生の到着を待つ。椅子の冷たさに、ヨンホは飛び上がりそうになる。いつも通りの朝の光景。
「おはようございます――」
このクラスの担任は、銀縁メガネのお兄さんだ。彼の神経質そうな声が、今日はなぜか震えていた。
「おはよう、諸君」
先生の後ろから、軍服姿の大男がドアをくぐるようにして入ってきた。バッジを一目見ただけで、すごく偉い人なのだと分かる。ヨンホはクラスメイトと目配せを交わした。(一体なんだろう――)私語を慎むべきだと、とっさに判断する。
「諸君も知っての通り、我々はいま強盛大国の大門を開き、革命偉業を成し遂げる戦いのさなかにある。敵はあらゆる手をつくして、我々を堕落させ、この崇高な目標を頓挫せしめんとするだろう。しかし、諸君。我々は高潔な魂をもって、敵の卑劣な謀略を撥ねのけねばならない」
朗々とした声が教室に響く。難しい言葉が並んでいるけれど、意味なんて分からなくてもいい。物心ついたころから、繰り返し聞かされてきた。勝利の日は近い――。
「さて諸君。このところ、深夜に“秘密の番組”が流れているそうだが、知っている者はいるか?」
ヨンホたちは、さっと目を伏せた。先生が口を開く。
「もしも見たことがあるという人がいたら、手をあげなさい」
青ざめた顔だった。「もしも」も何も、このクラスであの番組を知らない生徒はいない。子供たちはみんな、海賊王を目指す少年の物語に心躍らせていた。だけど大人には秘密にしなくちゃ――。
「ぼ、僕は」声のほうを見ると、サンジュンが恐る恐る手を上げていた。ゴクリとつばを飲みこむ「見たことがあります。えっと、その……一度だけ……」
「恥を知れ、愚か者ッ!」
突然の大声に、子供たちはびくりと肩を揺らした。サンジュンの言葉にはウソがある。彼はクラスの誰よりもあの番組を見ていて、登場人物の名前もセリフも熟知している。「見てはいけない」という気持ちが、ヨンホよりも弱かったのかも――。
「こっちに来い」とバッジをつけた軍人さんが言った。サンジュンは一瞬、虚をつかれた表情をする。相手は怒鳴った。「貴様には特別な指導が必要だ! こっちに来いと言っている!」
「はいッ!」
跳ねるように返事をして、サンジュンが教室の前に出た。こわばった表情を浮かべ、視線が宙を漂う。ふと横を見れば、先生は泣きだしそうな顔だった。大きな手がサンジュンの肩を掴む。クラスメイトの姿を、ヨンホは息を飲んで見つめていた。
「いいか貴様ら! あの番組は蛮国の低劣なものだ。あのようなものを見ていれば心が腐り、誉れ高き人民軍の兵士にはなれなくなるッ! 唾棄すべき卑俗なものだと知れッ!」
こぶしを振り上げ、黒板を叩く。教室が揺れた。
「そもそも我々はチェチェ思想の先兵として、祖国解放の偉業と、輝かしい革命的勝利を完遂せねばならない! あのような愚劣な番組を流すなどという敵の挑発策動を、我々は断固として粉砕せねば――」
ふっ……と、ヨンホは声を遠くに感じた。
誰かに怒鳴られるときはいつもそうだ。冬の夜の白い息に包まれるように、ヨンホは誰からも見えない存在になる。野生動物が木のうろで嵐をしのぐように、ヨンホは心をもやで覆って、大人の怒りが収まるのをじっと待つ。
麦わら帽子の少年が目に浮かんだ。彼を取り囲む仲間たちの姿を思い浮べた。正義をかたる大人たちと闘い、彼らはことごとく勝利していた。敵の姿は、まるで米帝のようだと思った。けれど、それだけじゃない。「正義」を掲げているのは――本当は――。
――ありったけの夢をかき集め、捜し物を探しに行くのさ!
僕たちの夢ってなんだろう、ヨンホは自問する。くもりガラスの向こうでは、まだ誰かが声を荒げている。意味のよく分からない、難しい言葉をならべて。
その声を遠くに感じる。
子供たちはそっと、こぶしを握る。
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>ゲーム理論研究者・渡辺隆裕先生のページ。
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