小学生のころ、障碍者養護施設の見学に連れて行かれたことがある。教師の先導で“恵まれない人たち”の生き様を学びながら、映画でも見ているような気持ちになったのを覚えている。社会科見学は非日常の時間だ。目の前の現実が、日常と地続きのものだと思えなかった。
私たちの知りうる世界は、たぶん自分で思っているよりもずっと狭い。私たちは半径5メートルの日常を生きるのに精一杯で、その外にいるヒトのことを忘れがちだ。駅の自動改札を抜けるとき、(左利きの人には不便だろうな)と思う人がどれだけいるだろう。台所で皿を洗うとき、(男には低すぎるだろうな)と気付く人がどれだけいるだろう。私たちは他人の存在に鈍感な生き物だ。世界は分断で満ちている。
歴史上の支配者たちは、この分断を巧みに利用してきた。「よく知らない人」同士をいがみ合わせることで治世への不満をそらし、手をたずさえればすぐに解決できる問題を、先送りにさせてきた。
世の中には変化を嫌う人がいる。「おいしい立場」にいる人は十中八九、変化を嫌う。
かつては、分断を修復するには「強いリーダー」の存在が不可欠だった。声の大きな誰か・人心を掴める誰かに「あそこを目指せ」と指示されなければ、私たちは同じ目的を共有することさえできなかった。私たちの間に横たわる「分断」はそれだけ深く、高いのだ。よく知らない相手と対峙したとき、私たちはすぐに敵対心を持ってしまう。
けれど時代は変わった。
「誰かのことを知る」のは極めて簡単になった。どんな社会のどんな層に属していようと、クリック1つで当事者の声に直接アクセスできる。ネットが縮めたのは物理的な距離だけではない。情報技術の進歩は、あらゆる分断を無くそうとしている。もはやリーダーなんていなくても、私たちはお互いを理解し、目的を共にすることができるだろう。
必要なのは、ほんのちょっとの好奇心だ。
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尊敬するブロガーのちきりん先生が、こんな記事を書いていた。
世界は分断されている
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111220
平日の美術館には高齢者と女性しかおらず、「働き盛りの男」を見かけない。二子玉川は専業主婦で溢れているし、最近の自分の周りにはフリーランスの人ばかりが集まってくる。この社会は様々な階層・集団で分断されているよね――と、いつもながら素晴らしい気づきを与えてくださる。
たとえば現在、東京在住者のうち30人に1人は外国人だ。もしもあなたが東京に暮らしており、まんべんなく人間関係を築いていたとしたら、あなたのケータイの電話帳は30人に1人が外国人になるはずだ。そうでないとしたら、あなたの人間関係が偏っている証拠だ。
偏りのない人間なんていない、重要なのは自分の偏りに気づけるかどうかだ。世界は分断で満ちている。
では、分断のなにが悪いのだろう。
たとえば黒人解放運動が盛んだったころのアメリカには、「名誉黒人」なる層がいたらしい。黒人でありながら、白人に近い権限を与えられていた人々だ。白人たちは、名誉黒人とそれ以外の黒人との対立をあおることで、奴隷制度そのもののおかしさから目をそらさせていた――らしい。分断の典型的な例だ。キング牧師ら指導者たちは、こうした分断を一つひとつ取り除きながら、奴隷解放という偉業を成し遂げた。
私たちは分断されることでチカラを失う。
もっと身近な話をすれば、日本の労働組合がいい例だ。分断のせいで「労働者の味方」という本来の意義を見失い、形骸化した既得権保持組織になってしまった。
諸外国では職業別の労働組合が多いらしい。それに対し、日本の労働組合は企業別で組織されいる。企業と一蓮托生なのだ。会社側からどんなにむちゃくちゃな要求を突きつけられても、「でも会社が倒産するよりマシでしょう?」と迫られたら言い返せなくなってしまう。
ひどい労働条件を提示されたとき、職業別労働組合であれば「もっと条件のいい会社にうちの組合員を移籍させます」と交渉できる。企業別の組合は、切れるカードを最初から一枚封印しているのだ。ストライキか、それとも会社の言いなりか――実際には複雑で微妙な交渉が行われているのだろうけれど、理屈のうえでは日本の組合には2つの選択肢しかない。「協調路線」という耳障りのいいスローガンを掲げた社畜どもの群れになってしまうのも無理ないだろう。対立路線の組合は、はぐれメタル並みに珍しい存在になった。
さらに問題なのは、こうした企業別労働組合の多くが、その企業の正社員のみで構成されていることだ。
日本の非正規雇用者は増えており、現在では労働人口の35パーセント以上を占めている。労働者のうち三分の一を締め出す組合は、果たして“労働”組合と呼べるのだろうか。「正社員のための組合」は、もはや労働組合というよりも、既得権益者組合と呼んだほうがいい。(注釈:それでも無いよりマシです。組合のあり方については再考していただきたいですが)
テレビでサムスンに負け、情報技術でシリコンバレーに負け――日本は様々な分野で世界一の座を明け渡してきた。が、労働時間だけは堂々の一位を独走している。過労死、鬱病、自殺――。日本の労働環境は過酷そのものだ。そうした環境がどうして形成・維持されてきたのか。
反感を恐れずに断言しよう、処遇改善を訴えることのできない企業別労働組合のせいだ。
なんでもかんでも雇用者に食ってかかる労働組合がいいとは思わないが(イギリスの電車や飛行機はストライキでしょっちゅう止まる)、かといって労使の緊張関係が損なわれた組合なんて百害あって一理なし。大人たちの作った労働環境のせいで困るのは、子供や孫の世代だ。
日本の労働者は、企業別に分断されてきた。今では正社員・非正規の分断が加わった。「もっといい条件で働きたい」――目指すものは同じはずなのに、分断のせいで実現できずにいる。分断は私たちからチカラを奪い、社会を硬直的で保守的にしてしまう。笑っているのは「おいしい立場にいる人たち」だけだ。
一緒になって笑うために、私たちは分断を乗り越えなければならない。
かつてなら、私たちは「強いリーダー」がいなければ分断の存在に気づけなかった。分断を乗り越えるには、誰かの号令が不可欠だった。
なぜなら私たちは、他人の存在に鈍感な生き物だからだ。他人の不幸をリアルなものとして感じるのは難しく、蜜の味である場合のほうが多い。社会科見学で障碍者施設に行ってもリアリティを感じられず、部落や在留外国人の問題は歴史教科書のなかのできごとだ。
今日もどこかの週刊誌が「日本の若者は恵まれていない」と書いているだろう。それを読んだ中高年の読者は「まあ可哀想」と思うだろう。あるいは「けしからん世の中だ!」と憤ってくれるかも知れない。しかし、それで終わりだ。大衆は悲劇を好む。不幸な若者の物語はコンテンツの1つとして消費され、問題は永遠に解決しない。中高年と若者とが分断されているからだ。
社会科見学や週刊誌、テレビニュース――第三者から受動的に与えられる情報では、分断は埋め合わせられない。強いリーダーの「あいつを倒せ」という号令がなければ、分断された同士が手をとりあって行動することなどできなかった。デモ・ビラ配り・拡声器――押しつけがましい情報に、私たちの心は動かない。かといって敵役の「誰か」を倒すことだけが社会の変革だとも思えない。
私たちは他人のことをよく知らない。誰かが「おいしい思い」をしていると知ったら、全力でその人を引きずり降ろそうとする。低位に向かって終わりない足の引っ張りあいをしているのが、いまの私たちだ。「そんな不毛なことはおやめなさい」と指摘できる本物のリーダー・本物の指導者も現れない。
分断がある限り、私たちは「みんなで不幸になろうキャンペーン」を続けるしかない。
だけど、時代は変わったのだ。
思い出して欲しい。
エジプトのデモに参加した人のつぶやきを、私たちはリアルタイムで読んでいた。大地震の被災者と夜ごとに語り合い、彼らの窮状を知った。なでしこジャパンの勝利を祝う声がTLを、スレッドを、ウォールを埋め尽くし、ロンドンの暴動を現地在住者が事細かに伝えた。物理的な距離を飛び越えて、世界90カ国を超える国・地域で「反格差デモ」が行われた。原発労働者と直接対話した。大企業役員の日常を垣間見た。若き起業家の苦悩を、就活生のとまどいを、小学生の素直な本音を、私たちは知った。
「誰かのことを知る」のは、こんなにも簡単なのだ。
もはやリーダーなんていなくても、私たちは社会的な「分断」を乗り越えられる。お互いの声を聞き、理解し合うことができる。必要なのは私たち一人ひとりが「知りたい」と思うこと。ほんのちょっとでもいいから、お互いに興味を持つこと。それさえできれば、立場を乗り越えて目的を共有することだって、きっと不可能じゃない。
あなたの好奇心は世界を変える。
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東大エリートの『名誉若者』論に巻き込まれるのは御免です
http://busidea.net/archives/3725
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