デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

もうイヤだ日本の政治家バカばっか!

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr




インドネシア共和国・ユドヨノ大統領の経歴がすごい。(※1)
陸軍士官学校首席で卒業後、米国に留学してMBAを取得。「陸軍きっての秀才」と呼ばれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ停戦監視においては国連軍の主席軍事オブザーバーを務めた。2004年に同国初の民主的選挙によって大統領に就任し、同年、ボゴール農科大学に博士論文を提出して農業経済博士号を授与される。しばしば「政治家よりも学者のほうが向いている」と言われるほどの知性派だ。
1998年のスハルト政権崩壊後、インドネシアの経済は地に沈んだ。独裁政権による開発政策でゆるやかに成長していた同国は、民主化直後の混乱によって不景気のドン底へと突き落とされた。その後7年ほどは新しい政治体制を整えるのに手いっぱいで、経済は低空飛行のままだった。
しかし、ユドヨノ大統領の選出により民主化が完了し、とてつもない勢いで成長を取り戻している。もともと豊かな鉱物資源と肥沃な土壌を持ち、2億人超という巨大な人口を抱えている。近年では教育にも力を入れて、識字率は急上昇している。優秀な政治家さえいれば、豊かになって当たり前の国なのだ。独立路線を貫くためにODAの受給額は減らし続けている。インドネシアの「貧しくて可哀想な南の島」というイメージは、もはや過去のものになった。
そして「優秀な政治家」とは、まさにユドヨノ大統領のことだ。
知性的で、勤勉で、なおかつ新しい時代を切り開く野心家でもある。学歴が華々しいだけでなく、政治体制を安定させ、経済成長の筋道をつけた。経歴からいっても実績からいっても、文句なしのエリート。それがユドヨノ大統領だ。



くらべて日本の政治家のなんと情けないことか。
最近では某政党の総裁選が話題だが、候補者の顔を見ると暗澹たる気持ちに襲われる。親の七光りがなければ何者にもなれなかったボンクラばかりではないか。
日本では「東京大学」の名前が権威になっている。だから、たかだか学部卒の(※世界の優秀な政治家と比べれば)低学歴な人間でも、「東大卒」というだけで有権者たちは票を入れる。卒業後、一度も社会経験を積まずに官僚になった戦時中生まれの人物に、21世紀の人間社会や世界経済のことが分かるとは思えない。
あるいは砂丘しかないド田舎で生まれ育ち、有名私立大学を卒業後は“腰掛け”で銀行に数年間だけ勤務、親のコネで政界入りしたボンボン。同じく有名私立を卒業し、芸能人一家の出身というネームバリューだけで政治家になった男。親に負けじと東大を卒業したのはいいものの、就職先の商社には5年しか勤務できず、クソ田舎の実家で親の会社を手伝いつつ、自分探しのために米国留学へと旅立った男。そして極めつけは、小学校から大学まで二流私立をエスカレーター式で卒業し、米国へ留学したものの語学学校しか卒業できずに帰国、親の力で就職した製鉄会社はわずか3年しか続かなかった根性なし……。
揃いもそろってボンクラばかりだ。
それでも彼らの支持者たちは、「○○大臣を歴任して〜」とか「△△という新しい政治運動に取り組んで〜」とか、彼らの“実績”を評価しようとする。しかし彼らが政局争いに明け暮れているあいだ、日本は「失われた20年」を過ごしてきた。一体どこに“政治家としての実績”があるのだろう。できの悪いジョークかよ。



日本では、本当に優秀な人は政治家を目指さない。
頭が切れて行動力もある人は、たとえば起業して、世界を股にかける商売人を目指す。あるいは国際機関やNGOの職員、ジャーナリストとして世界中に散らばっていく。世界的な名声や評価のほうが魅力的だからだ。
その次に優秀な人々は、あの手この手を使って高等遊民を目指す。働かなくても悠々自適な生活ができるよう手を尽くす。
その次は「普通の人」だ。それなりの就職先で、こつこつと人並みに働く――。日本では、賢い人ほどそういう地道な生き方を目指す。



では、政治家になるのは?



インターネットを通じて世界人口の1/3と直接対話することができ、成田空港から一夜で地球上のどこにでも行ける時代だ。日本国内という小さな範囲から得られる名声で満足できる:政治家を目指すのは、そういうツマラナイ人間だ。まじめにコツコツと働くこともできず、かといって世界を股にかけるほど優秀ではなく、高等遊民を目指せるほど器用でもない。どうしようもないボンクラたちが日本では政治家になる。
たまたま親が政治家でなかったら、何者にもなれなかったようなやつらなのだ。
彼らに経済的・経営的なセンスがあるわけがない、あれば事業を起こして成功しているはずだ。弱者の痛みも分からない、なにせ“名士”の息子たちだ。生まれも育ちも支持基盤も地方都市の彼らに、グローバル化する時代の“国際感覚”など望むべくもない。田舎のシャッターだらけの駅前で、わずかな支持者から拍手喝采されて満足する。どこまでもドメスティックな男たち――それが日本の政治家だ。
せいぜい田舎の土建屋にカネ集めの道具として利用される程度の能力しかないのだ。




       ◆




日本では優秀な人ほど、政治家を目指さない。政治家という職業が魅力的には見えないからだ。実力次第で世界のどこでも生きていける時代、本当に優秀な人はわざわざ国内で名声を得ようとは思わない。そういう名声を欲しがるのは、たとえば極貧家庭に生まれて、周囲を見返したい一心で弁護士を目指すような男ぐらいだろう。しかし周囲を見返す手段として日本の弁護士を選ぶ時点で、視野狭窄なのは明らかだ。
情報技術と航空技術の向上により、地球は小さくなった。グローバル化が進めば、人々は国境を越えて活動を広げていく。端的にいえば、「国民国家」という枠組みが崩れようとしている。この時代に「国民の代表」を目指すのは、親や家族に恵まれたボンクラたちだけだ。
日本に“優秀な政治家”が現れない理由は分かった。ここまでは現状分析だ。では、打開策は? と、訊かれると、私は腕組みをして「うーむ」と首をひねってしまう。
ようするに「政治家」が魅力的な職業になればいい。優秀な人々が、もろ手を挙げてやりたがるような職業になればいい……。



でも、一体どうすれば?



ひとつ考えられるのは、国際社会における日本のプレゼンスを向上させることだ。
インドネシアに話を戻せば、同国は東南アジア地域の“リーダー”としての地位を固めつつある。将来的には、中国に次ぐアジアの大国になるかもしれない。インドネシアの大統領になるということは、アジア史に名前を刻むということだ。だから日本の政治家とは比べものにならないようなエリートたちが、政治家をめざしてしのぎを削っている。あるいはアメリカ大統領ならば分かりやすい。あの国のリーダーの座につけば、良くも悪くも人類史に名前が刻まれる。
ひるがえって、日本のリーダーはどうだろう。橋本龍太郎は消費税の増税で悪名高いが、では彼の2人前の総理大臣は? というクイズに即答できる日本人が何人いるだろう(※2)。日本国民ですら、歴代総理大臣の名前をうろ覚えではないか。
国際社会において、日本の政治的な存在感は薄い。
だから日本の国民の代表になっても、人類史には名前が残らない。ドメスティックな名声しか得られない。国際的な日本の評価を高めているのは、たとえば政治面では国際機関やNGOの職員、ボランティア、文化面では漫画家や映画監督、スポーツ選手などの草の根の人々だ。そして経済面ではトヨタ、ホンダ、ソニーユニクロ……。いずれも政治家の仕事ではない。
だからこそ、国際社会における日本の「政治」の存在感を高めなければいけない。アメリカの属州としてではなく、また隣国からの軽はずみな挑発には乗らず、理性的で毅然とした外交政策に取り組んでいかなければならない。そうやって世界における日本政府の発言力を増していくことができれば、「政治家」という職業は魅力を取り戻せるはずだ。
しかし、そういう外交政策が行えるほど優秀な日本人は、もはや政治家など目指さないのだ。
……あ、詰んでね?







※ この記事では「ボンクラ」と書き殴りましたが、この発言を撤回せざるをえないほどすばらしい政策を行っていただけるよう、政治家の皆様のご活躍に期待しております。


ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(上) (講談社文庫)

白痴 (上巻) (新潮文庫)

白痴 (上巻) (新潮文庫)

どん底 (岩波文庫)

どん底 (岩波文庫)




(※1)なんか最近インドネシアの話題ばかりな気がするけど、たぶん気のせい。
(※2)正解は羽田孜。少なくとも私は即答できない。