茶髪から見た差別社会日本
http://anond.hatelabo.jp/20100623200427
上記エントリーの書き手は、生まれつき髪の毛が茶色いらしい。で、しばしば「黒髪のほうがいいよ」と言われる。これって差別じゃないの? というのがこの人の主張だ。この記事のコメント欄が笑える。「差別じゃない!」と反論している人は、きっと身に覚えがあるんだろうなあ。
>「俺は別に気にしないけれど、社会にはうるさい人もいるから……」
ほら、あなたの隣にも居ませんか、こういうセリフを言う人。「俺は別に気にしていない〜」というのは、たぶん嘘だ。本当は気になるのだけど、自分の意見として発言すれば角が立つ。だから、どこの誰かもわからない「うるさい人」へと責任転嫁しているだけだ。
なぜ茶髪を悪いものだと考える人がいるのだろう。私たちはもっと自由でいいはずだ。こういう「普通でない人を許容できない心」は、どうして育つのだろう。
諸悪の根源は学校の制服にある。
制服があるからと言って、規律の守れる人間は育たない。仮に育つとしても、いきすぎた規範意識はむしろ害になる。制服はスクールカーストを可視化するだけだ。制服は不合理の塊であり、今すぐに廃止すべきだ。
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1.制服の大義名分
制服を着せる一番の目的は、規律正しい人間を育てることだ。たとえば防衛大学に制服があるのは、軍事活動では規律が重視されるからだ。現代の学校教育は、産業革命のころに基本的なスタイルが確立した。時間割厳守、個人差を無視した授業。こういった方法は「工場で働く人」を育てるのには適していた。制服を着せるのも、この延長線上だ。
だが経済成長の進んだ国では、工場労働者にさえ「カイゼン」という創意工夫が求められる。もはや規律を守るだけでは不充分であり、むしろ常識を覆すことのできる人が必要だ。
しかも制服を着せたからと言って、規律正しい人間は育たない。だってみんな着崩すじゃねーか。この点については後述します。
制服を着せる大義名分その二。生徒の管理を容易にするためだ。「高校生がタバコを吸っていた! あの制服は**高校だ! 学校に連絡を入れろ!」というのはよくある話。あるいは修学旅行のような場合にも、制服があると便利だ。
が、これも変な話だ。そもそも学外での生徒の行動にまで、学校は責任を負うべきなのだろうか。本人とその親の責任のほうが重い。それに小学校の先生は、遠足で迷子を出さないよう細心の注意を払う。中高生よりもはるかに幼い子供を、制服に頼らず管理している。したがって「生徒の管理に制服が必須だ」という意見は成り立たない。
制服を着る側の立場で考えてみよう。制服を「着たい」と考える生徒は、一定数存在する。とくに女子には多いんじゃないかな。私は私服高校の出身だけど、同級生の中には他校の制服を着ている人もいた。ファッションとしての制服には大賛成だ。
私が問いたいのは、“みんなで着る必要があるのか”という点だ。着たい人がいるからといって、服装を強制する理由にはならない。
2.見当はずれな規範意識
制服にはメリットがない。それどころか、間違った規範意識を生み出し、息苦しい社会の原因となる。
駅のホームを見れば分かる通り、大多数は制服を着崩している。きちんと着ているのは、ごく一部のクソ真面目な生徒だけだ。校則を守らないのがマジョリティである以上、制服は、規律正しい人間を育てることには役立たない。いわゆる「不良」とカテゴライズされる層の生徒は、さらに着崩しかたが激しくなる。注目したいのはここだ。「制服をどれだけ着崩しているか」によって、スクールカーストが可視化される。制服は一種のものさしとして機能する。
私服高校にも、歴然としたスクールカーストは存在していた。しかし見た目で判断するのは不可能に近い。たとえば運動部に所属する生徒は、普通ならばスクールカーストの上位に位置するはずだ。が、スポーツ用品に金をかけているため、私服は安っぽかったりする。その一方で強烈なオタク趣味を持つ人間がファッションに目覚めて「服オタ」と化す場合もある。私が高校生の頃は「裏原」「きれい目」大流行の時代。でも教室を見渡せば、B系からモード系まで多種多様な服装で溢れていた。お兄系は生まれたばかりだった。ガイアはまだ囁いていなかった。
もちろん、一つの系統のファッションを突き詰めるような生徒は少数だ。大多数は中間層で、その日の気分によって服装を変えたり、もっと気楽に過ごしていた。どうしても着るものが無いときはジャージだ。要するに、ものさしが多様だったのだ。「こういう服装だから、こういう人」という判断ができなかった。
その一方で、制服のある学校ではどうだろう。私も中学校の三年間は制服を着ていた。「どのように制服を着ているか」で、その人の性格や立ち位置がおおむね把握できた。白い靴下を履き、フケで背中が白くなっているような生徒は、不良っぽい生徒にいつもヘコヘコしていた。ものさしが一本しかないからこそ、人を外見で判断できる。そんな環境にいれば、「自分と外見の違う人」を許容できなくなるはずだ。
ものさしが一本しかないからこそ、他人と同じ格好をする。
学ランの下に色つきのTシャツを着るのは、本当にそれがお洒落だと思ってのことだろうか。秋田県の極寒の中でコートを着ないのはなぜだろう。雪深い新潟で、女子高生のスカート丈が短いのはなぜだろう。言うまでも無い。学ランの下に白い下着では、オタクだと思われるからだ。コートは、スクールカーストの最下層民のトレードマークだからだ。ネクラ女子だと思われたくないから、あるいは腐女子なのを隠したいから、スカートを短くするのだ。学校が熾烈な階級社会であることを考えれば、彼らの服装はとても合理的だ。
「寒いんだからスカートを短くしちゃだめだ」という大人にかぎって、暑さをガマンしてネクタイをしている。お酒をこぼすかも知れないのに、スーツで飲み会に参加する。そして生まれつき髪の毛が茶色い人に「黒くしろ」という無言の圧力をかける。瞳の青い人なんて論外だ。会話が成り立つとは思えないし信用できない。――こういう大人たちも、かつて制服のある環境で育った。
制服のある学校では、スクールカーストのものさしが一本しかない。見た目だけで、教室の中での立ち位置が分かる。だから気温や天候を無視して、人と同じ格好をしようとする。自分と服装が違えば、別階層の人間だと認識する。高校生だけでなく、大人も同じことをしている。息苦しさ・生きづらさの原因は、こうした同調圧力にある。
これこそ、“間違った”規範意識と言わざるをえない。
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少なくとも普通科の学校において、制服は本来の目的を果たせなくなった。国際化の進む現代は、多種多様な価値観がぶつかり合う時代だ。間違った規範意識を持つ人間は(社会にとっても・本人にとっても)不幸だ。学校の制服は、そういった意識の一因になっている。すでにデメリットしか無いのだから、制服は廃止されるべきだ。
※ご参考
「みんなが着ていないし、カッコ悪い」寒いのにコートを着ない秋田の男子高校生たち
http://newtou.info/entry/2889/
女高生スカート日本一短い新潟の「どうしたら」議論
http://www.j-cast.com/2007/03/18006238.html
ネクタイの次に廃れる「非合理的な社会的習慣」は何だろう?
http://d.hatena.ne.jp/Syouka/20100618/1276868991
『空気』を読み過ぎて窒息しないために
http://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20090816/1250367475
服装原理主義者が多くてびっくり。|堀江貴文オフィシャルブログ
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10458937466.html