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学校の制服を無くせば差別は無くなる/諸悪の根源は学校教育で植え付けられる規範意識だ

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 今回の元ネタは、こちらの記事だ。

 

 ■茶髪から見た差別社会日本

 

 このエントリーの書き手は、生まれつき髪の毛が茶色いらしい。で、しばしば「黒髪のほうがいいよ」と言われる。これって差別じゃないの? というのがこの人の主張だ。この記事のコメント欄が笑える。「差別じゃない!」と反論している人だらけなのだ。きっと身に覚えがあるのだろうな。

「俺は別に気にしないけれど、社会にはうるさい人もいるから……」

 ほら、あなたの隣にも居ませんか、こういうセリフを言う人。「俺は別に気にしていない」というのは、たぶん嘘だ。本当は気になるけれど、自分の意見として発言すれば角が立つ。だから、どこの誰かもわからない「うるさい人」へと責任転嫁するのだ。

 なぜ茶髪を悪いものだと考える人がいるのだろう。私たちはもっと自由でいいはずだ。こういう普通でない人を許容できない心は、どうして育つのだろう。

 

 諸悪の根源は学校の制服にある。

 制服があるからと言って、規律の守れる人間は育たない。仮に育つとしても、いきすぎた規範意識はむしろ害になる。制服はスクールカーストを可視化するだけだ。制服は不合理の塊であり、今すぐに廃止すべきだ。

 

 

 

1.制服の大義名分

 制服を着せる一番の目的は、規律正しい人間を育てることだ。たとえば防衛大学に制服があるのは、軍事活動では規律が重視されるからだ。現代の学校教育は、産業革命のころに基本的なスタイルが確立した。時間割厳守、個人差を無視した授業。こういった方法は「工場で働く人」を育てるのには適していた。制服を着せるのも、この延長線上だ。

 だが経済成長の進んだ国では、工場労働者にさえ「カイゼン」という創意工夫が求められる。もはや規律を守るだけでは不充分であり、むしろ常識を覆すことのできる人が必要だ。制服の目的は時代にそぐわなくなっている。

 しかも、制服を着せたからと言って、規律正しい人間が育つとは限らない。だって、みんな着崩すじゃねーか。この点については後述する。

 

 制服を着せる大義名分の2つ目は、生徒の管理を容易にすることだ。

「高校生がタバコを吸っていた! あの制服は**高校だ! 学校に連絡を入れろ!」……なんてのはよくある話。あるいは修学旅行のような場合にも制服があると便利だ。

 が、これも変な話だ。そもそも学外での生徒の行動にまで学校は責任を負うべきなのだろうか。本人とその親の責任のほうが重いはすだ。また、ほとんどの小学校には制服が無いが、教師たちは遠足で迷子を出さないよう細心の注意を払っている。中高生よりもはるかに幼い子供を、制服に頼らずに管理している。したがって「生徒の管理に制服が必須だ」という主張は成り立たない。

 

 なお、「制服を着たい人もいる」だから「制服は必要だ」と主張する人もいるだろう。けれど、私がここで問うているのは制服を強制的に着せることの合理性だ。

 たしかに制服を「着たい」と考える生徒は一定数存在する。とくに女子に多いのではないだろうか。私服高校では、他校の制服を着ている生徒も珍しくないという。ファッションとしての制服を否定する理由はない。

 

2.見当はずれな規範意識

 制服の目的はすでに時代遅れであり、大義名分を失っている。では、実利の面ではどうだろう。目的や必要性といった抽象論ではなく、具体的な面に目を向けよう。制服は具体的なメリットをもたらすだろうか。

 結論から言えば、制服にはメリットがない。

 それどころか間違った規範意識を生み出し、息苦しい社会の原因となる。

 駅のホームを見れば分かる通り、大多数の高校生は制服を着崩している。きちんと着ているのは、ごく一部のクソ真面目な生徒だけだ。校則を守らないのがマジョリティである以上、制服は、規律正しい人間を育てることには役立たない。いわゆる「不良」とカテゴライズされる層の生徒は、さらに着崩し方が激しくなる。注目したいのはここだ。「制服をどれだけ着崩しているか」によって、スクールカーストが可視化される。制服は一種のものさしとして機能する。

 もちろん私服高校にも、歴然としたスクールカーストは存在している。しかし見た目で判断するのは不可能に近い。なぜなら制服がないからだ。たとえば運動部に所属する生徒は、普通の高校ならスクールカーストの上位に位置するはずだ。が、スポーツ用品に金をかけているため私服は安っぽかったりする。その一方で強烈なオタク趣味を持つ人間がファッションに目覚めて「服オタ」と化す場合もある。制服が無ければ、外見からスクールカーストを判断するのが難しくなる。

 その一方で、制服のある学校ではどうだろう。「どのように制服を着ているか」で、その人の性格や立ち位置がおおむね把握できる。白い靴下を履き、フケで背中が白くなっているような生徒は、不良っぽい生徒にいつもヘコヘコしている。ものさしが一本しかないからこそ、人を外見で判断できる。そんな環境にいれば、「自分と外見の違う人」を許容できなくなるのは当然だ。

 ものさしが一本しかないからこそ、他人と同じ格好をする。

 学ランの下に色つきのTシャツを着るのは、本当にそれがお洒落だと思ってのことだろうか。秋田県の高校生が極寒の中でコートを着ないのはなぜだろう。雪深い新潟で、女子高生のスカート丈が短いのはなぜだろう。

 言うまでも無い。そうしないと浮くからだ。

 学ランの下に白い下着では、オタクだと思われるからだ。コートは、スクールカーストの最下層民のトレードマークだからだ。ネクラ女子だと思われたくないから、あるいは腐女子なのを隠したいから、スカートを短くするのだ。学校が熾烈な階級社会であることを考えれば、彼らの服装はとても合理的だ。

 

「寒いんだからスカートを短くするな」という大人にかぎって、暑さをガマンしてネクタイをしている。酒をこぼすかも知れないのに、スーツで飲み会に参加する。そして生まれつき髪の毛が茶色い人に「黒くしろ」という無言の圧力をかける。瞳の青い人なんて論外だ。外見の違う相手とは会話が成り立つとは思えないし信用できない。――こういう大人たちも、かつて制服のある環境で育った。

 制服のある学校では、スクールカーストのものさしが一本しかない。だから見た目だけで教室の中での立場が分かる。そして生徒たちは気温や天候を無視して、人と同じ格好をしようとするようになる。自分と服装が違えば別階層の人間だと認識する。

 これは高校生に限らない。大人だって同じことをしている。こうして強烈な同調圧力が生み出され、私たちに息苦しさ・生きづらさをもたらしている。これこそ、間違った規範意識と言わざるをえない。

 

     ◆

 

 少なくとも普通科の学校において、制服は本来の目的を果たせなくなった。

 国際化の進む現代は、多種多様な価値観がぶつかり合う時代だ。間違った規範意識を持つ人間は、社会にとっても本人にとっても不幸だ。学校の制服は、そういった意識の一因になっている。すでにデメリットしか無いのだから、制服は一刻も早く廃止されるべきだ。

 

※この記事は2010年6月24日の「デマこいてんじゃねえ!」から転載しました。

 

 

 

 

 

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