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「バディもの」として『ゆるゆり』を見る

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さて、私はオタクじゃないけど今夜はちょっとだけ『ゆるゆり』について語ろうか私はオタクじゃないけど
※知らない人のためにご紹介すると、なもり先生のマンガ『ゆるゆり』は、女の子たちの日常を描くゆるいコメディです。けいおん以降の流れを汲んでおり(?)男性を登場させていないのが特徴。主人公たちは中学生です。
※なお、なもり先生は女性です。
※この記事はTwitterの私のツイートを再編しています。





で、今回は「ひまさく」について語りたい。
しっかり者の少女・向日葵(ひまわり)と、ちょっとおつむの軽い少女・櫻子の組み合わせのことを「ひまさく」と呼ぶらしい。ただの組み合わせではなく「カップリング」という専門用語があるようだが、ここでは深く立ち入らない。とにかく、この2人組がとてもいいのだ。
中学生ぐらいの女の子に特有の、親友に対する「友情以上」な感情を描いているのが『ゆるゆり』の魅力だ。登場人物たちはまだ本気の「堕ちるような恋」を知らないがゆえに、友人に対する甘えや独占欲が「好き」と区別できない(※一部のキャラを除く)。そういう甘酸っぱい距離感が、この作品の魅力になっている。
ひまさくに的を絞ってみると、しっかり者の向日葵が、おバカな櫻子を「甘やかす」という構図がある。「しっかりなさい!」「うるせーなー」とお互いにツンケンしているけれど、根っこの部分では櫻子は向日葵に甘えているし、向日葵も悪い気はしていない。
が、この構図ってすごく危ういと思うのだ
というのも、しっかり者の向日葵は「櫻子から頼りにされている」ことを承認欲求の源泉としているように見えるし、一方のおバカな櫻子は「向日葵なしでは生活できない」レベルで相手にべったりと甘えている。一歩間違えば「共依存」に陥りそうな関係なのだ。これは危うい。この危うさが萌える。ヤバい。
共依存の関係が断ち切られるとき、かならずどちらか一方が(あるいは両方が)深く傷つくことになる。それを避けるためには、共依存関係にある2人はその関係を維持し続けなければならない。現実でも、たとえば親離れ子離れできない母娘はだいたい共依存っぽくなっていると思う。だからこそ、ひまさくは危うい。
さらに、しっかり者の向日葵はじつは中学生とは思えないほどの巨乳で、自分の胸が大きいことにコンプレックスを感じている……という設定になっている。一方のバカ・櫻子はつるぺたで、胸が無いことを気に病んでいる。向日葵に対して「おっぱい禁止!」という暴言を飛ばすこともしばしばだ。
子供のころは男女関係なく遊んでいたのに、自分のからだがどんどん女っぽく・えっちな感じになっていくのが嫌だった……なんて体験談はありふれている。向日葵のキャラは、そういう女の子たちをベースに構築されている。つまり向日葵は「性的な目で見られたくない」という、ある意味で潔癖な性格をしているのだ。ところが櫻子は、そういう潔癖さをとくに持ち合わせていない。むしろ大人っぽい体への憧れすら抱いている。
この性格の違いは、彼女たちが高校生・大学生へと成長していくと大きな溝になりかねない。
どういうことかと言うと、たとえば櫻子はわりとあっさりと処女を捨ててしまいそうな気がするのだ。高校や大学に進学して、合コンとかに呼ばれて、ありきたりな手順を踏みつつ大人の階段を上っていきそうな気がする。でも向日葵にはそれが理解できない。「それを すてる なんて とんでもない!」とショックを受ける姿が目に浮かぶ。
櫻子は明るい性格として描かれており、男子から普通にモテそうだ。で、迫られたら断ることができなさそう……というか、そういう雰囲気になったらそのまま雰囲気に飲まれてしまいそうなタイプに見える。反面、向日葵はたとえ彼氏ができても「高校卒業するまではダメ」とか言って”おあずけ”を食らわすタイプだろう。
この違いを乗り越えることができなければ2人の友情はあっさりと崩れてしまうだろうし、この場合、成長が必要なのは向日葵だ。いつもはしっかり者で櫻子を引っ張っている向日葵が、この部分では櫻子よりも子供であり、櫻子と同じレベルまで成長する必要がある。このギャップがいい。萌える。ヤバい。
さらに「ひまさく」に関していえば、アニメ版がとても上手に原作を料理している。
マンガ版では2人はお隣同士の一軒家に暮らしている。しかしアニメ版では、櫻子が原作通りの一軒家である一方、向日葵はエレベーターも無いような団地の小さな一室で暮らしているという設定に変更されている。超ヤバい。
なにがヤバいかといえば、所得階層の差・生活スタイルの差をにおわせることに成功しているからだ。櫻子が暮らしているのは一軒家で、裕福とまではいかないまでも地方都市の中間層の、おそらく上位に位置しているであろうことが推測できる。一方、向日葵の家庭はそんなに裕福そうには見えない。しかし、たとえ親たちの所得階層が違ったとしても、中学生のうちは「しっかり者の向日葵」と「おつむの軽い櫻子」という関係でいられた。
が、これがもう少し大きくなるとヤバい。
たとえば大学生くらいになって、ちょっとお洒落なレストランに入ったとしよう。おバカなはずの櫻子が「コースにしちゃう?それともアラカルトにする?」とか訊くわけだ。向日葵は「そ、そうね……櫻子に任せますわ!」とか答える。でも、じつは内心では(コース?アラカルト?なにそれ!)ってなっている。彼女はたぶんそういうお店でご飯を食べた経験に乏しいはずだ。
そういう「育ちの違い」「親の所得水準の違い」は、年齢が大きくなるほどハッキリと現れるようになる。『ゆるゆり』の登場人物たちはなぜか頻繁にファミレスを利用するのだが、向日葵が必死でお小遣いを工面していたファミレス代も、櫻子にとっては大した出費ではなかった……と気づく日がくる。そのとき、彼女たちの関係は無傷でいられるのだろうか。
そういう違いの多さが「ひまさく」の魅力だ。
障害の多さと言い換えてもいい。
2人の関係はちょっぴり共依存的で、「壊すことができない」という危うさをはらんでいる。にも関わらず、関係にヒビが入りそうな要素がたくさん描かれている。こういう設定のうまさに想像力を刺激されて、すげー萌えるのだ。まじヤバい超パネェ。とくに向日葵の自宅をオンボロ団地の一室としたのは神改変と言わざるをえない。設定がうますぎるでしょう誰だよこれ考えたの。作劇法を教えてくださいホントに。



ならば……と、ここで疑問が生じる。
なぜ「違いの多さ」は魅力になるのだろう?
どうして「ひまさく」の前途多難な部分に萌えを感じるのだろう?



それは「違いの多さ」が、いわゆる「バディもの」の基本だからだ。と思う。
ハリウッドの脚本家ブレイク・スナイダーは、映画によく登場する物語の形式を10個に分類した。なかでも「バディとの友情」ものは、映画誕生の最初期から好まれていたジャンルではないかと彼は言っている。『レインマン』のような男同士の友情を描くものだけでなく、恋愛映画もじつは「バディもの」だそうだ。二人の人間がお互いの違う部分を認めながら、お互いになくてはならない存在になっていく物語:それが「バディもの」だ。
「バディ」とは相棒のことだ。「バディとの友情」ものについて細かくご紹介する前に、残りの9個についても軽くメモしておこう。



1.家の中のモンスター
ジョーズ』『トレマーズ』『エイリアン』『エクソシスト』『危険な情事』『パニック・ルーム』など。限定空間に“異物”が侵入することで、登場人物はそれとの対決を強いられる。ホラーばかりでなく、おなじ構造を利用したコメディもある。



2.金の羊毛
スターウォーズ』『オズの魔法使い』『大災難P.T.A.』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』など。主人公は何か(=金の羊毛)を求めて旅に出かけるのだが、なにか別のモノ(=自分自身)を手に入れて帰還する。いわゆる王道展開とか行きて帰りしとか呼ばれるタイプ。



3.魔法のランプ
『ライアーライアー』『ラブ・ポーションNo.9』『フォーチュン・クッキー』『フラバー』など。「もしも宝くじが当たったら……」「もしも○○があったら……」というタイプのお話。俺の大好きな『マスク』もこのジャンルかもしれない。



4.難題に直面した平凡なやつ
ブレーキ・ダウン』『ダイハード』『タイタニック』『シンドラーのリスト』など。「手にあまる問題に立ち向かう」という同じ構造でも、痛快なアクションから味わい深いヒューマンドラマまで、幅広い作風をカバーしているのがこのジャンルだ。『ホテル・ルワンダ』は間違いなくこれ。



5.人生の節目
『テン』『普通の人々』『酒とバラの日々』など。人生の節目を扱った作品たちであり、ヒューマンドラマになりがち……なのかな? 『ハングオーバー』はこのジャンルに含めてもいいのだろうか。結婚前夜にだけ許される「人生最後の男子会」という意味では人生の節目だし。



6.バディとの友情
バディとは相棒のこと。最近ではフランス映画の『最強のふたりhttp://saikyo-2.gaga.ne.jp/ がすごく評判がいいみたい。近いうちに見に行きます。



7.なぜやったか
ミステリーの5W1Hのうち、映画ではハウダニットよりもホワイダニットが重要だ。『チャイナタウン』『チャイナ・シンドローム』『JFK』『インサイダー』など。このジャンルでは犯罪ものがどうしても多くなるみたいだ。『バンテージ・ポイント』すごく面白かった。



8.バカの勝利
『チャンス』『フォレスト・ガンプ』『デイブ』『天国から落ちた男』『アマデウス』など。社会の常識から逸脱した人が大活躍すると、私たちはなぜか心躍らされてしまう。



9.組織のなかで
『アニマル・ハウス』『カッコーの巣の上で』『アメリカン・ビューティー』『ゴッドファーザー』など。人間は社会的な動物なので、「自らの属する場所との関係」がそのまま物語になりうるようだ。



10.スーパーヒーロー
『Xメン』や『アベンジャーズ』のような超人だけでなく、『グラディエーター』や『ビューティフル・マインド』のような作品もこのジャンルに含まれる。超人の活躍や超人ゆえの悩みに、私たちは憧れを抱くのだろう。



以上の分類はあくまでも便宜上のもので、きれいに切り離せるわけではないだろう。『スティング』は「バディとの友情」ものでありつつ、典型的な「金の羊毛」の要素を持ち、なおかつ「難題に直面した平凡なやつ」としての面白さを持っている。観客の視点からすれば、一つの映画に複数の要素が含まれていると考えていいだろう。



話を『ゆるゆり』の「ひまさく」に戻そう。
この2人が魅力的なのは、「バディとの友情」ものに見られるような物語が将来起こるだろうと想像できるからだ。アニメの映像からはるか遠くまで離れた場所まで、想像力を刺激してくれるからだ。
「バディとの友情」ものの基本パターンはこうだ:
どんな2人組であれ、最初はお互いのことを「分かり合えない相手」だと思っている。『ツインズ』なら超イケメンの兄とまるでダメな弟という組み合わせだし、『フォーエバー・フレンズ(原題Beaches)』の少女たちの家庭環境はバラバラだ。
「バディもの」では2人の相違点が(顕在的にせよ潜在的にせよ)かならず用意される。映画の序盤からその違いが原因で仲違いを繰り返すパターンもあるし、お話が進むごとに少しずつ「違い」が明らかになっていく場合もある。いずれにせよ映画の中盤をすぎるころには、「この人とは根本的に違う人間なのだ」ということを双方が理解する。と、同時に、お互いにお互いを必要とするようになる。
お話の中盤で、2人はお互いをなくてはならない存在・欠けてしまったら完璧にはなれない相手だと気づく。でも、そこで彼らは悩むのだ。「どうしてこんなヤツと!?」ここでまた葛藤が生まれ、お話を盛り上げていく。最悪、「顔も見たくない」と言って一度は別れてしまうかもしれない。破局の危機だ。
離ればなれになった2人、ここからが映画のクライマックスだ。どうしても2人で力を合わせなければ解決できないような問題に、彼らは襲われる。そして見事に友情を復活させて、問題を打ち倒す。めでたしめでたし、で幕となる。ラストシーンは2人が肩を組んで夕日に向かって歩いていく(※比喩です)
実際には、映画の結末で2人が「ともに生きる」ことを選択するとは限らない。立場の違いのせいで、バラバラでの生活を余儀なくされるかもしれない。けれど、もう2人は大丈夫。重大な試練をくぐり抜けて、精神的なレベルで深いつながりを作ることができたからだ。遠く離れても心は1つ、というやつだ。
以上が「バディとの友情」もので典型的なパターンだ。
そして『ゆるゆり』の「ひまさく」を見ていると、このパターンに当てはまるような想像がどこまでもどこまでも広がっていく。
最高だよね、この2人。







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