『ファインディング・ニモ』は、脚本の教科書に必ず登場する映画の1つだ。安心・安定のディズニー&ピクサー映画。現代的な「お話作り」の基本がすべて詰め込まれているような作品だ。映画としても文句なしで面白いので、お話を書くことが好きな人は観ておいて損はないと思う。
私の敬愛する今敏監督は、「映画の見方が分からなければ50本観ようが100本観ようが無駄」と言っていた。『メメント』や『パルプ・フィクション』のような変則的な映画も、じつはきっちり三幕構成になっている。しかし、初心者がその構造を抜き出すのは難しい。映画を見る目を養うには、たぶん『ファインディング・ニモ』のような分析しやすい映画から取りかかったほうがいい。だからこそ、この作品は様々な教科書に取り上げられているのだろう。
(※なお、ここでいう「映画を見る目」とは、映画を楽しむための目ではない。映画を見て「お話作りのヒント」を得るための目だ。お話を作らない人は養う必要がない、というか、養わないほうがいいかもしれない。映画の魔法が解けてしまうから。閑話休題)
『ファインディング・ニモ』を教科書的に三幕構成で分析してみよう。ハリウッド映画の三幕構成については、以前、ブログ記事にまとめた。物語を「始まり/真ん中/終わり」の3つのパートに分けて、それぞれ1:2:1の長さにする。これが三幕構成だ。教科書には小難しいことが色々と書いてあるけれど、いちばん大切なことはこれだけだ。
『ファインディング・ニモ』の場合、第1幕の終わりは機雷が爆発するシーン。これが第1プロットポイントだ。主人公マーリンとドリーは、豹変したサメのブルースに食われそうになっていたが、機雷が爆発したことで窮地を脱する。物語上必要な状況設定を、このシーンまでに説明し終わっている。水中メガネを発見し、ドリーが文字を読めるとほのめかされる。物語の目標が明確になる。教科書的な第1幕だ。
そしてシーンが切り替わり、第2幕からはニモと水槽の仲間たちのお話が始まる。
ミッドポイントは、ニモが水槽脱出計画に失敗するところだろう。ギルの発案で、ニモと水槽の仲間たちは浄化装置を壊そうと画策していた。小石を詰めてポンプを止めようとしたのだ。しかし、あえなく失敗。ギルも失意に飲まれてしまう。この時点で、ニモが助かるには「父親がニモを探し出すしかない」ことが示唆される。「自力で脱出したニモが父親を探しに太平洋を旅する」という可能性は、この時点で消える。ゴールが不可避になるのだ。
シーンが切り替わって、マーリンはカメの背の上で目を覚ます。彼が東オーストラリア海流に乗ったところから第2幕の後半が始まる。
第2プロットポイントは、ニモが網ですくい上げられそうになるところ。一度は逃げることに成功するが、結局、ニモは水槽の外にすくい上げられてしまう。さらに「Fish killer」の異名を持つ悪魔少女ダーラが歯医者に現れる。ニモは絶体絶命のピンチだ。ここから映画はクライマックスに突入する。
『ファインディング・ニモ』は、ジャンルとしては「バディとの友情モノ」とか「コンビモノ」と呼ばれる形式のお話だ。まったく正反対の性格をした凸凹コンビが、何か大切なものを求めて旅をするお話。『テルマ&ルイーズ』を始め、ハリウッドでは人気のあるジャンルの1つだ。マーリンとドリーという正反対の2人が、その正反対の性格ゆえに様々な困難を乗り越えていく。
この映画を見た友人は、「病んだヤツが多すぎない?」と言っていた。サメたちは肉食を禁じるためグループ・ディスカッションをしているし、水槽の仲間たちは長い間閉じ込められて気が触れてしまっている。そもそもマーリンの相方、ドリーは病的に忘れっぽい。心を病んだキャラが多くて、現代アメリカ社会の病理を反映しているようにさえ見える。
とはいえ、心にハンディキャップを抱えたキャラが映画に登場すること自体は、それほど珍しくない。たとえば「バディとの友情モノ」の映画では、傑作『レインマン』がある。一方、水槽の仲間たちは『カッコーの巣の上で』っぽい。『レインマン』と『カッコー』を足して2で割らずに登場人物を魚にすると、『ファンディング・ニモ』になる。
個人的には「ファイナル・イメージ」と呼ばれる部分が良かった。主人公の旅が終わり、エンディング・テロップが流れ始めるまでの数分間のことだ。マーリンとニモが冒険を通じてどのように成長したのか、じつに明快に示されている。あまりやりすぎるとクサい演出になってしまうのだけど、『ファインディング・ニモ』のそれは端的で鮮やか。お手本にしたいと思った。
せっかく名前が出たので、『レインマン』についても書いておこう。自閉症という重たくなりそうなテーマを扱っていながら、コメディテイストで楽しい作品。ダスティン・ホフマンの演技が超絶ウマい。そして、若き日のトム・クルーズがカワイイ。
『レインマン』の第1プロットポイントは、チャーリーとスザンナの寝室にレイモンドが入るシーンだ。チャーリーとレイモンドがまったく違う行動原理を持つことが示され、お互いを受け入れるハードルの高さが提示される。続くシーンでスザンナは部屋を飛び出し、チャーリーとレイモンドの二人旅が始まる。
『レインマン』の脚本で注目すべきなのは、2人の旅する理由がきっちり組み立られている点だろう。ロードムービーでは、この理由づけをしない場合も多い。たとえば『サイドウェイ』がいい例で、2人は旅そのものを目的としている。「なぜこの2人で旅をするのか」は問題にならない。一方、『レインマン』や『テルマ&ルイーズ』は、やむにやまれず2人旅が始まるパターンだ。
『レインマン』の場合、旅の目的地がロサンゼルスであることも脚本上は重要だ。シンシナティからロサンゼルスという旅の経路そのものが伏線になっている。チャーリーが飛行機に乗れないと判明した時点で、自動車で移動せざるをえなくなる。ロードムービーとして成立させるための設定なのだ。旅の目的地がコロンバスやインディアナポリスでは困るのだ。
『レインマン』のミッドポイントは、チャーリーがレイモンドに「お前もそのジョークが理解できるようになれば多少は進歩するのにな」とイヤミを言うシーンだ。レイモンドがジョークを理解できないことを分かっていながら、あえて言ってしまう。チャーリーは我慢の限界に近づいており、二人は破局の危機に陥る。
ところが、ミッドポイントの直後で、チャーリーとレイモンドの重要な秘密が明かされる。ここでチャーリーは深く心を揺さぶられ、心を変える。結末が不可避になる。
『レインマン』の第2プロットポイントは、チャーリーとレイモンドがダンスをして、スザンナが合流するところ。第1幕での3人が揃ったところで、クライマックスへと突入していく。
「バディもの」のロードムービーは、旅を通じて2人が理解しあい、共感しあうようになる過程を描くジャンルだ。ところがレイモンドは脳の障碍で、理解や共感ができない。『レインマン』では、これを「お互いを受け入れる過程」の物語に置き換えることで、きちんとロードムービーとして成立させていた。
ロードムービーは、モータリゼーションが無ければ生まれなかった。社会の変化を反映したジャンルだと思う。ケータイが普及しておらず、もちろんネットも無く、自動車が本当に便利だったころの映画だ。若者が車離れした時代には、ロードムービーは生まれにくい……かも?
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