デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

なぜシェアリングエコノミーは理想を実現できなかったのか

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr

 

 

 10年ほど前、「ゲーミフィケーション」という言葉が大流行しました。現実世界は「クソゲー」であり、退屈で苦痛の多いものです。しかし、ルールや報酬などを上手く整備すれば、まるでビデオゲームのように楽しいものに作り変えることができるかもしれない――。多くの人が、素朴にそう信じていたのです。

 つい最近、当時よく読まれていた書籍を再読しました。

 ジェイン・マクゴニガル『REALITY IS BROKEN 幸せな未来は「ゲーム」が作る』と井上明人ゲーミフィケーション 〈ゲーム〉がビジネスを変える』の2冊です。現在の私たちは、これらの本が予測した10年後の未来に生きているわけで、言ってみれば「答え合わせ」をしながら読むことができます。なかなか楽しい読書体験でした。

 先に断っておきますが、どちらもかなりの良著です。当時の空気をよく伝えていますし、中には舌を巻くほど精度の高い予想もなされています(※後述)。

 とはいえ、(当然ながら)すべての予言が的中したわけではありません。

 とくに大きく的を外してしまったなと感じるのは……ええと、なんと名前をつけるべきか悩むのですが……〝優しさの経済圏〟とでも呼べばいいのでしょうか? 既存の金銭的契約とは別軸の、新たな〝取引〟が成立するようになるかもしれない、人々の優しさや善意をベースにした経済圏を作れるかもしれないという、素朴な予想です。10年経った今から振り返ると、「内発的動機づけ万能説」とでもいうべき楽観主義が、これら2冊には共通しています。少なくとも私は、そう感じました。

 たとえば『REALITY IS BROKEN』では、「グラウンドクルー」というスマホアプリが革新的なものとして紹介されています。これがどんなアプリかというと:

 ひとりの女性がボストンのどこかの地下室でダンスの練習をしていた。疲れ切っていたけれど、練習をやめるわけにはいかない。ラテを飲めば元気が出て踊り続けられるのに、と彼女は思った。…そこで「グラウンドクルー」投稿した。「ヘルプ! ラテが欲しいの」まさにこの瞬間に、ボストンの他の誰かが「グラウンドクルー」を眺めている。彼女の願望を見て、自分のいる場所はこのダンサーのところから数ブロックしか離れていないことに気付く。…5分後、彼は地下室に入っていって高らかに言う。「ラテを持ってきたよ!」と。 

――『REALITY IS BROKEN 幸せな未来は「ゲーム」が作る』p364~365

 

 

 要するにこれは、他人を『シムピープル』シリーズの「シム」のように扱うゲームなのだと、マクゴニガルは述べています。日本で言えば、『ウマ娘』を始めとした育成シミュレーションが近いでしょうか。おそらく私たち人類の脳は、他人に親切にしたり、何かを施すだけでも「楽しい!」と感じるようにプログラムされているのでしょう。親切をしたい人とされたい人を、アプリを通じてマッチングしているわけです。

 このアプリのことを、マクゴニガルは次のように評しています。

 実際、「グラウンドクルー」は、まったく新しいタイプの経済、三つの内発的報酬の交換を軸にした経済が登場する可能性を示しています。よいことをすることから生まれる幸福感、やりがいのあるミッションを達成することから生まれる感動、そしてリアルなすばらしいもの――他の人々の願望をかなえる自分の能力、および将来、自分自身の願望をかなえてもらえる可能性――の証であるポイントを貯める満足感の交換を軸に築かれる経済です。

――『REALITY IS BROKEN 幸せな未来は「ゲーム」が作る』p367~368

 優しさや善意をベースにした経済圏が生まれることを、彼女は予見していたのです。

 

 

 Uberに代表されるシェアリングエコノミーも、元をたどれば似たような発想から生まれたサービスだった……と私は理解しています。

 たとえば、夜遅くに自宅の最寄り駅まで到着したとしましょう。ところが自動車で迎えに来てくれるはずの家族が、急病で来られなくなったとしましょう。徒歩では30分以上かかるし、何よりも夜道を1人で歩くのは危険です。あなたの隣では、同じ電車で降りた人たちが次々に家族の自動車に迎えられて、駅から去っていきます。もしもあの中の1人でも「一緒に乗っていきなよ!送るよ?」と言ってくれたら――。

 そんなささやかな願いを叶えてくれるサービスがUberだった……と言ったらセンチメンタルすぎるでしょうか?

 誰もが持っている「余った時間」や「余った自動車の座席」をシェアすれば、きっとみんなが豊かになれるはず。親切な人をポイントやランクで表彰すれば、誰もが紳士的にふるまうはず――。Uberは、そういう思想のもとに作られたサービスだったはずです。

 少なくとも、現在のUberドライバーのようにフルタイムで働く人が出てくることや、労働力のダンピングに繋がるようなサービスになることは(※着想の時点では)想定していなかったのではないでしょうか。

 なぜシェアリングエコノミーは、理想を実現できなかったのでしょうか? 

 なぜ〝優しさの経済圏〟は、成立しなかったのでしょうか?

 

 

 

▼お金とは何か?

 結論から言えば、10年前に私たちが「発見した」と思っていた新しい経済制度は、じつのところまったく新しくなかったからです。3000~4000年以上も昔、貨幣が生まれる以前に存在した経済制度を再発見しただけにすぎません。しかし、つま先から頭のてっぺんまで貨幣制度にどっぷりと浸かった現代人の目には、それが何か目新しいものに見えてしまったのだ……と、今の私は考えています。

 この結論に至るためには、「お金とは何か?」を考えなければなりません。

 

 マネーは、交換の手段ではなく、3つの基本要素でできた社会的技術である。基本要素の1つ目は、抽象的な価値単位を提供することである。2つ目は、会計のシステムだ。取引から発生する個人や組織の債権あるいは債務の残高を記録する仕組みのことである。そして3つ目は、譲渡性である。現債権者は債務者の債務を第三者に譲り渡して、別の債務の決済に充てることができる。

(中略)

すべてのマネーは信用だが、すべての信用がマネーであるわけではない。

(中略)

 金融用語でいう「譲渡」あるいは「裏書き」ができるようになると、信用に命が吹き込まれ、マネーとして機能し始める。言い換えれば、マネーは単なる信用ではない。譲渡することが可能な信用なのだ。

――フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論東洋経済新報社(2014年)p40-41

 

 お金とは、譲渡可能な信用です。

 この説明だけでは何のこっちゃ分からないので、まずは、お金が存在しない時代のことを想像してみましょう。

 たとえば、あなたが新石器時代に暮らす農民だとしましょう。ある寒い冬の朝、あなたの家を隣人が訪れたとしましょう。彼は「食糧が底をついたので、山で狩猟が可能になるまでの1か月間だけ食べ物を分けて欲しい」と懇願し、あなたはそれに応じた……としましょう。

 あなたは隣人に対して「貸し」を作り、隣人はあなたに対して「借り」を作ったことになります。

 貨幣のない世界では、あなたは隣人に対する「貸し」を、本人から直接返してもらうほかありません。渡した食糧に見合うだけの別の物品を贈ってもらうとか、役務の提供――畑作業を手伝ってもらうなどの形でなければ、返済を受けられないのです。

(もちろん、あなたが貸しを返してもらわなくてもかまわないという聖人なら話は変わってきます。が、あくまでもこれは「たとえ話」なので、そういう例外的なケースには目をつぶってください)

 さらに(※ここが重要な点ですが)あなた自身も誰かに対して「借り」を作っているはずです。ヒトは1人では生きられません。私たちは何万年も前から集団生活を送り、分業しながら生きてきました。分業するということは、あなた自身は誰かのために働いて「貸し」を作ると同時に、あなた自身も誰かからの施しを受けて「借り」を作っているということを意味します。あなたはその借りを、役務を提供するとか、(家畜などの)財産を取り崩すことで、返済しなければならないのです。

 

 では次に、借用書を作ったケースを考えてみましょう。

「隣人Aは、○○[※あなたの名前]に対して食糧1か月分の借りがあるので、物品または役務の提供でそれを返す義務を負っている」と文章にして残しておくのです。とはいえ、これだけでは、貸し・借りの関係が明確になっただけで、さほど状況は変わりません。

 では、この借用書を第三者に譲渡可能にしたら、どうでしょうか?

「この借用書を持っている者は、隣人Aより食糧1か月分の借りに見合うだけの物品または役務の提供を受けることができる」という文面にするのです。

 あなた自身が借用書を持ち続ければ、状況は変わりません。

 しかし、あなたはこの借用書を使って、別の誰かへの借りを返すことも可能になった……とお気づきでしょうか? あなたが別の誰かに対して負っている〝借り〟を、この借用書を渡すことで、隣人Aに代わりに返済してもらえるのです。

 この「譲渡可能な借用書」は、現代の貨幣によく似ています。というか、フィリックス・マーティンの定義に従えば、貨幣そのものと言ってもかまわないでしょう。

 最後に、お金の存在する世界ならどうなるかを考えてみましょう。

 あなたは隣人に対して、1か月分の食糧を売ることが可能です。当然、代金として貨幣を入手できます。そして、その貨幣を使って、別の誰かに対する借りを返せる――支払いを行える――わけです。ここでは「お金」が、先述の「譲渡可能な借用書」と同じように人々の取引を仲介しています。

 

 

 ▼たとえ話の〝実例〟

  実際、貨幣のない世界では、私たちの言葉でいう「貸し・借り」の関係が厳密に運用されています。たとえ国家の無い社会でも、私たち人類は決して自由ではありません。様々な掟や因習、不文律――〝規範の檻〟――に縛られて、自発的な隷属状態に置かれてしまうと、ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンは指摘しています。日常の経済取引も例外ではありません。

 1972年、人類学者のエリザベス・コルソンは、グェンベ・トンガに交じってフィールドワークを行っていた。グェンベ・トンガはザンビア南部に住む、イギリスがこの地を征服するまで国家をもっていなかった人々である。コルソンが農家で情報を集めていると、女性が訪ねてきて、その家の主婦に、麦を分けてもらえないでしょうかと尋ねた。2人は同じクラン(※氏族)に属してはいたが、家は遠く離れていて顔見知り程度だった。主婦が求めに応じて穀倉に行き、カゴに溢れんばかりの麦を入れてやると、訪問者は満足して帰っていった。

 クランや親族、その他の集団での惜しみない分かち合いは、多くの国家なき社会に一般的な慣行である。

――アセモグル&ロビンソン『自由の命運』早川書房(2020年)上p173

 このような寛大な互恵的関係は、人類の生まれながらの美徳の表れであると、多くの人類学者や経済学者は考えていました。

 ところが、実態はかなり違うようです。

(コルソンの調査相手の)主婦はこう結論づけた。

「断るのは危険です。この前来た女性に私が麦を分けてあげるのを見たでしょう。麦を欲しいといわれて、断れるはずがないじゃありませんか。もしかしたら仕返しはされないかもしれませんが、どうなるかは分かりません。とにかく、与えるしかないんです」

 与えなければ魔術や暴力を振るわれるかもしれない。与えるように仕向けたのは、思いやりなどという漠然とした概念ではなく、規範を破れば報復と暴力を受けるかもしれないという恐れだったのだ。

――アセモグル&ロビンソン『自由の命運』早川書房(2020年)上p174

 どうやらお金のない世界は、かなり息苦しい場所のようです。

 

  

「譲渡可能な借用書」のたとえ話も、決して空想ではありません。

 たとえばニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』には、古代メソポタミアの粘土板に書かれた契約書が紹介されています(p58-59)。「収穫時にこの粘土板を持参した者に、アミル・ミラは330単位の大麦を引き渡す」と記された粘土板が存在しているのです。

 この粘土板、先のたとえ話に登場した「隣人Aから借りを返してもらえる」という借用書と、概念的にはかなり近いものだといえるはずです。

 

 とはいえ、メソポタミアの粘土板を指して「最古の貨幣だ!」と論じる歴史家はいないでしょう。

 現在わかっている最古の硬貨は、紀元前6世紀初めにリディアで鋳造されたエレクトロン貨です。(※余談ですが「硬貨」である点に、お金の歴史の難しさがあらわれています。中国の刀銭などにもいえることですが、金属でなければ遺物として残らないのです。たとえもっと古い時代に紙や布、皮革、材木などで作られた貨幣が存在していたとしても、焼失したり土中で分解されてしまっているでしょう)

 貨幣という概念はアナトリア半島からギリシャ世界に伝わり、およそ1世紀後の紀元前6世紀末ごろには広く普及していました。紀元前480年頃には、ギリシャ世界に100カ所近い鋳造所が作られていたといわれています。

(貨幣の導入により)ギリシャ世界のいたるところで、伝統的な社会的義務は金銭上の関係に変わった。

 アテネでは、伝統的な物納小作人は借地契約を結んで金銭を納めるようになった。また、古代ギリシャには「リタージー」と呼ばれる市民の義務があり、アテネの最富裕層の1000人の市民が、劇場で合唱をしたり海軍の乗組員になるなど、さまざまな奉仕をしたが、これも金銭による奉仕に変わった。

――フィリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』p92

 つまり、「職業」が生まれたのです。

 前述の通り、お金のない世界では、私たちは息苦しい〝規範の檻〟に囚われていました。ヒトが生きていくには分業が欠かせません。が、社会的な義務として分業を行っていたのです。お金はこの檻から私たちを解放し、職業による分業を可能にしたのです。

 

 

▼なぜ国家がお金を管理するのか 

 「もしも貨幣が『譲渡可能な貸借』だとしたら、国家が管理する必要はないのでは?」という疑問を抱いた人は、とても鋭い目をお持ちです。

 じつのところ、国がなくても、貨幣は存在できます。

 1970年5月、アイルランドでは銀行経営者たちと従業員たちとの対立が激化し、ついにストライキが決行されました。銀行のほぼすべてが閉鎖されて、金融システムが事実上、完全にマヒしてしまったのです。アイルランドの経済は崩壊するだろう、と多くの人々が予想しました。

 ところが、そうはなりませんでした。

 11月に危機が収束した後にアイルランド中央銀行がまとめた調査報告によれば、経済活動は停滞しなかったばかりか、順調に成長を続けていたのです。

 この時期にアイルランドの経済を支えていたのは、パブの主人たちでした。日本でもお洒落な飲み屋のスタイルとして人気のアイリッシュパブですが、現地では重要な社交の場になっています。パブの主人たちは、地元の人々の顔をよく知っていますし、彼らの信用力についても熟知しているそうです。そういうパブの主人たちが小切手の裏書きを行うことで、経済活動を維持していたというのです。

(※ギネスビール本位制の経済と呼びたくなります)

 

 

 貨幣が国家による管理を必要としないのであれば、謎はますます深まります。

 なぜ現代では、ほぼすべての国で、貨幣が国の管理下に置かれているのでしょうか。

 これはネットワーク外部性で説明できると私は考えています。

 たとえば電話は、ネットワーク外部性を持つ製品の代表的な例です。この地球上に電話機が1台しか存在していない状況を想像してください。誰かに電話を掛けることも、誰かから電話がかかってくることもありません。その電話機は、まったく価値のないガラクタになってしまいます。しかし電話が2台になれば、その2台間での通話が可能になります。現在のように1人1台のスマホを持つ時代なら、番号さえ知っていれば誰とでも連絡を取ることができます。

 このように、製品やサービスの価値が利用者数に依存していることを、ネットワーク外部性と呼びます。

 貨幣の本質は、「譲渡可能な信用」です。その信用を示す物品として、タカラガイでも刀銭でも金貨でも福沢諭吉の書かれた紙切れでも、どんなものでも使えます。もちろん粘土板でも構いません。

 問題は、交換に参加する人々がその価値を認めているかどうか、です。

 たとえば私が「自画像の描かれた紙幣」を作って、それで支払いを行おうとしても拒否されるでしょう。なぜなら、その紙幣の価値を認めているのは私1人であり、「世界に1台だけの電話」と同様、使い道のない紙クズだからです。

 しかし、もしも私が宗教指導者で、私の自画像の描かれた紙幣をありがたがる信者が1万人くらいいたらどうでしょうか? その1万人の間では、クーポン券としてきちんと取引に使われるかもしれません。

 繰り返しになりますが、どんな物品でも「譲渡可能な信用」を示すことができるなら貨幣たりえます。「その物品に価値を認める人」が増えるほど、その流動性が高まります。色々な人たちと、色々な物品を交換できるようになるわけです。ネットワークの参加者が増えるほどネットワーク自体の価値が上がるという現象が、貨幣制度でも起きるはずです。

 米ドルや日本円がハードカレンシーたりうるのは、その価値を認める人が地球上で最も多い貨幣だからです。イエス・キリストの時代にカエサルの顔を打刻した金貨がもっとも信用されていたのは、当時、もっとも多くの人から「力を持つ」と信じられていた主体がローマ帝国だったからです。

(※またしても余談ですが、文明初期の秤量貨幣が貴金属や穀物の種だった理由もこの辺りにありそうですね。使用価値がハッキリとしており、さらに価値が減じにくい――貴金属なら劣化しにくく、穀物なら播種することで増やせる――からこそ、多くの人が価値を認めて、経済ネットワークの参加者となったのでしょう。閑話休題

 

 

「〝優しさの経済圏〟で見られる「ポイント」や「スコア」が法定通貨を超えられるか?」という疑問の核心は、おそらくここにあります。米ドルを信じる人よりも多くの人が、そのポイントに「価値がある」と感じ、それを欲しがるようになったら……それは既存の法定通貨を代替するものになるでしょう。

 けれど結局、それは法定通貨を代替するものでしかなく、歴史上で試されてきた数々の貨幣制度を刷新するような「まったく新しいもの」にはならないだろう……と私は思います。

 なぜなら、貨幣は第三者への譲渡可能な貸借だから。貸し借りという、人々の評価と密接にかかわるものが起源だから。敢えて悪い言い方をすれば、車輪の再発明であり、Nothing Newだったからです。

 暗号通貨が(投機とアングラ取引ばかりに使われて)日常の決済手段になるほど普及しなかったのは、その本質が金本位制や銀本位制、あるいはタカラガイ本位制と同様の通貨制度だったからです。既存の法定通貨を超えるほどの便利さをもたらすことができませんでした。同じことは、たぶん〝優しさの経済圏〟にも言えるでしょう。

 

 

▼それでも予言は正しかった 

 今回の記事では、10年前に「ゲーミフィケーション」を唱えた人々の予言のうち〝外れた部分〟に注目しました。しかし総評としては、予言の多くは的中しており、今読んでも充分にスゴ本だと感じられます。『REALITY IS BROKEN』が、IngressポケモンGOも存在しない時代に書かれたとは、にわかには信じられません。

 たとえば本書には、2008年9月から実施された『スーパーストラクト』というゲームの事例が紹介されています。2019年(※当時から見て約10年後)に起きるであろう世界的危機を、みんなで知恵を出し合って乗り越えよう……というシナリオのシリアスゲームです。このゲームでは、10年後に乗り越えるべき課題として、5つの「スーパー脅威」が設定されていました。

 

・強制隔離 現在発生している呼吸急迫症候群(RDS)危機をはじめとする健康状態の悪化や世界的流行病に対する世界の対応を扱う。挑戦/とりわけ世界的流行病に直面して、世界の人々の健康を守り、高めるにはどうすればよいか。

・飢餓 世界の食糧システムが崩壊し、世界中で食品の安全性低下と食糧不足が発生する事態が迫っているという危機に焦点を当てる。挑戦/より持続可能で確実な方法で世界の人々の食糧を確保するにはどうすればよいか。

・電力をめぐる争い 石油依存社会から太陽光・風力エネルギーやバイオ燃料に支えられた社会に移行しようとするとき生じるおそれがある政治的・経済的混乱や生活の質の低下を扱う。挑戦/エネルギーの生産方法や消費の仕方を変えるにはどうすればよいか。

・無法者の惑星 私たちが暮しの中でますます依存するようになっている通信・センサー・データネットワークを、ハッキングやテロ攻撃や迷惑行為などによって混乱させようとする活動を見ていく。挑戦/グローバルにつながった社会でより安全にくらすためにはどうすればよいか。

・亡命世代 気候変動、経済崩壊、戦争などのために住まいや故郷の地を追われた三億人の難民や移民のために安全な居住地を確保できないという問題があるなかで、社会や政府を組織する難しさを見ていく。挑戦/従来の地政学的国境を越えて自分たち自身で自分たちを統治し、互いをより効果的に助け合うためにはどうすればよいか。

 

 繰り返しになりますが、これは2008年に実施されたゲームでの課題設定です。現在までの約10年間で起きた事件の数々を、まるで知っていたかのようです。ゲームマスターたちの先見の明には唸るほかありません。

 

 かつて「ユビキタス社会」という言葉がバズワードになった時代がありました。日常で接するあらゆるデバイスがネットワークに接続されて、人々がいつでもコンピューティングを利用可能になった社会のことです。実際にそういう世界が実現した今、この言葉は死語になりました。

 おそらく「ゲーミフィケーション」という言葉も、同じ道をたどっているのでしょう。今では多くのWEBサイトでレベルアップやポイント制、実績解除の概念が持ち込まれています。企業の人事部は、社員の「内発的動機づけ」に腐心しています。ゲームデザインの世界で培われた概念やテクニックを他分野で応用することは、珍しいことではなくなりました。中には、元々はゲームだったことを知らずに孫引きしている人々もいるでしょう。

 10年前の予言通り、現実世界はどんどんゲーム化している――。

 そう気づかされる、楽しい読書体験でした。