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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ホームレスを死なすべきではない理由

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 なぜ私たちの社会は、ホームレスを生かしておかなければならないのでしょうか? あるいは、なぜ私たちの税金は、生活保護受給者のために使われなければならないのでしょうか? テンプレ的説明は、こうでしょう:「将来のことは分からない。あなた自身だって、生活保護受給者やホームレスになる可能性がある。だから、経済的弱者は守るべきなのだ」と。

 でも、この説明に、説得力を感じない人もいるでしょう。

 いくら将来のことが分からないと言っても、現在の収入と資産残高を見れば「自分がホームレスになるリスク」を見積もることができます。そのリスクが極めて低いのなら、先述のテンプレ的説明は説得力を失います。小さなリスクのために多大な出費をする――たとえば巨大隕石の衝突に備えて自宅に地下シェルターを作る――ような人は、奇人・変人のレッテルを貼られがちです。

 ではなぜ、今の世の中では「ホームレスを死なすべき」という主張は認められないのでしょうか。「ホームレスを死なすべきではない」という理由の代表的なものを、ざっくりとリストアップしてみましょう。

 

 

功利主義的な答え

 道端でホームレスを見ると、あなたは不快感を覚えるかもしれません。「なんだか治安が悪くなったような気がする」という、恐怖心さえ抱くかもしれません。ホームレスを見掛けた通行人のうち、決して少なくない人が、そういう小さな「不幸」を味わうでしょう。

 けれど結局のところ、それらは小さな不幸であって、1時間後に職場で忙殺されているときには忘れてしまう程度のものです。通行人たちの味わう「不幸」をすべて合計しても、1人のホームレスが死ぬときに味わう「不幸」を超えられないはずです。だから、ホームレスを死なせるべきでない――。

 これが功利主義的な考え方です。

 功利主義は、18世紀にジェレミーベンサムにより考案され、19世紀にジョン・スチュアート・ミルによって磨き上げられた哲学です。現在の社会制度に、多大な影響を与えています。

 たとえば政府が新たな政策を策定するときに、「良い政策」とはどのようなものでしょうか? どんな基準を使って「良い/悪い」を判断すればいいのでしょうか?

 この疑問に対し、功利主義者は最大多数の最大幸福を目指すべきだと主張します。社会全体の「幸せ」の総合計を計算して、それがもっとも大きくなる判断をすべきだというのです。

 功利主義は、カビの生えた古臭い思想ではありません。むしろ、今まさに私たちの目の前にある現実を、形作っている思想の1つです。たとえば医療の世界におけるトリアージには、功利主義的な発想が色濃く影響しています(※少なくとも、私はそう考えています)。

 たとえば高齢者のほうが重症化しやすい疫病が蔓延しており、ワクチンの数が充分に用意できない状況を考えてみましょう。どこかで聞いたことがあるような状況ですね。若者だって重症化するリスクはゼロではないのに、おそらくワクチン接種の権利は高齢者から順番に与えられるはずです。

 なぜでしょうか?

 ここでは、年齢で差別せずにクジ引きでワクチンを割り当てたケースと比較してみましょう。年齢での差別をやめた場合、重症化する患者の数は(高齢者に優先的にワクチンを与えたケースよりも)間違いなく増えます。確率と頻度の問題です。つまり、社会全体の「不幸」の総量が増えてしまう。だから、ワクチン接種は高齢者を優先するべきなのだ――と功利主義者は考えます。

 功利主義の問題は、社会全体の幸福の総量に注目するがゆえに、個々人の幸福にはしばしば無関心になることです。

 たとえばワクチンの接種を受けられなかったがゆえに、疫病に感染してしまった若者のことを考えてみましょう。彼女が重い後遺症を負ってしまったとしましょう。彼女の運命は嘆くべき悲劇ですが、功利主義的には「知らんがな」ということになる。なぜなら、100万件のプラスの中にわずか1件のマイナスが混ざったとしても、依然として99万9999件のプラスだからです。

 功利主義は、ときに血も涙もない結論を導いてしまいます。ハリウッド映画のように1人の犠牲で世界が救われるなら、その1人は死ぬべきだという結論になってしまう。

 私は先ほど「通行人の感じる〝不幸〟の総量よりも、1人の死ぬ〝不幸〟のほうが大きいはずだ」と書きました。けれど、あくまでも「はずだ」としか言えません。もしもあなたが「いいや、通行人の感じる不幸の総量はとてつもなく大きいので、1人が死ぬのは仕方ない」と考えるのなら、「ホームレスは死ぬべきだ」という結論になってしまいます。

 人間は、そんな計算上の数字として扱われていいものなのでしょうか?

 もっと一人ひとりの人間を大切にする考え方はないのでしょうか?

 

 

 

②カント主義的な答え

 18世紀末に活躍した哲学者イマヌエル・カントは、人間は誰しも他人から道具のように扱われてはならないと論じました。彼の活躍がなければ、おそらく現代的な「人権」の概念は成熟しておらず、今の私たちが当たり前に享受している「自由」は存在しません。

「ホームレスを目にすると不快だから死ぬべき」という主張は、相手を道具以下のゴミのように扱っています。人間を道具のように利用してはならないというカントの発想からすれば、決して認められるものではないでしょう。

 カントは「自由」について徹底的に考え抜いた哲学者だった……と私は理解しています。たとえば好きな時間に起きて、好きなときに好きなものを食べて、ダラダラと生活する――。そんな気ままな生活が許される盆や正月には、私たちは自由を感じます。しかしカントによれば、こうした表面的な行動は、本当の「自由」とはあまり関係がありません。彼の考える「自由」の基準はかなり厳しいのです。

 カントは次のように論じる。動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。

――『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p174-175

 スプライト(もしくはほかの砂糖入り飲料)が飲みたいという気持ちは、遺伝子に刻まれているのだろうか、それとも広告によって誘発されたのだろうか。カントにすれば、このような議論は的外れだ。生物学的に決定されていようと、社会的に条件づけされていようと、そのような行動は本当に自由とはいえない。

――『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p176 

 しかし、あらゆる欲求や欲望、快感や苦痛といった刺激を超えて、 ヒトは何かの判断を下すことができるはずです。カントはそれら欲求や刺激を「傾向性」と呼んだそうです。ヒトは傾向性を無視して判断を下せる唯一の動物だと、カントは考えたのです。これら外因的な目的とは関係なく判断を下せるヒトの能力のことを、カントは「自律」と呼びました。

 自分が定めた法則に従って行動するとき、われわれはその行動のために、その行動自体を究極の目的として行動している。われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ。この能力が人格と物とを隔てているのである。

 ――『これからの「正義」の話をしよう』文庫版p178 

  

 

『シャンタラム』という小説の冒頭部分には、カント的な「自由」の概念がよく描かれています(※少なくとも私はそう感じます)。この小説は、こんな描写から始まります。

 愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、今自分が知っていることを学んだ。しかし、その核となるものが心にめばえたのはまさに一瞬の出来事だった。壁に鎖でつながれ、拷問を受けているさなかのことだ。叫び声をあげている心のどこかで、どういうわけか私は悟ったのだ。今の自分は手枷足枷をされ、血を流している無力な男にちがいないが、それでもなお自由なのだと。拷問している男を憎む自由も、その男を赦す自由もあるのだと。どうでもいいようなことに聞こえるかもしれない。それはわかっている。しかし、鎖に噛まれ、痛さにひるむということしか許されない中では、その自由が可能性に満ちた宇宙となる。そこで憎しみと赦しのどちらを選ぶか。それがその人の人生の物語となる。

 ――『シャンタラム』新潮文庫版(上)p9

 なぜ主人公は、「拷問している男」を許されなければならないのでしょうか?

 逆に、なぜ彼を憎む必要があるのでしょうか?

 ここで重要なのは「何かのため」とか「必要性」ではありません。憎むことも許すこともできるという、選択の余地があるという点です。こういう過酷な状況に置かれたときに、自分はどんな行動を「正しい行動だ」と考えて、原則とするのか。自分の行動原理にするのか――。

『シャンタラム』の主人公が見せた、原則や行動原理を選べる「自由」こそ、カントの考える「自由」ではないでしょうか。

 

 カントの哲学の問題点(?)は、その難解さです。

 18世紀末のヨーロッパの学者たちが何を問題だと考えて、どんな議論を展開していたのか――。当時の空気感や世情まで頭に入れておかないと、彼の思想をきちんと理解することはできないと思います。正直なところ、私自身も「完璧に理解できたぞ!」という実感から程遠いところにいます。

 とくに分かりにくいのは、議論の大前提になっている部分です。カントは、上記のような「自由」を持つ人間は尊厳に値するものであり、誰かの道具のように扱われてはならないと論じました。でも、なぜ尊厳に値するのかはイマイチ分かりません(※もちろん私も感情的には「尊厳に値する」と感じますが、その背後にある論理が分からないのです)

 どちらかといえば、相対性理論における「光の速さは一定である」とか、Magic: the Gatheringにおける「カードはルールに優越する」のような、アプリオリな前提としている印象を受けます。「尊厳に値する」という前提に疑問を差し挟むのは一旦置いといて、ここから議論を組み立てましょう――みたいな感じでしょうか。

 もっと単純明快で、私のようなぼんやりした脳みその持ち主でも理解できる考え方はないのでしょうか?

 

 

 

ロールズ主義的な答え

 ジョン・ボードリー・ロールズは、20世紀に活躍した政治哲学者です。彼の考案した「無知のヴェール」という思考実験は、その分かりやすさが魅力です。

 もしもこの世界に、普遍的な正義と呼べるものがあるとしたら、誰から見ても「正しい」と感じられるものであるはずです。どんな立場の人が見ても、また、どんな時に見ても、「正しい」と言えるものであるはずです。

 ここで〝無知のヴェール〟の出番です。

 このヴェールを頭からかぶると、あなたは自分自身が誰だったかを忘れます。どんな性別で、どんな年齢で、どんな立場だったのかを忘れます。ある考え方を正義と呼ぶためには、このヴェールを被った状態でも「正しい」と感じられるものでなければなりません。

 たとえば「親は大切にすべきだ」という考え方で実験してみましょう。もう一歩踏み込んで、「親を殺した場合は、通常の殺人よりも重たい罰を与えるべきだ」という考え方を〝無知のヴェール〟でテストしてみましょう。

 素朴に考えれば、親を大切にするべきだという発想は害のあるものには思えません。親殺しを重罪に問うのは、家族を大切にすることを奨励します。なかなか良さげなアイディアに思えます。

 では、ここでヴェールを脱いでみると――。

 あなたは10代の頃から性的虐待を受けており、結婚のチャンスさえも奪われて、ついに父親を殺してしまった20代後半の娘でした。もしもあなたがそういう立場の女性だったとして、「親殺しは重罪に問うべき」という発想を「正義」だと感じられるでしょうか?

 実際、明治時代に制定された日本の刑法第200条では、親殺しは通常の殺人よりも重たい罰が設定されていました。通常の殺人は3年以上~無期の懲役または死刑であるのに対し、親殺しは無期懲役または死刑のみでした。もしも親を殺してしまったら、一番軽い罰でも無期懲役だったのです。

 この規定は、かなり後の時代まで残りました。

 1968年、上記のような不幸な境遇の女性が、自分の父親を殺してしまいました。しかし、すでに時代は変わり、私たち日本人の価値観も変わっていました。1973年に最高裁判所は、刑法第200条が違憲であるという判決を下します。そして1995年の刑法改正で、この条文は削除されたのです。

 現代の日本では、親殺しと通常の殺人の間に法律上の差別を設けていません。自分に親切にしてくれた相手を殺せば、それが親だろうと他人だろうと、残虐な事件だと判断されるでしょう。虐待の末に反撃して相手を殺してしまったのであれば、それが親だろうと他人だろうと、情状酌量の余地があるでしょう。このように差別を設けていないことを、多くの日本人は「正しい」と感じるはずです。

 刑法第200条が削除されるまでの議論は、それだけで何冊も本が書かれています。違憲判決を下した裁判官たちを始め、当事者たちがどんなことを考えていたのか、ここですべてを紹介することは不可能です。

 この記事では、なぜ日本人はこの違憲判決を「正しい」と感じたのかを考えてみましょう。なぜ親殺しと通常殺人に差別を設けないことを、私たち日本人(の多く)は、正義に適うものとして受け入れたのでしょうか?

 ここでも百家争鳴の色々な考え方があると思いますが――。

 一番シンプルで分かりやすい説明は、ロールズの〝無知のヴェール〟を使ったものだと思います。

 要するに、私たちはこの世界に普遍的な正義があって欲しいと感じているし、法律はそれを実現するものであって欲しいと考えているのでしょう。たしかに「親を大切にすべし」という発想は、それ自体ではさほど害はありません。家族を大切にせよという発想そのものは、人々を孤独から救うというメリットさえあるでしょう。孔子儒教を立ち上げた時代には、社会の秩序を守るためにも必要な考え方だったのかもしれません。

 しかし、現代は孔子の生きた時代ではないし、すべての親が大切にするに値するほど立派な親だとも限りません。「親殺しは重罪に問うべきだ」という発想には、あまりにもたくさんの例外があるため、普遍的な正義とは呼べません。〝無知のヴェール〟によるテストを突破できないのです。

 ここで、「ホームレスは死ぬべきだ」という主張に戻りましょう。

 あなたは無知のヴェールを被った状態でも、この主張を正しいと思えるでしょうか? 

 ヴェールを取り去ったときに、あなた自身がホームレスかもしれないのに?

 

 

 

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 とはいえ、ロールズの〝無知のヴェール〟も万能でありません。

 ひとことで言えば「考え方は人それぞれ」だからです。

 たとえ同じように〝無知のヴェール〟を被り、自分自身がどんな人物であったかを忘れた状態でも、何を「正義」と感じるかは人によって――もっと言えば、そのヒトの脳神経の配線や状態によって――違います。

 たとえば有名な「トロリー問題」について考えてみましょう(※日本では「トロッコ問題」という呼び名のほうが一般的でしょうか?)

 暴走する路面電車(=トロリー)の先に、5人が線路に縛り付けられています。あなたは線路の分岐スイッチのそばに立っていて、路面電車の行き先を変えることができます。しかし、何ということでしょう! 分岐線の先には1人が線路に縛り付けられているではありませんか! この状況で、あなたは分岐線を切り替えるべきでしょうか?

 これがトロリー問題の基本形である「分岐線シナリオ」です。1人の犠牲で5人を救える場面に直面したときに、どんな行動を取ることが倫理的なのかを考える思考実験です。

 トロリー問題の発展形の1つが「太った男シナリオ」です。暴走する路面電車の先に5人が縛られている……という点は同じ。ただし、今回のあなたは分岐スイッチのそばではなく、跨線橋(こせんきょう)の上にいます。あなたのすぐ隣には太った男がいて、線路を覗き込んでいます。彼を突き落とせば、路面電車を止められるとあなたは知っています(※なお、あなた自身は体重が軽すぎて飛び降りても路面電車を止められません)。この場合、あなたは太った男を突き落とすべきでしょうか?

 功利主義的に考えれば、分岐線シナリオと太った男シナリオにはさほど違いがありません。「1人が犠牲になり、5人が救われた」という結果だけを見れば同じです。

 その一方で、死ぬことが分かっていて死なせることと、殺そうとして殺すことは違うという立場もあります。

 たとえば500mlの薬品で救える重症患者1人と、100mlの薬品で救える軽症患者5人がいて、しかし手元にはその薬品がぴったり500mlしかないケースを考えてみましょう。重症患者1人を見殺しにして軽症患者5人を救った……としましょう。

 それとは別に、健康な若者を1人捕まえてきて、バラバラに解体して、臓器移植を待つ5人の患者を救ったケースも考えてみましょう。

「1人の犠牲で5人が助かった」という結果だけなら同じです。が、500mlの薬品シナリオと臓器移植シナリオを「まったく同じだ」と感じる人は少ないのではないでしょうか。前者の薬品シナリオは悲しいけれど仕方のない犠牲だと感じるのに対して、後者の臓器移植シナリオは明白な殺人事件だと感じる――。そういう読者のほうが多いはずです。

 死なせることと殺すことは違うと主張する立場は、以上のような思考実験に基づいています(※二重結果論)。この立場から見ると、分岐線シナリオと太った男シナリオはまったくの別物です。分岐線シナリオは「薬品シナリオ」に近いのでセーフ、太った男シナリオは「臓器移植シナリオ」に近いのでアウト……という判定になるでしょう。

 問題は、このような考察の結果が人によって違うという点です。

 高校数学の試験問題のように、考え抜けば誰でも同じ結論に至るというようなものではありません。その人の育ちや経験、生まれつきの傾向、さらには同じ人でも置かれた状況やその時の気分によって、「正しい」と感じる答えが変わってしまうのです。

(※トロリー問題に関する)大規模調査がBBCによってオンラインで行われ、6万5000人が参加した。…BBCの調査では、だいたい5人のうち4人が、(※分岐線シナリオで)路面電車の進路を分岐線へ向けることに賛成だと分かった。一方、太った男を跨線橋から突き落とすべきだと考える人は、4人に1人だけだった。その他の研究では、90パーセント近い人が路面電車を分岐線へ向け、90パーセントまでの人が太った男を突き落とさないことが分かった。

――デイヴィッド・エドモンズ『太った男を殺しますか?』p137

  このようなアンケート結果を見ると、大抵の人は「多数を救うためなら少数の犠牲は致し方ない」という功利主義的な結論に合意しており、また「死なせることと殺すことは違う」という二重結果論を受け入れていることがうかがえます。

 が、全員がそれを認めているわけではないことも分かります。

 5人に1人は、分岐線を切り替えるべきではないと考えています。4人に1人は、分岐線シナリオと太った男シナリオに違いはないと考えているようです。トロリー問題ほどシンプルな状況設定でも意見の一致が見られないのに……普遍的な正義ですって?

 そんなもの、本当にあるのでしょうか?

 

「正義」について考えるのは、この辺りにしておきましょう。

 そもそも「正義」は、ブログ記事の限られた文字数の中で論じきれるようなものではありません。

 近代化により宗教が力を失った結果、私たちは絶対的な「善」も失いました。特定の宗教に帰依していない大多数の日本人にとって、「善悪」は僧侶や神主、神父、牧師から教わるものではなくなりました。1人ひとりが自分にとっての「善」を考えなければなりません(※だからこそ、いい加減なYouTuberやブロガーの言い分に従うのではなく、きちんとした教養を身に着けて自分で考える必要がある……とも言えます)(※※ここでいう「いい加減なブロガー」には私自身も含まれます)

 

 では、善悪を問わなければどうでしょうか?

 倫理的な判断とは無関係な立場から「ホームレスを死なせるべきではない」と主張することは可能でしょうか?

 

 

 

ドーキンス的な答え

 リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』ほど、読んでいない人からの誤解に基づく批判が多い本もそうないでしょう。この本は、ヒトの本性が利己的なものだとは主張していません。利己性が遺伝的に刻み込まれているとも主張していません。たしかに生物が遺伝子の乗り物(ヴィークル)であるという表現はありますが、私たちが自由意志を持たない遺伝子の操り人形だとは主張していません。というか、自由意志に関する議論は、この本では重要視されていません。

 タイトルとは裏腹に、この本は生物の「利他性」について論じています。

 古典的な進化論や遺伝学に基づいて考えれば、生物はどこまでも利己的にふるまうはずです。小学生時代に、飼育していたザリガニが共食いをしてしまいゾッとした――なんて経験をした人も多いでしょう。栄養摂取という面で考えれば、共食いはとても効率的です。自分の体と同じ成分でできたものを、食べ物として摂取するのですから。

 しかし実際には、共食いをしない動物が珍しくありません。

 それどころか、鳥類や哺乳類の親は甲斐甲斐しく子供の世話を焼き、サルたちは楽しそうにお互いの毛繕いをします。子犬や子猫はプロレスをして遊びます。似たようなじゃれ合い行動は野生動物にも見られます。働きアリたちは、女王アリのためなら文字通り身を挺して働きます。

 このような「利他的な行動」がいかにして生じうるのかを、この本は論じているのです。

 

 血縁者同士が協力的な行動を取ることは、わりと簡単に説明できます。

 私たちヒトのような哺乳類の場合、親子は(確率的に)1/2の遺伝子を共有しています。つまり遺伝子で換算すれば、親が子の世話をすることは、自分の半身を世話することに等しいのです。哺乳類の多くが子供の世話をするのは、自分自身がもう一度繁殖するよりも、その子が繁殖できるようになるまで成長を手助けするほうが、より効率的に遺伝子を残せるから――そういう環境で進化してきたからに他なりません。

 同じことは、他の血縁者にも言えます。

 両親を共にするきょうだい間は、やはり1/2の遺伝子を共有しています。また、おじ・おばと甥・姪の間では、1/8の遺伝子を共有しています。祖父母と孫の間では1/4の遺伝子を共有しています。要するに、血縁者の世話をすることは、何分の一かの自分自身を世話することと等しいのです、遺伝子で換算すれば。 

 このように「遺伝子で換算してどれほど自分と同じか」に基づいた考え方は、包括適応度という概念でまとめられています。

 

 

 

 問題は、非血縁者同士でも協力的な行動を取りうることです。

 血縁がないどころか、コヨーテとアナグマのような別種の間でも、共生関係を作り、協力して狩りをするケースがあります。このような行動が、なぜ生じうるのでしょうか?

利己的な遺伝子』では、この疑問の答えとして主に経済学のゲーム理論、とくに「囚人のジレンマ」についての研究を紹介しています。

 囚人のジレンマがどんなゲームであるかは――ここでは説明を割愛しましょう。めちゃくちゃ有名なゲームなので、ご存じの方が多いはずです。「初めて聞いた!」という方は、ネット上の様々な場所に解説があると思います。できるだけ信頼できる情報ソースを読んでください。できれば紙の本を1冊読んだほうがいいでしょう。

「協力」と「裏切り」の2つの戦略しか選べない2者が向き合ったとき、彼らが合理的であるほど、お互いに裏切るという結果に陥ってしまう……という悲観的な予測を「囚人のジレンマ」ゲームはもたらします。

 ただし、これはゲームの回数が一度きりだった場合です。

利己的な遺伝子』では、政治学者ロバート・アクセルロッドの行ったコンピューターシミュレーションを紹介しています。「囚人のジレンマ」ゲームを何回も(※アクセルロッドの実験では200回)繰り返したときに、もっとも好成績を残すのはどんな戦略なのかを探ろうとしたのです。アクセルロッドは様々な研究者に参加を募り、コンピュータープログラムの提出を求めました。

勝利を収めた戦略は、驚くべきことに、もっとも単純で、表面的には全部の中でもっとも巧妙さに欠けるものであった。それは「やられたらやり返す(tit for tat――しっぺ返しとも訳される)」と呼ばれ、提案者は有名な心理学者で、ゲーム理論家であるトロント大学のアナトール・ラパポート教授であった。「やられたらやり返す」は最初の勝負は協力ではじめ、それ以後は単純に前の回に相手が引いた手をまねするだけである。

――『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』p324

 相手が誰であろうと、初手では必ず「協力」を選ぶ――。

 2手目以降では、1手前の相手の手を真似する。相手も「協力」を選んでいれば協力を続けることができますし、相手が「裏切り」を選んでいれば、こちらもしっぺ返しとして裏切ってやるわけです。アクセルロッドのシミュレーションでは、この戦略がもっとも良い成績を残しました。

 じつのところ『利己的な遺伝子』は、1976年に初版が出版された〝古典〟です。書かれた内容にも古いところが目立つようになり、現在では修正が必要な箇所も増えてきています。このアクセルロッドの研究も例外ではありません。

「しっぺ返し戦略」が好成績を収めたのは、あくまでもアクセルロッドのシミュレーションの中での話です。いつでもどんな条件でも好成績を残せる最強の戦略というわけではありません。また、生物の暮らす自然界が極端に複雑なのに対して、アクセルロッドのシミュレーションは極端に単純化された条件下で行われています。このシミュレーションが自然界を再現したものかどうかには、大きな疑問符がつきます。

 とはいえ、です。

 特定の条件下では、しっぺ返し戦略――初手で「協力」を選ぶ戦略――が適応的になることを、アクセルロッドは示しました。この功績は、現在でも無視できるほど小さなものではないでしょう。

 しっぺ返し戦略の発想は、「ホームレスを死なすべきではない理由」に援用できるかもしれません。相手が誰であっても、私たちは初手では「協力」を選択したほうが適応的なのかもしれません。たとえ相手がホームレスであっても、最初の一手目では友好的な態度で臨んだほうが、長期的には自分自身のためになるのかもれません。

 要するに、「情けは人のためならず」という話なのでしょう。

 他人に情けをかけることは、巡り巡って自分のためにもなる。そういうケースが珍しくないのです。

 

 

 

⑤包括適応度に基づく答え

 あくまでも私の肌感覚ですが、日本はカントやベンサム、ミルやロールズのように「普遍的な正義」を追求した西洋哲学の影響が弱いように感じます。

 日本の主要な宗教である仏教には、聖書やコーランのような唯一絶対の経典がありません。宗派にもよりますが、仏教は膨大な数の経典によって成り立つ宗教です。また神道に至っては、明治になるまで組織化されておらず、それぞれの地域ごとに独自の神が祀られていました。現代でも神社本庁に属さない単立神社が多数残っています。

 こうした文化的な背景から、「普遍的な正義」を求める気持ちが日本社会には弱いのかもしれません。唯一神の決めた絶対の正義があるという発想よりも、「正義や正しさは人それぞれ」という発想に共感を覚える人のほうが多いのではないでしょうか。

 だとすれば、「ホームレスを死なすべきではない理由」も、正義を問うアプローチでは理解と共感を得にくいかもしれません。「将来のことは分からず、あなたもホームレスになるリスクがある」という回答がテンプレになっていることが、その証拠でしょう。このテンプレ回答は、聞く人の正義感に訴えているのではなく、個人的な損得勘定――つまり利己性に訴えています。

 日本人の多くにとっては、社会の普遍的な正義などよりも、個人の損得勘定や血縁主義のほうが大切なのでしょう。身内のほうが大事なのでしょう。それが良いか悪いかは、この記事では問いません。ここで考えたいのは、血縁主義から「ホームレスを死なすべきではない」という発想を導けるかどうか、です。

 導くことができる、と私は思います。

 自分自身がホームレスになるリスクが極めて低いとしても、自分の子孫や血縁者が2~3世代後に働かない/働けない状態になるリスクに備えて、「ホームレスでも生きていける世の中」にしておくことは適応的でしょう。

 先述の通り、親子やきょうだいは1/2の遺伝子を共有しています。祖父母と孫は1/4、おじおばと甥姪は1/8の遺伝子を共有しています。あなたが血縁者に親しみを覚えるのは、文化的にそう条件づけられているからというだけではありません。何分の一かは自分自身と同じ存在であるがゆえに、親しみを覚えやすいように(生まれつき)傾向づけられているのです。血縁者に親しみを覚える個体のほうが、そうでない個体よりも遺伝子を上手く残すことができたから、私たちの脳にはそういう傾向が進化してきたのです。

 数世代後の自分の身内がどんな生活をしているか――。色々なシナリオを思い浮かべられるだけの想像力があれば、社会のセーフティーネットはできるだけ広いほうがいいという結論になるはずです。

 人の親であれば、子供がいかに親の思い通りには育たないものであるかを思い知っているでしょう。1/2は自分と同じであるはずの実の子供でさえ、そうなのです。それ以上に離れている数世代後の子孫たちが、果たしてあなたの思い通りの生活をしているでしょうか? 彼らがホームレスになるリスクがまったくないと、なぜ言えるのでしょう?

 天涯孤独の人は、そう多くありません。人は木の股から生まれてくるわけでもありません。あなた自身に子供がいないとしても、甥や姪はいるかもしれません。あなた自身にきょうだいがいないとしても、いとこやはとこはいるかもしれません。彼らには子供がいるかもしれません。

 どこまでを「血縁者」と見做すかにもよりますが――。

 社会的弱者に優しい世の中を作ることは、あなた自身の包括適応度を高めるはずです。

 

 

ニヒリズムまたはヒューマニズム的な答え

「ホームレスや生活保護受給者は、役に立っていない。だから死んでもいい」という主張は、「そもそも人類なんて何の役にも立たないじゃん」というニヒリズムの立場からも反論可能です。

 俺もお前も、地球の役に立っていないじゃん。自然環境を破壊しながら資源を消費しつつウ●コを垂れ流しているだけで、宇宙から見れば全然価値がないじゃん――。この視点に立つと、そもそも「役に立つかどうか」で他人を評価すること自体が無意味でバカバカしいものになります。

「ヒトは生きているだけで価値がある」だから「役に立つかどうかで評価すべきではない」というヒューマニズム的な解釈も、じつはニヒリズム的な見方と表裏一体だと私は感じます。

 宇宙から見れば、人間に価値はありません。そもそも〝価値〟を測る主体が、宇宙には存在しません。だからこそ、人間の価値は人間自身が作るしかない。結果、「人間は生きているだけで素晴らしい」というヒューマニズム的な発想に繋がるのではないでしょうか。

 

 「ヒトは1人では生きていけない」という常套句も、ここで登場します。

 ロンドンの名門美大の学生だったトーマス・トウェイツは、ある日、トースターがわずか4ポンドで投げ売りされているのを目撃しました。彼はそのトースターを購入して、自宅で分解してみます。そして、じつにたくさんの部品で構成されていることに驚きます。これほど高度な工業製品が、わずか4ポンドで売られていた――。

 ならば、とトウェイツは考えました。

 もしも自分でゼロからトースターを作ったら、いくらかかるのだろう?

 金属の鉱石を採取して精錬するところから始めたら?

 学生らしい行動力で、彼は実際に挑戦しました。9か月におよぶ苦闘の末に、彼は卒業制作としてトースター(のようなもの)を組み立てたのです。その顛末は『The Toaster Project』として話題になり、書籍にもまとめられました。

 彼のみすぼらしいトースターは、私たち人類がいかに「分業」に支えられているのかを示しています。「他者からのサポート」と呼んでもいいでしょう。私たちは、自分1人の力ではまともな工業製品を作れません。ましてや4ポンド(※約600円)で作ることなど不可能です。他人の力を借りなければ、私たちは毎朝のトーストを焼くことすらままならないのです。

 たとえば私自身はコメの育て方を知らず、CPUの設計方法も知りません。それでも食べ物に困らず、パソコンを通じてブログを更新できます。なぜなら、この世界にコメを育ててくれた人がいて、CPUを作ってくれた人がいるからです。彼らのサポートがあるから、私はクーラーの効いた部屋でキーボードを叩いて暮らしていけるのです。

 言葉を変えましょう。

 私は資本主義市場を通じて、お金と引き換えに彼らのサポートを得られます。生活のために他者のサポートを必要としている点で、私と生活保護受給者の間に大きな違いはありません。ただ、生活に必要な資源を得る権利――権原――を、私は資本主義市場から得ており、生活保護受給者は社会保障制度から得ているというだけの違いです。

 社会保障制度は、飢餓との関係でとりわけ重要である。豊かな先進国で飢饉が生じない理由は、人々が平均して豊かだからではない。仕事を持ち相応の賃金を稼いでいるかぎりにおいては確かに豊かであろうが、この条件を長い間満たすことができない人々も多く存在する。もし社会保障制度がなかったならば、彼らの所有物の交換権原からは、実に微々たる財しかえることができないであろう。イギリスやアメリカで現在〔※1980年頃〕見られるような高い失業率のもとでは、仮に社会保障制度がなかったならば飢餓が蔓延し、飢饉すら生じる可能性がある。これを防いでいるのはイギリス人の所得や富が平均して高いことでもなければ、アメリカ人が一般に富裕なことでもない。社会保障制度のおかげで最低限の交換権原が保障されていることなのである。

――アマルティア・セン『貧困と飢餓』p10

 たとえば新石器時代の狩猟採集民が、現代の新宿にタイムスリップしてきたとしたら、誰一人として働いていないことに驚くはずです。机に齧りついて、ちかちかと光る板の前で首をひねったり頭を掻いたりしながら、ひたすら指を動かして――。

 森の中の獲物たちとの知恵比べで日々を過ごしていた新石器時代人から見れば、現代人の生活はきっと遊んでいるようにしか見えないでしょう。「遊びみたいなこと」で食べていける社会を、私たちは果てしない分業の末に生み出したのです。

 

 

 

■最後に:内心の自由表現の自由

 今回の記事では「ホームレスを死なすべきではない理由」を、6つのパターンに分けて考えてみました。

功利主義的な答え:ホームレスを目にすることで通行人が感じる不幸の総量よりも、1人の人間が死ぬときに感じる不幸のほうが大きいはずだ。

②カント主義的な答え:人間は誰しも他人から道具のように扱われてはならない。

ロールズ主義的な答え:「ホームレスは死んでもいい」という考え方は、〝無知のヴェール〟を使ったテストを突破できない。

ドーキンス的な答え:しっぺ返し戦略が適応的だとしたら、誰が相手でも最初は友好的に接したほうがいい。

⑤包括適応度に基づく答え:数世代後の血縁者まで視野を広げれば、弱者へのセーフティーネットが整備された社会はあなた自身の包括適応度を高める。

ニヒリズムまたはヒューマニズム的な答え:「役に立つかどうか」で他人を評価するのはバカバカしい。どうせヒトは1人では生きていけない。俺もお前もホームレスも同じ。

 

 誰でも、新宿駅西口でダンボールを敷いて寝ているホームレスを見たときに「不快だな」と感じる自由はあります(※内心の自由)。「不快だから死んでもいい」と言う自由もあります(※表現の自由)。

 心の中で何を考えているか、外から判別することはできませんし、何を考えるべきかを他者が指図することもできません。「ホームレスを見ても不快に感じてはならない」というルールを作りたくても、それを強制する手段がありません。カントが考えたように、内心の自由は誰にも奪えないのです。

 また、その不快感を表明することも自由です。

 もちろん「殺してやりたい」のような表現では、脅迫に該当するので控えたほうがいいでしょう。権利は、他者の権利を侵害しない範囲で最大限に認められるものです。この点で、脅迫行為と表現の自由は衝突する関係にあります。いくら表現の自由があると言っても、暴力を仄めかしたり、差し迫った恐怖を与えるような表現までは認められません。他者への権利侵害になるからです。

 とはいえ、「死んでもいい」くらいの表現であれば、さすがに脅迫には該当しないと私は感じます。この程度の表現であれば、言葉にする自由を認めておいて欲しいものだと思います。「殺す」と直截的に言っているわけではないのですから。

 しかし、です。

 表現の自由を行使するときには、同じく表現の自由を持つ人たちからの反撃を受ける覚悟は必要でしょう。社会の通念や価値観、倫理観に反することを表現する際には、絶対に必要な覚悟です。

 ましてや、地動説が常識になった時代に天動説を唱えるような、周回遅れの主張するときなら尚更です。たとえばコペルニクスケプラーガリレオニュートンが活躍した科学革命の時代には、人類はすでに地球は丸いと知っていました。その時代に地動説を唱えることは、本当にアバンギャルドで革命的なことでした。

 世の中の常識に逆張りするのなら、そういう進歩的な方向で〝逆張り〟したいですね。私自身もこのブログでは、かつて、逆張り逆張りを重ねた記事を書いてきました。〝逆張り〟すること自体は、悪いことだとは思いません。

 だからこそ、地球平面説に戻るような〝逆張り〟はダサいと思うのです。

 

 

 

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 私が原作を担当している『神と呼ばれたオタク』が、くらげバンチにて連載中です!

 

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