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ニューヨーク、21世紀が始まった場所。/米国訪問記(2)

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エンパイアステートビルロックフェラーセンターも後回しにして、私は911メモリアル・パークを訪ねた。なぜなら、そこが「21世紀の始まった場所」だと思うからだ。
20世紀は1904年2月8日の旅順港で始まった。日露戦争は世界初の国家間の近代戦争であり、「国家と戦争の時代」という20世紀の特色を決定づけた。一方、21世紀は「個人の時代」である。この時代を決定づけた事件があるとすれば、それは間違いなく9.11米国同時多発テロだろう。21世紀はニューヨークで始まった。





20世紀は「国家と戦争の時代」だった。
二度の世界大戦と多数の紛争により、国境が何度も書き換えられた。近代戦争は総力戦であり、勝利には国民の協力が欠かせない。だから国家が強い権限を持ち、国民の権利を制限することもいとわなかった。その最たる例は、第二次大戦中の日本軍のカミカゼだろう。程度の差はあれ、あらゆる国家が強制力を持ち、国民を統率していた。20世紀は戦争の世紀だった。国家の世紀だった。
1904年2月8日、旅順港に停泊してたロシア艦隊を、日本海軍の主力艦隊が奇襲。日露戦争が勃発した。日露戦争は日本にとって初めての本格的な対外戦争だったというだけでなく、世界で最初の近代戦争──工業化を果たした先進国同士の総力戦──だった。
近代戦争の特徴は、被害の大きさにある。19世紀末に発明された無煙火薬と機関銃を皮切りに、第一次世界大戦では戦車、潜水艦などの新兵器が次々に投入された。結果、戦闘のたびに大規模な殺戮が行われるようになった。また勝敗の決定要因も変わった。鉄道、電信、工業力が勝敗を握るようになり、前線以外の場所も戦争に巻き込まれるようになった。田舎町の主婦までもが軍需産業に駆り出される時代になったのだ。
第二次大戦後には、戦争のあり方は2つの方向に進む。
1つは超大国同士の対立、すなわち米ソ冷戦だ。たとえば同じ水槽の中に多数のザリガニを入れておくと、共食いを始めて数を減らしていく。やがて対等の力を持つ2匹だけが生き残る。同様に、たび重なる世界大戦のすえに、対等の力を持つ2国だけが残ったのだ。近代戦争は総力戦であり、より多くの国民と、より高い工業力と、より豊かな経済力を持つ国が勝利する。言い換えれば、より大きな国が勝利する。近代戦争を繰り返せば、必然的に超大国同士の冷戦に陥る。軍備の大規模化は止まらず、人類は地球を何度も滅ぼせるほどの核兵器を作った。
もう1つは民族主義の台頭だ。第二次世界大戦後、世界中の様々な地域で民族主義が力を強めた。1つの民族で1つの国家を作り上げる:これが「国民国家(nation-state)」の基本的な発想だ。植民地となっていた地域は宗主国からの独立を望むようになり、また民族問題を理由に紛争が繰り返された。
たとえばベトナムは19世紀半ばからフランスの植民地支配を受けていた。第二次世界大戦中には日本がフランス軍を破り、傀儡政権を樹立。しかし日本は戦争に敗れ、1964年にはフランスから再植民地化を受けることになる。ところがベトミンは日本の傀儡政権もフランスの支配も受け入れなかった。これをきっかけにインドシナ戦争が始まり、やがて泥沼のベトナム戦争へと発展していく。
近代戦争にせよ、民族紛争にせよ、キーワードになるのは「国家」だ。
国家同士が覇を競った結果、戦争の惨禍は極度に増大した。また単一民族で単一の国家を作ろうと願った結果、世界中で紛争が起きた。20世紀は「国家」と「戦争」の時代だった。







21世紀はどんな時代になるのだろう?
私は、国民国家が解体されて、無名の個人が力を持つ時代になると思う。理由は3つある。まず経済的な相互依存が深まった結果、国家間の総力戦の可能性が低くなったこと。次に情報技術が発展した結果、カリスマのあるリーダーがいなくても人々が団結できるようになったこと。そして何より、国家と個人の利害が一致しなくなったことだ。
国家間の経済的な依存が深まると、総力戦の可能性は低くなる。たとえばあなたの着ているシャツのタグを見てほしい。Made in Chinaと書かれているのではないだろうか。また、日本はロシアから膨大な量の燃料を購入している。もしもこれが途絶えれば光熱費が上がり、海外で販売される日本車の値段も上がるだろう。現在、世界経済は複雑化の一途をたどっている。アメリカと日本が総力を結集すれば、中国やロシアに勝つことも不可能ではないかもしれない。が、勝てたところで、私たちは翌日に履く靴下にも困るようになってしまうのだ。
今後も、領土問題などを巡って国境地帯では小競り合いが起きるだろう。しかし経済の相互関係が複雑になり続ける限り、国家間の総力戦が起きる可能性は低くなる。
また情報技術が発展した結果、人々はリーダーがいなくても社会を変えられるようになった。かつては、たとえばマハトマ・ガンジーチェ・ゲバラのようなリーダーがいなければ人々は団結できなかった。優れたリーダーの存在によって、人々は心を1つにして社会を変革してきた。ところが現在では、情報技術の発展によりリーダーがいなくても人々は心を1つにできるようになった。「アラブの春」には、カリスマ的なリーダーはいなかった。
カリスマ的なリーダーが権力と結びつくと、かんたんに独裁に陥る。
ムバラク金日成も、最初は理想の指導者として人々から歓迎されたことを忘れてはならない。国家が強い力を持ちえた時代だからこそ、リーダーのカリスマが独裁になりえたのだ。ところが現在では、ネットを通じて人々は想いを1つにできる。リーダーの必要性は低くなった。今では何のカリスマもない無名の個人でも、集まれば世の中を変えられる。
そして何より、現在では国家と国民の利害が一致しなくなった。
これは「国民国家の解体」という現象のいちばん大きな原因だ。
かつては国家と国民は一蓮托生だった。国民は稼いだカネを税金として国家に収め、国家は国民の幸福のために税金を使った。自国民を守るには、他国との戦争が避けられないこともあった。税金で橋や道路を造るのは、自国に雇用を創出するためであり、それら公共施設が使用されることで自国の経済を豊かにするためだった。
20世紀は、正義と悪が分かりやすかった。国家と国民の利害が一致しているので、国家の敵は国民の敵でもあった。政府が「あの国は悪い国だ」と宣言すれば、国民にとってもその国は悪い国になった。
ところが現在では、国民は稼いだカネを国家に納めなくなりつつある。成功している人ほど租税回避地を利用しがちになった。また日本では、財政政策の利権化が問題視されている。経済振興のためではなく、ただ票を集めるためだけに、使いもしない橋や道路を作っているのではないか──。そんな批判をしばしば耳にする。
さらに、正義と悪が分かりにくくなった。政府が「悪い国だ」と宣言した相手が、自分にとっては重要な取引先の国かもしれない。さらに敵が「国」だとは限らない。テロリストは私たちの日常生活に溶け込み、よき隣人だったはずの人が、ある日突然本性を現すかもしれない。
国家にとって「良いこと」「悪いこと」が、個人にとっても同じだとは限らなくなった。端的にいえば、国家と個人の利害が一致しなくなった。国民国家の力は弱くなり続けている。よくも悪くも「個人」が力を持つようになった。
このような21世紀という時代の特色を決定づけたのは、9.11だ。
国家対国家の戦争ではなく、新しいタイプの戦争が始まった。映像は全世界に生放送された。ネット上では、世界中の人々がこの事件について議論した。テロリストたちは国民国家の一兵卒として攻撃に参加したのではなく、個人として破壊活動に走ったのだ。





※ブルックリン橋。9.11の際には多くの人がこの橋を渡って避難した。



ナショナリズムは18世紀のフランスで生まれた。国に命を捧げた兵士たちは他国の傭兵よりもはるかに強く、フランスはヨーロッパを席捲した。これに対抗するには、どの国も国民国家になるしかなかった。こうして世界中に国民国家が広まった。ナショナリズムは人間が本能的に持っている愛郷精神とは別のものだ。20万年以上のホモ・サピエンスの歴史からすれば、ナショナリズムはつい昨日生まれた一時的な価値観にすぎない。
現在、国民国家という制度は寿命を迎えつつある。
もはや国民と国家の利害が一致しなくなり、国民国家は急速に解体されている。
こうした状況下では、権力者たちはむしろナショナリズムを煽るようになるだろう。彼らの権力は、国民国家という制度によって保障されている。国民国家の解体をいかにして止めるかが、彼らにとって死活問題なのだ。
また国民国家の解体が進む状況下では、国民は政治に興味を持たなくなる。国家と国民が一蓮托生な時代には、国の政策について考えることが国民にとって重要な課題だった。しかし現在では、国家がどんな政策を取るべきかよりも、国家を選ばずに世界中のどこででも暮らしていける能力を身につけるほうが、個人にとって重要な課題だ。こうしてごく一部の保守的な人々だけが政治に興味を持つようになり、権力者たちはますます過激なナショナリズムに訴えるようになる。





ワンワールドトレードセンター。ツインタワーの跡地に立つ。



しかし、それでも世界はいい方向に進んでいると私は思う。
かつて日本は、前途有望な若者を魚雷に乗せて発射し、頭上に核兵器が落ちてくるまで戦争をやめられなかった。そんな国に生まれた私は、「国家と戦争の時代」よりも「個人の時代」のほうが、ずっといいと思うのだ。
20世紀という時代は、1904年の旅順で始まった。きっと100年後、「21世紀という時代は2001年のニューヨークで始まった」と回想されるのだろう。
亡くなったすべての人の冥福を祈りながら、そんなことを考えた。





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