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アニメ『TARI TARI』と“日常系”の新地平

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夏アニメの『TARI TARI』が最終回を迎えた(※ニコニコ動画公式配信)
見始めたばかりのころはあまり興味をひかれなかったけれど、ぐいぐい引き込まれて最後まで見てしまった。制作会社のP.A.worksはテレビドラマのような作品作りに定評がある。『TARI TARI』も昼ドラや朝ドラのような魅力に満ちていて、とても面白かった。


TVアニメ TARI TARI ミュージックアルバム~歌ったり、奏でたり~

TVアニメ TARI TARI ミュージックアルバム~歌ったり、奏でたり~





初めて見たときの印象が薄かったのは、たぶん主人公たちの立ち向かう問題が小さかったからだ。名門の“音楽科”が併設されている高校を舞台に、普通科の生徒たちがたった5人の合唱部を作るというお話だ。映画やアニメでは、世界を救うお話や全国大会を目指すお話が溢れている。そういう大きなお話を見慣れてしまった私には物足りなかったのだろう。

「(※文化祭は)卒業後にプロを目指す生徒にとっては子供のお遊びかもしれないけど、ここしか発表の場のない人もいるんです!」

このセリフが『TARI TARI』という作品を一言で物語っている。江ノ島近辺という小さな世界で、学校の部活動という小さな問題に立ち向かうだけ。でも、それがいいのだ。
「小さな街」「変な部活動」「5人前後のメインキャラクター」……こういう舞台設定は“日常系”と呼ばれる作品群で繰り返し使われてきた。しかし『けいおん』等の日常系では、まったりとした平穏な日々を描くことに主眼が置かれていて、主人公たちの挫折・努力・成功はあまり描かれていなかった。
しかし『TARI TARI』は違う。
たとえば主人公の坂井和奏(さかい・わかな)は、母親が他界したショックで音楽科から普通科に転科した――つまり音楽の道で生きていくことに挫折していた。また、物語の牽引役の宮本来夏(みやもと・こなつ)は、かつて合唱部に所属する唯一の普通科の生徒だったが、前年の発表会でとんでもないミスをしてしまう。居場所を失った彼女は、自分たちだけの新しい合唱部を作ろうと努力する。さらに5人のまとめ役である沖田紗羽(おきた・さわ)も、物語の中盤で「騎手になる」という夢を諦めそうになる。残り2人は割愛するが、5人それぞれが何らかの挫折や失敗を経験している。
主人公たちの前に問題が提示され、それを解決する中で彼らは成長していく。目標設定こそ小さいものの、泣いたり笑ったり、登場人物の感情の振れ幅はとても大きい。ひたすら平穏な日々を描いていた『よつばと』や『らき☆すた』とは一線を画している。
ポスト日常系を切り開いたのは、2011年の『魔法少女まどか☆マギカ』『TIGER & BUNNY』『輪るピングドラム』『Stein’s Gate』等、強烈なドラマツルギーを持つ作品群だった。これらの作品では物語の展開だけでなく、舞台設定そのものから非日常だった。
一方、『TARI TARI』は日常系と同じような舞台装置を使いながら、情動豊かな物語を紡いでいる。問題解決のなかで登場人物たちの成長を描こうとしている。これは『氷菓』や『ココロコネクト』など、同時期の他のアニメにも共通した特徴だ。ポスト日常系のなかでも現実の日常生活に立脚したうえでドラマツルギーを追求しているのが、これらの作品だといえる。これは昔から映画やドラマで使われていた物語構成でもある。
「非日常」「日常」という言葉よりも、「非現実的」「現実的」という言葉を使ったほうがいいかも知れない。『まどかマギカ』はストーリー展開にせよ舞台設定にせよ非現実的だった(※悪い意味ではない)が、『TARI TARI』や『氷菓』は現実世界を土台としている。






私たちの現実的な生活には「日常」と「非日常」の両面がすでに含まれている。
部室や自宅、近所のファーストフード店やファミレスなどの光景は「日常」の一部だ。それに対して文化祭やライブ、合宿、旅行などの「非日常」の光景がある。「非日常」のことを、「ハレの日」や「ハレ舞台」と言い換えてもいい。
日本人の世界観の根底には、“ハレ”と“ケ”という概念があるらしい。
これにはいくつかの説があり、たとえば循環モデルという説では「日常」で生活していくためのエネルギーのことを“ケ”と呼び、それが枯れてしまうことを“ケガレ”、そして“ケ”を回復させる出来事のことを“ハレ”と呼ぶとしている。あるいはフォークモデルという説では、“ケガレ”を不浄のものと見なして、それが“ハレ”を通じて浄化されるのだとしている。“ハレ”と“ケ”がどういう関係にあるのかは、時代や地域によって大きく違いそうだ。しかし、いずれにせよ、私たちの現実的な生活が「日常」と「非日常」との二面性を持っているのは明らかだ。
日常系とは、おそらく“ケ”に注目した作品群だったのだろう。
ここでは日常を送るためのエネルギーとしての“ケ”のことを言っている。なんの変哲もない日々の、しかし活力に満ちた状態:『よつばと』などの日常系では、そんな日々が描かれていた。
一方、『TARI TARI』などのポスト日常系作品には、“ケ”と“ハレ”の循環が存在している。みんなで楽しく騒いでいるときの“ケ”に満ちた状態があり、挫折や怒りを抱えたときの“ケガレ”の状態があって、文化祭などの“ハレ”を通じてそれを回復させている。『TARI TARI』だけでなく、たとえば『氷菓』は“省エネ主義”の主人公が活力を手に入れる物語となっているし、さらに中盤の「クドリャフカの順番」編においては伊原摩耶花が“ケ”→“ケガレ”→“ハレ”という明白な変化を見せている。
よつばと』から、『TARI TARI』『氷菓』へ――。この橋渡しに『けいおん』の果たした役割は大きい。『けいおん』は日常系の金字塔でありながら、“ケ”に満ちた世界を描くだけでなく、ライブシーンというハレ舞台をも描いていた。もちろん第1期でのライブシーンはハレ舞台としての性質が弱く、観客の姿をあまり映さないことで“ケ”に満ちた世界の延長線上として見せることに成功していた。
ところが第2期ではライブの際にクラスメイトの顔をしっかりと映すようになる。すると、視聴者には二つのことが明示される。一つは、このライブシーンの背後には(※“ケ”に満ちた)クラスメイトとの日常があること。そしてもう一つは、(※彼女たちが普段と違う服装をしていることから)これが日常から切り離された、文化祭という「ハレの日」だということだ。



あなたが観客席から追い出されるということ――けいおん!!第20話「またまた学園祭!」で感じた断絶について。
http://d.hatena.ne.jp/seiunn3032/20100831/1283265056



第二期のライブシーンには違和感を覚える視聴者が少なくなかったようだ。いい意味でも悪い意味でも、視聴者は意外性のようなものを感じたらしい。「ケに満ちた世界」が描かれることを予想していた視聴者に対して「ケとハレとの対比」をぶつけたことが、その原因ではないだろうか。
そして劇場版では、ロンドンへの卒業旅行という明らかな「非日常」が描かれた。『けいおん』シリーズは自らの完成させた日常系の型を、自ら打ち破ったのだ。




       ◆




TARI TARI』を見ていると高校時代をリアルに思い出してしまう。あの頃は国際問題とか政治経済とかどうでもよくて、半径数百メートル圏内のものごとに必死だった、全力投球していた。初めて見たときは登場人物の描写を子供っぽいと感じたが、本当は幼いのではなくて世界が狭かっただけなのだ。
登場人物たちの世界が狭いのは悪いことではない。とくにP.A.worksの作品は昼ドラ・朝ドラっぽさが魅力なのだから、日常的な問題に一喜一憂する物語のほうがむしろ面白い。圧倒的多数の人々は、大人になってからもそういう狭い世界で生きている。主人公が世界を救うお話には食傷ぎみだ。
映画やアニメを見ながら、私たちは登場人物に感情移入する。努力する姿に一緒に涙する。だけど全国大会で優勝してめでたしめでたし……で終わってしまうと、ちょっと困る。待ってよ、おいてきぼりにしないでよと叫びたくなる。劇場の外に出たら私は凡人に逆戻りだ。
平凡であることが不幸ならば、誰もしあわせになれない。ありきたりな日常のなかに時々ハレの日があって、そんな日の楽しさを糧に私たちは毎日を過ごしている。大会で勝つことだけが、そしてプロになることだけがしあわせならば、圧倒的多数の人は不幸になるしかない。そんなの絶対おかしいよ。
ノマドだのフラットアースだのと熱くなった頭を、たまには冷やしたほうがいいのかも。







参考)

Aチャンネル 感想と考察‐かめラスカルのアニメ&趣味の戯言 アメブロ
http://ameblo.jp/kameyuu2002/entry-10944886503.html



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