デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

労働生産性を高める(?)たった一つの冴えたやり方

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「朝謡は貧乏の相」という言葉がある。朝から謡を唄っているようなやつは貧乏になるという意味だ。しかし「貧乏暇なし」という言葉が教えるように、忙しい人=豊かな人だとは限らない。むしろ貧乏な人のほうが生活に追われて忙殺されてしまうのが現実だ。
日本では、「労働生産性」という言葉に間違ったイメージが定着しているらしい。「労働生産性を高くする」という言葉から、「休む間もなく働かせること」をイメージする人が多いそうだ。私はそんな人にお目にかかったことがないが、まあ、そうなのだろう。
労働生産性が高い人とは、労働量あたりに手に入れられるモノが多い人のことだ。現在は何かを手に入れるのにお金を使うので、端的にいえば「同じような仕事を同じ時間だけした場合にお給料が多い人」のことを、労働生産性の高い人という。
逆にいえば、お給料が同じならば、ラクな働き方をしている人のほうが労働生産性は高い。給料が上がるわけでもないのに身を粉にして働く人は、労働生産性が著しく低い……ということになる。
勤勉を尊ぶ風潮は、働けば働いたぶんだけ所得が上がる時代には有用だった。しかし働けど働けど暮らしがラクにならない時代には、役に立たないどころかむしろ有害ですらある。労働者を仕事に縛りつけて、その人の個人的な幸福追求の機会を奪うからだ。





ヨーロッパを旅するたびに、上司たちは愚痴をこぼす。ヨーロッパ人は働かない、勤勉さが足りない。やつらは定時の5分前には机の上を片付けはじめて、チャイムと同時に退社する。夏休みは1か月近く取って、休日出勤なんてもってのほか。けしからん、と眉をひそめる。
ううむ、そうかな。
働き方についていえば、日本人の上司よりもヨーロッパの人々に私は共感を覚えてしまう。そして疑問を覚えるのだ:どちらの働き方のほうが、より生産性が高いといえるのだろう。
私は「労働生産性の高さ」を「労働量あたりに手に入れられるモノの量が多いこと」だと定義した。より少ない仕事の量で、よりたくさんのモノを手に入れられる――それが「豊かさ」だと私は考えている。経済統計に表れるのは「お金で買えるモノ」だけだ。が、個人的な豊かさに着目した場合、お金で買えないモノにまでも範囲を広げるべきではないか。
家族や友人と過ごすこと、趣味に没頭すること、あるいは世の中について考えを深めること……これらは経済統計上の労働生産性には加味されない。しかし間違いなく、私たちの効用水準に直結している。私たちの豊かさを左右する。
経済統計からみれば、ヨーロッパ諸国の労働生産性はピンキリだ。(※つーか最近はグダグダだ。)けれど同じくらいの年齢の、同じくらいの相対的所得階層の人を引っ張り出して比較すれば、おおむねヨーロッパ人のほうが日本人よりも“豊か”なのではないか。
「ヨーロッパの人たちはね」とシカゴ出身の友人は言っていた。「人生のほんとうの楽しみ方を知っているんだよ」



プログラマに必要な素質はズボラさだと聞いたことがある。
面倒くさい作業を見たときに、どうやって自動化するかを真っ先に考えてしまう。そういうズボラさを持っている人ほど、すぐれたプログラマになれるという。面倒くさいという気持ちが、仕事を効率化するための強烈なモチベーションになるのだ。
もっとラクして獲物を取りたいから、人は矢じりを発明し、弓矢を発明した。もっとラクして腹を満たしたいから農耕が始まり、ラクして肉を食べたいから畜産が発展した。国家の成立にも産業革命にも、背後には「ラクしたい」という人間の本質があった。ラクして戦争に勝ちたいから兵器の開発が進み、ラクして平和を維持したいから国際的な組織や条約が成長した。私たちに現代の豊かさをもたらしたのは、究極的には「ラクしたい」という感情だ。それを抑制して万事うまくいくのは、たぶん高度成長期のような時代だけの特殊事情だろう。
私たちは、「ラクすること」をもっと追究していいんだよ。



「働きたくないでござる!」という言葉が流行るのは、日本では働くことのコストが高すぎるからだ。
スーツとネクタイという欧米人のサル真似の衣装を着込んで、業務後には飲み会という儀式に参加して、サービス残業という苦行に耐えなければ働けない。しばしばイスラム圏の戒律の厳しさを笑う人がいるけれど、日本人だってたくさんの戒律に縛られて生きている。だから「苦労して働く」か「働きたくない」という二択になってしまうのだ。
そろそろ「ラクして働く」ことを考えようぜ。









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