デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

夏休みの宿題について、あるいは情報化時代の「知性」のあり方について。

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私の趣味はボードゲームで、週末にはどこかのカフェかパブでサイコロを振っている。
ボードゲームはいい。年齢や社会的階層を超えて、いろいろな人と親しくなれる。そんなヘテロな友人たちと先日、夏休みの宿題について語り合った。お互いの思い出話を披露した。
仲間のなかでも高学歴・高所得な方々は、やはりと言うかなんというか、夏休みの宿題は最初の一週間ですべて終わらせていたという。
絵日記の課題が出されたら、夏休みの終わりのぶんまで最初の一日で書き上げてしまう。どうせ読書感想文が出題されるのだから、課題図書を一学期のうちに読み終えてしまう。そういう要領の良さと地頭の良さが、彼らを社会的な成功に導いたのだろう。
一方、私はいつも夏休みの宿題を踏み倒していた。
二学期の開始早々はうるさく注意されるが、先生たちもヒマではない。九月の末頃には、どうせ何も言わなくなる。だから宿題なんてやるだけムダだと思っていた。催促されるたびに「明日には持ってきます」「下校したらすぐにやります」と心にもないことを口にして、居残りで課題をやらされそうになったら仮病を使って逃げていた。それでも、どうしても逃げ切れないときがある。そんな日は計算ドリルに取り組むふりをして、放課後の教室で一人ゆったりと読書にふけっていた。
夏休みの宿題なんてバカバカしい……と思っていたが、いまの自分自身をふり返ると、夏休みの宿題もこなせないヤツはやっぱりロクな大人になれないのかもしれない。
ともあれ、子供たちの世界は狭い。
夏休みの宿題が終わらないだけで世界の破滅が来たような気持ちになり、未来に絶望してしまう子もいるだろう。そんなことはないよ、と伝えるのが私たち大人の役割だ。宿題なんてどうでもいいぐらいに、この世界は広くて、懐が深い。それを伝えられるような大人でありたい。



       ◆



印象的だったのは、友人の息子の話だ。
小学六年生になる息子のFくんは、宿題のノートを机の真ん中に、iMaciPadを両脇においてサクサクと課題をこなしているらしい。ネットの検索をフル活用して、超ラクショーで宿題を終わらせているという。末恐ろしい子だ。
この場合、課題を出す先生側が、世間の情報化に追いついていないのだと思う。
私が小学生のころでさえ、「どうして電卓があるのにかけ算九九を覚えなくちゃいけないの?」という疑問が噴出していた。当時はまだ、「いつでも電卓を持ち歩いているわけじゃないでしょう」という一言で納得させる(?)ことができた。
ところが現在では、ケータイでいつでもどこでも膨大な情報にアクセスできる。
それでもモノを覚えることは大事だ。モノを覚えていなければ、脊髄反射的に思考力を発揮できなくなる。頭の回転がニブくなる。が、それを子供たちに納得させるのは容易ではないだろう。いまでは覚えるよりも調べたほうが早いし、覚えさせるための課題・宿題の作り方にも工夫が必要になるはずだ。
いまの学校の先生は本当に大変だろうな、と敬服する。



ところがデジタルネイティブな小学六年生Fくんにも、頭を悩ませる課題があった。
それは作文だ。
「世の中を明るくする方法」というテーマで原稿用紙を埋めなければいけないという。※大人でも頭を抱えるようなレベルの課題だよな、それ。
文章を書くことは、たぶん総合的な知性を問われるのだ。
経験や知識の蓄積だけでなく、語彙力や、読者に伝わるかどうかを考える力、つまり読者に対する想像力までもが問われる。文章を紡ぐには創造性が必須で、ネットの検索でどうにかなるようなものではない。しかも最近ではコピペがかんたんに見破られるようになった。Google先生の“もしかして検索”には舌を巻くばかりだ。余計なことをしやがって すばらしい技術革新の成果だといえるだろう。子供たちは一言一句、自力でひねり出さなければいけない。
ちなみにレポートのコピペについて、安易なものはNG、課題にぴたっとハマる資料を見つけてきたのならOKなのでは……というのが私のスタンスだ。それだけたくさんの資料に当たった努力を認めてあげてくださいよ、と元・学生の一人として先生方にお願いしたい。たしかに著作権の問題もあるけれど、レポートを読むのは先生一人だしなぁ……。とはいえ、そういう資料を頑張って探し出すくらいなら、自分の考えをさっさと書き出してしまったほうが早いはずだ。



ただし、Fくんのような事例を耳にするたびに「知性」のあり方を考えさせられる。
どんな宿題もパソコンを使えばあっという間に終わるし、Yahoo!知恵袋を使ったカンニング事件なんてのも起きた。頭を使うことの意味が変わりつつある……かのように見える。たしかにモノを覚えるのは大切だ。が、それ以上に情報を探し出す能力や、その正誤を検討する能力がこれからは必要になるのだろう。そして何よりも大切なのは、集めた情報をうまく料理して、なにか新しいアイディアを考えつく力だ――。
……みたいなことを、声高に叫ぶ人がいる。


けど、それって昔から同じじゃねーか?


情報を探し出す能力は、かつては図書館をうまく使いこなせるかどうかだった。現在ではそこにインターネットが加わっただけだ。正誤を検討する能力だって同じだ。新聞各紙の“比較読み”は、ちょっとでもリテラシーのある人なら常識だったはすだ。誤報に踊らされる危険を減らすためだ。そして集めた情報を咀嚼・加工する能力の重要性:これは今も昔も変わらない。総じて「アクセスできる情報の量」が増えただけで、本質的な「知性」のあり方は同じなのだ。
たしかに現在の私たちは、一昔前の人々よりもはるかにたくさんの情報に触れられる。その点では、昔の人よりも格段にかしこくなっている。これは事実だ。


文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)


たとえば最近、梅棹忠夫『文明の生態史観』を読んだ。
歴史研究は「誰が・何をした」という記述の追跡になりがちだ。しかし植物群集の“遷移”を分析するかのように、地理的な側面からヒトの歴史を読み解くことができるのではないか……と梅棹先生は本書で主張している。非常に示唆的で興味深い内容なのだが、「これはWikipediaのない時代の本だな」という感想を抱いてしまった。
いかんせん、例証が少ないのだ。
パラグラフ・ライティングでは、文章は「主張 → 理由 → 例証」の順番で書かれる。ところが本書では、「例証」にあたる部分が極めて少ない。そのせいで面白いアイディアであるにもかかわらず、説得力が弱くなっている。
現在なら、主張のあとに「こんな実例があります、あんな事実もあります」と次々に列挙できる。インターネットを使えばズブの素人でも調べられるはずだ。ところが本書が書かれた1950年代はそうではなかった。まだ海外経験のある人は圧倒的に少なく、ましてや学術研究部隊としてインド・アフガニスタンに派遣された梅棹先生は特異な存在だった。たとえ例証が少なくても、「現地を見てきた人の言葉」というだけで充分な説得力があったのだろう。
いまの私たちは、当時の梅棹先生よりもたくさんの情報に触れられる。当時の梅棹先生よりも、たくさんの知識があるかのように振る舞うことができる。自動車に乗ればウサイン・ボルトよりも速く走れるように、インターネットがあれば50年前のどんな研究者よりも博識になれるのだ。



つまり、そういうことなのだと思う。
自動車を発明したことで、私たち人類はどんなトップアスリートよりも素早く移動できるようになった。しかし、自動車があるからといって足腰を鍛えなくていい理由にはならない。私たちの「体力」は肉体的な制約から逃れられない。脳が肉体の一器官である以上、「知性」も同じだ。情報機器が優秀になったからといって、私たちの「知性」が大きく変わるわけではない。
もちろん社会のあり方は変わるだろう。
自動車の普及は世の中を一変させた。しかし、それが私たちの「体力」のあり方を変えたわけではない。むしろ自動車に甘えて運動不足に陥ることのほうが深刻だ。駅前のジムには、今日も仕事帰りのサラリーマンが集まっている。
インターネットも同じだ。たしかにインターネットは社会のあり方を変えるだろう。しかし、それが私たちの「知性」のあり方まで変えてしまうとは思えないのだ。



ケータイがスマートになったぶん、人間がバカにならないように注意したい。





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