交通事故死者の減少に誰よりも貢献したのは、医者でも技術者でもなく、シートベルトの着用を義務づけた人だ。スタバの紙コップはサイズが違ってもふたの直径が同じになっている。資源のムダ使いを減らし、スタッフの混乱と店の混雑を防ぐためだ。「世の中」には目に見えないたくさんのルールがあって、システム化されたそれらが快適な暮らしを支えている。日常に織り込まれたシステムがあまりにも巧妙だから、私たちは時々、「世の中」の存在を忘れそうになる。「個人のあり方」ばかりに気を取られて、「世の中のあり方」を見落としてしまう。
今日は独り言を書く。何かを主張したいわけでも、誰かに訴えたいわけでもない感情の吐露だ。
「人を殺すぐらいなら自殺しろ」という言葉についての話だ。
人が死ぬのは悲劇だ。ましてそれが殺人であれば、残された家族や友人、同僚の悲嘆は想像するに余りある。その人の創作物を楽しみにしていたファンが怒りの言葉を口にするのも無理はない。「人を殺すぐらいなら自殺しろ」私も一度はそう思った。
では、なにかを天秤にかければ自殺は肯定できるのか。「○○するよりはマシ」として奨励しうるものなのか。
「殺人も自殺も減らすべき」ではないのか。
この議論は「個人の生き方」と「世の中のあり方」をごちゃ混ぜにしているから混乱する。
「人を殺すぐらいなら自殺すべき」これは個人の生き方についての話だ。もしも殺人もやむなしというぐらいに追い詰められたら、最悪の選択をする前に自殺したい――特定の条件を満たしたときにヒトはどのような行動をとるべきかを論じている。つまり個人の行動指針にすぎない。
「殺人も自殺も減らすべき」これは世の中のあり方についての話だ。事件はなぜ起きたのか、死ぬべきでない人がなぜ命を落としたのか――。私たちを取り巻く「世の中」から原因を見つけ出そうとする態度だ。
この態度を取ると、どうしても客観的・第三者的なモノの考え方になってしまう。現実の事件をまるで実験か何かのように観察する、冷徹な考え方だ。見る人によっては不遜な態度に見えるだろう。神様にでもなったつもりか、赤の他人に何が分かる……と。
その通りだ。
赤の他人には、何もわからない。
当事者のくやしさや怒りは想像を超えているし、何の関係もない人間がおいそれと代弁できるものではない。当事者の主観的な言葉は、当事者にしか語れない。私には何も分からない。
だからこそ分かる範囲で考えたい。主観的に語る資格がないからこそ、客観的でありたい。
メディアは、あらゆる事件と消費者との距離を縮めた。
まずかわら版や新聞が、続いてラジオやテレビが、世界中の事件を私たちの日常の一部にした。私たちは遠く離れた場所の出来事を、まるで庭先で起きたかのように知ることができる。そして、まるで自分が当事者であるかのようにふるまってしまう。
けれどそれは「正義のこぶし」の振り下ろす先を探しているだけではないか。安心して叩ける相手を探しているだけではないか。撃たれる覚悟をせずに、銃を撃ちたいだけではないのか。「人を殺すぐらいなら自殺しろ」という言葉は、個人の生き方について論じている。当事者でもない人間が、なぜそんなことを語れるのか。
私は事件から離れた場所にいる。私と事件との間には「世の中」がある。だから私は当事者のようにはふるまえない。曖昧模糊な「世の中」というものに阻まれて、事件の姿はかすんで見える。私に語ることができるのは、目の前の「世の中」までだ。
私たちは「世の中」を通じて事件と関わっている。その点では、すべての人が事件の関係者だ。けれど当事者ではない。当事者であるかのような怒りを抱くのは、メディアに錯覚させられているだけだ。私は当事者ではない。当事者のごとくふるまうのは、本物の当事者に対する冒涜だ。
世界中の事件と私の間に「世の中」が横たわっていることを、忘れないようにしたい。
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